ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

Home | Diary | Book | RSS | Mail | Prev

# Diary

2009年11月23日(月)

こちらこそ応援隊

オリコンチャート上位を声優が賑わすようになったのにも、すっかり慣れて、最早びびりもしないけれど、さすがに水樹奈々の紅白出場にはびびった。紅白デジタル応援隊だか何だかに就任して、それでNHKとの関わりは終わりなのだと高を括っていたので、この急転直下の慶事には度肝を抜かれた。選曲に関しては、本人にも知らされていないだろうから、何も言えないが、願わくば、重戦車部隊にご登場いただき、キャッチよりもロックをお披露目してもらいたい。どこまでも正統的にコツコツと道を拓いてきたが、声優は紅白にも通じていたのか。しかし、アウェイの風は吹くだろうから、こちらこそ気味悪がられないように応援しよう。

2009年11月22日(日)

人形色

amazon_img

昨夜、就寝前に変な映画を途中から見たので、明けて本日、新聞でタイトルを確認したところ、「U・ボート」であった。「ああ、Uボートか」と即座に納得したが、刹那、疑問とすり替わる、「どの、Uボートだろう?」。内容は、潜水艦映画にありがちな、海底で身動きが取れなくなるものではあるが、あまりの逼迫感に釘付けになった。また、そこから視聴に途中参加して、唐突な幕切れに驚愕した。ああしたハッピィエンド直前の悲劇を海外のもので見ることが珍しくあるので、これは印象に深く刻まれる。あれを映画館で見て、どう思えば正解だろう。どんな足取りで帰途に着けばいいのだろうか……。

色素の薄い白人の顔色の悪さは、人形みたいな透明感があって生理的に不健康を峻別して気持ち悪い。日本人なら、生気をなくした顔色の悪さは土気色と表現するが、白人の場合は、人形色とでも言うのだろうか?

2009年11月21日(土)

平成に没する太宰

太宰治の生誕百年を考えていて、レヴィ=ストロースが先日百歳で亡くなったことを思い出した。ひょっとして、ふたりは同い年か。レヴィが長く生きたし、太宰が短く生きた。すると、平成まで、太宰が生きていてもおかしくはなかったのである。信じられないなあ。

もはやジャンルとしての昨日の今日。ジャック・バウアーって、正真正銘のハイ・マキャベリアンだ。

2009年11月20日(金)

テンプレート

amazon_img

非戦闘系のエキスパートを軸に、現場で活躍するもの、脇に控えて調べものをしてくれる部下、そして、一歩も引かず対立する頭の切れるもう一人の主役としての敵、とスピンアウト作品を通じて、ライムシリーズは応用が利くのだ、と発見を新たにした。ジェフリィ・ディーヴァ著『スリーピング・ドール』読了。いわば、言葉巧みに他人を操作する同業者としての対決。どうにかして、その技術を実地に用いられないかと邪なことを考えた。

それにしても、著者ディーヴァの作品は、思い出すにも複雑な経緯をたどらざるを得ず、あたかも迷路の中をさまようかのごとく波乱万丈の道のりにはまり込む。おかげで『ウォッチメイカー』の回想は、フラッシュバックを通じて引き出した記憶の断片の継ぎ接ぎが、簡単には一本のラインに繋がらないので、ややこしかった――特に、あれこれ思い出しても、ウォッチメイカーをどう逮捕したものかが皆目思い出せなくて、どうしても行き詰ってしまい、しばし頭を抱える……。反対に、ライムシリーズとの差異といえば、証拠物件一覧がないので、どこまで進展したのか、とおさらいする機会がなく、周到に張り巡らされた伏線をたどるにも、存在しないものは目安として機能せず、スピンアウトとして形が相似しているが故に、その複雑さを攻略するには、ガイドブックなくして、外国をそぞろ歩くような展開に、一瞬気後れした。ところで、『ウォッチメイカー』は国内でも大絶賛を浴びていたと、著者紹介を読んで知る。個人的には、毎度自信たっぷり見せ付けてくれる茫洋とした事柄を結びつける物語の横の複雑さに加えて、時代を縦に貫いた『12番目のカード』が、ライムシリーズではお気に入りである。

せっかくのスピンアウト。もっとキネシクス――歩く嘘発見器――として振舞えなかったのかという不満はくすぶる。もっと尋問したかったし、四六時中キネシクスを日常生活からして発揮して嘘を見抜いて欲しかった。たとえば、味方であるはずの看守長とのやり取りは読み応えがあって、緊張と刺激に満ちていた。もっとも、そうした場合の懸念として、行き過ぎて科学的考察から逸脱し、ただの女の感になりそうで恐い。また、くすぶる理由の一つとして、作品の出来としては申し分ないのに、折り返しの煽り文句が見当違いなのではないかと思われる。ネタバレに結びつく作品紹介の類は、なるたけ目に入れないようにしているが、毎度、半分を過ぎたあたりで、そろそろよろしいかと解禁するのだけど……、テレサについての記述がすっきりとは消化されず腑に落ちないものがある。したがって、かような空振りした場合、読者との間に齟齬を来たしたまま、いらぬすれ違いが生じる。それが本文とは無関係とあれば、一層やるせない。

恒例の一発逆転は、内容が内容だけにスリルとも爽快感とも、かけ離れたものだった。再起を図るには腰が重い。今後の展開としては、途中でアメリアとライムの声が聴けただけで、躍り上がるほど狂喜乱舞したので、その反対ぐらいの感じで事後報告も含めつつ関与していければ良いのではないか、と思う所存。もちろん、あいつが相手ならば、NY出張もありだ。ところで、舞台としてサリナスが登場した。あのサリナスか……、あの地図帳から適当に名前を拝借していたサリナスだ。

2009年11月19日(木)

未熟を見つめる目

今夜も観察、太宰治短編小説集「トカトントン」。文節に丸がない、点が続く、喋りだと自然そうなるのか。

太宰に限ってもいいし、太宰に限らなくても、山ほどあろう鮮やかで味わい深い短編集を材にして、とにかくもっとこの形式でドラマを生産してくれないものか、とNHK拝み倒したい気分。

そのNHKは、本格的に生誕百年を盛り上げていこうとしているらしく、朝、角田光代が太宰治を語っていたのを見た。その中で、太宰を「途中感」と表現していた。なるほどと頷いたが思考は別天地へ飛ぶ。戦前、戦中、戦後の大人社会からすれば、その未熟さは幼稚さとして評価されなかったのかもしれない。他方、戦後から大人が消えた現代の子供社会においては、その未熟さは、抜けきらない幼さと共振し、共感と根強い支持を集める。とはいえ、現代を生きるファンたちによる墓参りの映像が、芸術的な意味ならともかく、宗教的な意味でまるで価値を見出していない私には衝撃的だった。

年末には、再々放送があるので、また「女生徒」を見よう。今度はしっかり見よう。それにしても、おっさんが書いた文学とは思えない作品である。

2009年11月18日(水)

ダザイサイクル

「ローマの休日」のラストシーンだけを見た。そうした変則的な見方をしたものだから、注意が散漫になって、普段、目が及ばないところへも意識が飛ぶ。あのラストの場面、モノクロの世界だから背景の印象が薄いけれど、カラーにすると相当きらびやかな謁見の間だ。だが、モノクロだから、周囲が豪華絢爛に額縁が金ぴかに輝くのにも目を奪われず、ヘプバーンとグレゴリー・ペックに視線が集中し、散漫にもならない。

今宵も分析を試みた、太宰治短編小説集「きりぎりす」。やはり、実写のほうが数段いい。なんだか舞台のような配置と雰囲気で、余分なものを削り、一切排除された形になっているのは、偶然に映り込む可能性などない表現したいものしか表現不可能なアニメと逆パターンだが結果的に似ている。ドラマパートになると、さらに止め絵と文字が踊り、こちらも無駄を排除し、表現のほかにそうそう目移りしない。総じて「シャフトみたいだ」。この降って湧いた単純な感想は、ちょっと可笑しい、とあとで独り合点がいきつつ笑っていた。何となれば、そのシャフト作品のどちらにも、バックには太宰治が鎮座しているからである。

太宰自身にスポットを当てれば、独白という形で、「でした・ました」と読者に語りかけてくる。これは効果抜群だ。少なくとも私には盲点で目から鱗であった。真似したくもなるが、相当、転調させねばならない。また、語りかける相手がきちんといることの確かさ。その意識。

2009年11月17日(火)

不・一致

『罪と罰』と秋葉事件の視線の先にあるものの不一致。ラスコーリニコフは、強盗を犯したけれど、その先が、たとえたどり着けない夢物語だとしても野望があり、拓けていた。一方、秋葉事件のほうは、死刑を利用する自殺としか捉えてないので、その先には袋小路しか描けない。その点が、番組を通じての違和感。しかし、夢が「ワイドショー独占」なのだから、全能感という部分では一致。

まあ、遅くはなったが、こうして何かしらを語り、参加することができるので、原作を読んでいて良かったと噛み締める瞬間である。新訳ブームを起こした亀山郁夫が13歳で読み、感情没入するほどのめり込んでいた過去。そうか13歳か。自分をものさしにして振り返ると、虚構より現実社会のニッポンのほうが波乱万丈な兆しはあった。しかし、かろうじて何かが起きていたわけでもない。兆しなどという曖昧な不安感や疑心暗鬼をベースとする抽象概念の与えるものが、個々のうちに純粋培養された結果、余計、性質が悪いものに育つのかもしれない。

なるほどと、興味深かったのは、今の子供たちが未来を描いたとしたらそこに緑があふれているだろうという爆笑問題の指摘。

打ちひしがれるほどの希望

女優田畑智子が出演するという情報を得ていた、太宰治短編小説集「雪の夜の話」。蓋を開ければアニメーションであり、不意打ちを食らった形になった。表現方法が変化しても変わらず残っているものがあったので、なおさら、何故に品の良さを感じたのか悟った。今更、真似できない柔らかな言葉遣いに打ちひしがれるほどの希望。その差は天才との隔たり。自分の中に太宰の影響がないと思い知る。だが、影響はないが、そもそものところに親近感を覚えた。では、擦れさせ、感化させ、私淑させたのは誰か!?

企画モノばかりせっせと摂取していたので、純文学に飢えているのが皮膚表面にまで露呈しつつある。何より、再び「女生徒」が見たいという感情が熱烈に頭をもたげつつあるのだ。でも、純文学を読んだら読んだで、ヘビィだから、しばらく空けてしまうのだろう……。そうそう、べっ甲メガネっ娘の名前は「山下リオ」というらしい。最初、名前を見たとき、「山下トリオ」だと呼んでしまって、音楽系な珍しい名前だとまじまじと思っていた。

では、今夜は獅子座流星群のパフォーマンスを目の中に閉じ込めましょう、と、朝から雨が降りしきる天気に、諦め半分期待したけれど、夜になって吹き荒れる風に雲が割れ、「おっ、これはいけるかもしれない」と期待に胸を高鳴らせ、就寝際に窓を開けてみると典型的な曇り空で、うなだれた。まあ、今年はアメリカが絶景ポイントらしいので、日本はそもそもからして地理的に外れていたので、もしかしたらと望みをかけただけで、さほど残念ではない。

2009年11月16日(月)

べっ甲メガネ

太宰治短編小説集「女生徒」。「生まれて、すみません。」からの「生誕百年」を飾る好対照の凄みに驚嘆したけれど、特別、ドラマを見る気にはなれなくて、原作があるなら原作を読みたい衝動に駆られている昨今なので、なるたけ日本のドラマから逃げ回っているが近年の情勢。よって、そのまま、別番組を見ようと、何の気なしにザッピングしていたら、「なんて、美少女なんだ」と、そこに存在するべっ甲メガネっ娘の衝撃にハートを打ち抜かれた。

延々と続くモノローグの垢抜けない滑舌の甘さが、愛くるしい気持ちを大胆に刺激する。かつ『女生徒』自身が保持した、裏表の感情が、見事に画面に現れていて、驚喜。背後に流れるポジティブな太宰の存在が輝かしく、とても素直に人間が語られているのも良し。しかも、作品の普遍性を利用して、映像表現を加工するだけで見事に現代劇に落としこめた感性。何となれば、太宰治を映像にすると、どうしても時代が昭和初期になるので、それすら払拭した演出に感服した。

いやあ、久しぶりに品のあるドラマを見た、と胸に暖かな充足感が漂う。日本のドラマに限れば、近年、類を見ない傑作であったとも思うけれど、既に述べたように近年まともに見てませんので、あしからず。

2009年11月15日(日)

横になったら、しくしく

この3日、ストレスなのか、さもなくば体内時計が狂ったものか、はたまた牛乳か、布団に潜り込むような頃合を見計らって、お腹がしくしくと痛む。でも、トイレに向かっても何も起きないのは、この2日で骨身にしみて学習したことで、はてさて、どうしたものか。ちなみに、今日のところは、早朝まで自分以外がどたばたしたので、それどころではなかったけれど……。

2009年11月14日(土)

言葉三つ

ジェフリィ・ディーバ著『スリーピング・ドール』(文藝春秋)、スキ・キム著『通訳/インタープリター』(集英社)、リービ英雄著『越境の声』(岩波書店)を借りた。意図的に今年の裏テーマになっている「言葉」で集めてみた。一つひとつでは、重い腰が上がらないものの、これだけ揃うと、いっちょやってみるかと奮い立つ。

2009年11月13日(金)

「」の視点

amazon_img

人名にクオリアを伴う、この時期に読めたる僥倖。瀬名秀明著『おとぎの国の科学』読了。

いささかケチをつけるならば、ロボットとメタ認識で纏まりすぎた嫌いがある。限られたスペースでネタが被るとがっかりを繰り返す。掲載紙が変わるなりすれば、同じネタを各媒体で使いまわせるものの、いざ、それを一冊に纏めてしまうと、かような弊害も生まれよう。また時間軸が前後することにより、問題が提示され、解決され、また提示される遅々として進まないことへのストレスは甚だしい。よって、裏返せば、節操なく拡散した慌しいエッセィが好みらしい。

自分を排除した記述だと序文に綴られていたが、なるほど。では、この日記はどこに位置するだろう。いかにも唯物と唯心の狭間に宙ぶらりんとしている状態で、まるで核心に近寄れない。最初はネタバレはまずいよなと意識して避けていた時期もあったが、そのうちこの状態がデフォルトに移行し、すっかり居心地が良くなり踏ん反り返った。そうして、いつだってフレームを眺めていた気がする。ただ、これで読書感想を装う雑文を継続できているのだから、今後も、なんだって書ける気もする。控えめながら根強いモットー、「毎日は書かないこと」。

2009年11月12日(木)

諸行無常を響かせて

改編期ごとにちょくちょく放送枠を変えていた「アニ探」をラテ欄から見失っていて、地元局でも放送終わったのかと調べてみたところ、なんと番組自体終了していた。厳密には水谷優子が卒業して2が終わり、3が始まったみたい。振り返れば根拠なんてものはこれっぽっちもなかったのに、終焉とは対極に君臨する存在として永遠に続くもののような気がしていた。地元局に限っての終了の想定も不吉な予感からの逃避だったのだろう。19年の歳月に最後は泣いたらしい、ああ、最終回聴きたかった。柄にもなく「時間よ、巻き戻れ」と悔やんだ。大失態。

レアもレア

昨夜、アナウンスを耳にしたときからこの限りある時間を愉しみにしていたが、生天目仁美の妹キャラは、記憶にない。一瞬、時が止まるほどの巧さで場が静まり返ったように、一般人やアナウンサや俳優とは異なる声のプロとしての当たり前に備えている能力が顔を覗かせるとビックリする。それは、場としてのアウェイでは尚更で、腕がある。

そのあと、ナイナイのオールナイトを久しぶりに頭から拝聴すれば、岡村の肛門が爆発していて笑った。明後日には、正月恒例のボーリングの収録があるらしいので、ああ、あの頃は痔なのに大変だったなとのんびり、おコタでくつろぎながら思い出そう。

2009年11月11日(水)

探夢坦懐

1年に1回、夢を見るかどうか。だからこそ稀に見る夢が異様で、井伏鱒二の妹の名前(勝手に命名「夏」)がHIVの特効薬の鍵であることに閃きを得て、長い階段を駆け下り、駆け上り、自室へたどり着いたときには閃きを得たことだけ覚え内容を忘れていたところが夢にありがちな泡と消える失望感。見渡せば、渡り廊下で別館と繋がっており、階段を駆ける必要もなかったようだ。悄然として、会議室なり図書室なりに戻ると、アイディアの元となった本はなく、アイディアごと盗まれたらしいとわかりパニック……、といったナントモナントモな夢で御座いました。

野暮ったくも分析すれば、HIVの出自は直近の小説と見当が付き、研究室のようなところをうろついているのも次のエッセィと推量が成り立つ。では、井伏鱒二はどこから湧き出したものだろう。たしかに『山椒魚』を読みたいとは春ごろから密かに思いを募らせる。すわ、夢にまで見て、ついに潮時か! でも、これをお告げと微塵も思わないあたりが非常に現代的かも。

地産地消

ワイドショー系の番組を見ていて、「欧米型の殺人事件」と言われるのに引っかかった。一体どこまで他人に押し付けるつもりなのか。仮に何かしらに嵌め込むならば、日本や世界は関係なく、現代型の殺人事件ではないのか。それを臭いものには蓋の精神で、路頭のホームレスを無視するかのごとく「猟奇的な殺人は日本には存在しませんよ」といった精神がいただけず、面目なく、申し訳ない。昔は良かった……、と懐かしむ、その昔にあれだけの戦争を繰り広げた国の精神が野蛮な側面を一切持たないわけがないが、それすら蓋しているのだろう。

2009年11月10日(火)

真っ赤な虚構

amazon_img

ひょっとこがいるなら、恵比寿様よりおかめが似合うと思う……。また、たたら場に女性がいたら、神様に嫉妬されるのではないか……。と、こちらも妙なところを気に病むけれど、はたと赤朽葉の女性自身が女神様なのやもしれぬとエウレカ!

川上弘美のようなうそばなし、森見登見彦のようなすっとぼけ、打海文三のようなエログロに囲まれて立ち上がる雄編。桜庭一樹著『赤朽葉家の伝説』読了。映画なら「フォレスト・ガンプ」に当てはまる叙事。不明を恥じつつ告白すれば、すっとぼけたキャラクタには女性しか思い当たらず。ガンプの場合は病気だ。しかし、女三代の戦後を振り返り、それが正しく戦後なのは、戦争をしなかったからで、それは当たり前の論理なのに凄さを忘れがち。翻ってアメリカは、日本が戦後を過ごした期間、戦前と戦後を安らぎなく小刻みに繰り返した。現在もほぼ戦中である。したがって、戦うという野蛮な行為が介入してこない歴史には、フィクションでしか戦争ものは語れないかもしれないけれど意義深く、ときに国益として太平の世に文化は花開くが、「死」を強烈に意識し反発力を得なければ、ピークを越えたあと頽廃の一途で立ち上がるものも立ち上がらないジレンマを抱える。

この地方都市はいつも都会からすこし遅れて戦後の繁栄を追ってきたが、寂れていくものに限っては必ず、都会よりも地方に先に、やってくるのであった。

歴史は勝者の目線で語られる。敗者として再起動した戦後の日本史とは紛れもない東京史であった。TVを媒介に歴史を振り返ったとき、繰り返し流される映像の学生運動やバブルの高波すらもやってこなかった白々しさ。先日の幻に終わった東京オリンピック構想の盛り上がらずくすぶっている様も、とどのつまり、そういうことだった。ただし、若い世代はオリンピックが好きではないと一括りに言えば語弊が生じる。好きだけど、直接もリアルタイムでも、競技を見る必要を感じない環境のうちにメディアの発展とともに成長した。これがオリンピックを誘致しようと懸命になっていた世代との埋まらなかった隔絶の正体だろう。これの裏返しで犯罪に於いては実際には遠く僻地で起きた事件に対しても、過敏とも言える恐怖を身近に抱え慄然としている。一体、どこまで離れれば、安全だと思える距離になるのか。日本としては島国の利点を生かして、海外との線引きは明らかである。これが地続きの欧州の場合はどうなるか。たとえば隣国で起きた連続猟奇殺傷事件をどれだけの距離を保てば無視できるだろう。EUとして経済圏の融合が進む中、一昔前なら安全な距離とは母語とするTVの電波が届く距離だったのだが、昨今では、WEBが幅を利かせ、携帯で繋がる時代は情報に徹底的にストーキングされる。でも、ヨーロッパの各国よりも日本って実は国土は小さくないのである。

戦後から現代に近づいて、アーケード街が荒廃している理由が見えた。昔日の賑わいが去って陰りが見えていた中での子供時代を過ごした身には、商店街に立つ子供として目線しか持っていなかった。その中で、発見したる原因とは道路をやたらと拡張したことだ。それによって車道と歩道が整備されて車は通るようにはなったが、立ち退き金を得た家主は引っ越し、店が閉じれば、人は通わなくなり、そもそも車で乗りつけるなら郊外の大型店へと足も向いた。すると商店は次々にシャッタを下ろし、畢竟、街の濃度が拡散し薄くなった。これを体験した子供目線。大人から見ると団地から郊外の一軒家という物件がこの時代に登場している。こういう部分に「フォレスト・ガンプ」にはない国内の物語だという部分を身に引き比べられて感じられた。

そうえいば、これはミステリィだったよね……、と小首を傾げていたら、最後にそうした展開が待ち受ける。大したことないと視えていた物語の落ちも、すわ、その時が来れば感極まる展開で泣けた。常々明言しているミステリィ小説を読んでミステリィを忘れる人間が選ぶ見所は、輿入れのシーン。幽玄な趣きがある万葉の時代が素敵で、近代化と直面した時代の趨勢でそうした面妖なものが失われていくのが寂しかった。きっと今もエコという代名詞に任せて不可逆的に色々なものが失われている。

奇妙な方言が目についた。地方の言葉というよりお屋敷の言葉が特別なのかもしれない。それしては、各地からのミックスが目につく。恐らく、本気で書いたら、誰も読めやしないのだ。もっとも、読めないにしても、もう少し乱暴に書いても良さげではある。それぐらいは許容範囲だろう。

ご丁寧に参考サイトまで書き込まれているのが律儀だけど、そういう時代なのかと本編が時代を扱った物語だけに、胸にしみた。

麗しのイエローキャブ

「ハリーとトント」。再度、見ても車がいい。特別、格好良さや洒脱なものはないし、むしろ格好悪くないかという野暮ったさすら備えているようなのに、どこか素敵で、それは全体的であり、小道具としてでもなくあちこちで揃っているところが、いわば再現の難しい一風景としての時代性の強み。下手したら、建物は変化しないのに、車だけ入れ替わっている。

悪貨は良貨を駆逐する。格好よくないどころか、ダサい車が、安全性と価格面での後押しを受けて平気な顔して売れてしまった過去。しかし、借金してまで格好悪い車を買うだろうか? というミスマッチの訪れが現代の悩みだと思う。

2009年11月9日(月)

20年目の真実

壁が崩れて20年が経過した。20年前は意味もわからなかったが、20年後も意味がわからない。家族の誕生日が近いので、その日は、何をしていたのか思い出そうと試みても、記憶にない。自分のですら覚束ないのに他人のなぞ思い出せるものか。だとすれば、壁の崩壊はわからないなりに覚えているのだから――もちろん当日の記憶かどうかは甚だ疑わしく、その後、何度も流れた映像の可能性がかなり高いものの――それなりに異彩を放つ人生の特異点。

今年の取材で興味深かったのは、東から西に社会が傾いたの同時に、東の悩みを捨て新たに西の悩みを授かったことだ。どちらにしろ完璧な社会ではない。西が否定した東への郷愁と募らせる20年後の人々の存在は、さすがに浮かれた様子もなく目新しかった20年目の粛々とした真実。

2009年11月8日(日)

伝わらない興奮

結果、投了してしまったが、9段相手にはなかなか勝てるものではなかろう、とチャレンジ精神と時間に追われる中であわよくばという気持ちが混交しながらの観戦。左右同型に梅沢由香里の一歩も引かない反発精神溢れる盤上、下手打てば即やられる緊迫感が一興だった。こうしてNHK杯を愉しめるのもこの人あってのことなので、闘う勇姿が見られるのは嬉しいかぎり。ただ、その興奮も伝わってないだろうなあと言えるのは、家族の反応を見ても知れたこと。

辞書インフル

鼻水は止まらないし、咳は出る。昨夜もまったく同じ症状が出て閉口したが、どうも辞書が原因だったみたい。今年の夏ごろから、前小口のほうから手垢にまみれ、油染みてきた辞書が、ぴたりとくっつくなどしていたけれど、どうもその先の段階に進み、異臭を放ったらしい。辞書と言うものの性格上、眼前でぺらぺらと捲るので、微風も呼吸器に直撃する次第。とにかく、濡れティッシュで油を拭い、もしくは紙ごと溶かし、ファブリーズのような殺菌&消臭スプレィを噴射しておいた。もしかして本って手入れする必要があるの? 虫干しするのは知っているが手入れは耳にしたことがない。装丁がぼろぼろになれば、都度テープで補修はしていたけれど……。まあ、8年間毎日のように読み続ければ、そういった未聞の症状も出てくるものか。まちがいなく繰り返し、一番読んでいる本だろう。

ちなみに、人生の終末に近づくと絵本を超えて最後の読み物は辞書にたどり着くものらしい。

2009年11月7日(土)

遅れてきた青年

一夜明けて、すごく寂しくて、これはショックなのだろう。布団の上で、紛れもなく未完の喪失感が躰を包んだ。

昨日の今日という書き出しが続く。24時間内の接触に縋りつくように運命めいたものを感じてしまうヒトの弱さ。「24」の7作目の放送開始。7作目ともなれば、そろそろ卒業してもいいのではないか、と。さらに日本シリーズの影響で放送時間に遅れが生じたのが追い打ちとなり、どうしようかと悩むが、やはり見れば強い。のっけから魅了する。軍閥、つまり地方ゲリラがクーデタを起こして、子供を拉致し、少年兵に教育しようとするが、そこにはあの男がいた。一方、クーデターを察知したアメリカは武力介入を検討。ただ無闇矢鱈な空爆からは熾烈な内乱が起こると予想され、直前に迫った次期大統領就任までは動かない方針を固める、といかにも応化戦争記を彷彿とさせる戦争の典型が画面に大写しされた。また、そうしたものが、アメリカ国内からの問題して上がるところが意義深く、どうも第7作からも目が離せないようだ。

そういえば、小五郎のおじさんのひょうきんぶりが、予想より上手く合っていた。これなら大丈夫そう。でも番組は最後まで見なかった。

しのびがたきをしのぶ

謝罪の手紙。相変わらず、壱か零の二進数を生きているのだな、といった印象しか受けない。けれど、メディアは謝罪に気をとられている様子。何故、これほど虫唾が走るのか、馬鹿と言うより馬鹿がつくほど正直なのか。

殺人よりもバラバラにするほうが悪のような扱い。バラバラは異常性は高いけれど、人殺しのほうが極悪だろう。

「貧困」と「寂しさ」、どちらが我慢しやすいですか? どちらかというか、二者ではなく三者の「我慢」を我慢しなければいけない事態が嫌い。

2009年11月6日(金)

世界のパッチワーク

amazon_img

海人も椿子も生きているのに先に逝くな! 打海文三著『覇者と覇者』読了。

全身の血が熱くたぎる様が『ハリー・ポッター』と似通い、あちこちで充血する。もちろん、躰を焦がし、内蔵をぶち撒けたりはしないものの、名前のある登場人物が次々と斃れる戦争の舞台構造も重なり、前にも書いたが、魔法の杖はAKとなり得る。また、どこを読んでも途中なのが、共通点。したがって、どこまで読んでも飽き足りることがないのが特徴で一度鷲掴みにした読者を手放さない。ところが、没頭している中でも、ふと我に返る瞬間があって、たとえば、「対戦車ミサイル、70ミリロケット弾、20ミリ機関砲弾が、敵の軍用車両に襲い掛かった」と、これだけで、砲口が火を噴き、ミサイルの尻が点火されて市街を直飛する。「あれ? ひょっとしたら、カットとカットの間を排除して、どちらももの凄く漫画的な補正が脳内で掛けられているかもしれず、他人によってはまるで可視できないのかも」といやに冷静になった。だからこそ、自然と助けようとして辞書より図鑑を求め、文章より写真を探すのだろう。もっと言えば、「原作者だからオリジナルを書いていると思うなよ」と訳のわからない思考にとり憑かれることもあって、ここに文章を綴っていても思うのだが、原作者よりは翻訳者だろうと特に私の場合は日本語下手なので、なおさらそう思っている。とどのつまり、抽象のまま嚥下するのを不得手とする。そういえば、子供のころは錠剤を飲み下すのに苦戦していた。

では、なりそめから綴ってみようか。とにかく、TVで見た『愚者と愚者』の表紙に一目惚れして、青空、廃墟、少年少女、トマト、AK、の配合に快感を得た――ああ、AKの存在はこのシリーズでものにしたかな。その頃は、まだ作者は存命中、しばらしくが経ち『裸者と裸者』を読むのだが、その頃には亡くなっていたみたい。だから、返却するときに知った。妙なもので、人間、他界していても、これから誰かが知ろうとするぶん、生き長らえる。それは、エルビスもジョンも今年からはマイケルもそうなのだろう。

ある程度、知恵がつくと一つ一つの出来事に対して現実の出来事が重なり、それだけリアリティのある小説だと証明した。無政府状態で海賊が蔓延、デリケートな農作物より手間が掛からず外貨を稼げる大麻を栽培、民族紛争が続き収束の気配もなく混沌としたままだとか、内乱初期、内乱中期、内乱後期の対岸の火事には振り向きもせず平和を謳歌する国々、身代金や人材を標的に誘拐事件の多発するなど治安の悪い国、将棋的に投降し捕虜になり雇用され渡り歩く兵士、殺される一般人、色々なレベルが同時に地球上に存在している。たとえば、50セントという歌手がアメリカにいるが、彼の母親は彼を15歳のときに生み、ドラッグを売買してお金を稼ぎ育て、母親が何者かに殺害された後は、自身でも麻薬を売買して稼ぎを得たと言う逸話があるけれど、それがフィクションではなく超大国アメリカの数年前の現実なのである。一体、何がどうなっているのか混乱する。

「歓喜、慙愧、紙吹雪」は上巻のサブタイトルなので、下巻のサブタイトルは、何だったのだろう。それが知ることができれば、ある程度また正確に予想のヒントになり得る。また、タイトルとは異なり、書き上げた後に副題は名付けたものかと製作過程の一端を断片からうかがい知れる。作家によれば、1日のノルマを決めていて、調子の波とは無関係に文字数が達すれば話が途中でも終えてしまう書き方もある。新聞小説にも思うことだが、全体を書き直したくならないものだろうか。この日記の書き方にしても行ったり来たり、と散逸的にしっちゃかめっちゃかなので取って出しのような生々しい状態に一番驚く。それにしても、一息入れたところで、終わっちゃったのかな……。

エピローグ――つまるところの戦後処理――を読みたいとは小説を読めば常々考えるのだが、本書は未完なので空想甲斐がある。絶えず不安に陥れたのは、明治の夜明けを前に散った坂本竜馬の再現となるのではないかという懸念。しかし、西日本を舞台とした応化外伝とか、そんなものないのかもしれないけれど色々読みたかった。生きていれば、どんな展開でもありえる。その機会を世界から喪ったことは心から惜しまれ、未完ゆえに語り続けられる。こういうときにこそ、同人誌の出番だろうか? それでも、朧げながら、ある程度の道筋は見えているので、様々に分岐する世界は私のなかで楽観的に想像解釈可能。唯一、椿子だけが至極難問で、朧げにも未来が見えない。このままパンプキン・ガールズのボスとして君臨し続けるのが、一番、想像に難くないラインではあるが、想像できなかった。さもなくば、どういう事態が待ち受けているのかと言えば、こいつも戦争以外では生きられない危なっかしい存在の気がしてならない。でも、女の子は男の子より断然逞しいので、想像を遥かに越えた活躍を見せてくれるのだろう。

2009年11月5日(木)

MVP

ヤンキースの制覇で今シーズンの大リーグの全日程も終了。松井秀喜が打ってくれるとその日は幸福感に浸れるので、歓喜とともに記憶に刻まれたWSであった。おかげでスポーツニュースを見る機会があるごとに立ち寄り梯子した。

第1打席、第2戦にカーブをスタンドまで叩き込まれたショックを引きずったままのマルチネスとの対決は、酷なことに結果(2階席へのHR)の前から勝負が決まっていたようなもので、すべての攻防、すべての駆け引きの一球一球に魂がこもり見応えがあった。MVPも獲得して来年がどうあれ、ついに松井が大リーグで登り詰めた感がある。

では、今シーズンの中継全体を振り返ってみると、NHKのアナウンサの野球オヤジ化が鬱陶しい。解説者がアナウンサのエゴをなだめるというけしからん事態がたびたび目撃されたが、ポストシーズンも例外ではなく、脚の状態が芳しくなくDHに甘んじている松井に対して、自分が見たいがために「守備につかせろ」といったあからさまに繰り返される身勝手なエゴには閉口した。

ところかわって、日本シリーズは状況はどうかとチャンネルを変えたら、速球がべらぼうに速くてびっくり。スピード計を見ると140キロ台なので、それほど速球が唸っているるわけでもない。よく見ると大リーグ中継と比べカメラ位置が近い。なるほど、視野は犠牲にしたが、肉薄している関係で臨場感を得ているのか。それは理解したが、ポジションの問題はどうあれ、色味が冴えず発色にも劣るのは致命的だろう。野球云々の勝負より、TV中継で負けている。視聴者の印象も色褪せる。とにかく、いち早く負の遺産である室内競技から屋外競技へと脱却して欲しいものだ。ナイター照明を浴びて艶やかに光る緑鮮やかな天然芝のグラウンドで屋根がない球場が最高だ。

しかし、これで来シーズンまで朝の暇潰しもオフ入り。ワイドショーより格好よく無害で耳障りではないから、適当にBGとしてTVを点けておくのであれば、もってこいなのに……。例年、どう過ごしていたっけ?

2009年11月4日(水)

哀れな千羽に魂の救済を

優しいので見逃してやりました。家の中で……。

天井近くに張り付く恐怖のアクマを仕留め切れなかった負け惜しみはさておき、この頃、出会うもの、遭遇するもの、が大物ばかり。小物しか見なかった数年を経て、すべてが大きく成長したのだろうか? それにしては成長スピードが合わないので、事態の説明は付かず解せない。今年、専用のおクスリを新調したが、その抜群の効果で弱者をことごとく消し去り、強者しか生き残れない戦乱の夜の幕が明けた可能性が高い。でも、最後の始末をヒトに委ねるところは、詰めが甘い。

2009年11月3日(火)

不思議

最高文字数更新のおまけ付きで10月分の更新完了。前の月の反動があったのか、反動すらなかったのかは不明。改編期の影響かしらんと一応の理由は挙げられるけれど、そこまで気張っていたわけでもなく、わりとだらしなく、むしろ目の前の本に夢中だったような気がしないでもなく、だからこそ何故とばかりに不思議な感じで、この分だと自分の意思に関わらず、まだ天井を叩いていないのだろうなあ。

Firefoxをバージョンアップさせた。これで、ときおり終了後にクラッシュするという無意味で不安定な事態から解放されると嬉しい。

2009年11月2日(月)

繊細な道

amazon_img

ガラスを隔て、眼球に飛び込む秋空のフラッシュに立ちすくむ。人差し指を両耳に突っ込み、目をぎゅっとつむって衝撃に備えた。予測より若干遅れて遠雷の轟きと地響きが伝わり、強張りから躰が開放される。突然、昼間に曇天の霹靂を目撃したので、あたふたしてしまった。天候も優れず、昨日よりますます冬が近づき、比例して活動力の低下が著しい。あたかも爬虫類のような生活ぶりで、ぬくぬくと冬眠できる熊や蛙が羨ましい。

上遠野浩平著『ブギーポップは笑わない』読了。人があっさり死んでいくのは、「好み」と相変わらずマッドな性格をさらす一方で、マンティコアの登場しない話が青春していて、いい感じ。しかし、色々とイベントが生じるわりに起伏がなく、感受性への刺激に乏しい。それもそのはず、この本は「共感型」の作品で、一方的に若い。どれぐらい若いかと自分を物差しに振り返ってみると、高校生にも若くて、中学生の一時期の精神なら呼応するものかもしれず、あるいは中学生でも反応をもたらさなかったかもしれない。本当に儚い刹那の激情が一冊に限りなく閉じ込められている。だとすれば、そもそも間に合わなかったのだとも断言できるし、この道は通らなかったとも言い切れるので、反応の薄さもごもっとも。でも、『ハリー・ポッター』が児童文学に押し込められず世界中の大人を魅了する守備範囲を披露している中で、ライトノベルはデリケートなまでに限定的で、息苦しい。

タイトルが抜群。でも、タイトルから想像した内容とは展開が違ったのが、ひょっとしたら何よりも盛り足りなさの正体かも。その内容とは、偽者でもブギーポップに笑って欲しかった。ともあれ、影響の原点を知りたかったので、その点も加算されて悔いはなし。

2009年11月1日(日)

11月1日における11月下旬の天気模様

上遠野浩平著『ブギーポップは笑わない』(電撃文庫)、打海文三著『覇者と覇者』(角川書店)、桜庭一樹著『赤朽葉家の伝説』(東京創元社)、瀬名秀明著『おとぎの国の科学』(晶文社)を借りた。

『ブギーポップ』のタイトルだけは先行して知り得ていたが、電撃文庫であったか。道理で視界を横切らなかったわけである。

それにしても寒い。今日から11月に入ったばかりなのに、もう11月も下旬の気温になっている。うちに帰ってからも躰が芯まで冷え切って「風邪を引くのではないか、インフル?」としばらく布団包まって寒さと不安に慄然としていた。しかし、TVで全国の天気模様を目にすれば、雪が降り積もり、見るからに寒々しい地域もあるので、11月の下旬が雪が降らない地域で助かった、と心から安堵とした。

TOP50の難易度

「TOP50を聞いてみたいな。TOP3なんてつまらないから」

これは「ジブリ汗まみれ」から鈴木プロデューサの何気ない発言で、好きな映画TOP50とは、TOP3はもとよりTOP10より難しいかも。ぼんやりと年末(もしくは年始)の恒例行事に思いを馳せると、好きな本の候補を挙げていくなかで斬り捨てるのに申し訳なさを感じつつ選考に四苦八苦しているのが現状。それならば、一つだけに限定して挙げるほうが優しい。加えて、一つだけなら、なにやら厳選したようなよろしげなイメージさえ付属する。そもそも、それだけ好きな映画を挙げられるかと焦った。ましてや、書籍では無理なのではないかと絶望した。とにかく、挙げてみるだけ挙げてみようと、つらつら並べてみたところ、ほとんどが戦争映画! しかも、近年見て、印象に残っているものしか思い出せないときた。もっとあるはずなのにこんなものなのか、記憶力! 膨大な経験をどこかに置き忘れている。脳内レファレンスコーナが貧弱で思い出すにも緻密な糸口が必要だ。さらに、日本映画が一つも見当たらないのも問題があろう。こちらは同様に忘れているものと希望的観測を信じたい。

とはいえ、TOP50か。一考の余地があるかもしれないが、これがTOP100、あるいはTOP1000と間口を広げたとき、難易度の桁も劇的に増幅する。一体、いくつ好きでもない映画に出会わなければいけないのだろうと、ぞっとした。

ちなみに、TOP50をリストアップを試みたときに、「セブン」が第一に浮上してくるあたりが徹頭徹尾さもありなん。


Home | Diary | Book | RSS | Mail | Prev

Copyright © 2001-2009 Hide. All rights reserved.

↑ Index