2009年10月11日(日) 朝拝
「揺れ動く心」
ヤコブ 1:5-8
大竹海二牧師
1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
先週は台風18号が、日本列島を襲いました。木曜日の祈り会も中止にせざるを得ないほどに、非常に大きな台風でした。6節に「風に吹かれて揺れ動く、海の大波」ということばが出てきますが、台風によるすさまじく荒れ狂う海の大波の映像は、今も目に浮かんできます。そんな中をさまよう木の葉のような人生を送らないようにと、ヤコブはローマ世界に散らばって生きているクリスチャンに、しっかりと釘をさしているのが今朝のみことばです。
先週のヤコブ書の最初の学びでは、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と教えられ、信仰がためされて生じる「忍耐」を「完全に働かせなさい」ということを学びました。信仰の根っこが試練によって、よりしっかりとする、ということでした。
けれどもそう言われますと、すっかりと自信がなくなってしまうというのも、また本音です。何しろ自分の信仰はくすぶる灯芯ですし、傷んだ葦ですから、真っ暗な恐ろしい試練が襲ってきたら頭が真っ白になりまして、何をどうしたらいいのか分からなくなるというのが相場ではないかと思わされます。大変に勇ましいヤコブのことばは分からないでもないが、あまりにも現実の信仰者を無視したことばではないか、などとすら思ってしまいたくなるみことばではないでしょうか。
そこでということなのでしょう。ヤコブはその試練のときに忍耐を完全に働かせるための知恵というものを、神に願い求めなさいと、次に教えるのでした。
1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
この知恵というのは、単なる知識ではありません。「試練の時には忍耐を働かせなければいけないのだ」ということは、聖書を読めば知識として知ることが出来ます。しかしそのことを頭で知ってはいましても、いざ試練のときになったら、どのように生きていったらいいのかということになると、また別な実践的な知恵が必要になってきます。信仰生活でとても大事なものが、この実践的な知恵です。つまり神からいただいた信仰を、現実の生活においてどのようにして発揮していくのか、どのようにして実践していくのか、どのようにしてそれを証していくのか、そういう実践的な知恵です。ヤコブが神に願い求めなさいというのは、そのような実践的な知恵のことです。
ヤコブ書のテーマは信仰の実践ということであり、信仰の実である行いということなのですが、信仰を実践するというときに、この「知恵」というものがないと、実践ができないということにもなります。言わば、信仰というものが知恵によって、行動へと実をみのらせていくということでもあります。車にどんなにガソリンが入っていましても、ギアがニュートラルになっていては、車輪は動きません。単なる頭だけの知識だけでは、行いは生まれません。信仰の知識が、知恵というギアによって行いへと進められていく、ということが言えるのかもしれません。
それで「その知恵の欠けている人は」、とございます。知恵が欠けているというのは、試練のときにどのようにして忍耐を完全に働かせたらいいのか、よく分からないことを言います。あるいは試練というものを大いに喜ぶことができないのは、知恵に欠けているからである、ということになるでしょう。そしてまた、知恵に欠けているということ自体、とても恥ずかしいことかもしれません。信仰暦が長ければ長いほど、知恵に欠けているとしたら、神の前においそれと出られないという萎縮した気持ちも持つかもしれません。
けれども、「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とヤコブは言います。神の与え方は「惜しげもなく」というのです。私たちが人に何かを与えるとき、ともすると、その見返りを心の中で思うものです。ですから逆に言えば、そういう効果が期待できない場合は、何も差し上げないなどという計算高い与え方、けちけちした与え方になってしまいがちです。けれども神の与え方は、「惜しげもなく」です。相手から何かを要求するためとか、出し惜しみしながらではない、ということです。ただただ求めるものに知恵が豊かに与えられて、信仰の実がなりますようにと願って、「惜しみなく」なのです。求めるままに、無限に与え続けるという与え方をする、というのです。
また「とがめることなく」とございます。私たちが誰かに、何度も何かをもらいに行こうとするということは、とても気が引けることです。相手もしまいには怒るというのが、これまた相場かもしれません。ですから2度3度と同じことをお願いに行けば、当然頼まれたほうには、「怒り」がたまってくるだろうということは、体験上も容易に想像がつきます。
けれども神は、そんな人間のやりとりとはまったく違う対応をされるお方でした。どんなに何度も求めて行っても、決して決して「とがめない」お方だといいます。つまりですから、何の心配もせずに、大胆に何度でも、そしてどんなに多くてもいいから、ともかく「知恵」というものを、神に願いなさい、と勧めているのです。その知恵がない限りは、信仰が実を結ばず、試練から忍耐という力強い根っこは生えてこないのだから、だから大胆に何度でも神に願い求めなさい、と励ましているのです。
この知恵というのは、人間の中から出てくるものではないので、だから神に求めなさい、と言われています。つまり神のものである知恵なのである、ということです。人間の能力や力の中にある知恵ではなくて、神によってしか与えられない知恵である、ということです。試練の中で忍耐をどのように用いて、そしてどのようにして試練を大いに喜ぶことができるのかということは、ただ神の与えてくださる知恵だけが可能なのであるということです。
だからそれを、神に求め願いなさい、と教えています。そしてその求め方は、「少しも疑わず」でした。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」
「信じて願いなさい」と言っています。これは「信仰」というものが、「願う」という実を結びなさい、ということでもあるのです。神を信じると言いながら、実は神に願わないで生きるとき、その人は「どうしてあなたが信頼していると言っている神に、願うことをしないのですか」と、問われることになります。神を信じるという信仰は、神に願うという実を結ぶのだ、ということです。神が惜しげもなくとがめもせずに与えると仰っているのに、それでもそれを願わないとしたら、一体あなたは本当に神を信じているのかと叱責されることになるのです。つまり「願う」という実がないとしたら、そもそも「信じる」という根っこがあるのですか、といわれることになるのです。ヤコブは信仰と行いというものが、一体であることをここでも強調しているのです。
その願い方も、「少しも疑わずに」でした。そして疑う人について。次のように書き進めています。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
疑う人は「二心のある人」である、と言われています。一方で神を信じ、一方で神を信じない、そういう二つの心がある。相反する両者が心の中で戦うような状態の人です。一方で、試練の時には是非とも知恵が必要であり、それを神に求めなければならないと思っています。しかしもう一方では、そんな知恵などどうせ役に立たないと思う。また神に求めても、所詮与えてくれるはずがないと思っている。一方で求めようとし、もう一方で求めまいとする。完全に神不信とはいえないのだけれども、しかし不徹底。まさに神を信じる心が、ズバリと問われているみことばです。
そういう人は、「主から何かをいただけると思うな。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人だ。」と、きつく断言しているヤコブです。疑いながら願い求める者には、結局知恵は何も与えられないという悲惨さを知れ、ということです。「疑う」という私たちの信仰生活の日常の曖昧さが、ここで鋭くレントゲン写真に映し出されるように書かれています。信じる事の曖昧さが、地上の厳しい生活の中を送っているクリスチャンにとって、どれほど危険なものであることか、というヤコブの牧会者としての鋭いことばなのです。
まさにそうなりますと、試練という危険なときに知恵を求めないわけですから、本当に知恵に欠けているわけです。知恵を求めない愚かさが、どういう悲惨な結果を招くのかということを、目が覚めるように言うことによって、神の懐に飛び込むようにさせているヤコブなのです。
神を信じるという信仰が、こんなにまで純粋にそして素直に神に知恵を願い求めるものであるということを、しっかりと教えられる今朝のみことばです。ヤコブは行いによって義とされるという言い方をしていますが、実のところ、信仰のあり方をこの初めの部分で、きちんと規定しているのです。神のおっしゃったことをそのまま素直に聞き入れていく信仰です。ですからもし自分の信仰に、いうところの「疑い」というものがあるということに気づきましたら、まさに、「どうかこんな知恵の欠けた者に、知恵を与えてください」と、願い求めることが勧められているのです。
自分は決して素直ではない、いつも心に疑いがある、信仰がいい加減で中途半端である。そのように思っていて、自分が知恵の欠けている者であると思っている人は、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と勧められているのです。決して神の前で、萎縮する必要はないのです。神を恐れる必要も神に恥じる必用もないのです。まさにそのように知恵が欠けている人に対する、今朝のヤコブのみことばであるということを、しっかりと覚えたいのです。
キリストが山上の説教で語られました次のみことばにも励まされまして、今朝のみことばの学びを終えたいと思います。
マタイの福音書7:7,8です。
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
