2009年11月1日(日) 朝拝
「聞いて行う人」
ヤコブ 1:19-27
大竹海二牧師
1:19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
1:20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
22節に、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とございます。みことばを実行するということと、ただ聞くだけの者というのが対照的に言われていますが、それが実際にどういう人のことを言っているのだろうか、ということを見ていきたいと思います。
1:19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
1:20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
「あなたがたはそのことを知っている」というのは、18節の「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」ということを指します。ですから、私たちを新しくしてくださる神さまのみことばを、いつも第一に聞くようにという勧めです。私たちに何か問題がありますと、あれやこれやと考え、またあの人この人に相談し、悩み苦しみ、そうこうしているうちに、ようやく聖書はどういうことを教えていたのだったか、とみことばに思いをいたすということがあります。つまり「聞くのにおそい」のです。
そしてまたそのように聖書のことばに思いがいたればまだいいほうで、あれやこれやと自分の考えでしゃべり、またついには怒り出してしまうことがあります。自分の怒りが正義である、という思いで怒るのです。神のことばよりも、自分のことばや自分の怒りのほうが正しいと思うから、そういうことになるのです。そして結局、神のみことばに聞くことに遅かったり、あるいは何も聞かないまま過ごしてしまう、ということがおきます。
そこで21節で、「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」と、念を押されています。「すべての汚れやあふれる悪」というのは結局、神のみことばを聞こうとしない結果起こる、すべての汚れやあふれる悪ということです。
種まきのたとえの良い道に蒔かれた種のように、「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れよ」と勧められます。神よりも自分のほうが賢いのだという傲慢な思いを捨てて、いつも神のみことばというものを、自分の生きていくための最大のそして第一の指針として受け入れることです。
そしてヤコブのテーマでもある、みことばを行なうということについて、次の22節で述べます。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」そして続けて、「聞くだけの者」というのがどういう人のことなのかということを、次に述べます。
1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
「自分をながめてから立ち去る」というのは、ただながめただけで何もしないで、それで立ち去ってしまうということです。つまり、たとえ鏡にうつっている自分の顔がどこかおかしいとしても、ただながめただけですから、そこで見た自分のおかしいところを直そうとか身繕いしようなどとは、少しも思わないししない、ということです。そういう思いで鏡を見ていますから、立ち去った後は、自分がどんな顔だったかということも、まったく忘れてしまうわけです。そして汚れていても、そのよごれた状態のままで生きていくのです。
その逆に、どのようにしたら自分がきれいになれるのかということを考えながら鏡を見たとしたら、その場で髪を整えたり、顔を洗ったり、ネクタイを締めなおしたり、お化粧をし直したりします。それと同じように、聖書のみことばを聞くということは、生まれながらの自分の姿をまるで鏡で見るように、自分のいろいろな醜さを見せられることになります。そのときに、本当に自分がそこでうつし出された醜いものを、見えたことに従って直していこうとしないとしたら、聖書から離れたとたんに、自分の醜さなどまるで何もなかったかのように思ってしまう、ということです。
もしそういうことでしたら、そもそもその人は何のために、聖書を読むのでしょうか。何のために、聖書のみことばを聞くのでしょうか。今日の礼拝も、何なのでしょうか。出席することが大事なのでしょうか。出席していれば、それでいいのでしょうか。それともこの礼拝で耳にする神のみことばで、自分を変え、それに従おうとして礼拝をささげているのでしょうか。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
「一心に見つめて離れない人」とございます。まるで主人に忠実な犬が、次に主人が何を指示するのかということを、主人をじっと見詰めて待っているようなイメージではないでしょうか。要するに神のみことば、律法というものを、わが主のことばとして、それを実行していこうという思いで聞くのか、それともただ聞くだけで、実行しようなどとはこれっぽっちも思わないのか。ただ聞いて終わりにしようとしているのか、聞いてそれを実行していこうとしているのか。聖書のみことばの前で、あなたはそのどちらの心で生きているのですか、ということが探られるのです。
そのためにも神のみことばを、じーっと見詰めること、見詰め続けることです。まず聞くことです。従おう、実行しよう、として聞くのです。最初からみことばを無視して、「私はこう生きよう」と自分でしゃべるのではなくて、まず静かに「聞く」のです。聞いてその次に、聞き従おうとしていくことです。
1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
ここで「宗教」と訳されていることばは、礼拝式のことです。私たちはとかくしますと信仰生活というものを、礼拝を守ればいい、祈り会に出ればいい、聖書研究をしていればいい。それだけがキリスト教であり、教会生活である、と思いがちです。そしてそうすることが「宗教に熱心である」と思いがち、つまり自分で自分をそう思い込むことがあるのです。
けれどもその考え方そのものが、そもそも神のみことばから離れています。「自分の舌にくつわをかけない」というのは、信仰生活ということも、自分がどう考えるのかということを第一にするために、自分のことばがあふれて生きるということです。信仰生活のあり方についても、まず神のみことばに聞くことです。自分がどう考えるかということを引っ込めて、神がどう考えておられるのかということに、耳をしっかりと傾けることです。そしてその神のみことばに、従うことです。
1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
ここにあげられています「孤児や、やもめたちが困っているときに世話をする」というのは、神のみこころです。神がそのようにしなさいと、命じています。ところがそうであるにもかかわらず、いや信仰とは礼拝を守り祈り会に出席し、聖書を一生懸命に学ぶことである、それさえしていれば、あとはどうでもいいのであるという自己主張にこだわって、その自己主張に聞き従って、このような神の主張に従わないとしたら、それはどんなに厳かな礼拝を熱心にささげたとしても、「父なる神の御前できたなく汚れている宗教である」ということになります。
以上今朝の箇所をみてきましたが、最後に思いますことは、聞くだけの人というのは結局、神よりも自分のほうが偉いのだ、という驚くべき傲慢な思いを持っている人のことです。ですから神が何をおっしゃっても、それよりも偉いと思っている自分の声に聞き従うのです。一方聞いて行なう人というのは、自分よりも神が偉いのだと、謙遜に考えている人です。ですから、そのような人は25節にございますように、神のみことばの一言一言を「一心に見つめて離れない人」になります。
今朝の礼拝も、主にひれ伏しての礼拝であるのだということを、わきまえさせられます。みことばに従います、という思いで礼拝をしているのか、それともみことばをただ聞いてあとは終り、という思いで礼拝をしているのか。へりくだって心を神に開いて礼拝をしているのか、それとも傲慢になって神に心を閉ざして礼拝をしているのか。この礼拝後に、自分は神のみことばに従うように変わるのだとして、礼拝をささげるのか、それともどんなに自分の姿をうつしだされても、礼拝が終わったら何も変えないで立ち去るのか。
私たちの礼拝がきよいものになるのは、この礼拝が終わってから自分が変わっていくこと、自分がみことばに従っていくことにかかっています。この礼拝のあとの一週間のウィークデイの生き方に、今朝の礼拝のあり方がそのまま反映されていくのです。
つまり今日の礼拝が聞くだけの礼拝ならば、これからの一週間は、先週と何もかわりません。先週の生活が汚れや悪で染まっていたら、今週もそれとまったく同じ汚れや悪で染まっての生活が繰り返されるだけです。けれども聞いたことを実行していこうという礼拝ならば、このあとの一週間の生活は、先週と変わるはずです。なぜならば、その生活の中に、神のきよいみことばが結実していくからです。
ローマ世界に埋没しているクリスチャンたちにヤコブ牧師が送ったメッセージは、その異教の生活に染まることなくクリスチャンとして生きるためには、是非とも聞いて行なう人として生きていきなさい、ということなのです。それこそが、27節にございますように「この世から自分をきよく守る」生き方なのだ、ということなのです。
それから2千年たったここ東京という大都会に生きる私たちにも、まったく同じメッセージが必要であることを再確認させられます。そして聞いて行なう人として生きることができるように、どうか聖霊が働いてくださいますようにと切望しながら、礼拝を続けたいと思います。
