2009年10月25日(日) 朝拝
「信仰の家族」
ローマ 16:6-16
大竹海二牧師
16:6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。
16:7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。
16:8 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。
16:9 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。
16:10 キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。
16:11 私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。
16:12 主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
16:13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。
16:14 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。
16:15 フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。
16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。
今朝見ます箇所には、パウロがローマの教会員一人一人に、挨拶を送っているところです。ここに登場します人物は、それぞれの人生があり、ドラマがあり、さまざまな導きによってこのローマの教会に集められている、そんな兄弟姉妹たちであります。どんな人たちがローマの教会を形成していたのか、注解書などで言われていることをもとにしまして、まず簡単にながめておきます。
16節のマリヤはどんな人物か分かりませんが、ユダヤ人の女性が異邦人教会の信徒のために、非常に苦労した姉妹として紹介されています。ユダヤ人と異邦人という水と油のような存在が、キリストの十字架によってひとつの体になったのが教会です。そのような教会で、マリヤがどれほど忍耐深くその両者のとりなしをしていたことかということが、想像できます。
これは現在の杉並教会にも適用できることです。肌が合わない、どうにも理解できない、そばにいるのも嫌悪感が出てしまう。そういう人物が教会にいる、ということがあります。いつもその人とは、目を合わせないし、そばに近づかない。ことばも交わさない。そういう人同士のために、「非常に労苦する」人が存在します。その二人のために祈り、時に自分が傷ついてでも間に立とうとします。なぜならば、そういう人同士をキリストがひとつの体にするためにも、十字架にかかられたということを知っているからです。初代教会に、このような貴重な奉仕をしたマリヤがいた、という記録です。
次のアンドロニコとユニアスは、パウロの同国人でパウロと一緒に投獄されたことのある人たちでした。使徒たちの間によく知られている人々とも言われていますので、パウロと一緒にでも伝道をしていた人たちだったのかもしれません。またパウロより先にキリストにある者となったと言われていますから、信仰の先輩として、パウロを側面から支えてもいたのかもしれません。わざわざ「私の同国人」と親しみをこめて言っていますので、パウロが個人的にとても親しく懐かしい人物であったのだと思われます。
8節のアムプリアトという名前は、ローマ皇帝の家に属する者に多い名前だそうです。やがてクリスチャンを大迫害していくローマ皇帝の家の中に、福音が浸透していったということを物語っています。
続いて出てきます、ウルバノとスタキスについては何も分かっていませんが、しかしそうであるにもかかわらず、ここでパウロは「同労者であるウルバノと、私の愛するスタキス」とその二人のことを記念しています。私たちには何も知る事のできない、パウロと彼らの間に深い絆があるということが、うかがい知ることができます。教会という信仰者の家族の共同体が、このように一人一人が非常に深いかかわりがあり、絆があり、共に労し共に愛し合うというつながりがあるということは、ここ杉並教会もまったく同じです。キリストのために労し、そして主にあって愛し合う、そんな恵みが教会にあるということに、心から感謝いたします。
次は「キリストにあって練達したアペレ」です。試練を何度も潜り抜けて信仰のベテランという事の出来るアペレ、ということです。ローマの教会員はこの人に、どれほど慰められたり励まされたり、ときに叱咤激励されながら、信仰が前進していったことかと想像いたします。教会の中に一人でも、大きな試練を潜り抜けた人がいますと、その人のいぶし銀のような信仰によって、教会全体が良い影響を受けるものです。大事な存在でもあります。
「アリストブロの家の人たち」というのは、ヘロデ大王の曾孫にアリストブロという人物がいますので、あるいはその家の人々、つまり家族とか奴隷たちが教会員に導かれていた、と考えられています。次のヘロデオンというのも、それと関係のある人物かもしれない、と言われています。
ナルキソという人物は悪名高い人のようです。おぞましいほどのけがれた人物の家の中にまで福音が伝わっていったということで、キリストの憐れみが驚くべき恵みとなって現れている、ということでもあります。教会という信仰の家族が、もともとは恐ろしい罪人が集められているのだということを考えますと、このナルキソの家の人たちの存在そのものが、教会というものの象徴的な存在であるとも言うことができます。それによって教会が、キリストの罪を赦す血潮によって出来上がっている信仰の家族であるということを、強烈に証することにもなるのです。
12節の「ツルパナとツルポサ」は双子の姉妹であると考えられています。彼女たちが「労している」と言われているこのことばは、「疲労するまで奉仕をする」ということばです。6節のマリヤも12節後半のペルシスにも、同じように言われています。自分を省みず、自分のことは二の次にしてでも、キリストのために奉仕をする人々です。杉並教会にも、マリヤもツルパナもペルシスもいます。教会がそういう兄弟姉妹によってどれだけ支えられていることかということを、パウロは本当に嬉しい気持ちでこの「主にあって労している」とか、「主にあって非常に労苦した」ということばを添えていることと思われます。
13節のルポスは、マルコ15:21に出てくる、クレネ人シモンの息子ではないかと考えられています。クレネから過ぎ越しの祭りのためにエルサレムの来たシモンが、予想もしていなかったキリストの十字架を無理やりに負わされるという出来事に遭遇しました。しかしそのことでやがてこのように、その息子がローマ教会員に導かれているのです。「主にあって選ばれた」というのは、そのお父さんの十字架を背負うという忌まわしい出来事が、実は神の選びという栄光が現れたことなのだ、とパウロが言いたかったように読めます。
またそのルポスの母親をパウロは、「私の母」とまで言っています。きっとよほどのお世話をしてもらったのでしょう。まるで母親のような存在だったのでしょう。つまりシモンが十字架を背負ってキリストの処刑を間近に目撃することによって、彼がシモン一家の祝福の基となっていったということを、物語ってもいることになるのです。
教会員の中にも、本当に忌まわしい人生体験を通されてから、やがて信仰が与えられて、その忌まわしい体験が益となって祝福が押し寄せているという信仰者が導かれます。その人はそのようにして、「主にあって選ばれている」ということです。教会という信仰の家族というものが、地上の忌まわしい体験が逆に益となって、お互いに恵みを分かち合っていくという、何とも素晴らしい家族であるということを、しみじみと思わされます。
14節に出てきます5名については、何もわかっていません。続くフィロロゴとユリヤは、奴隷とその妻であり、ネレオは皇帝の家に属するクリスチャン婦人である、などと考えられたりしています。教会が身分の上下や格差というものが、何のへだたりもなく「聖徒」として交わっているという、素晴らしい恵みの場所でもあるのだということもまた、こんな名前のリストによって如実に出て来ています。
こうして一人一人の名前をあげたあと、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。」と挨拶を送ります。
信仰の家族同士が、互いに挨拶を交わすことが命じられています。挨拶をしても挨拶をかえされませんと、本当に心が縮み上がってしまうものです。毎週会う人だからということで挨拶もいいかげんになりがちになるのかもしれませんが、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。」というみことばの重みを、共々に確認したいところです。教会員同士が、主によって導かれているというその神聖なことを考えたときに、この聖なる挨拶の意味もまた、新鮮に教えられるものです。
以上簡単にこの箇所を見てきましたが、しかしこの中に、パウロが何度も言っていることばがあります。それは「主にあって」ということばです。「キリストにあって」ということばと共に、計6回も出てきます。教会という信仰の家族が、他でもない「主にあって」の共同体であるということを、強烈に意識させられるみことばです。
ですから8節ありますように、愛というものも「主にあって」です。時に教会内でスキャンダラスな出来事が起きてしまうということがあるのですが、それは教会が「主にあって」の群れであるということから、はずれてしまうときに起きるのです。主にある愛が、いつの間にか肉的な愛にすりかわってしまう危険があるということです。
また9節のように「同労者」ということも、「主にあって」なのです。同じ教会で同じ奉仕をしていても、それは共に主にささげている奉仕であるのです。自己実現のためでも、自己満足のためでも、自己顕示欲の満足のためでもありません。教会がキリストのものであるということを忘れますと、自分の欲を満たすために教会を利用するということが起きてしまいます。厳に慎みたいと思います。
また10節のように、試練を乗り越えてベテランの信仰者になっているのも、「主にあって」です。そういう人にとっては信仰の弱い人を、なかなか受け入れられないかもしれません。裁きたくなるかもしれません。しかしその人が練達したのは、主にあってなのです。主のおかげなのです。そのことを知って謙遜になることです。そしてその練達を、信仰の弱い人を支えるために用いていくことです。「主にあって」とはそういうことも示唆しています。
また12節にありますように、労するのは「主にあって」です。主がいのちを犠牲にして、私を救ってくださった。その主の犠牲に対する感謝が、自分のことを二の次にしてまでも奉仕をしていく理由です。ですから犠牲的に奉仕をするときに、いつもキリストの十字架を見上げながらしていくのが、信仰の家族の中での姿勢であるということです。まちがっても自分の奉仕を他人に吹聴したり自慢したりしないことです。そういう思いを持ったら、ただちにキリストの犠牲をおぼえて、主の前で悔い改めることです。
そして13節のように、結局自分が今杉並教会に導かれているのは、「主に選ばれているから」である、という信仰が大事なのです。自分がこの杉並教会に導かれるために、どれほどのドラマがあったことでしょうか。どれほどの多くの人々が、かかわってのことでしょうか。しかしその一番の根っこに、キリストによる選びがあってのことである、ということを覚えたいと思います。
ひとりひとりがキリストに選ばれて、その結果として今この杉並教会に導かれている、ということです。キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と言われましたが、そのキリストのみことばをしっかりと心にいただきまして、この杉並教会という一つの信仰の家族としての交わりを、繰り広げていきたいと思います。
