ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

Home | Diary | Book | RSS | Mail | Prev | Next

# Diary

2009年10月31日(土)

現代物理学者として一生を過ごした人物が最後に自身の癌と向き合うドキュメンタリィ番組を見ていた。たしかに思い残すことはあるかもしれない。家族への思いもあるし、特にこの方の場合は仕事の面でも構想から携わった念願のプロジェクトが間近まで迫っていた。ただ、病気が進行して、死を意識していく中で、「無になってしまうことへの恐れ」が表面化してきた。これが、人としてまずいことに共感できない。まだ死を意識しない余裕からか、それとも、無宗教を表明しながらも、死んで無になることに抵抗がなく、むしろ当然だと受け止めている節があって、不信心ながら、一周巡って仏教の境地に戻り、図らずも受け入れているせいか。

いや、それよりもっと……

「目がテン」で夜型だ、朝型だ、とした実験をしていたけれど、いや、それより指摘せざるを得ないもっとおかしなことがあった。夜型とされる被験者が全員寝過ぎだ。軽く10時間は睡眠をとっていて、型云々を除外しておかしい。たとえば、私も夜型なのだが、だいたい6時間睡眠で、起床時間のずれは最小に、就寝時間は奔放で、夜更かしすれば、その分だけ、睡眠時間が削られる。むしろ早く寝付くことができない。故に、寝過ぎの被験者が夜型の典型として遇されても閉口する。

声の記憶

神谷明が降板して誰が、後釜に付くのかと興味は尽きなかったが、小山力也か。また身近なところからの抜擢。だが、ジャック・バウアーが脳裏に浮かぶように声が硬い。初回だからと言う条件を抜きにしても、硬派になってしまった。その記念すべき一回目は当番回。シリアスな毛利小五郎が大活躍。しかし、格好いい声は案外誰にも出しやすいものかもしれない。むしろ、毛利小五郎というキャラクタの難しさや真骨頂にして最大の魅力とは「眠りの小五郎」より「小五郎のおじさん」、そして「お父さん」としてのひょうきんさにある。それは当番回ではお目見えせず、次回に持ち越しとなった。しかし、神谷明のシリアスな声の内に含まれた明るさや柔らかさを皮肉にも明確にした回でもあった。

地味に戻ってきている「ドラゴンボール」の「改」で、仕方のない声優の変更があった。けれど、10年の月日が経過しても、声が違うとわかり失望を繰り返す。面白いのは、キャラクタの見た目は一切の変更がないにもかかわらずという点においてである。

言えばよかったのに

amazon_img

フアン・ゴンザレス著『フォールアウト』読了。本の中に、同時テロのモノクロ写真がところどころに収められていたが、「まずいなあ」と直感的に裁量された。何となれば、一目でたちまち同時テロが世界史の教科書に掲載されるような歴史の一部に追いやられてしまったのである。望遠鏡で逆から覗いたかのごとく電光石火で惨劇が遠退いた。まだカラーであれば、そうした感じは避けられたかもしれないが。でも、あの日の穏やかではない胸の動悸だけはまだまだ現役で生々しく息づき、今日のこの日も心臓は呼応する。

8年が経過して、ようやく、こうした本と面と向かって読むこととなった。テロからしばらくはアメリカが圧倒的な世論を背景に一致団結して対テロへと世界を抱き込みつつ驀進する中で、地元新聞記者である著者による環境への懸念を表明したコラムが救助活動開始直後から迅速に始まり、2002年4月に大方、この本の形でまとめられているから、随分早くから、こうした批判もあったのかと今にして思う――もっとも、著者の反ジュリアーニという立場が見え隠れはする様は鼻につく。日本でも2003年に翻訳されていたにも関わらず皆目知らずにいた。しかも、私が知らないどころか、誰もが手に取れるよう解放されているにも関わらず、誰一人として読むことがなかったらしい。これは裏返せば、言論の封殺が機能していたことを如実に表す。ただし、そういう条件内で初めてを背表紙の硬さとともに経験していくのは悪い気はしない。けれども、日本語訳にするのであれば、EPAとかの組織の頭字語表記が厄介で、馴染みのない形に省略するよりは、意義が一目瞭然な日本語表記が功を奏したのではあるまいか。しかし、アメリカは同時テロに関しては被害者なのだから、その立場で情報開示していれば、あとあとで数十年も問題になることもなかったろうに、一言「言えばよかったのに」と重ね重ね悔やまれる。日本の原発でも無駄に故障を隠すことがあるが、そもそも壊れるものが壊れるべくして壊れたのだから、それは仕方あるまい。と開き直れる人は少数のようだ。

有毒ガスの煙に巻かれる。我が家でもモニタから異臭騒ぎあって喉と肺をやられたが、あれの比ではない。有毒物質のスープか……。あれだけの破壊と倒壊の衝撃と圧力による煙と埃の微細な粉塵に巻き込まれた人々の映像を見ていても盲点だった。加えて有毒物質のほどんどに安全基準が設けられていおらず、計りようもなかったという事実。事実の中の虚偽と真実と告げなかったこと。そういえば、マイケル・ムーアの映画「シッコ」で救助活動に取り組んだボランティアら病に倒れた映像があった気がする……、と曖昧で朧げなのは残念ながら未視聴のことゆえ。同時に埃と目に見えない有毒物質への懸念から、もしもの際は他人事ではないという視点が養われた一冊。

2009年10月30日(金)

目の保養

「熱中夜話」で海外一人旅。昨日の今日だから、余韻も充分残っていて、バンコク市街の風景が、普段なら、目にも留めず流していたのかもしれないのに、胸にしみた。あと、一人旅が趣味の一般の出演者たち、皆が皆、明るいのが好印象だった。何となれば、バックパッカになる人たちは、明るいのか暗いのか、どこか斜に構え、社会に不適合な悩みを抱えている人たちのイメージがあるので、それが笑顔に払拭された。もちろん、海外一人旅=バックパッカではないことは熟慮せずとも明白なことだった。ただ一人、ゲストの有吉だけは仕事で無理矢理にヒッチハイクで横断させられているので、態度が異なるのもしかるべしかな。

2009年10月29日(木)

唖然

話には聞いたことはあるが、まさかゴキブリを素手で捕まえて地に投げつける人が身近にいるとは……。本人に事情を聞くと、すべては咄嗟のリアクションに任せた行動であり、自分でも果敢な行動の直後ビックリしたらしくて、吹き出したとか……。たしかに、くすくすと笑い声は聞こえていたが、まさか、そうした野蛮な後の祭りの笑いだったとは……。

惹き込まれた

リンゴの実が枝から落ちるように、SとNが永遠と引かれあうように、これといって見るつもりもないところから、スピルバーグの自作を語るインタビューに惹き込まれた。何となれば、番組をBGとして視界に入れていただけなのに、存外に面白く、気が付けば最後は正面から付き合っていた次第。意外だったのは、特定の輝かしいヒット作のイメージばかりが独走すると寡作のイメージすらあるけれど、数年置きに仕事はこなしており、多作であったことに加え、近年のものこそ見てはいなかったが、それらをあらかた目にしていたことだ。その数々の作品を並べて見ていると、そこから共通点としての作家性なるものも見て取れる。また、みずからも懇切に説明してくれたので非常に値打ちのある番組になった。そして、真価は「戦争」「異文化コミュニケーション」を舞台に発揮される。ところで、「未知との遭遇」でのコミュニケーションは「マクロス」シリーズに通じるものがあると思えたことが、何を今更と、新鮮な発見であった。

また、ここ一番で映画の一場面が差し込まれるが、これが見事に映画だった。瞬間的にでも画面の華々しさが映画以上でも以下でもなく、TVドラマではないバランスの取れた美しさを限りなく放つ。画面サイズだけが拡大されてスクリーンに映し出されたタイプが氾濫している世で、映画界の巨匠が生み出すものはものの数秒であっても魅せる映画なのだと畏敬とともに感じ入った贅沢な瞬間だった。

メディアとしての旅

amazon_img

沢木耕太郎著『深夜特急 第一便』読了。読書中から、心配になったのは、これに触発された信者が、香港の「黄金宮殿」やペナンの「道楽旅社」などを目標に大量に押し寄せなかったかということ。

本書は80年代のベストセラーを飾る一冊。90年代は猿岩石に代表される「電波少年」、ゼロ年代は時差こそあれ「水曜どうでしょう」がそのポジションについていたと思う。これの前となると、開高健や小田実、はたまた伊丹十三のエッセィになるのかな。歴史をたどれば、マルコ・ポーロにさえ繋がりそうなジャンル。ともあれ、形態こそ変われど現在も、旅の魅力は確かにあって、その波乱万丈なる楽しさはお茶の間にも届く。ところが、届きはすれど、視聴者で済ませて自分が旅人となって世界を放浪する人は圧倒的に減ったかもしれない。出版からこれだけの時間が経過しても、一番手軽に接触でき追体験可能なメディアとは本であり、TVの場合には、ちょっと振り返ってみようとしても手間取る。またTVでも、「世界ウルルン滞在記」や「世界 ふしぎ発見!」のような世界を舞台にした番組もあるにはあるけれど、あれらはどちらかといえば観光の範疇であり、旅ではない。旅と観光で決定的に隔てているものとして、冒険と紙一重の旅はトラブルがつきもので、メインは移動なのである。醍醐味は国境をまたぐ昂揚感。したがって、「水曜どうでしょう」は、ひたすら車中で駄弁りが続くが、あれはあれでもっともな時間を浪費する術だった。何より目的もあるようないようないい加減さでうだうだしながら満喫していた様子が微笑ましい。

ひょっとしたら、魚を生で喰らう日本食の方がゲテの極みかもしれない。だとすれば、火の通った万国料理など恐るるに足らず。

さて、デリーからロンドンまでの道中で、私が楽しみにしているのは、中東的な異国情緒であった。したがって、冒頭インドからの回想で香港を満喫し、マカオで博打に燃えているのは、「違わないか」と首を捻ったりもするのだが、他方、香港の子供たちとのやり取りで、「もう、この旅は充分すぎるではないか」と充足感も味わえた。だが、それではスタートすら切れていないことになる。いや、むしろ、問題と言えば、一途にそれだけの問題であって、最高の瞬間の訪れがスタート前とは神様のいたずらは悲劇的である。しかし、「大小」で片鱗を覗かせた利発さは頭がいいなあと敬服せしめる。あの見極めは、心底、賭博に没頭し、のめり込んでいる人たちには逆立ちしてもできない芸当だった。ただ、その冷徹さは非日常のカジノから外へ出るには役立ったが、反面、日常から外へ、ひいては傍観者として日本脱出へと導いてしまった。

これにて、第一便は幕を閉じる。第二便以降を書架で見かけたかどうか記憶にない。ただ、あれば読むが、なければ、書庫から引っ張り出すほどのこともなく、沢木耕太郎の名前は他にも見かけたので、それを手に取るのもいいかなと静かに思いを募らせている。

2009年10月28日(水)

ホークラックス

「ハリポタ中毒」もしくは「ハリポタ後遺症」なるものがあるとして、仮に患っているとすれば、今なのだろう。心と躰が分離し漫然と過ごしている。しかるに、それも読みながらにして症状が現れていたようだ。

2009年10月27日(火)

地球規模の宿命

『ハリー・ポッター』は御存知のとおり英国のみならずグローバルに売れてしまったので、衆目をひき寄せ、ひいては賛否を招く。これはファンしか買わない本には見られない宿命の類であり、アマゾンでも評がばらけていたが、私はわざわざ感想を読むなら、同調より異論――感じ方の違い――を読むことに興味を覚えるので、一つ星しか得られていないものを試しに読んでみたところ、「お前はヴォルデモードか!」と、まるで通じていない、あたかも36章のやりとりの再現のような代物が面白かった。まさしくヴォルデモートが読めば星一つの作品にちがいない。

これら代表される意見の相違の何に惹かれているのかといえば、読解力としての階層の違いである。私から見ても、明らかに読めていないのだ。答えは書かれていて、私には読めているのに(仮に彼として)彼には読み落としているものがある。加えて、それはそのまま、みずからにも降りかかり、私には見えず、他人に見えていることがフラクタルのごとく幾千幾万と存在するのだろうとまでは推量できる。これこそが数十年が経過して、大人になって再び手にしたとき物語の印象が変わったとなる要因。その錯覚の仕方はなんなのだろうと首を傾げてみたが、おそらく、登場人物への感情移入の度合い。そして私がより読者であり、さりとて、どこまでも読者なのである。ともあれ、どう読んで、どう錯覚するのも良し、誤りも誤りではないので、矯正する必要性もない。とはいえ、疑問を残して幕を引いていることは唯一もったいないと判断する。私はそのような半端はできない手に負えない性格をしているので、たとえ間違っていたとしても自分だけは言い含められる答えが出るまでは考え、捻り、歪め、理論武装を図る。

ところで、本文中にはついぞ発見できなかった名前をネットで目にして、ローリングとファンとの間で発売直後にやりとりされたチャットの存在を知り、将来の一端を知った。だが、それは一端でしかないと頑固親父を発揮。実際、書き出せば変わるものだ。しかし、ハッフルパフ寮の内装などの世界観の情報は破顔するほど嬉しいものであった。

2009年10月26日(月)

よみがえり

Fx3.5インストール以降使用してきたFeed Sidebarを仕舞い込み、Sage-Tooを導入し、Sageを復活させた。以下、釈明。

ライブブックマークは起動と共に自動で読み込んでくれるので、左団扇だったかもしれない。けれど、基本1日1回のチェックで済ます私のような速報を必要としないタイプには性に合わず、かつ起動時の騒々しさを最後まで好きになれなかった。まあ、ライブブックマークなるものの機能こそ知ってはいたが、日常的に使用したことがなかったので、生活に沿って躰で把握できただけでも収穫である。そして絶対に悪いものでもなかった。頻繁に更新を把握したい向きなら使い勝手もあるだろうし、不定期更新をチェックするのであれば乗り換えた今もベターなアイテムだと思っている。繰り返すが、性に合わなかった。また、Sageであればマウスジェスチャで開ける。これは、あちらでも実現できたやもしれないが、手段を講ぜられなかった敗北の歴史は唯一の心残り。

三位一体

amazon_img

J.K.ローリング著『ハリー・ポッターと死の秘宝』読了。毎巻、というか毎年、賑やかで一悶着も二悶着もあるダーズリー家からの門出から始まるが、今年はいきなり「そんな――うそだー!」と悲しい叫びから火蓋が切って落とされたように、一貫して容赦なく辛辣である。

しかし、読むだけのささやかな身からすれば、相変わらず躰が火照り、爛れる。嘘偽りなく、どこかで停止を決心せねば、四六時中絶え間なく読み通せられるので、幾度も反響する音を伴わない言葉に内圧は高まり躰が中から弾けそうだ。終いには出口を求めた消費できないありあまるエネルギィが目からビームとして発射しそうな勢い。それだけ夢中になって貪るように耽溺した――通常、欠点でしかない遅読も、こういうときに限って利点だなと思う。発刊作用は尋常でなく、なるほど、脳がカロリィを消費するってのは本当ことだと身にしみつつ、こういった躰に悪い読書は漫画にしか許容していないので、小説では珍しいというか、正確には自在にできやしないのだ。ゆえに、どうやれば、そうした風に読ませられるものかと読ませる技術に関心が自然と向く。たとえば、イルカショーでイルカが誘導員の指図に合わせてジャンプして見せる姿に感動するのではなく、どうやれば息を合わせるまで調教できるのかという部分にこそ惹かれるのである。なんとなれば、イルカのジャンプは元々イルカに備わっている能力であり、人間が歩く跳ねると同様に驚くべくに値することではないから。察するに、人間よりはイルカ側の理解力が寄与する部分が大勢を占める。すると、こちらも実は作者ではなく、読者側に寄与した問題だろうか。あと、メディアを問わず好きな作品の共通点に場面転換が桁外れに早い作品が多い。より深く掘り下げられるシチュエーションも、役目を果たせば、瞬く間に移動する。したがって、ある種の空腹感が常に付き纏うのだ。

「もちろん、きみの頭の中で起こっていることじゃよ、ハリー。しかし、だからと言って、それが現実ではないと言えるじゃろうか?」

うむ、なにやらメタ的だ。私は、『不死鳥の騎士団』の頃から一貫して、ダンブルドア派と自認しつつ物語に目を通したので、青臭かったり、短慮だったり、融通が利かなかったりする行動が時折、鼻についた。それもこれも登場人物ではなく読者であったからこその感慨だろう。ちなみに「登場人物」「読者」の他に「作者」がいて、これは「神の視点」と呼ばれたりするものだが、思えば、この「神の視点」を常に意識して小説全般に目を通していた。だとしても、上記のように爛れるほど熱くなっているのは、登場人物の視点になっていたからに違いなく、まさか、ダンブルドアへの信頼が揺らぐ場面があろうとはなおさら疑いもせず、揺らいでもなお信を置けるかが、今後の所属を自認できるかの瀬戸際だと察知したが、皮肉にもこれこそ読者でいながら神にもなれず仮にも客観的と錯覚し得ない証でもある。

さて、本書である7巻にまつわるエピソードで、第一に書かれていたことは周知の事実。であるならば、どこから物語を始めたものかと、やはり考えてしまう――何となれば、考えること自体がとっておきの愉悦であるから。ホークラックスの件は用意されているとしても、ひょっとして最高学年でホグワーツに転入して行動開始するのか知らん……。何を捨てたくないかと検討した場合、ダーズリー家での見るも無残な不遇とダイアゴン横丁へ初めて足を踏み入れたときの感動、ホグワーツ特急での出会い、そしてホグワーツがハリーの家になる経緯は外せない。ちなみに、私が思うシリーズ最高の魔法とは、前にも書いたが、肖像画が喋り、写真が動いたことだ。これが一番鮮烈で更新できなかった。『ハリー・ポッター』の世界の象徴だと思うし、一方でSF的でもあるが、古色蒼然とした舞台には電子ではなく油が相応しい。キャラはルーナの雰囲気やしもべ妖精のリアクションがとびきりのユーモアがあって、好きだった。佳境に迫るだけ暗雲が漂い、深刻になるが、魔法界自体がユーモアの権化であり、頑なにユーモアを忘れない世界観が素敵。振り返れば、『賢者の石』以来、絶えずハリーの未来に思いを馳せ、意識してきた。そして、なるほど、これ以上のものはない形を得て、見事に終わった。

今後、数世紀残るであろう児童文学の傑作を過去の遺物ではなく現代の小説として読めたことの幸福感は替えがたい。ときおり、子供向けの文字から脱皮してもいいのにとも思ったけれど。そして、数世紀読み継がれるのであれば、これからラドクリフ君以外が主演する映画も何本も作られていくであろう未来に、この時代は『ハリー・ポッター』の時代と括られる。

邦訳のない文章が本を開くとまず視界に飛び込む。上巻が原文で下巻が訳文であっても構わないと思うのだが、邦訳があってもなくても英語を自分で訳すことに変わりはない。英訳は、いわば算数のようなもので、答えがあるところに向かっていく優しさと、齟齬なく言葉がぴたりとはまったときの達成感と爽快感が味わえる作業。

おまけ。暗闇を疾走していて顔面をしたたかにぶつけた。上唇は腫れて、泣いていないのに衝撃にまかせて涙が零れた。一寸先も闇と五里霧中の中では何がどうなったさっぱりわからず、歯が折れたのではないかと疑ったが、指で探り正常なサイズの前歯を確認して、ほっと一息つく。多少の出血もしたらしく、あとで鏡をのぞくと左の眉の上を縦に切っていた。稲妻は走らず。

2009年10月25日(日)

熱する日曜日

あれ、日曜日は何やったっけな? 書けないほど行動を忘れているわけでもないが、覚えていても書くほどのこともない。ただ猛烈に加熱していた。

2009年10月24日(土)

ギャル以下

「目がテン」で速読を見たのだが、相変わらずビビるスピード。しかし、それを書きたいのではなく、速読者と同時に普通に本が好きな人と普段は本をまったく読まないギャルも実験で本を読んでいたのだが、「たぶん、俺、ギャルより遅いぞ……」という痛恨の事実が判明する。これはもう、遅い早いの次元ではない問題を抱えていそうで、ただの欠陥商品だろう。

察するに、渋滞しているくせに道草した先々で飛び火した炎が振袖火事もビックリな大炎上を起こし懸命に纏を振って消火作業しているのだと思う。正直言って、目的意識のない昔のほうが気楽に読んでいて、早かったような気もする。まあ、「一言一句逃さないぞ」という気合ももちろんあるにはあるが、これだけ散々な状態であっても一時期よりは落ち着いたようだ。

2009年10月23日(金)

だんつった

長寿番組であった「略して孫ラジ」も最終回。ネットラジオにはまった同時期にスタートした番組で、随一の自由な気風に安定感は抜群。それが裏目に出て、安心しきっていた感は否めず、ゲスト回は必聴だとし、悲しいかなゲスト回しか聴かなくなっていた。しかも、昨年7月の改編をぎりぎり乗り越えてリニューアルしてからは、ゲストの来訪が激減したので、ますます離れてしまっていたが、変わらず好きな番組だった。

印象としては、あの石田彰に落語を一席ぶらせ、さらに、それを聴いた折笠が番組に慄いていたのが象徴的。田中敦子が笑いのツボにはまり番組が進まなくなった回は、通常1回しか聴かないラジオを3回聴いた微笑ましい思い出。今野宏美の物まねが大流行して原作の先生までマネをするという愉快な雰囲気に包まれ、順序的には、ここから「らきすた」「猫娘」と繋がる。されど、とっくにアニメが終了して、そこからよく踏ん張り、継続したし、番組自体は当初からアニメから一定の距離を保っていたとも言える。動きも活発でよく飲み、よく食べた。だから、ありえないノイズが混じることが多かったのも特徴の一つで、これが一時期でも、地上派で流れていたことが信じられないが、あれだけ無茶振りに応え自由奔放なのにも関わらず、きっちり毎回30分番組として纏めているところなどはその残滓だろう。そういえば、「孫ラジ」で育ったリスナが一般のラジオとのギャップに戸惑うメールも寄せられていたが、それだけ並外れていた証拠。最後まで、見事にかぶいて寄り切った。

投稿条件:投稿されたコメント或いは作品の著作権(著作権法第27条及び第28条に規定する権利も含む)は当社に譲渡され当社に帰属するものとします

そうそう、ネットラジオのサイトには、この注意書きがよく見受けられるが、これも「孫ラジ」の途中から書き加えられた。おそらく「グレンジャー」のネタ秀逸さに今後の展開を警戒して書き加えられたものと睨むのだが、いかがなものだろう。

ああ、今年も石田彰がゲストであったであろう甲斐田さんの誕生日を年に一度のお楽しみとしていたのに……。名残惜しいですが、感想もこのへんで。はあ、本当に、本当に、本当に名残惜しい。

2009年10月22日(木)

あれ? そっちですか!

今夜も窓を開けて星の一滴を観測。

さて今夜は『もやしもん』である。東京農大卒のアイドル、加藤未央って、誰だろうと思っていたら、「スパサカ」の子だ。おかげで生放送にも慣れているようで、いい感じに馴染んでいた。っていうか、前夜とは打って変わっておじさんたちが優しすぎる。みんなインテリには強いけれど、可愛い子にはからきしだ。

ともあれ、『もやしもん』は、細菌漫画だとばかり思い込んでいた節があって、細菌を脇に置き、人に、脚に、裏に、斜に、話が向かうとは予想外だった。しかし、漫画的に考察すればそちらが正しい方向なのかもしれない。でも、なんか残念だった。敗北感すら感じる。

2009年10月21日(水)

忘却呪文

J.K.ローリング著『ハリー・ポッターと死の秘宝』(静山社)、沢木耕太郎著『深夜特急 第一便』(新潮社)、フアン・ゴンザレス著『フォールアウト』(岩波書店)を借りた。

昨年、日本でも最終巻が刊行されてからは、読書リストの筆頭に置き、人気が集中してなかなか機会も巡らないだろうが、今年、もしくは来年のいずれかで読めるだろうと、事前にイレギュラが起きる心構えはしておいた。それが本日であった。ついでに『謎のプリンス』を読み返してみたが、手に取る前から、記憶が薄いと常々感じていたところ、実際にページを繰れば記憶にないほど忘れていた。もちろん、終盤の出来事は鮮明に覚えている。ただ、ほとんどがそれのみと片付けていい記憶なのである。ホークラックスのことすら記憶になく、ところどころ染みのようなものが散見されるかぎりで、ほぼ真っ白だった。これはおかしいを通り越して異様ですらある。何となれば、『謎のプリンス』以前の『不死鳥の騎士団』までは仔細に思い返せるからだ。何某か『謎のプリンス』までの間に格別の断絶がある。小首を傾げること暫し、はた、膝を打ち、忘却呪文の正体として思い当たったのが、『謎のプリンス』直後に読了した『ネコソギラジカル』の存在だ。これが記憶にあるかぎり大変な一冊だった。何せ、いきなりのクライマックスである。そして、登場しない登場人物に対して想いを馳せに馳せた。これだけ集中力を要したことがないほどの空前絶後の妄想で、それまで刊行されていた5冊を納得できるまで埋め合わせた。その行為の裏で、すっかり上書きした可能性が大きい。しかしながら、せめてホークラックスのことは覚えていようよと目を通しながら忘れられることの大胆さに慄いた。

暖気運転

amazon_img

意図したわけではなかったが、『世界一高い木』の後に本書のチョイスは面白いような気がしただけ。藤沢周平著『静かな木』読了。恐ろしいほどの愉悦。日本にローリングはいずとも藤沢周平がいた。尋常ではない出来栄えに唸る。もっとも、数年前にドラマの「蝉しぐれ」には夢中になったので、読めば素敵な作品なのだろうとの想像に現実は絶した。

近年、武士嫌いを患っており、なかなか回復の見込みも立たず、病膏肓に入る様態であったが、こうした傑物に出会ってしまうと武士も捨てたものではないと心が軽くなる。読書中の熱量が、漫画やラノベを読んでいるときと酷似しており、こういったもので、漫画やラノベ趣味がない人は昂ぶりを浄化していたのかと納得した。だとしても、老いた赤犬を飼っている身には辛い話もあったし、いつからその風習がなくなったのだろうとの関心もある。

そして、話のオチどころは読者にも見えているので、そこを意識させながらもハラハラとさせつつ、磐石な安定感でもっての着地は、収まるところに収まり、気分も良好。

ところで、こうした時代劇の言葉を使えることに憧れがあって、それはアメリカ人が仏語の響きに憧れるようなものかもしれない。

秋の輝き心の澄明

オリオン座流星群の情報に目を炯々とする人がいたので、付き合って、見上げたけれど、確かに流れてはいるようで、ひとつ鋭いものを確認した。しかし、出現がわかりきった流れ星で感動できるほどのものではなく、かつて1分で10個の光は見た心はすれてしまっている。獅子座の借りは獅子座で返すしかないのである。

白馬に跨るおじさま

『リストランテ・パラディーゾ』。久しぶりの生に生放送の恐ろしさが露骨に出た。出だしは快調だったというか、相談したわけでもないのに思うがまま喋りたいことを喋っていたら、ゲストの麒麟川島に一言も口を挟ませる間隙すら与えない強固なスクラムを築き、喋らせないどころか、カメラにさえ映らないバラエティでは絶対にありえない時間が続いて、いつ切り崩して、割り込めるだろうかと興味津々に大いに笑ったのだが、そんな中、映画ライタである皆川ちかが果敢に食らいついていて、「おっ」と前半の評価は高かったのに……。後半でいしかわじゅんがぶった切って以降、空気が悪化。そのまま牽制しているうちに時間切れの尻切れトンボになってしまったのが、前半を振り返ると返す返すも悔やまれる形である。これが収録なら、しばらくして立ち直れただろうに、まあ、投了もやむをえない難局、そこでこそゲストや視聴者からのFAXが無邪気に活路を切り開くべきなのではないかと思われるのだが、『リスパラ』では荷が重たかったか。

『ハチクロ』回のときにも、深く感心したものだが、視線の流れを読む「夏目の目」にあっぱれ。読者には無意識に誘導されているものだが、このメタ的な視点は普段は無意識ゆえに見えないのだ。

ともあれ、私はこの作品をアニメで知ったのだが、年上好き、あるいはおじさま好き、はたまたカレセンや、メイドから飛び火した執事喫茶なるものの存在も小耳には挟んでいたけれど、老眼初老萌えとは、凄いなというか、あんな店に飛び込んで素敵なおじ様に囲まれでもしたら、背筋にズズズと虫が這うような生理的嫌悪感が生じようものだ。白馬に乗った王子様への距離感に似た、ある種の手が届かない、いや離れていて安心の「ギャップ」萌えがあるのだろう。

2009年10月20日(火)

仰ぐべし存在

amazon_img

リチャード・プレストン著『世界一高い木』読了。タイトルどおり、ここには「世界一高い木」についての叙事が綴られているのだろう、と内容に大方の見当が付き、かつ「世界一高い木」とは、痩せののっぽなのだろう、とここまでは、あるいはセコイアまでは想像を巡らせていたので、痩せでのっぽでセコイアであることは的中だったが、表紙から全貌が掴めない噂の全長よりも一緒に写っているヒトの何倍もある巨木の太さに度肝を抜かれた。ちょうどキムタクがCMで巨木の根元に座ってラーメンを啜っているのが、当のセコイアの森だろう。それにも運命めいたものを錯覚しないでもないけれど、例のハイペリオン発見のノンフィクションだと知り得たときには、はっと驚愕と因縁めいたメールストロムの渦巻きに引きずり込まれそうだった。しかし、当の「世界一高い木」よりも、倒れても人間のゆうに数倍はある堂々たる体躯を剥き出しにするセコイアが転がる森での探索と巨大落下物に気を配りながらロープに命を預けた樹冠での活動に心を奪われた。おまけに高所が恐いときているのだから、可愛げがある。

植物学の世界では、希少な樹木の正確な位置については明らかにしないという習慣がある。人間と触れ合うことは、木にとっては危険なのだ。この本に登場する巨木の多くは、つい最近発見されたものばかりで、私を含めて十人くらいの人間しか見ていないものもある。植物学の伝統にのっとり、私も以前から知られているもの以外、これらの巨木や、それが生えている森がどこにあるか明示しない。これまでにすでに場所が明らかにされているものや、すでになくなっている木については、所在を明らかにする。

序文で、いきなり釘を刺される。たしかに屋久島の縄文杉にしても、屋久島が世界遺産登録されてから、観光客が増加し、目玉の縄文杉を見物に足を運んでいるはずなのに、ご丁寧に縄文杉の根っこを階段代わりに踏み傷つけ木々を危険に晒した。今では柵を張り巡らして近寄れないように対策が打たれている。このことからも真実、人間が一番危険な存在なのだ。しかも、「オレゴン州の原生林の九七パーセントはすでに失われている」という。もともと地球環境の変化の中で最盛期に比べれば、減少する段階にあったのだろうけれど、新大陸の発見の喜びに浮かれて切りに切り倒した、その数字、尋常ではない。

林冠には自然界に存在する種の半分が生息していると考えられている。正確なところは誰にもわからないが、それは地球上にいくつかの生物種があるのか、はっきりしていないからだ。一千万種かもしれないし、一億種かもしれない。林冠は地上に存在する秘密の海で、名もない生物が数多く存在している。そして人間の目に触れる前に消滅しようとしているのだ。

月にも深海にも到達したのに、樹冠に登れない。たしかに不思議なことだ。しかし、植物学からするとセコイアも一個の生物として扱われているのが、供養塔を建てる日本人的な感覚として受け入れやすい。また、現在ひと悶着ある日本のダム建設について、何かと環境破壊のシンボルとして扱われてきたダム建設のことに環境保護派からの言葉が沈黙しているのが不気味である。建設反対派の与党が力を持続している間はむやみな刺激しないということか。他方、エコでオリンピックを招致しようとした知事が、先陣を切っている二枚舌にわだかまるものがあり腑に落ちない。

あるとき人間の祖先に、生まれながらに高いところを怖がる本能――木の高いところへ登ることへの恐怖――がそなわった。他の霊長類は、恐怖を感じたとき木にかけ上がる。そこが安全で安心できる場所だからだ。

この対比は面白いねえ、と素直に感心した。

しかし、著者がジャーナリストとして、多角的に興味を持ち、たんに密着取材を敢行しているだけの人物かと思いきや、樹冠で自由に動ける技術を身に着けた貴重な人材に成長しているところが本当は凄い。密着取材の粋を超えて、研究スタッフとして一役買っている。もちろん、取材に先行してツリークライミングを趣味としていたのだが。だとしても態度は誠実で、故に、赤裸々に樹冠セックスを語らせるまでに信頼を勝ち得たのだろう。

ところで、裏帯の「森林学研究者とクライマー2人を中心とした」の、「クライマー2人」とは一体全体誰のことを指しているのやら、通読してもさっぱりわからないというか、読み終わるまではそうなのだろうと思っていたのに、読了した時点で見当たらなくて正体を見失った。通して残ったものとは、ここでもアマチュアが前線を開拓するのだということである。プロになると合理的にならざるを得ず、不合理なものは夢物語として語られるのがオチだからだろう。

さて、うちの近所にもそれこそ子供のころから見上げている大きな木があるけれど、これも大きいといっても30メートルはない。100メートルにはまるで及ばず、20メートルぐらいか。しかし、年々成長して大きくなっていることは確かである。昔の印象から比較しても随分と高くリーダを伸ばしており、子供の頃に遊んだ世界は、大人になるにつれて、小さくなるものなのに、これだけ真逆で珍しい存在だ。一体、何歳ぐらいなのだろう。それでも、800年が青春期で成長が止まるというセコイアの次元の違いには改めて敬意を覚え、だからこそ、マーキングしてから20年経過してしまった果てしなき落葉実験に哀しみと笑いが混じる。

冒頭に、カーソンの『センス・オブ・ワンダー』からの言葉が引かれていて、今年は直接的にも間接的にもカーソンとの絡みがやたらと多いなとしみじみ。

ケロケロケロ

読者が自分でもある同人誌上がりの照れる作者からのギャグ漫画家の時代的変遷が今夜の核心かな。マンガ夜話『ケロロ軍曹』回。

微妙な空気が滞りがちな公開収録にしては変に拡散せずに済み上手い具合にまとまっていた。バラエティ慣れしている、矢口真里の相槌がいちいち煩くて耳に障ったが、さすがは「ケロロ軍曹」。来場していた幼い子供から可愛い質問に揃いも揃ってどぎまぎするいい歳のおっさんたちの仕草に、唐突に矢口真里はあの会場の男の子と同じ立場なのだと笑える構図を理解し、子供の声なら煩いのも当然なのだろうといらいらを抑えた。

やはり、批判から盛り上がるのが論戦を引き起こすには一番坩堝と化しやすい形であり、あの面々に怯まず一石を投げ入れられるアシスタントの笹峯あいは、素敵だ。だが、なるほど、コミックを一息に読み続けるのは、辛いとの意見には一理あって、それはアニメでも感じていた。だから、たまに見ると新鮮で、「あれ、こんなに面白かったっけ?」と再評価して連続してみるとちょっと辛くなり期間をあけてしまうパターンになっている。そうそう、作品紹介が丁寧にされたおかげでようやく、ケロロ軍曹たちメインキャラの立場がわかった。不良視聴者にはなかなか背景が理解できないことが多くて、謎は謎のままでした。

あと、作者が男か女かで、『鋼の錬金術師』の作者が女であることが突如明かされて驚嘆したが、名前を覚えていないぐらいなのだから致し方ない。そもそも、少年誌で活躍する女性漫画家のイメージがとっさには浮かばない。

ところで、次回予告が会場でされていたけれど、あれは夏の収録であり、マンガ夜話にしては随分とスケジュールを組むのが早いなあ。

2009年10月19日(月)

みいこさん、巫女子ちゃん、智恵ちゃん……

台所に八つ橋が置いてあり食べました。抹茶味です。無性に切なくなりました。感傷的です。

2009年10月18日(日)

ドキドキ

18番とプレーオフ、石川遼のカップを掠めるパッティングにドキドキした。淡々と見るほかないゴルフで視聴者にドキドキさせるのだから、桁違いの役者である。あるいは、日本の男子プロが井の中の蛙で情けないのだろう。こうしたところからも日本の井戸を軽々と飛び越えて世界的なプレイヤになるまでの成長が、待ち遠しい。

2009年10月17日(土)

矛盾する願い

まずは楽天が勝ち上がった。1年を台無しにする可能性を含むCSのシステムには異議があり、早く消滅しないものかと密かに願っているのだが、スタンドは埋まり、傍目には確かに盛り上がるシステムではあるようだ。こうして盛り上がっているかぎり継続されるのだろう。ただ、盛り上がっているのは、ファンだけかもしれないよ……。

更に楽天の人事を巡り、由緒正しき古典経営学的なフロントと現場の諍いの構図が火に油を注ぐ。これがまた厄介なことに面白い。しかし、野村再生工場は現役で、山崎を復活させ、今年は首位打者に鉄平を育てた。投手陣には、岩隈とまーくんが揃い、監督はぼやくときている。強さは磐石で人気を博するはずだ。じつのところの希望を言えば、楽天に日本一に輝いて欲しいと密かに願っている。

2009年10月16日(金)

食えない

amazon_img

我々は決して、独立した生命体ではない。
 精神活動だけがネット上で記号化される。
 バーチャルな世界で理想化される。
 だが、その個々の意思は、固有の肉体でしか活動しない。別の躰で顕在化することは不可能。独立していないくせに、互換性がない。
 ネットワークだ。

タイトルの「ネットワーカ」から理系を連想することによって、なおさら、どれよりも文学色濃い目な作為に意表を衝かれた格好になった。一見、朴訥として寡黙な作品でありながら、情景の切り替えの華々しさに目が回る。噛み砕けなさだけは屈指。理由をおもんぱかれば、そもそも、詩を読むときには主体を捜す。その主体とは、天上にまします神様でも、水辺にそっと横たわる骸骨でも、雪でも花でも山川草木なんでもござれ。ただ、主体を見つけないまま茫洋としていれば、言葉は上滑りする。それほど大事な主体が、なんとミステリィで秘匿されているのである。これには梃子摺った。森博嗣著『奥様はネットワーカ』読了。

Xはキャンパスの近くの暗い道を歩いていた。恨めしさと愛しさをともに抱き、爽やかな達成感と汚れた不甲斐なさをともに感じる。それは、矛盾だ。拒絶と許容で紡がれた糸が、自分を操っているのだ。Xは夜空を仰いで星を見る。星は、糸が通るための穴。

SだのMだのVだのを彷彿させる。甘く見ていたつもりはなかったが、装丁を含めたブックデザインに油断していたのは事実。犯人探しも、糸口が希薄で決め手がなく、さっぱりお手上げの状態。こうした袋小路に陥ったときは、一番怪しくないやつが怪しい、と推理における原点回帰が的確かも? どうやら、致命的な見落としや軽薄な消去法が幅を利かせているみたいだ。しかも、ミステリィの形としてはアンフェアで許されざることだが、いっそ解答なしの通り魔による不条理な犯行として捨て置くのもアリなのではないかとも思われる。

けれど、そもそも一番重要なことを棚に上げて生きているのが人間ではないのか。自分の人生、生と死、人類の未来、などなど、大切なことを真剣に考えていたら、何もできなくなってしまう。生活とは、すなわち逃避、仕事もまた同様だ。

ラストを飾るアンコールが、「この本を読んで良かった」と納得するほど痛快で爽やか。願望を言えば、死者の復活再登場すらも献花ではあるが花を添えたかもしれない。

コジマケンのイラストが可愛くて癒された。ただ、この人、足を描くのが好きみたいで、この特徴的で存在感のある足を見て、『今夜はパラシュート』のイラストもコジマケンだった、と思い出す材となり得た。人間の足が生えているだけで無機物も有機体に変えてしまう不思議な足だ。

恒例の冒頭の引用文からキングを読んでいるのが窺えて、「へぇ」。やはり本を読まないと言いながらも、押さえているところは押さえている。言葉どおりの過小評価を再評価すべし。

健康に悪いもの、少なくとも多くの人間にそういう評価されているものは、なるべく避けたほうが安全だ。

引用したが、こちらはこれといって特別言葉に意味はない。ただ、この「安全だ」という箇所に森博嗣を強調するほど、懐かしみつつ感じてしまう。このツボ共感できますか?

完全越え

完全版がMAXになるとは、一体全体どういう展開を迎えるのだろうか、と小首を傾げていたが、なるほど、収録はそのままに「ランティス祭り」に「アニサマ」の映像を追加したのね……。しかし、今年の出演が最初で最後ではないかと確実視される例のユニットが予想はされたが案の定、映っていなくて残念ではあった。もっとも、Suaraが映っていたので、私的には、合格点かしらん。

2009年10月15日(木)

ジェシーおいたん

「あれ?」とばかり無意識に2度見。BSでは来年終焉を迎えそうな「ER」に、ジェシーおいたんが登場している? 一度、疑惑を持てば見紛うはずもなく、脳内で髪型を長髪にさせてみたり、顔の造詣、彫りの深さ、もみあげの具合が記憶と一致する。念のため、エンディングテロップで照会した。間違いない。記憶の片隅でほこりを被って眠りについていた懐かしい名前だ。ただ、子供の視点で見上げたロッカの野性味も、大人の物語の中に入り込むと躰が一回り小さくなったかな。

「ER」の放送が開始された頃には、「フルハウス」も再も冠せず放送されていて、今の「24」などに繋がる子供向けから大人向けのドラマに橋渡しをした作品だったので、このタイミングで回帰するのかと、鮭もびっくり、驚いた。とはいえ、BSではなく、一途に総合派なので、実感するにはまだ数年先の話なのでした。

2009年10月14日(水)

詰めが甘い

愕然とした。決して暗号解読に失敗していたことにではなく、野放図な故事付けをした己に対して。そして、以前にもそっくりなパターンがあったよなあ。ってことを思い出すと、懲りもせず、毫も成長せず、あるいは完成し、はたまた退化している勘違い野郎に思いを馳せるわけで、今度ばかりは潔く負けを認めなければいけないほど王手を掛けられているけれど、故事付けたわりには、いい線いってた……。いや、本当、自分の字よりも上手い見事なまでに流麗な筆記体が書けたので、「これは間違いない。これでピースが嵌った」と確信した結果、まだ欠けていたか。ひっくり返っている意味をも配慮した上で、詰めの甘さを見破られて逆転された。こいつは、また傑作だ。

2009年10月13日(火)

三面鏡

amazon_img

「≪完熟フルーツジュース。ただし、100%トマト≫みたいなっ!」的な喩えのオリジナルにやっと出会えて感無量。そして、西尾維新著『クビシメロマンチスト』読了。相変わらず思春期に塩を塗りたくる物語。いや、その量、傍から見れば塩ではなくて雪だろうって。いや、そもそも思春期すらも軽々落伍していた?

取って置くのもめんどくさいので、核心から切り出すが、他のシリーズと比べ、一段と踏み込んだ物語だった。でも、踏み込んだから、近づいたかと言えば、そうでもなくて、むしろ、離れて行った。実際、「あ、そこに踏み込むんだ」と傍観したし、感慨もなかった。そりゃそうさ、鏡には反応できない。あるとすれば、陶然と身嗜みを整えるか、怒りにまかせて四方に罅を走らせるかの二者択一。故に、毎度、度し難くオーバーヒートして、落ち着かせるのに一苦労な物語だったけれど、これには頭が凍みた。おかしい、やはり塩ではなく雪か。だからなのか、ムカつくやつはいたけれど、ムカつきはしなかった。今度ばかりは灰色の細胞も無闇に溶ける必要がなかっただろう。

ムカつくに限って話を戻せば、アニメで見せたみんなの力と小説家の個人の力に対する隔たりが歴然としている――もっとも、今回は例外? 面白かったのは、暦のリズムが頭にしばらく居座っていたこと。

「何も悔いるものがないんだろうな。やり残したことってのが、多分ないんだ。そりゃそうさ、やりたいことも、目的すらもなく生きているんだ。なににしたって《やり残しよう》がないのさ」
「……」
「勿論人生がつまらないってわけじゃない。そこそこ楽しい。だけどあいつら、必死なんだよな……。あいつらさ、明日の暇をどう潰すかを考えるのに、必死なんだ。気が付けば暇潰しの方法を考えてる。明日は何をして過ごそうか。その次の日は? どうやって二十四時間を潰そうか。スケジュール表の空きを埋める方法を、ばかみたいに必死で考えている。けど、なんなんだ? それって。何の意味があるんだ? 明日の朝が来なかったら、それはそれでいいってことじゃないか。生きてるから暇潰してるだけでさ……生きてるだけなら死んでもいいんだよ……、あたしは、そう思う。……ああ、ごめん、よく分からないことを言ったな」

これに対して、いーちゃんが本音で「いや、興味深かったよ」と答えているが、それには私としても異論なく、まったくそちら側の領域に思考が飛ばなくて、そうしたものかと実に興味深く、まして、これが他人を創造できる小説家の力か、と二重に魅了された。

一応ミステリィなので、現を抜かして、推理などもしてみる。すると、あれ? 違うのか。これは私の物語ではなかったと目が覚める瞬間がある。ただし、一つ指帰の可能性が潰れた程度ではめげない。何となれば、重層的に推理が重なっているから。きっと、そうした寄り道を愉しく散歩しているから、遅々として読み進まないのだろう。しかし、二度読めるぐらいにはきちんと作られている。

最後は、記号について。明日はネットで答え合わせすることにして、とにかく、自分で満足できる解答を提出しなければ、気が済まないというか、ミステリィ自体、そのために読んでいるものだし、そういった存在だろう? 一応、文字を変換してみたり、あれこれ導く手段を検討したが、筆記体が強調してあるのならば、見たままに何かあるのだろうと、自分の筆記体に悩みつつ、ローテクを駆使してティッシュに書く。その上で、解答にたどりつく手段すら見当をつけながら、物語の歩調に合わせて解き明かそうとしないのだから、負けず劣らず俗悪だ。

おまけ。終章の扉絵が顔が綻ぶほどナイスです。

2009年10月12日(月)

夢想

いったい誰がターゲットで、誰が聞くのか、偏狭をピンポイントで恐れずえぐる「プロレス三昧」。これも「アメトーーク」の影響がNHKに及んだのか?

しかるに、今回の企画もフルで聴けない曲ばかりが並ぶ。ただし、今回ばかりはフルで聴くと入場曲としての実用的な宿命を晒し、サビから始まる出だしは快調なのに途中からは何時切られてもいいようにと、軒並み単調な繰り返しになるのがいただけない。そして、「星間飛行」こそカットせずにフルで流せよ、と強く進言したくなる。でも、強いレスラは入場曲すら格好良いから不思議だ。おかげで「爆勝宣言」なんて2回も耳にしてしまった。ただ、観客のコールがないと寂しいかぎり。あれはもう曲の一部として機能しているようだ。いっそミクに橋本コールを歌わせたらだろうとか、夢想する。

2009年10月11日(日)

いや、むしろ前夜祭

太鼓と笛の音が鳴る。そういえば、今日から祭りか。季節を考慮すれば、収穫祭が起源かしらん。夜店は明日は開くけれど、今日は何も開かない。準備はすでに整っているから、無理なく2日連続でも構わないはずなのに、決まって何もやらない。どうも、何もやらせないような取り決めが存在するらしい。きっと、明日に向けて何かしら幽玄な場を作る必要性のある慎重に慎重を期す繊細な場面なのだろう。それこそ来る明日より神経質に、粛々と進む雰囲気は凛として、賑やかな祭日より前夜祭のほうが厳粛な気持ちになれる。

2009年10月10(土)

熱愛のアナーキシズム

「うらGお」最終回。今年「絶望先生」と「化物語」でいよいよ千変万化の多面性を見せつけた斎藤千和のこれぞ真骨頂。無責任もここまでくると無法地帯。前作でもある「ぱにらじ」は、一応の作品縛りの法律があったので、いくら無鉄砲に暴走してもレールの上を走っていたから、安心して最後まで食らいつくまでもなく牽引されていたが、無政府状態のこちらは年を明けて益々面白いを突き抜けてしまい、カオスならカオスなりに咀嚼しやすいように秩序が構築されて、落伍した。原作付きのようにゲストがあれば、それでも持ち得た予感もあったが、それすらもなく、だからこそ一層、よくそれで一年も続いたもので、よくラジメンのみんなは見捨てずついていった、と感嘆する。私はといえば、内容紹介のテキストだけでお腹一杯になり、簡単に篩いにかけられる始末。そして、久しぶりに聴けば、リスナ色に染まる「チャバネ」も壮絶クオリティ。結局、このクオリティの向上が前代未聞のゆるさを相殺し反りが合わない結果を生み、むしろあちらから拒絶され跳ね返されて駄目だった……。まあ、また千和長もこれに懲りて3年ぐらい空けてでもいいし、すぐに仕切り直して即戻ってきてくれても良いよ(睥睨したる視線)。それにしても、最終回を更新してからリスナのメールから更新されるラジオ番組も珍しい。それだけ熱愛されていたか。

ズキズキとほのぼのとゾクゾク

「パンドラハーツ」と「大正野球娘。」が最終回で梯子。

「パンドラハーツ」は、熱いが冷めているテンションの高さが心地良かった。正確には肌に合うと言うべきか。投げ掛けられる言葉の端々が冴えていて、ズキズキと心に突き刺さる快感がある。具体的には、ブレイクの「薄気味悪いガキだな……」は胸キュンの一声。驚いたことに、作者は女性なのである。しかし、そう思えば、なるほどと思い当たることもしばしば。台詞もそうだし、アビスの化け物たちの絵もほどほどに禍々しくホラータッチで好ましかった。

だから直後に見る「大正野球娘。」は、対照的にほのぼのとしていて、どうしたものかと頭を抱えていると、外見とは裏腹に案外芯のある作品で、最後まで鑑賞に耐えた。しかも、ラストに近づくほど華麗にそつのない守備を披露してくれ、成長物語として見守っていて報われた瞬間だった。惜しむらくは、第一話で挿入された「東京節」が二度と聴けなかったこと。一話を見た段階で、これら大正ソングが毎度挿入されるなら嬉しいなあと思ったものだ。

それにしても、尋常ではない冷え込み模様。そりゃ、番組もゾクゾクと終わるさ。

2009年10月9日(金)

時代倒錯

仏像の製作年月日が判明した記事を見たが、「1692年製で随分と若い作品だ……」と落胆した私はもしかしてズレてますか? ついでながら、仏像展の広報で、平安の作品群を見る企画展も若いと感じた直後のことだったので、なおさら歴史の浅さが目についたのだが、あれ? どうも、アルカイックな芸術にトランスしすぎて、まだ心が旅先から帰宅していない……。

では、またいずれ、ごきげんよう

写真が花束を抱えているので、もしや……、と、なるほど「マリア様」最終回か。寝耳に水で唐突な幕引きも、既にスタッフもリスナも終わりには免疫があり慣れているので、ことさら盛り上げるわけでもなく、それは、あっさり終わっていく様子にも状況が垣間見られる。もちろん、これはまた再三再四再五再六の再開予想されてのことだろう。それでも、ブックーマークの日付を見たら、去年の8月に登録しているので、1年続いていたかのが意外で、思いの外、記憶より長かったという印象。

アニメの次回予告で割り振られた30秒ではとうてい表現できやしないドラマが、ラジオドラマでは本当に素晴らしく再現されていて原作の可憐な美々しさが生きている。ラストを飾った今回も絶妙の後味で、思わずジャンルをミステリィに含めた。つまり伏線が合って、手際よく回収されたということ――ただし、剣道の掛け声だけは「ふざけているのか!」と真剣なのに思わず破顔するNGだったかも。今後のアニメの展開はわからないが、ラジオドラマは継続を希望する。

図書館ブラックホール

西尾維新著『クビシメロマンチスト』(講談社ノベルス)、森博嗣著『奥様はネットワーカ』(メディアファクトリー)、リチャード・プレストン著『世界一高い木』(日経BP社)を借りた。残り3ヶ月、今年の予定は、あらかた埋まり、そこからも漏れてしまっているものは、いったい何年待ちなんだかで、申し訳なさで一杯である。そして、予定は予定であり、あらかた決まった予定の中でも現実が近づくにつれ、有無を言わせず、そちらに吸収されていくものが出るだろう。

冷静に「ゴースト・イン・ザ・シェル」

今のタイミングで見ると、おとうさま!

先見性があったのかなかったかと問われると微妙な線で、自己と躰の哲学的な考察は古いところに繋がり、結局、重要なファクタとしつつもネットの描写がなく、そこを視聴した時代のイメージで補完し埋め合わせられるように図らずも作用している。故に、簡単には錆び付かず。

凄え

先月、行われた永ちゃんの還暦コンサートの模様をちらりとTVで拝見。永ちゃん世代ではないので、コンサート自体は特別感慨もなかったが、甲本&マーシーと氷室を脇に従えて歌っている様子には、拍手を浴びせたいほど直球で感動した。

ノン!

なんか眠れない。昂ぶってる。ノン! 正解は、質のいい転寝したので、眠る必要がなくなっただけのこと。まあ、色々あったし、色々なかった。思考も思索も妄想も睡眠時間を削るだけ削ってぐるぐると経巡るわけです。

2009年10月8日(木)

言い得て妙

amazon_img

A面が難所続きで新聞配達と競争したことを思い起こせば、本書であるB面は随分と理解までの道のりが平坦で安穏としたものだった。中沢新一著『ミクロコスモス II』読了。珍しく小説も収録されていたが、これが実にいい風味を醸していて嫌いじゃない。この人は文章が上手いなあ。語れるなあ。と、改めて認識させられた。

現代の世界には、人間の生命力を、まるでブラックホールのように吸い取ってしまう「空虚」が、いたるところに仕掛けられている。その空虚と戦わなければ、人間は創造的に生きていることはできない。またそうでなければ生きていることのなかに充実感も生まれない。しかし退屈や空虚は、いつの時代にも、人間の世界にはつきまとってきたものではないだろうか。そういうとき賢い人間はどのようにして、その空虚と戦い、創造的に生きることを可能にしてきたのだろうか。(中略)
 重要なこと。それはいっさいの「中間」に留まりつづけるラディカルさを保ちつづけることである。どちらかの極に偏ってはいけない。大脳が考え、期待し、予測するものにすべてをしたがわせていくと、人間の世界からはリアリティが失われていってしまう。現実原則だけが幅をきかせてしまうのも、息苦しい世界を生むことになるだろう。個人の内部で進行する幻想は、いつかは現実の世界を成りたたせている原則と衝突することになるが、そのとき夢想と現実のあいだを仲介する中間の領域がないときには、人はたいへんな苦しみを味わうことになる。公共と個人とのあいだにも、中間領域の創造が必要だ。そうでないと、生命力が萎縮していってしまう。あらゆる領域に、この中間領域を発見していく努力が求められている。法が生命を抑圧するのではなく、法があるおかげで生命が自分を表現し、実現していけるような領域。現代の社会のなかで、もっとも実現しにくくなっているのが、このような中間領域の創造なのである。

『センス・オブ・ワンダ』『スティル・ライフ』。支配者被支配者の関係性から森博嗣。そして『ハチクロ』へと意識の高波は寄せては返り、寄せては返る。

唯物論で扱う「自然」を「リアル」と定義していて、「リアル」と「自然」が得てして離反し相反するものとして勝手に区画する社会に暮らしていると、はっとさせられる。昔、アフリカを取材したドキュメンタリィ番組を見ていたときにも、押し寄せた観光客が大自然に無邪気に感極まる様子に、地元の人々が違和感を感じ取っていたのを見たのと同じような感覚だった。人が住めない砂漠も苛烈な「自然」であるし、人が住めないように思える苛酷な環境でも生活を営む人たちはいる。

ものごとを判断するのに、偏狭なところや頑ななところがないのが、知恵の特徴である。

上記と等しくこちらも系譜に叙する。詰まらないことに、いや、詰まらないことだからこそ、頑迷になることは、真実もったいないし、みっともない。ために「思い込まない、こだわらない……」と念仏のように唱える。

のちの修験道が、十一面観音像に宇宙を見た存在としての評価は目から鱗で感動的ですらあった。あれら仏像の生生とした生理的嫌悪感と気持ち悪さが腑に落ち氷解した。もっとも、オリジナルの作者にしてみれば、その気持ちが果たしてあったものかとは再考の余地があるとも思われるけれど、事実、存在を左右するほどの意味があった。これを触媒に、ようやくにして意識が古代に通じる。きっと仏像と対面したときの衝撃というか、どきついほどの嫌らしさは今も昔も大差なく、反応しては何時の世も正しい。また、植物すら供養する同類の存在に本覚論の話も加えて興味津々で、神話では家族であった動物に接する態度は、そりゃ、外国と親しみ方も異なるはずだ。簡単に謝罪できるというか、申し訳なさで一杯になった頭の重みを支えきれずに下がる。

たとえば『万葉集』を見てみますと、少女が、自分の名前を男に知られることを恐れている歌がたくさん出てきます。それは、名前を知られると、その男の所有物になってしまうからです。歌垣がおこなわれる場合でも、女が男に自分の名を明かすということは、その男に対して、性的な結びつきをおこなう許可を与えることだという約束事になっていました。

名前を知ること――言霊の威力。ただの譲渡すら儀式めいて太古の時代はすこぶる大袈裟な嫌いがあったと今の時代からは見て取れる。しかし、ここから人称代名詞の発展があり、外国人が嫌う名前を呼ばない文化に今も繋がるのではないのか。もっとも、万一仮説が当たりだとしても、現代は相手の名前を照れずにきちんと呼んでも良いのではないかと思うけれど。

「ハルヒ」最終回

まず、「笹の葉ラプソディ」を事前に読んでいたことから、時系列を正しての再構成が本当に超時系列になっており、アニメで何を見ていて、何を見ていなかったのか、渾然とした上に、かてて加えて肝心の内容を失念しているのだから救いがたい記憶力。おかげで先読みも出来ず、計算が立てれなかったのは再視聴に都合が良かったけれど、右か左か「これで良いの?」と肩を落とす。

一方、物議を醸したEEに関しては、無難に徹した末の、ことごとく無視される結果よりは、腹立ちでもささくれ程度でも何かしらの刺激があれば、それはそれでよろしく、試みを買い評価している。まあ、これも通常営業のあまのじゃくぶりを発揮したのか、存分楽しんだつもり。さらに、リアルタイムで退屈が同期したことは特筆に価するし、その後の長門への印象が3年前と別のものになったことが新発見で、以前はメガネの一件からキョンに対してだけ、心を開く従順なキャラクタに変身しただけのことだったが、EEで500年の歳月を乗り越えてきたことにより、明らかに積極的に自立歩行しだしている。それをキョンはただ後押ししているだけだが、後押ししている部分しか見せられなかった前はその部分に違う情景が見えていた。そうそう、印象が変わったと言えば、「朝比奈ミクルの冒険」と「ライブアライブ」で記憶していた場面が違ったというか、見つけられなかったというべきか。捏造はしていないので、どこかにカットが紛れているはずだが、それどころではなかったと言うのが、本音だろう。前者はこれは遊びにもならないほどキツイ出来栄えで、よくぞこの動揺の記憶を消去していたなと呆れるほどだったし、後者はもっと楽しくやっていたのかなと思っていたら、案外、ガチガチの真剣勝負で驚いた。もっとバックと気軽に目配せしても良かったのに、とこちらは「けいおん!」が影響を及ぼしているのかもしれない。ああ、忘れていたけれど、顔が変わったのが、残念だった。あれ、どうにかならないものか。しかし、「溜息」で久しぶりにあの人の絵を見た。残念なことに、どれかは節穴には分からずじまいだったが、その回で長門の影の力の入れようが半端なくて吹き出したのは良く覚えている。ともあれ、暴挙の火蓋を切ったのは6月だったんだよなあ……。

あらためて放送で唯一失望した点は、長門が満足に読書をしていなかったこと。つまり、クリエータ側にその意識が欠けていたことに尽きる。また読んでいる作品が古くなっているのが残念だ。合間合間に新刊のカバーが挿入されたりしても違和感は拭えないかもしれないが、無茶やったくせに自由度の少なかったEEの演出合戦の機会を活かせば何とでもやりようはあったと思う。しかし、これで前回のつけを綺麗に清算し終えて、真実一段落し、また再びシャッフル放送できるといずれ訪れる未来に思いを馳せていたところ、「特報、そして劇場へ」。これで京アニは約束は果たすことになり、TVから即ネットに流れる時代には劇場からDVDへの流れは無難な選択だ。まして名高い『消失』に限れば収まりもいいだろう。ああ、でも、まずい。珍しく食指がビクつく。

2009年10月7日(水)

強風

天気が悪くなってきた……。って台風が接近しているのか! 昨日の予報だと軌道からは外れていたので、すっかり失念していた――忘れていたのは、こちらなのに、日本中から疎外された気分。どうやら今日になって多少軌道が変わり、掠めるみたい。でも、台風自体、ご無沙汰していて久しぶりだ。災いでしかないけれど、こなければこないで異常な気がする自然現象。じつは待ちわびていた?

2009年10月6日(火)

律動的に「トントン」と「カチカチ」と

未明に小蝿との戦いを制し粛々と迎えた朝、よりにもよって、とんかちのリズムに叩き起こされる。それでいて、10時には仕事が終わっているのだから、職人の朝は早い。

9月分更新完了。前半はまるで更新回路が閉じ切り、今年最小文字数すら覚悟していたにも関わらず、よくぞ、ここまで盛り返したものだと、しばし呆然とする。

大業物

amazon_img

連城三紀彦著『造花の蜜』読了。

何かおかしい。何かがおかしいのだが、それが何かとは判然とせず、奥歯にものが挟まったまま構わず物語は進行するが、案の定、齟齬を来し、気持ち悪い。その上、視点まで変わり、軽快な短編集を読んだばかりで、これはちと隔たりがきついと感じ始めたところでの、まさかの主役交代劇。ミステリィの世界には、この仕掛けがあったのか、と亘る影響は一冊に留まらずそっくりと鮮やかに覆された。

しかるに、幼児誘拐事件が題材の一つだけど、そのテーマはフィクションであっても憂鬱になる。もし事前に察知していたならば、たとえ快作であったとしても避けて通った道かもしれない。

私の目にはラストシーンは2つあるように映ったが、どちらも文句のつけようもなく、素晴らしき区切りかな。

2009年10月5日(月)

イマサラ……

テレビ欄を見ても何の冗談かと信じられず、我が目を疑った。また文字数の関係で正式名ではなく、略称であるからには、タイトルからの軽はずみな予断は禁物と戒め、肉眼で確認するまでは、と、まだまだ信じなかったのだが、今更「マクロスF」放送開始かよ。どこで蝶が飛び、どうした力学が働いたのとは見当もつかないけれど、こうしたこともあるものか。ただ、ちょっと困ったなとまるで問題がないわけでもない……。

2009年10月4日(日)

あとがき

小説が映像化すると、どうしても説明台詞が省かれる。ただし、省かれはすれど消えはせず、どこに行き着くのかといえば、背景として一目瞭然な形で表現される。説明台詞としての地の文が好きで、特に地に癖のある小説の場合はなおさらその点はマイナスであり、減点に繋がるわけだが、背景はさすがのシャフト節で、垢抜けていてイケてるし、雰囲気が醸せない可哀想な背景がつくぐらいなら、完全に別のものが用意されたほうが、誰も傷つけず清々しい。もっとも、そもそもが会話の応酬で成り立つ物語だと思われるので、気の揉みどころが違うのかもしれない。興味深いのは、立て板に水の饒舌会話が繰り広げられるので、時間間隔に狂いが生じ、「終わったなあ」と背伸びをしたら、まだAパートだったということが、「つばさキャット」から発生している。しかし、ハイカロリィでやたらと脳味噌が過熱することがないのが『化物語』の特徴かもしれないし、これは原作で読むと印象が変わるのかもしれない。ともかく、続きだけではなく振り返っても原作を読む余地が残っていることが、未読の原作ファンとしては嬉しいかな。

さて、話は変わって、戦場ヶ原のほんのりのったチークが十全だった。よく見るぼったりしたメークは、あまりに記号的すぎて人を選ぶところがあるので、あれぐらいがあの絵の場合は絵を壊さないのでちょうどよろしい。もしくは、古典的に顔を真っ赤に染めるかのどちらかだ。

続けて、「マンガノゲンバ」藤田和日郎編を視聴。ああ、ハッピーエンドを強く意識していると……。そうか、言われてみれば、あれもこれもハッピーエンド。何だろう、それまでの苦闘の血と涙の道のりが長すぎて、「何で、そんなに可哀想なことするの!」と、数々の修羅場を乗り越えた末に「はっぴぃ」と傷も癒えていないうちに喜色満面を湛えておっしゃられても戸惑いを覚える。まあ、悪い人の顔が本当に悪い顔していて、作者の姿勢とは裏腹に真実嫌らしさがつくづく身に染み入り、またそれが好きだという読者がいて、完結した素晴らしい円環構造の循環が出来上がり、つくづく救われない。

2009年10月3日(土)

烙印

10月になったが、今週一杯まで改編の余波で終わっていく番組が多い。特に地上波のラジオ番組の場合は記憶にしか残らないので、なかなか寂しくなるけれど、平野綾のアニメロが終了した。2年間続いたらしく、そうか、あのオタクとヤンキーのコンビで爆笑したアニメロは2年以上前の出来事か、と別の意味で感慨に耽る。ちょうどその直前に「絶望放送」が開始していて、放送時間が1期のアニメと被っていたことから、「聴かなくてもいい」とアニスパで神谷さんが発言したところ、当然のようにスポンサから苦情が入り始末書だっけ、と何もかもがお懐かしい……。次のアニメロは高橋美佳子らしいので、きっとまた笑えるラジオだ、聴き出そうかな。ともあれ、今日のアニメロは秋雨のようにしんみりするのかと期待していたけれど、次の番組も決まっていたようで、秋空の予報は外れ、終始からっと秋晴れしていた。ただし、その煽りを受けて「コンチェルトゲート」が玉突きでポケットイン。番組はともかく罰ゲームで門脇舞以が恥ずかしい台詞を言わされ「もう、こんなスキルばっかり上手くなっちゃうよー」と叫んだことがおそらく後世まで焼きついた。

そうそう、2年前といえば、今日の天たまで、「聴き出して、はや2年」のリスナのお便りが読まれていたが、こちらは「聴き出して、はや7年」で、誇るよりもむしろ歳月の積み重ねにちょっと怖くなった。まあ、前番組に「ラジダネ」がやってたんだし、天たま歴=堀江由衣歴なのだから仕方ない。

2009年10月2日(金)

9月30日の合致

おや? 『蔭桔梗』を読んだぴったり1年前の9月30日には『薔薇』を読んでいる。リストに並んでいたのではじめてこの符合に気付いたが、まあ、こうした偶然は起き得ることだろう。あえて、それを取り上げたのは『薔薇』を読んだのがまだ1年前のことだったからで、感覚的には2年前、いや、それ以上のようにすらも感じていた。

福岡伸一が時間について一家言を放ったけれど、それによると細胞の新陳代謝のペースが体内時計を作る。代謝の速度が遅くなれば、その分、相対的に外の時間のペースが上がる。この細胞の新陳代謝を本の読了ペースに置き換えてみると、今年は9月までの合計で既に去年を上回っていて、かつ、これから20冊は読むだろうから前年比50%アップ!? 1.5倍か。もっと前に遡ると今年は3倍生きていることにもる。日々のスピードは絶え間なく上がっている気がするが、年のスピードは遣りようによればまだまだ遅くなり得るようだ。ただし、ここにトリックが秘されていて、読書数は上がっても、文字数自体は変わらないはず。

ところで、こうなると、年末ないし年始にはどの本がもっとも琴線に触れ刺激したのかと振り返ることを恒例とするが、おのずと年間でただ1冊は選びがたくなり、なるほど、各地で見かけるように上半期どころか月一で決定していくのが安逸な方法だろう。

三本勝負!!!

カレンダを捲る。一足早い黄葉と背にした瑠璃色の湖がゴッホの補色の関係で綺麗。せっかくの写真もお気に召さねば、ひと月が出だしから挫けてしまうので、結構重要なポイントなのだ。ただ、捲るまで次の月がどのような写真かとは、律儀にネタバレしないように注意を払っているので、お気に召すかどうかとは捲るまで明らかではない。

あれ? 今日は第一金曜日、つまり「ネトスタ」の日か。五輪開催地決定日の影に隠れて忘れていた。危なくないけれど、危機一髪。しかし、今日だけで柚姉の声を聴くのも3本目だから紛れもなく柚姉の日だった。それでもって、内容は著作権に絡んだ超真面目なシリアスモード。これだよこれ、こういうのを求めていた、と募る溜飲も下がる。やはりニコ動からの脱却が上手く機能しているようだ。

同時刻、五輪開催地決定。せっかくの生中継も同時通訳が会場を満たす厳然な空気と不釣合いで固唾を呑む雰囲気を崩し邪魔だった。やるなら、せめて副音声を残して欲しかったが、それほどに英語がわかりませんか? わからずとも都市名ぐらいは聞き分けられるだろう。しかし、シカゴは真っ先に落ち、オバマも前評判ほどのことはなかった。というか、マスコミの情報収集能力を疑う。応援はしてなかったけれど、東京も落ちてみるとそれはそれで切ないもの。しかし、それはそれで応援したリオには期待を寄せる。何となれば、結局、開催地の違いとは開会式の違いに集約されるので、サンバのリズムが待ちきれない。

そういえば、都知事が誕生日迎えていて、17歳になっていた。一周したうえでの17歳なので、それはそれで17歳だな。

2009年10月1日(木)

How old are you?

年齢が知りたくて、というよりは、戦時中は幾つだったのかが動機の真相で、検索。やはり少年か。そうした匂いは作品から漂っていたので、もしやとは感じていた。ただ、同時に泡坂妻夫が既にこの世にいないことをも知る。そういえば、今年の初めに著名なミステリィ作家が亡くなり、その報道の記憶だけは残っていたのだが、あれが当のニュースだったか。そして、よく見れば旧字で名前も異なる。けれど、表示のしようがない。

害虫だけど

限られる晴れを活用して布団を干した。裏返すときにも取り込むときにもカメムシがもぐりこんでいた。越冬にはまだ早いが、なんだか行動が愛くるしい、害虫だけど。空が暗くなったので布団を取り込んでから、5歩廊下を歩いたところで雨が落ちた。

顔を顰める尖端恐怖症

「ドクター・ハウス」最終回。どうにも消せない臭みがあるけれど、これは病みつきなる。もっとも、病めば治療すればいい。きっと治してくれる。

「ヤング・スーパーマン」と扱う事例からドラマへの導入の形が酷似しているので、スタッフが被っているのではないかと念のため調べてみたが、異なるので、これがアメリカのひとつの典型か。毎度、原因の特定困難な派手な病気と格闘するが、見ていて目をそむけるほど痛々しいのは、淡々と腹を掻っ捌く手術室の場面より腰椎穿刺つまり深々と刺さる注射なのだから「人間って所詮こんなもの」と底が割れる。特に、ロボトミーのごとく目に突き刺したのには「うぎゃー」と叫び声が上がった。

あとは、あの病院のデザインに興味津々で、ガラス張りの病室だと思っていたら、そこがそのまま手術室に早変わりして驚いた。もちろん、ブラインドで外から見えないように工夫はされていたけれど、情報の開示が進んだとはいえ、一般病棟兼手術室という高機能ぶりには、男女共同トイレ並みの衝撃を与えた。久しぶりに見続けられた新しい海外ドラマで、ジャンルとしては短編ミステリィであり、医療ものなのに図られる家宅捜索の存在がなんともユニーク。


Home | Diary | Book | RSS | Mail | Prev | Next

Copyright © 2001-2009 Hide. All rights reserved.

↑ Index