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2009年10月4日(日) 朝拝


「訓練を喜ぶ」
ヤコブ 1:1-4

大竹海二牧師


1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。
1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

これから朝拝では半年かけまして、ヤコブの手紙をとりあげます。ヤコブ書は聖書の中では、少し評価が劣っています。と申しますのも、パウロが信仰による義ということを教えているのに対して、ヤコブは行いによる義ということを教えているということから、その評価がきています。またイエス・キリストの名前が2回しか出ていないことや、キリストの十字架や復活についても何も言及がない、などということもその評価に繋がっています。

けれども行いというのは、信仰の実、フルーツです。キリストも、良い木は良い実をみのらすと言われて、信仰と行いが一体であることを教えています。パウロも信仰・希望・愛を教えて、愛こそ一番大事だと教えています。聖書が行いを軽視しているということは、決してありません。ですからパウロの手紙とヤコブの手紙は、お互いに相反することを反論し合っているというのではなくて、お互いに大事なことを補い合っている、という見方がいいと思われます。

著者のヤコブは、主イエス・キリストの兄弟のヤコブと言われています。ヤコブは最初は他の兄弟と一緒に、兄のイエス様に敵対していました。気が違っているとまで思っていたことが、福音書に書かれています。しかしやがてキリストが天に昇られたあと、ペンテコステの前に、彼らイエス様の兄弟たちは弟子たちと共に、心を合わせて祈っていたと使徒の働きに書かれていますので、みんなキリストを信じる信仰者になっていたことが分かります。そればかりでなくてこのヤコブは、やがてエルサレム教会の中心人物として活躍することが書かれています。使徒の働き15章に書かれているエルサレム会議の結論を、このヤコブが述べています。

そのヤコブが「国外に散っている十二の部族」宛に、この手紙を書きました。手紙のあて先は、どこかの固定された教会ではなくて、イスラエルから離れている十二の部族に対してです。この十二部族というのは、キリストを信じているクリスチャンのことを「新しいイスラエル」という表現もしますので、キリストを救い主と信じているクリスチャンで、全世界に散らばっている者たちのことと考えられます。つまり異郷の地で信仰者として生きている者たちに対して、エルサレム教会の牧会者ヤコブが、信仰を持って生きる指針を書いた手紙である、ということです。

彼らはステパノへの迫害によって、当時のローマ世界のあちこちに逃げていきました。そんな彼らがローマの世界で信仰をもって生きることは、どんなに大変だったことかと思います。そこで挨拶もそこそこにして、開口一番、試練について言います。
1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

試練を喜べ、とヤコブは言います。それも「それをこの上もない喜びと思いなさい。」とまで言っているヤコブです。迫害を逃れて散り散りになって祖国から逃げている信仰者です。その生活の根源がそもそも苦しみから出発しています。その上、貧困や病気や迫害その他で、日々の生活に重苦しい暗雲がのしかかっています。そんな苦しみに呻吟している彼らに、その苦しみを、それもさまざまなと言われていますから、多くのいろいろな種類の試練をこの上もなく喜べと教えます。

その理由は何でしょうか。3節です。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

大分昔見ました仮装大賞という番組で、雑草の仮装を見ました。雑草が犬に踏まれたり、人に踏まれたり、自転車に踏まれたりします。そのたびにその雑草は、最初はしおれたように倒れてしまうのですが、しばらくするとむくむくと起き上がります。そして最後はブルトーザーに踏み潰されてしまって、今度こそダメかと思わされるのですが、しばらくするとまたしてもむくむくと起き上がるのです。いまだに思い出す仮装です。踏まれるたびにその雑草の根っこがしっかりとしていって、最後は絶対にダメだと思うような試練にあっても、しかし負けなかったということです。

ここに「忍耐」ということばが出てきますが、これは単に消極的にじっとがまんしている、という意味の言葉ではありません。確実とか不屈とか確固とした、などという意味の言葉です。不撓不屈の精神、という意味です。ですからヤコブがここで言っていますことは、信仰というものは試練に会うことによって、より確実になる、より不屈になる、何が起きてもぐらつかなくなる。そのことをあなたがたは、いまたどりついているその生活の場で、日々経験をして知っているのです、ということです。

これはみなさまも、同じことを知っておられることと思います。今まで受けた試練で、どれほど信仰がつぶされそうになり、消えそうになり、時に教会生活から離れ、以前の暗い生活に戻りなどと生きながら、しかしまた信仰がよみがえり、教会に戻り、そして前よりももっとしっかりしたものが与えられて信仰生活をしている、ということがおありだと思います。

もちろんそれは、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」と言われるイエス・キリストのみ業です。それによってあの雑草の根のように、しだいにしっかりとしていきます。太く長く強い根っこが、信仰の根っこになっていきます。

信仰者は何のために、苦しむのでしょうか。それは信仰に確固とした根っこが与えられるためです。よく言われることですが、母親が赤ちゃんをお風呂に入れる時に、最初に母親は自分の手をお湯に入れて湯加減を確かめて、それから赤ちゃんをお湯の中に入れます。最初に熱湯に赤ちゃんを入れて、赤ちゃんが大やけどをしてからあわてて赤ちゃんを熱湯から出すなんていうことはしません。同じように神は、信仰者が耐えられてしかも信仰の根っこがより大きくなると思う試練を与えて、そしてそれによって信仰の根がより確固としたものになるようになさいます。

そのより確固とした信仰の根っこを働かせなさい、と続けます。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

この「完全な者」というのは、霊的な成熟を表します。ヤコブのテーマでもあります「行い」ということを踏まえれば、行いという実が豊かな実を結ぶということです。パウロが言うところの「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。」という、その御霊の実が成熟する、ということです。それも「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、」と言われていますので、その御霊の実がすみずみまで成長し、熟していくということです。

つまり試練というものが、信仰のもたらす実を熟成させるものである、ということです。ですから2節でヤコブは、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのです。御霊の実というのは、文字通り御霊の実です。つまり、「私自身の実」ではないということです。私たちは自分の人生に、自分の実を実らせたいと思うものです。死んで財産を残すのではなくて、自分の名を残すことが生きる最大の目標であるなどと、時に真面目に考えたりするものです。

しかし地上に残すべきは、御霊の実です。成熟した実です。ヤコブ自身1節の自己紹介において、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」としか言っていません。主イエス・キリストの兄弟であるということは、一言も言っていません。言わなくても分かっている人たちにこの手紙を出している、ということはあったのかもしれません。しかし私には、ヤコブがあえてそういう名誉あることも、消してしまったのではないかとすら思わされています。

ヤコブは、キリストのしもべ、奴隷であるということが、彼の人生の最大目標であったということではないでしょうか。自分の肉的な名誉ではなくて、キリストに従い切って生きるという実をならすことに、生きる焦点をあわせていたのでしょう。そして試練というものが、自分の実をならそうという欲望を断ち切らせて、真に御霊の実をならそうという信仰の根っこを確実にさせていくものであることを、この離散した信仰者たちに、まずもって教えているのです。

信仰者ゆえに、地上で辱めを受けたりさげすまれたり、見下されたりすることはよくあることです。そういう時に私たちの心の中に、そういう視線やことばに対して見返そうという反発をもつものです。そしていつの間にか、御霊の実をならそうという根っこではなくて、自己顕示欲が根っこにあって生きてしまっている、ということがあるのです。自分の力をはったりで見せ付け、自分を誇大に見せることで見返そうとする根っこです。

この世に生きるということは、そういう誘惑があります。試練にあって自分が惨めになったとき、そのように自分を大きく見せようとするのか、それともまさにそういう人間的な欲望を削り取られていくことによって、ますますキリストの僕として徹して生きようとするのか、なのです。

自分を大きく見せようと思っている人にとっては、試練は恐ろしいものです。なぜならば、その試練によって自分が惨めになるからです。しかしキリストの僕として生きようと思っている人にとりましては、試練はこの上もなく喜びとなります。なぜならばそれによって、自分がもっと小さくなって、キリストが自分の中でもっと大きくなるからです。そういうキリストの僕になるからです。しもべというものは、主人が大きいことこそが、喜びの源泉ですし誇りでもあるのです。

これからヤコブ書を通しまして、信仰者の生き方というものを、その実の実らせ方という視点をもちながら、共々に教えられていきたいと思います。


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