メニュー


2009年10月18日(日) 朝拝


「だまされないように」
ヤコブ 1:9-18

大竹海二牧師


1:9 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
1:10 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
1:11 太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

16節に「だまされないようにしなさい。」というみことばがございます。このみことばを念頭に置きながら、今朝のみことばをみていきたいと思います。何にだまされてはいけないとヤコブが教えているのだろうかと、そのことを覚えながら見ていきたいと思います。まず最初は、貧しい人と富む人への勧めです。

  1:9 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
1:10 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
1:11 太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。

ここは、「貧しい者も富む者も、だまされるな」ということです。貧しい境遇にいますと、まるで自分の存在そのものが貧しいと思ったり、時に人間以下の存在であるなどと考えてしまうことがあります。しかしキリストがその人のために命を捨てられたということ以上に、その人の価値を高めるものはありません。「わたしの目には、あなたは高価で貴い」というみことばは、富のあるなしに関係なく、その人の存在そのものの価値を、最高のものとして神が宣言していてくださるものです。

かつての私自身、自分が小児麻痺であることからくる大きな劣等感から、どれほど自分自身を自分でいやしめていたことかと思います。キリストを信じて本当にびっくりしましたことは、キリストがこんなにも卑しい自分を愛していて下さる、ということでした。それもいのちを捨てるほどに愛してくださっているということは、大変衝撃的なことでした。心全体にこびりついていた氷が、そのキリストの愛によって溶かされていったというのが、自分の信仰生活のプロセスでもあったのだと思います。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇れ」。誇れというのは、その光栄を思えということばなのですが、神に愛されているということ以上にない高い身分を、私は心から光栄に思っています。人間はおしなべて劣等感と優越感にさいなまれるものですが、このキリストに愛されているという高い身分を知ることによって初めて、本当にその劣等感や優越感から解放されていくことになるのです。

一方、「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。」というのは、別に貧乏になりなさい、ということではありません。富というものに信頼を置くという高慢から降りて、富には信頼を置かないという低さをこそ光栄に思え、ということです。別な言い方をするならば、「富んでいるからといって、身分が高いのだとはだまされるな」ということです。地上の富が、魂の救いを保証する力があるのだと、だまされてはいけないということです。

その理由は、「なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」ということです。

アラビアの砂漠から熱風が襲ってきますと、真緑色に茂っていた草が、あっという間に干からびてしまいます。地上の富のはかなさを教えていることばです。そんな頼りのないものに、信頼を置くなということです。目に見えるものがどんなに力があるように見えても、それはまったく力がないのだからだまされるな、ということです。

さて次に、再び試練について、ヤコブはとりあげています。
  1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

この節は、「試練が悪いものであると、だまされるな」ということになります。2節でも「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」とヤコブは言っていますが、ここでも試練のあとに、いのちの冠が待っているということを言っています。「良しと認められる」というのは、「試された結果、本物と認められた」という意味があります。試練によって信仰の不純物がそぎ落とされていって、やがていのちの冠が与えられるという、神の約束による結果が待っているのだという励ましです。

私たちは試練にあいますと、その先にますます黒雲が待っている、と思ってしまうところがあります。このまま死に向かって底なしの不幸という暗闇へと、突き落とされていってしまうのだ、とです。けれどもだまされるな、です。今の苦しい試練の先には、いのちの冠が待っているという励ましです。それが神の約束であるのだと、ヤコブは押えています。ローマ帝国に散らばって生きているキリスト者たちに、是非ともその耳元で大声で聞かせたい気持ちで、ヤコブが書いたのではないかと思わされます。

つぎに悪への誘惑について、だまされるな、です。
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

アダムとエバの堕落の記事が、頭に浮かんでくるみことばです。堕落したアダムとエバは、自分の罪の誘惑の原因が妻であり蛇だといいました。またその妻は、神が自分のそばに置いたのだと、アダムは言いました。結局は神と妻や蛇が悪いのであって、自分には責任がない、自分は悪くない、と言い張ったのです。これが堕落した魂の、いつも思っていることです。

しかしそう思って生きていますと、いつまでたっても本当の原因である自分の「欲」というものに目が開かれないで、その問題をずっと抱えたままに生きていってしまいます。多くのクリスチャンが少しも成長しないのは、この自分の欲に対して目をつぶるからです。15節の「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」という指摘を、今朝一同で自分に向けられたこととして、受け止めたいと思います。

何か問題が起こりますと人間は決まって、その問題の原因や責任を探し出そうとします。そしてその見つける方法も万国共通だと思います。つまり、自分以外のどこからか、その原因や責任を見つけようとするということです。アダムとエバのやり方を、今も人類は引き継いでいます。そのように、だまされてはいけないのです。問題は、自分です。自分に原因があって、罪が生じ、そして罪が成熟していくのです。

クリスチャンになるということは、それまで自分で自分をだましていたことをやめる、ということにもなるのです。今まですべての問題を、人のせいにし、神のせいにして生きていた。けれどもキリストを信じてからは、自分の罪を告白していくこと。この自分の心の中にある欲が罪となって、思いやことばや行いとなって出てしまい、そしてそれがやがて大きな罪として成熟していくのです。クリスチャンがその自分の問題を神に差し出さない限り、罪が成熟していくだけなのです。

問題の原因を他人や神になすりつけているうちは、気持ちがいいのかもしれません。しかし本当の原因は自分の欲であるわけですら、それはあたかも体の中の病巣を、ほおっておいたままにしておくとやがて病気が次第に進行するように、自分の人生が破滅していくだけである、ということになるのです。問題は自分にあるのだということに、今朝のみことばで目が向けられたいと思います。

そしてそれと共に、そんな罪人に神が、どれほど素晴らしい愛をもって救ってくださるお方であることか、ということにも目を向けさせるヤコブのことばが続きます。
1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

この箇所には、自分の心に欲があるからといって、だから神はそんな自分を見捨てるなどとはだまされるな、ということが書かれています。17節の「贈り物」とは「与え方」のことであり、「賜物」は贈り物のことです。これは救いというものを与える良い与え方も、また救いという完全な贈り物も、みんな神から来るのだということです。それも「光を造られた神」というのですから、宇宙を創造された神の純粋な善意の力を強調し、また「父には移り変わりや、移り行く影はありません。」と言って、その善意が不変である、つまり変わることがないのだ、ということを強調しています。

そして18節では、「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」と言って、17節の「良い贈り物」、つまり良い与え方を教えています。神の救いの与え方は、「真理のことばをもって私たちをお生みになる」という与え方です。「光よあれ」と神が言われると、光ができたと創世記にございます。神のみことばとは、そのように力があり、神のみこころを実現するものです。

その真理のみことばが、罪人に「救われよ」とおっしゃって、私たちを神の子として生んでくださるのです。そしてその目的は、「私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」といいます。「初穂」とは神に捧げるものですから、神へのささげものとして、信仰者を生んでくださるということです。欲がはらんで罪が生じてやがてそれが成熟してしまうような人間を、神へのささげものとするために、真理のみことばで神の子としてくださっているのだ、ということです。

それなのに人間は、その神の真理のみことばよりも、自分を信頼して自分の力で神の子になろうとします。そんなふうにだまされるな、ということです。人間ができることは、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」ということしかできないのだ。しかし神は、そんな死を生むことしかできない人間を、神へのささげものにするために、真理のみことばで新しく生んでくださるのだ、と押えているのです。

ローマという異教の世界に散らばって信仰生活をしているうちに、いつのまにか地上の教えに染まってしまって、真理から離れてだまされて生きてしまうという危険性について、ヤコブがしっかりと教えている今朝のみことばです。貧しさや富にだまされるな、試練のあとに暗闇が来るとはだまされるな、問題が他人や神のせいで起きるなどとだまされるな、神が罪人に愛を持っていることなどありえないなどとだまされるな。そういっている今朝のみことばです。

私たちの地上の信仰生活の中で、いつのまにか染まってしまう地上の考え方を、このみことばによって正されまして、神への信仰をよりきよめられたいと思います。そして罪しか生じることのできない自分をそのまま神に差し出して、神が与えてくださる救いを諸手を差し出していただくものとさせていただきたいと思います。


戻る