狭山ひかり幼稚園_園長先生通信

雪遊びの夜の話 [2006年01月30日(月)]
夜のデボーションにおける園長の話(概略)

 聖書を読んでいくと、「感謝すること」がどんなに大事なことか分かります。「溢れるばかり感謝しなさい」コロ2:7「神に感謝しないではおれない」Uテサロニケ1:3・・・など何百回も出てきます。Uテサロニケ5:18には「すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」とあります。神さまは「感謝」すること、つまり「有難う」ということをとてもお喜びになるのです。そういえば聖書の偉人達はみんな「感謝の人」たちばかりです。
 さっきみんなでお風呂に入りましたね。私は一人ひとりの背中、おなか、お尻、手足・・と一所懸命に洗いましたよ。ところがお風呂から出るとき3人の人が「有難うございました」と言ってくださいました。とても嬉しかったです。そしてそういう「有難う」の心を、神さまがお喜びになる訳がよく分かりました。
 何があってもそれを当たり前のことだと思ったり、逆に不平不満を言ったりするのでなく、「有難う」という心を持ちたいものです。お風呂が沸いている、食事が出来ている、洗濯してある、片付いている・・・・・これらは当たり前の事ではなくて、特別の、感謝すべき、驚くべきことなのです。
 先ほど夕食のあとみんなで「ご馳走様でした」といいましたね。(幼稚園でもおうちでも食事の後には、「ご馳走さま」といいますが)これはどんな意味か分かりますか。「馳」も「走」もどちらも「はしる」という意味です。みんなが食べ物をいただくためにどれだけ大勢の人が馳り走り走り回って下さったことか、それに対して「有難うございました」と御礼を言ったのです。
 お米は「八十八」と書きます。稲穂の形から生まれた漢字でしょうが、別の見方をすれば、一粒のお米を得るために88回も人が手をかけていると考えられます。実際にはもっと多いかもしれません。種籾を用意し、水を引き、苗床を作り、籾を蒔き、田をこしらえ、何度も見回り、田植え、草取り、肥料やり、収穫、脱穀、運搬、流通から家庭へ・・・みんなの口に入るためには数百人、数百回の手を経て口に入るのです。一粒でも粗末にはできませんね。
さて「今日はみんなで雪遊びに来ています。どうしてここにくることができたのでしょう??」。子ども達は口々にバスの運転手さんが運転してくれたから、荷物が用意できたから、お宿があったから・・等を挙げました。さすがに「費用が用意できたから」はありませんでした。
ところが「待ってました」とばかりAさんが「バスが走れるように大勢の人が雪をどけてくださったから」と言いました。6歳になったばかりの子どもでも自分のいること(存在)が大勢の人々の善意によって守られ支えられていることを知っていたのです。私は感動しました。ここに到着するまで何台の除雪車、作業車を見たでしょうか。それは当たり前の事ではなくて特別の事と思う感謝の心を持ちたいと思います。

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