大広間を抜け出ると、裏口の方へ足を早めた。途中、すれ違った人間に不審な顔をされたので、慌てて方向を変えて階段を昇った。上の階に来たものの、裏口にはかなり遠い所に出てしまい、しまった、と舌打ちする。かといって、また下の階に戻って、今の人間に鉢合わせしたりでもすれば、尚更まずいことになる。 仕方なしに、彼は歩きながら別の脱出方法を考え始めた。どこか外に出ることの出来る、渡り廊下のような所はないだろうか…。 そこはどうやら、士官達の私室がある所らしかった。廊下の両脇にドアがある。幸い、酒宴に出ている者が多かったのだろう、出入りをしている様子は無く、静かだった。 適当な部屋の窓から出ようと考えていると、突如後ろの階段を昇ってくる人の声が聞こえてきたので、カイは慌てて手前のドアを開けて中に隠れた。 「なぁ、シア、話だけでも聞いてくれてもいいだろう?」 「しつこい…、何回同じことを言わせる気か?答えは一つだ。『貴殿には興味はない』。お願いだからこれ以上つきまとわないで欲しい!私はそれほど暇ではないんだ!」 「だから話だけでも、って…」 「…っ、ゲオルグ、今後私につきまとう真似をしたら、ただじゃおかない!いいな!」 もの凄い剣幕でゲオルグを押し退けると、シアはカイが隠れている部屋のドアを開けた。ゲオルグが入れない様に、素早く勢い良く閉めて、やっと一人になれたと一息つく。 「どいつもこいつも、ろくな男はいやしないんだから!」 ぶつぶつと独り言を言いながら、堅苦しい正装着から普段着に着替えようと手を掛けた時、家具の陰にある不審な人物に彼女は気付いた。 「…そこにいるのは誰だ!?」 (見つかった…!) 「人の部屋で、何をやっている!?」 シアの方が上手だった。素早くカイの元へ駆け寄ったかと思うと、驚く彼の顔に痛烈な平手打ちを見舞った。 「待ち伏せなんか、してんじゃないわよ!」 続けてもう一撃。 「どこの輩か、貴様は!」 さらに一撃。これで一往復半食らった。 「ちょっ、ちょっと待て…!」 相手が女でなければ、カイも殴られっぱなしということにはならなかったのだが、さすがに調子が狂う。 「違うんだ、部屋を間違えたんだって…!」 「間違えたですって?下手な言い訳だな!…早く出てって!さもないと人を呼ぶ!」 プラチナ・ブロンドの長い髪を掻きあげ、気怠そうな彼女は吐き捨てるように言う。それでも時間の猶予を与えている彼女に、カイは興味を覚えた。 「少なくとも、さっき君を口説いていた輩とは違う。最も、君を見たら彼の気持ちも分からないではないが…」 本気で言ったわけではないのだが、シアは頬を紅潮させてカイの胸倉を掴んだ。 「本気で私を怒らせたいのか?今度は先程のようにはいかないぞ」 ライト・グリーンの瞳がカイを睨む……それより一瞬早く、あいた方の手が彼の鳩尾に繰り出される。 当たるはずだった……いつもの彼女なら。それだけの自信と力を元に、今まで生きてこれたのだから。それなのに、この男は…。 カイの手がシアのその細い腕を捕らえていた。先程と同じ位置のまま、彼女を見下ろしている。その表情からは、彼の感情は読み取れない。 掴まれた腕を気に止めるでもなく、シアは思いを巡らす。 (何者だ?…こいつ、ただのサイユではない。宴に紛れてイーリス公を狙う刺客なのか…?) 「貴様…誰に頼まれた?」 「……?」 「お前ほどの腕があれば、それなりの地位を与えているだろうに。…潜り込むには『誰か付きの士官』であってはまずいからか?どうせ化けるのなら、もっと上手く化けるべきだったな」 そうは言ってみたものの、彼女の術者としての本能が、カイの素性に対して違和感を覚えずにはいられなかった。 (何かが…何かが違う、他の者とは…) 一方カイは、この場をどう逃げ切ろうかと考えあぐねていた。 相手がいかなる手練であろうと、女性に手をあげたことはかつて一度もない。しかし躊躇していては正体がばれるのも時間の問題だ。 と、その刹那。互いの視線がぶつかった。 「え…?」 「何…だって?」 二人同時に声を発する。ふいに何かが脳裏を掠め、垣間見た幻影に狼狽する。それは互いに気脈を感じさせるものであり、とても不思議な感覚であった。 「お前は…」 正気に戻るのは、シアの方が一瞬早かった。 「お前はレジスタンスなのか?」 しまった、とカイは思った。僅かな時間とはいえ、別のことに気を取られていた。 「しかもミレトス…違うか?」 シアの尋問にカイは動揺する様子はなく、冷静に事態をとらえて身構えていた。 「いい度胸!」 ドン、とカイを突き飛ばして、シアは扉に駆け寄る。 「誰かいないか!ここにレジスタンスの主格がいるぞ!」 部屋の外に人の気配はない。しかし外に出て叫ばれでもしたら、たちまち敵に囲まれて一貫の終わりだろう。 カイは瞬時に反応してシアを追いかけた。彼女がノブを回して引こうとしたその時、彼は扉に体重を乗せるように彼女を挟む形で両手を付いて、その扉を押さえた。 「なっ、何を…。誰かいないの!?」 開けられなくなった扉を拳で叩きながら叫ぶ。 「静かにしろ!でないと俺は君を……」 (殺したくないいんだ!!) きつく睨みながら振り向いた彼女の顔は、心なしか怯えているように見えた。幾ら敵の士官であるとは言っても、女性なのだ……まだ少女の面影が残る。若い男とこんな間近で、逃げ道を断たれた状態で、気丈さを保っていられるにも限度がある。 廊下の遠くの方から足音が聞こえる。どうやら宴を抜け出してきた士官のものらしい。 「あ…」 仲間の気配にシアの緊張が一瞬和らいだ。この時カイは油断をした彼女を見逃さなかった。 「黙って…」 彼女が仲間を呼ぶより早く、カイは彼女の唇を自分のそれで塞いだ……再び足音が遠ざかるまでの一時の間だったが、それは随分長い時間のような気もした。 廊下に人気がいなくなるのを感じ取ると、彼はそっと唇を離した。一体何が起こったのかと、この状況が飲み込めずに彼女は呆然としている。 カイも自分自身が分からなくなっていた。……目の前にいるのは『サイユ』であるというのに…。 本能に近い潜在的な意志が、自分に何かを語りかけていた。既視感がもたらした衝動…。 「その、君の色彩は、クレアムスのものではないね」 穏やかな口調でカイは訊いた。この淡い色彩を放つ女性の出自を確かめたかったのだ。おそらくそれは、この世界に於いて、一番自分に近しいものであり、かつて自分が抱えてきた孤独感を、唯一理解し合える存在なのであろう。 (俺には彼女を殺せない。この先も、きっと…) カイはシアの両肩を掴んで、自分に向き直らせた。 「自分のいるべき所へ、戻りたくないのか?君は多分…いや、君は俺の…」 言いかけた時だった。部屋のバルコニーに面した庭の方から、騒ぎが上がった。 「曲者だ!」 「公を狙う刺客だぞ!生きて返すな!!」 その一言でシアは我に返った。どうやら先程、彼女が危惧していた輩が本当に現れたらしい。 はっとしてカイの顔を見たが、何を言うまでもなく彼女は、彼の手をすり抜けてバルコニーに近づいた。 「俺は、捕まえなくていいのか?」 カイの言葉に馬鹿なことを言うものだ、と言わんばかりの顔をしてシアは振り向く。 「向こうの方が先だ!それに、今のお前はただのレジスタンスではない。…女の敵だ!!」 そう言い放つと、彼女は紅潮した顔を見られないように大きくかぶりを振ってバルコニーに向き直り、背を向けた。 「一つだけ、訊きたいことがある。捕虜で……君と同じ年頃の女性がいた筈だが…。彼女を殺ったのは、ラフィンなのか?」 「ラフィン?…パープル・アイのか?直接関わりがある訳ではないから詳しくは知らないが…最期には立ち会っていた筈だ。確か主導者の娘だったと聞いている」 決定的だな…、と彼は思った。彼女の答えに何を求めていたわけでもない。感情の蟠りに訣別を付けたかったのだ。あのティルス族のラフィンはもういない。ここにいるのは、姿形ばかり似た、『サイユ』のラフィンなのだ。そしてシャルルはおそらく…。 (俺は、過去に拘りすぎるのか?人は歳月と共に変わってゆく…。この俺自身も…) 今ではあまりにも大きな期待が双肩にかかっている。クレアムスとカルミアス、両世界に於いて自分が為すべきことの重任さを考えずにはいられない。 ふと脳裏に少年の悲しむ顔が浮かんだ。それはかつての自分が体験したものと同じ、哀惜の思い……もう誰にも味合わせたくない、誰も失いたくない……カイは拳を強く握りしめた。 「私も、聞きたいことがある」 シアの声に俯いていた顔をゆっくりとあげ、視線を彼女に移す。バルコニーの柵から身を乗り出し、刺客の姿を捜しながら彼女は話続けた。 「あなたは、私の帰るべき場所を知っているの?父も私も、この世界では生まれながらに異邦人だった」 「一緒に俺と来ないか?」 「お人好し。何時裏切るかも分からないのに。あなたの『敵』よ、私は」 「でも、見逃していてくれる」 「血を見たくなかっただけ……って言っても、信じて貰えないわね、サイユの私では…」 振り返った彼女の表情はどこか哀しげな笑みをし、その瞳の奥の曇りにカイは気付いた。生きる為に己の感情を捨てて心を鬼にしてきた彼女の、サイユとしている限り、表に現れることのない本心なのかもしれない。 「外の警備は手薄な方だけど、今の騒ぎでどう変わったか。帰りは下から帰って」 「え?」 「この部屋を出て右の突き当たり、彫像に隠れた通路がある。そこから地下水路へ出れば、サウスフィガロの外れの森まで辿りつける筈。…刺客は複数らしいから、少しでも不審な人物がいれば直ぐに捕らえられるわ。依頼主の名を口にするまで、命の保証はあるけれど…」 「そこにいるのはシアか?」 バルコニーに出ていた彼女の姿に気付いた仲間の声だ。 「今行く。何人だ?」 「五人…か。二人は捕らえたが自害した。他もまだ敷地内から出ていない」 「分かった」 仲間が立ち去るのを確認して、彼女は安堵のい溜息を漏らす。 「こういう状況だから、早く行って。話が聞けないのは残念だけど」 シアは身を乗り出し、バルコニーの柵に体重を掛ける。 「どうして俺を?」 カイには彼女の心理が掴めなかった。敵同士でもあり、尚かつ互いの素性を知らないというのに、何故自分を助けてくれるようなことを言うのだろう。 「勘違いしないで。その通路を使えば、サイユには捕まらないけど、無事に着けるかどうか分からない。使ったことがない水路だから、何が潜んでいるのか知らないのよ。それでも…」 その先の言葉は聞き取れなかった。……いや、言わなかったのかもしれない。 「ありがとう、君を信じるよ。また、会おう」 「次に会うときは『敵』よ。殺すかもしれない」 すると彼女は、勢い良く宙へ身を躍らせた。その姿…長い白金の髪の先までも…が自分の視界から消えるまで、カイは目を逸らすことが出来なかった。 「庭園の方は?気配を感じる!」 段々と彼女の声が遠ざかっていく。 「そこまではまだ…。すみません…」 そして、瞬時に『士官』へと変わった彼女の気配は消えていった。 (それでも…生きていて…) 彼女の瞳はそう告げていた。伝えられなかった言葉の代わりに…。 (また会える、きっと) カイもまた、自分に強く言い聞かせ、部屋を後にした。 |