| 2012/02/04
断捨離の意識があったわけではない
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数年前、親の遺品をすべて処分した。断捨離の意識があったわけでは ないが、家にモノがあふれることが苦になっていた。若いころ買い集 めていた骨董というより膨大なガラクタも全て処分した。リサイクル センターや大型ごみ処理施設の市の職員と顔なじみになった。
親の遺品のなかに九谷のブランドの須田精華が何十客と未使用であった。 それは残してもよいかと思ったが、使わないので処分した。さすがに ごみではなく安価に処分した。 須田精華はブランドとして今もある。老舗の店で売られるそれを見て 驚いた。これがあの須田精華かというくらい。最も良い時代の須田精華 の物を処分したかもしれない。
考えてみれば世界に冠たる工芸品の王国だった日本は今では跡形もない。 漆器の産地も総崩れ、西陣も友禅も、伊万里も、そして地域の籠やザル や建具といった身近なものさえも。 日本にしか存在しない唯一無二の文化が崩壊しているのを気付かずに居る。 気付く必要もないのだろう。 今も人間国宝は多くいて日本伝統工芸展には工芸の最高世界があるという かもしれないが、それはジャンルで日本全体の文化ではない。 驚くこともなくそういう時代。 あるときあるフリマ行ったら、それは始めてのフリマだったのだけれど ウブな小道具が多くてびっくりした。ウブというのは民家や倉から出た ばかりで値の付いていないものの意味である。玉石混交、いろいろな ものがある。しかしどんなものをとっても、ガラクタの類の徳利にせよ 火鉢にせよ籠、古着、古い椅子、ブリキの漏斗やただの木箱、ガラス瓶 少し前の時代の物だから物としての存在感、つまり持っている情報量が 多いことに驚いた。 今のものは鍋釜、器や家電にしてもすべて中央でプロデュースされ デザインされ、オートマティックに作られるから百パーセントの商品で アートの要素が無くなっている。国内で作られるものは機械の量産で まだ洗練はあるが、海外の生産はそれすら危うい。 しかしそれを嘆くのは老いの繰言なのである。 この世の実態はアナログで出来ており、人間世界もその一環としてあった が、今は人の世界だけがデジタルに遊離して存在する。そんな時代の それだけの話なのだ。 ニ三十年前まではただの雑用品だったものが、いま見ればアートにさえ 見えるというのも、せめてこんな時代だからアートとしてプレゼンして みようと思うのである。
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