ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

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# Diary

2009年9月30日(水)

ざっと24倍

昨夜も報道していたのを見たけれど、星が光に飲み込まれて日が昇った今朝の新聞でも大きな扱いを受けている12万年前の石器発見の報。5000年前の縄文人なら、古代中国やエジプトの文明を考慮に入れて文化を構築し、文明を興す人間というものをギリギリイメージ可能な範疇だが、12万年前ともなるとその限界ギリギリから24倍は遡らせなければならないわけで苦慮する。しかし、国道沿いで発見とはまた身近なところに埋もれていたものだ。でも、地下に潜るローマの古代都市を頭に入れても見当がつくように、今、人間が住んでいるところには昔から人間は住んでいると考えるのが自然だろう。むしろ大規模な宅地造成技術などは望めなかったゆえに、住みやすい限られた環境にしか住めなかった。

BSジャパンより

カウントダウン――その実は恒例の総集編で「CD銀魂」。久しぶりに見たら突き抜けて、いい回だった。ただし、決まって「凄い」と「酷い」が同居していることが、この作品の救われなさだろう。「銀魂」は止め絵でだらだらとした会話や愚痴で繋いでいるのがお気に入りのパターンだが、今回も掴んでおいて、停滞して、最後に突き落とすという、M-1でも見られる笑いの鉄則が30分で表現されていた。こうしてふざけていられるのもあと半年? 終わる前に一度で良いから、『ジャンプ』漫画らしくシリアスにバトルを徹底している回も見たい気持ちもあるけれど、それをやったら最後、人気は博するだろうが、通常営業の緩さに一瞬にして崩壊、最終回どころか打ち切りを迎える予感が厳然とある。ただ、暗に匂わせるものはあるのに、『ネギま!』のような「萌え」と「バトル」が交差するバランスがないというか、「最低」と「バトル」でどうやればバランスが取れるものか。敢行した結果としての台無しで、会場総立ちのブーイングからのスクリーンに向けてものが投げつけられる地獄のような映像しか思い浮かばない……。

さて、話変わって、名城引き分けによる防衛の試合をラストの2Rだけ見たが、本当に惜しかった。最終Rでダウン寸前まで追い詰めたところで、ダウンを告げようと駆け寄る仕草を見せたレフリィと目が合いパンチを止めてしまった。あの機会を逃さず仕留めていれば、完全なる判定勝ちだったので、みすみす勝ちを逃した。もっとも、チャンピオンとしての引き分けだから負けてはない。なぜだか、菅原文太がゲストとして解説席に呼ばれていたけれど、コメントが渋柿! いやあ、秋だね。

職人技

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泡坂妻夫著『蔭桔梗』読了。驚いた。ごく自然に、むしろ、あまりにも自然に物語を読んでいるが、これが並大抵の技ではない。普通、どの物語であっても、車のギアと同じで作品の土台、舞台作りを必要とする最初が最も読み砕くのに、パワーを必要とする。故に、どうしても、抵抗というものからは逃れられない宿命なのだが、この短編集は、いとも容易く、いつの間にか、ギアは3速から4速にすっと入り込んでしまっている。それもしばらくしてからといった悠長なものではなく、一行目からこの調子である。おまけに、短編集なので、いくら名作でも余韻に浸りすぎていると、今度はそれ自体が抵抗となり次が読みにくくなるものだが、それが一切ない。あたかも、筆遣いのように、すっと入り、さっと抜けているのである。いやはや、これにはたまげた。これは上手い。これこそ見えないけれど確かに賞賛されるものだ。

いつの間にか、午前中は上絵師の仕事、午後は絵筆を鉛筆に持ち換えて、原稿用紙に向かうという習慣ができて、一日中同じ仕事を続けることがないので、両方の仕事がそれぞれに気分転換効果を生じるようになり、はなはだ工合がよろしい。
 この理想的な仕事の関係を長続きさせるためには、あまり売れる作家になってはいけない。そこで、ごくマニア向けのミステリーを書く。奇妙な趣向を凝らして、浮世離れした筋をこねあげ、一般の読者を振り切らなければならない。あるいは、この小説のように、古臭い職人の世界を扱って、漢字を多く使い、新しがりやの若い人達からそっぽを向かれなければならない。これでも、結構、気を遣っているのである。

いかにもメタな上記の文章である。しかし、縁がなく見慣れない用語も脇にあるネットを活用して解決。また、本文が書かれ、20年も経つとむしろ記憶にすら着物が息づかない世界なので、逆に「新しがりやの若い人達」を集めているような気もする。副産物的な浸抜屋という職業も意外なものだったが、そもそも紋屋自体も意表だし、着物を色揚げして染め直すことも知らないというか、前提として着物の色が褪めることも知らないことが罷り通っている。でも、これらの職業から着物を大切にした時代という姿がほのかに浮かんでくる。とりあえず、読むうえで、藁にもすがる思いから、よすがとしたのは、小学生のときの遠足で足を伸ばした藍染の社会科見学での朧気な記憶。

れっきとしたミステリィだが、ミステリィというよりも話のさきに何かある形。職人の苦労というか、巧みな職人技を見せつけながらも、その高度さゆえの、ちょっとした失敗から物語が男女の機微とともに発展する形が風変わり。しかし、職業自体を知らなかったので、当然失敗を知る由もなく、失敗の形すら目新しい。全体的には滋味を演出していて、健康になれそう。そういえば、収録作品である『蔭桔梗』が直木賞を受賞しているらしいけれど、直木賞は長編だけではなかったのか、とこれで知った。でも、収録作品の中では『蔭桔梗』が殊更ぱっとしている感じもしないのが、不思議なところだ。

また、何が好きか列挙しようとも思ったけれど、数えてみれば、ほとんどが好きなので無駄だからやめた。なかでもお気に入りの『弱竹さんの字』では、戦後の混乱期における闇市の描写が生生としていて、ああして実際に見てきているものの息遣いまで聞こえてくる確実なリアリティを私は持ってないと比較して落胆する。どうしても、誰もが見た資料のようなモノクロに凍りついた語彙に乏しいイメージしか持ち得ない。

2009年9月29日(火)

故郷への北帰

昨日の今日の新聞にチンギス・ハーンの墓についての新証言が掲載されていた。チンギスの子孫と言っても、それこそ膨大な数に上りそうで、万一正統後継者だとしてもチンギスの気風なら何かを遺したとも思えず、仮に何かが残っていたとしても時代が下るのではあるまいか。

しかるに、同記事にチンギスのたどるはずだった帰路も地図に掲載されていたが、その地図がまるで、噂のベトナム戦争帰りの馬の帰路を描いた地図のように見え、妙に腑に落ちるところであった。

熱圏のフィールド

HTVは、もっと自律制御してコントロールを明け渡されているのかとも想像していたら、案外、地上でしっかりと管制されていたのが、意外だった。何はともあれ、HTVが2万8千キロで単独飛行しながら宇宙ステーションに近づいていく様子には再現CGなのに、興奮した。そして、成功の裏にあったNASAも絶句するスラスタの発熱トラブル。いや、「アポロ13」もそうだけど、途方もない数のシミュレーションが事前に繰り返され、万全を期して本番に臨んでも、万を超えるシミュレーション以外のたった1つののっぴきならない想定外が起きて盛り上がる。これからの課題としては有人は勿論だが、宇宙に送り込むだけではなく、宇宙から実験結果を持ち帰ることが求められるらしいので、それもすごく楽しみだ。

2009年9月28日(月)

お腹の板挟み

内からは差込み、外からは筋肉痛が襲い掛かる。修羅場としての当事者、また被災者としては、主にどちらからの仕掛けか判然とせず泣きそう。対応としては、とにかく躰が汗ばむほど温めた。

透明な風

書き出しさえ決まれば、あとは捗る。と信じている身としては、「空想につきあっていただきたい」には脱帽。また次章の書き出しでもある、「気体のようなものを書いている」には盛大な溜息が漏れる。私もこんなにも優しくて、かつ力強い書き出しを生み出してみたいものだ。司馬遼太郎著『草原の記』読了。しばらく押入れの中に積まれていたが、まさかこれほどまでの良書を無為に眠らせていたとは思わなんだ。僅か200ページで中も余白が目につきスカスカしていると完全に侮っていた。こうした経験からも外からは何も伝わらない読まねばわからぬ読書の底力を思い知らされる。正伝、もしくは語られることの少ない近代の歴史の流れを読むのを好む身としてはたまらない一冊で、これからも大切にしたい一冊。

筆者は、職業上、小説家に分類されている。従って書くものはことごとく小説として分類されるものでありたいとねがっているものの、しかし小説の概念のほうがそれをゆるさない。
 小説とは、かりに定義をいうとすれば、美学的に秩序づけられた妄言といってよく、その意味では、ここに書いていることもまたとりとめもない。

小説家でありながら、随一の歴史家である著者。たしかにこれも小説のような雲上からの叙事詩。あと10年生きていれば、横綱がモンゴル人になる時代も確認できたものを。さすれば、モンゴル相撲の記述も少しは言及されたのではないかとも思われる。しかし、

ともかくも、この古代東洋史上の大民族が、黄色種だったのか白色種なのかということがいまだにはっきりしていないのである。

これには愕然とした。すべからく匈奴がモンゴロイドであることに、何ら疑いを挟まず生きてきた。そして今もモンゴロイドだろうと信じている。だからこそ、なおさら判然としないの現実に繰り返し愕然とする。畢竟、広大すぎた版図にモンゴロイドを裏付けるものがことごとく残っていないからだろう。残っているのは、ことごとく農耕文明の足跡なのだから、輪を掛けて話をかき乱す。チンギス・ハーンが播種したDNAの話も興味深いのだが、さらに千年は遡るため匈奴の人種を特定するには至らない。ただし、世界各地から様々な特技や技術を持ち得た人たちを徴集したようで、現代に残る中国の自治区や中央アジアの気配は、連綿と続く唯一残された足跡とも言える。本書を読むにともない、ここまでユーラシア北部の地図をじっくり見る機会もなかった。欧米の地図はたまにながめることがあるけれど、近い癖に結局3つの国しかないのだからと国家を大まかに認識するだけで都市単位に微塵も関心を寄せなかったことが要因。匈奴の国であるハンガリィの成り立ちもびっくりだし、改めて万里の長城を意識し、ずっと表出してはいなかったが、内モンゴルという響きにどこか腑に落ちない響きを聴き取っていたと見えて、永らく抱えていた謎が氷解してすっきりしている。そして、何と言っても日本近代史を学ぶには避けて通れない満州を明瞭にイメージできたことが幸運だった。ずっと朧気な形としてしかイメージできなかったので、やっと地図上に国としての国境線が引かれた。また、著者にして「忌むべき習癖」と言わしめた政治犯を利用しての公共事業にシベリア抑留が繋がり、おのずとドストエフスキーへも繋がった。

「財宝がなんであろう。金銭がなんであるか。この世にあるものはすべて過ぎゆく」
 (中略)
「永遠なるものとはなにか、それは人間の記憶である」

作者が少年時代から憧れた草原の地。学生になってからも夢醒めやらぬまま何の因果か時代の潮流に乗り満州に赴任し近づいた。終生、オゴタイの精神や遊牧民の清々しさに魅了され続けたのだろう。だからこそ、バブル期に欲の皮を突っ張らせた同じ日本人の醜態は、なおさら腹立たしく、許容せず、絶望した。きっと格段に蓄財できるようなった技術的な人類の進歩が相変わらず生来から備わる人間の性質を変容させるに至らないところに暴走に歯止めが掛からない浅からぬ所以がある。おまけに現代では映像の力を借りて記憶さえも後世まで手軽に残せてしまうなど、欲望にきりがない。面白いのは、紀元前の王様ギルガメッシュもオゴタイと酷似した言葉を残していて、人間とは仏教の力も借りずにこの境地にたどり着くこと。まあ、元々、新境地を開拓したオリジナルとは、軒並み独力の賜物である。

そして、満州への激しい後悔が拍車を掛ける。

もし、私どもが満州に留まっていたなら、兵士として当然ながら、このひとびとの苦痛と死を、ぜんぶ身代わりすべき立場にあった。

でも、こうした小説より、征服者より、被征服者である二人の女性の凛とした悲しい時代をも乗り越え継がれた意思と生涯に釘付けとなり、心打たれた。

ところで、最近の小説や翻訳文で調子に乗っていると、古めかしい日本語にしばしば躓き、つくづく日本語が苦手だと身にしみて反省。驕っていたことを悔い改めた。

「天は穹廬のように大きく半円をなしている」

これは、遊牧民族であるチュルクの間で謡われていた古謡らしいけれど、宮沢賢治も天を「天椀」と謡った。自然派の人たちの間にはおのずと空が丸くなるものかと共通点を発見。

余談だが、ハワイに行き、泳がない司馬遼太郎に向かって「泳がないのか?」と尋ねたところ、「泳げないから」と司馬が断り、「これだから陸軍は……」と言った阿川弘之の軽口をまとめて逸話として思い出した。

懺・さよなら絶望先生

あ、最終回か。そうだよな、今日あたり終止符を打っておかないと、来週からは2クール目に突入しちゃう。『絶望先生』の軽いノリで「あ、忘れてました」とうっかり改編突破はあり得るけれど、誰が忘れるわけもなく無茶だ。総評として、第3期は、原作準拠で、千里大活躍の裏でキャラの煽りやSEが最上級の可愛さだった。漫画はあんな内容ながら、キャラクタの艶っぽさを証明できた集大成でもある。よって、もっと見ていたいのだが、それ自体ギャグのようなまさかの3期だったので、4期は相当厳しいのかな。シャフトもしばらく忙しそうで、他のアニメのように作画崩壊は招かなかったが、絵が間に合わない事態は生じた。もっとも、「絶望先生」だけは無駄に力を抜かなかったようだ。そうそう、OP絵の印象で「林檎もぎれビーム」の心証が雲泥万里がらりと変わったのだから、絵の力って良くも悪くも支配力があるとしみじみ痛感した。今後は、OADで引き伸ばしつつ、長編アニメーション化が狙い目か……!? 著作権イエロー物件のさのすけも躍進していたけれど、前回爆死したことで、強制成仏。でも、派手だけど厄介なミサイルネタではなく、地味だけと本質のような「きよひこの夜」で終わるところが凄まじい。

最後は絵描き歌か。どうやったら、ああいった魔のプラントが描けてしまうんだ小林ゆう。それに、ラストにうようよ湧き出した他の複数の物体は何だ? 同じものを描いているはずなのにまったく違うものを生産していやがる。もっとも、一応植物系に見えることからも「チュ〜リップ♪」は意識しているようだった。

しかし、原作準拠といいながら、原作自体が最初の頃からはブレていたらしく、黒板ネタや望がきちんと絶望した回が初心に還ったようで、懐かしさを感じつつ、むしろ新鮮で、普通に面白かった。これらのことからも、連載開始当初から非常に良く出来た漫画であり、面白さは証明されているのに、連載中は間断なく更なる高みを目指さざるをえず、無理やり茨の道を突き抜けるから傷だらけに、ひいては血塗れになっているのだろう。

2009年9月27日(日)

「グイン・サーガ」最終回。これほどまでに女の情念が前面に押し出されている物語を他に知らない。しかもキャラクタの性別を超えて女性が前面に出ているのである。『源氏物語』も光源氏を中心に据えた女性の物語なのだが、あちらは三歩下がるどころか、生霊になるまで退いているところがあって、大変奥床しい。そうしたところで決定的に袂別しているようだ。

リンダの悲鳴に本気でびびるなど、最終回は稀に見る見事な最終回であって、続きが見たいと思わせたのは上手い。ここだけ振り返っても、まるで海外ドラマの所感である。そういった意味でも、日本のアニメは、終わり方が非常に曖昧になりがちというか、原作と歩調を揃えて先のヴィジョンが見通せない、ここに至っての残念な形に陥ってしまうので、漠然とした光輝を放つ未来ではなく、英雄的でもあり、逞しいキャラクタたちの沸き立つようなこれからの動きの気配を予感し得ただけでも大したものだ。とどのつまり、物語はアイデンティティの追求に終始するのだが、賢狼ホロと異なり、各々が八方で求め合っているので壮大な世界を相互に補完し構築している。また、原作のストックは類を見ないほどに存在するから、次作も製作不可能なこともないのだろうが、畢竟、どこまで行っても尽きることのない物語なのではある。しかしながら、その100冊を超えていることの偉大さが、原作へのシフトをも二の足を踏ませる状態に陥らせ、だからこその続編の希望は募る。

絵の良し悪しの落差は目に余ったのだが、OPにあるような壮大な景色を背にした場面では美しさが際立った。反面、際立つからこそ悪目立ちする。目の力の入れようが特筆に価し、天に昇るようだ。そうそう、目といえば、目つきが変わってからの王子は好きだ。アクションは初回から見物だったが、やはりグインのアクションに関しては卓越した剣捌きではなく荒々しく豪腕を振るうことに尽きる。ナリスの非道さに反比例するかのごとくアムネリスへの好感を高めていったことについてはここに綴っておこう。あと紅の傭兵が災いを呼ぶとしたの星の巡りは最悪だ。

放送途中での栗本薫の訃報は、悲しいものであったが、一方でアニメ化という明るい話が間に合ったのかなとも思える。

2009年9月26日(土)

Gの餌付け

カリカリカリ……。

もちろん、食べさせるために置いてあるのだが、即効性はないようで、帰巣しようとしたところをスプレーで始末した。何も、人がいるときにかぎって食べなくてもね……。本来、無人用だろうに。それにしても、餌に齧りつく音が思いのほか大きくて驚いた。耳朶に不快な音がこびりつく。

全110話、見果てたり

20話ぐらいは見られたか。マリーンドルフなどの、のちの重要人物たちの何気ない初登場シーンから、当初から組み込まれている脚本上の戦略が窺い知れて興味深かった。向こう見ずな放送時間のわりには運良く、ヤンの場面などの見たいところは見納めた気もするし、また、どこ切っても金言が迸るので、どこを見てもいいのだろうともおもんぱかれる。とりわけ苦境に立たされている同盟側からの見解が政治を考える上で身にしみ、活字として、言葉だけを抽出するのではなく、この場面で放たれた言葉だったのかとおさらいした。

毎夜、先行して本日の内容を数分のダイジェストで紹介する特別番組が用意されていたが、ミッターマイヤーが変わらず好青年を演じているのに対し、同い年のロイエンタールの癖が非常に濃くなっていて笑った。しかし、ユリアンの声には理解していても、失望は免れ得ない。キャラではなく、声優として振り返るようにしたほうが、無難ではあったか。

2009年9月25日(金)

処罰

ある程度、本を読まねば心が乱れるが、小説ばかり読んでいても不満が募る。こういうときに、精神の危うさとバランスの悪さが際立ち、偏向して好きなものだけ読み続けられない辛さが露呈する。根本的に本が好きではないことへのしっぺ返し。

泡坂妻夫著『蔭桔梗』(新潮文庫)、連城三紀彦著『造花の蜜』(角川春樹事務所)、中沢新一著『ミクロコスモス II』(四季社)を借りた。これに加えて司馬遼太郎を抱えているのだから、渋い面子である。

そういえば、彼岸花が咲いていた。彼岸に咲くから彼岸花とは言いえて妙。しかし、かなり綺麗な花に属すると思うのだが好む人は少ないようにも思われる。たしかに、名前もそうだが、土手にぽつんと咲く凛とした佇まいにはいけない美が琴線を刺激する。その美は、喪服に通ずるものがある。有毒植物という弱点もあるけれど、それならアジサイも等しいので、そこまで嫌わなくてもよかろうと私は擁護するのだが……。

2009年9月24日(木)

HIT!

巨人が優勝を決めて1日が過ぎてもわくわくがしれっとしている。これほどまでにファンの面でもアンチの面でも感情移入できていない自分にビックリな朝、あとずさったおりに、ふくらはぎを椅子の横木にぶつけた。鈍い痛みに、ふと「ローキックを食らったみたい」と経験もないくせに妙な感想を抱いたが、数時間が経過しても鈍痛が消えやしない。案外、鋭いローであったようだ。

孤独な交わり

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セミのように素数に惹きつけられてみれば、期待はずれ。仲間のいない世界には滅びしかない。パオロ・ジョルダーノ著『素数たちの孤独』読了。

孤独な人物たちが交わり、すれ違う。しかしながら、まだ主人公たち以外、特に年配には微塵も目もくれず、解説を読むまで皆が孤独な状況に置かれていることにさえ気付けなかった。年を取れば見方が変わるかもしれない。終盤ではまさかの展開を見せ泡を食う。しかし、動揺はするが、この揺れには悪酔いはしない。

子供の残酷なまでの攻撃性は万国共通か。ところが、少し成長したティーンによる陰険な扱いは日本の教室物語を読んでいるようで、これは、一体どこの物語だと改めて確認した。そうか、イタリアか。イタリアってもっと大らかで情熱的なお国柄だと思い込んでいた。きっと笑いが取れない関西人もいるように、どこの世界にもステレオタイプには収まらない例外や大人物がいるものなのだろう。そして妥協できず許せなくて孤独へ向かうのか。

たびたび『また会う日まで』のハーレム学生時代が頭をよぎる一方で、惜しむらくは、これが化ける可能性を秘めていた物語だと確信しているからだろう。もっと長編にするか、さもなくば学生時代を引き伸ばすのが有効かな。『悪童日記』になれるような匂いも秘めている。

さて、本作は映画化されるとある。どう料理するのか多少頭を捻ってみたが、普段からイメージ爆発派なので、演出には悩まず、どちらかといえば時間配分に悩むことになりそうだ。やはり子供時代を多く見せたいが、そうなると結末が慌しくなって厳しい。おそらく、まさかの展開を除いた結果が一番わかりやすくはあるだろう。でもそれは、ヨーロッパ映画になるだろうか? また孤独が伝えられるだろうか?

狼は食う

「狼と香辛料II」終了。結局、二つの話しかしていないのだ。たっぷりと濃密な逢瀬と犬も食わない喧嘩を繰り返したので、まるでそうした現実と感覚とが乖離している。そういえば、裸も狼化のシーンもなかった。どうしてこれが深夜に放送しているのだろうと首を傾げた訳はここにありそうだ。裸はOP映像ぐらいなもので、前期ではよく見かけたものなのに、一番の変化かもしれない。

それでなくとも、極彩色の木曜の夜に悶々として寝付かれないのは、この作品のせいというよりも、具体的にはロレンスの意気地なし! しかし、次は「クイーンズ・ブレイド」らしいので、来年までは安眠が確保できることだろう。

余談になるが、ちょうど「銀英伝」の一挙放送と「タイタニア」が被り、比較することができた。手抜きというかコピペに萎える。あと、正確なのだろうが、遠近法が整っているのがつまらなくて、正解ではないな、と良い認識を得られた。

2009年9月23日(水)

送風

暑さに耐え切れず、片付けていた扇風機を引っ張り出した。気分は、議員辞職による繰り上げ当選。しかし、いつから暑かったのかと言えば、扇風機を片付けた日から既に団扇で扇ぐほど暑かったので間が抜けている。

2009年9月22日(火)

陸・海・空・宙、三千世界

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映画「グレート・ビギン」。のこらず見たわけではない。それに、すべてが優れていたわけでもない。だが、蛇が自分の頭の優に数倍はある卵を果敢に、そして強欲に、また貪欲に口が裂けてしまうのではないか、とヒトなら人相も変わるほど、顎があれば顎を外して引き攣らせ、食い意地だけで卵を丸呑みした挙句、胴の筋肉で卵を締めつけ、波打つ蠕動運動で捻り潰し、中味だけを嚥下。次に無音だがあたかも絶叫するかのごとく開いた口から殻を吐き出すシーンに総毛立った。さらに落下した桃が徐々に腐りカビが生えその版図を拡げ、黒ずみ萎れて土に帰るシーンが鮮やかなほど烈しく、そうした生の延長線上にある死の微速度撮影に見蕩れた。思えば、教育ビデオでよく見た植物の成長などを捉えた映像は旺盛な生命力しか捉えてなくて、忍び寄る死の気配や朽ちていく様子には無関心を装っている。まるまるドキュメンタリィというわけでもなく、わざとらしく蛇の前に卵が置いてあるとか、大きな蛙の前に小さな餌となる蛙が歩いているとか、桜の花が急に河に流れ出したとかの不自然な演出も目につくけれども、目的の前には些事で大目に見られるだろう。

同時に、「宙のまにまに」最終回も視聴。上級生に廊下で押し倒される悪夢はトラウマになりそう。アニメとして見えないものが見えているからことさら残念な思いに駆られるのが、西洋に支配された天体図。あのような絵画は見えないし、存在しない。星空を見上げれば、もっと純粋に星だけが描く線が見える。だからこそ、美星なら美星が見た白鳥が宇宙をバックに飛翔していて欲しかった。しかし、テーマもいいし、爽やかなので、中途半端にサービスのつもりなら温泉シーンが邪魔だった。

2009年9月21日(月)

もしかして名医?

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奥田英朗著『イン・ザ・プール』読了。「悲しみはユーモアの源だ」という格言があるけれど、これこそまさに悲哀。非凡な症状が抱腹絶倒なので、頭から数えて2作品以外は症状自体は物珍しいものでもなかったのがいささか残念な気持ち。

しかるに、『フレンズ』の時代設定を5年は誤っていないかと違和感が拭えなかった。何せ、「ピッチで7万→ブラックリスト入り」の伝説を知っているがゆえに、5年後の設定でも大変遅れている感じがする。

タイトルにも引用したけれど、無能なようで患者に親しまれているのが、伊良部医師の最大の功績。それは、そのまま読者にも受け継がれている。

2009年9月20日(日)

惜別

「クレヨンしんちゃん」の作者失踪というか行方不明でモーレツな嵐が吹きつける日が幾日が経ち、行方不明よりも失踪していると考えて過ごす日々のほうが、気休めだが心穏やかでいられた。そうした遭難と行方不明と失踪の言葉の差異が力を増すなかで、とうとう当初からの懸念のとおりに遺体で発見された。ブルーシートで覆われたとはいえ、ヘリで吊り上げられた躰が曲がっていたのが、痛ましかった。おそらく邪推の入り込む余地はなく滑落事故だろう。しかし、こういったときに有名人という存在は、想像をむやみにかき乱す。これが無名の人間なら、よくある事故の映像に過ぎず、ここまでの苦痛も生じなかったのに……。

これから先も作品のアレンジは可能でアニメは継続できる。ところが、しんちゃんの未来は唯一無二で作者しか描けないものだった。つくづく惜しまれます。

「ハヤテのごとく」最終回

「パッキー」からの万国旗にはキュンときた。ただ、直後に足元の床が観音開きに開いて「堕ちろ〜」と非情にも心の中で叫ぶ。

何はともあれ、「ハヤテ」を語るなら、今年の潮流である復帰組みについても語ろうかと目論んでいただけに、先陣を切っての終了に語りづらいものがある、と目測を誤った。「ハガレン」も同様だが、原作に寄ったのとスタッフが一新したのとで、絵柄が顕著に変わったのがことさら印象的で、「ああ、作る人が変わるとこうもがらりと作品が一変するものなのか」と素朴な感慨を抱いた。また1期では人を選ぶギャグが多くて、それについていけず白けていた記憶があるが、原作に忠実になった効果か、まだ前期の後遺症が抜けない中、遠慮がちにほどほどに見ていたにも拘らず、まさかのラストに胸キュン。これならば、ほどほどに継続視聴も可能だ。

2009年9月19日(土)

喧嘩上等! 査問必至?

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バカにつける薬はなく、逆上せ上がり熱血バカの物語を読むと始末に負えない。有川浩著『図書館内乱』読了。ハードカバーで良かったとほっと一息なでおろすのは、真実業腹に陥るので、やわなソフトカバーではどうなっていたことか、と案じるから。前作においても頭に発散されない血が上っていた記憶はあるけれど、今回は加えてシナリオがどす黒い。この鮮やかな対比は脳の血管的には非常にまずいかも……。でも、前作のような実戦の描写がなく、こういう絶妙な伏線が張られた展開になるとは想像だにしなかったので、泡を食った。さすがほれぼれクールビューティー

アニメのほとぼりが冷めるを待ち1年半が経過したが、この怒涛の流れに味を占めれば、今後1年も歯止めが利くとは考えられないのは論を俟たないところ……、まあ、それも良かろう。そういえば、ネタバレを警戒したアニメをそこそこに卑猥なラジオを聴いていたっけ。最後は、有川浩が飛んだとか……。相変わらず、徒花スクモによる表紙の絵が素敵でした。

中途失調者の描写が類を見ず、克明で興味深かった。スポットが当たらないと変化は見えてこないし、マイクを向けなければ、声は届かない。

おかしな話に思われるかもしれない。ただ事実なので装飾の仕様もなく、ありのまま綴るが、『罪と罰』よりも辞書を繙く比率が高かった。ライトのベルは文体には癖があるものだから、そのせいかとも思われたが、よくよく検討してみるに引く言葉にはフィジカルな言葉が多くて、これは活字で理解するものではないことがわかる。さすが、感覚派といったところか。作者の国語力が私より数段優り、これらが読むことで得られるなら無上の嬉びとなる。

2009年9月18日(金)

たたごとではない

眠りの小五郎解雇。そんなに容易く取っかえが利く立場でないだろうに。瞬間的によぎったのは、こんなに長く作品が続かなければ、解雇も起きず有終の美を飾れたものをというネガティブなものだった。色々、思い当たる節もないこともなく、さて、どれがが当たりで、どれが外れだろう。

2009年9月17日(木)

鼻を刺激する笑い

扇風機を片付けた。うちは一族のシンボルのようなボーダフォンの団扇も同時に片付けたけれど、まだ必要らしいことがわかって引っ張り出す。気分は比例復活。

ドブ臭が漂う乾特製「いわし水」。おそらく生ゴミの臭いと思われるが、無邪気な再現が、まさか地獄絵図を描き出すほど強烈なものになろうとは……。ラジオで笑って泣いて、おまけに、自分でもどこから声が漏れているのか面妖な、か細い奇声が不規則に発した。やはり「臭い」「不味い」「痛い」などの本能任せの単純なリアクションが一番のツボ。そうした反応を示すと「まだまだ嗜好がガキだな」と自戒もするけれど、練りに練られた複雑なもので笑うのは、笑う前に見え透いて鼻についてしまうので心底難しい。

2009年9月16日(水)

ライト

有川浩著『図書館内乱』(メディアワークス)、奥田英朗著『イン・ザ・プール』(文藝春秋)、パオロ・ジョルダーノ著『素数たちの孤独』(早川書房)を借りた。

なにぶん超大作の直後なので、躰がライトなものを渇望し、意識を俯瞰する私もそれに抗う気が毛頭なかった。もっとも、『罪と罰』と比較すれば、どのようなものであれ軽く感じられたことだろう。

しかるに、喉がいがらむ。流行の風邪か。否、さにあらず、昨日、声を絞り出したために喉に何かが来たらしい。

一時代の終焉

ファミリー劇場で放送していた「銀河英雄伝説」が終了した。放送中は珠玉の言葉に打たれ、あれだけ感激していた物語であったが、終わってみたところでの所感となると、そこにはぽっかり虚が生まれ、一言もないのだから不思議なものだ。英雄の活躍に比例して必ずしも英雄の死が輝くわけでもなく、水を打ったように心が静まり、すなわち完全燃焼したのだろうとおもんぱかれる。まあ、巨星が落ちた時点で終わっていたというのは、強く身にしみるところ。そして、来週110話一挙放送という無茶な企画が用意されているので、時間の都合が合ったときにだけぼちぼちと振り返りたい……!?

しかし、作品の素晴らしさ相応しい人気が得られていないのが残念な作品ではある。知られているところに出ると絶大で抜群の人気を誇るのに対して、知られていないところでは、口の端にも上らない。スプラッタの傾向も大いにあるので、一般諸氏が避けたゆえの知名度の低さがカルト的人気として現れている。ガンダムにしても30年経ってお台場に立ったのだから、評価が沸騰して引き上げられるまではもう少しの猶予が必要か。だが、あのスプラッタは必要悪というか、あの残酷な映像がなければ、血に塗れた英雄が忘れられて、本当に輝かしい英雄がそこにいただけの物語になる。最後のユリアンの戦闘にしても、正当化できず、若干、引いてしまう部分があるのはそのせいだろう。ただし、現状の自主規制コースがまさにその危惧する軌道上にあるのだから怖い。

そもそも放送するきっかけとなった「タイタニア」との比較に言及すれば、内容は作品が違うから仕方ないにしても、規制の強化と絵を描く力が落ちているのが残念だ。たとえCGのひとつひとつは悪くないにしても完成したときに浮いてしまう質感で台無しになる。せめて爆発エフェクトを早急に改善すべきだ。要するに、手間暇が掛かるのであれば、それだけを与えられるだけの賃金体制の確立が急務だろう。

個人的に説明不能なけったいな感覚を味わった部分があって、まず、間違いなく初見の作品のはずであった。しかし、知っているというにはまるで記憶になく、知らないというには、まざまざとした既知感が、ユリアンのフェザーン任地に関して発揮され、首を傾げた。展開を洞察したというよりは、やはり体験しているような感覚なので、あるいは、どこかで接触しているが忘れているだけなのか?

2009年9月15日(火)

倒錯して転倒

はっ、「シャングリ・ラ」が30分押したせいで裏と重なりの最終回が見られない! 何と重なったのかとは翌日明らかになるとして、折角、所感にかこつけたぐちを綴る気満々なのに命拾いしたか、こちらは惜しいことをした。他と比べても一足早い終了だが、打ち切られたのか知らん。以下、纏まらなかった雑念。

第一に、池上永一原作といったこともあって期待値がべらぼうに高かった。アニメを見るか原作を読むかで逡巡した挙句にアニメを選び歯噛みするとは悪夢だ。

第二に、舞台はやたらと大きい癖に活動範囲が狭量、とひどくちぐはぐな印象を受けたのが象徴的で、すべてにおいてスケール感がいびつであった。大きく見せたいのか小さく纏めたいのか、いかんせん物語の核が謎過ぎて、いまひとつ明瞭にあまりにも情報が伝播しないままに進む。それでもなお面白ければ、不満さえ噴出せずに封じれたのであるが……。

第三に、人気が主人公より脇役に集まるのはありがちだが、単細胞で野放図なキャラクタの國子の行動力はややこしさで世界の謎とかち合い渋滞を起こした。というよりも、シンプルで複雑な香凛が素晴らしいとの贔屓から、ここは果敢に、アニメではアキバを舞台に香凛をメインに据えて切り込めれていればとそのようなことまで僭越ながら思った次第。万一、香凛との絡みがなければ、とっくに諦めていたことだろう――もっとも、見切れなかったからこそ今になって辛辣にくだを巻く醜態を晒していて、それはどちらが幸せなのかは一考を要する。香凛を中心にしたコミュニティが実に生き生きとし、訳のわからない社会秩序よりヴィジュアルに偏っているとはいえ、アヴァターを介したネットによる攻防がよほど健全だ。加えて、香凛が主人公となることで、國子が脇役として人気が出るのではなかろうか。声の調子も世界の実情とは裏腹に実に呑気でいらつかせた。あの大胆な行動力ならボーイッシュな子のほうがシリアスが加味されて良かったのではないか。もっとも、いらつかせたのには主に別の訳があって、こちらは長子タイプには理解が共有できるはず。

第四に、モモコが綺麗過ぎた。久しぶりにアニメで上玉を確認したと思ったのに、物語に負けず劣らず複雑な世界だ。ちなみに、前に見た高嶺の花とは、バラライカである。

ともあれ、最終回を見逃したのだから、終わりよければ全て良しの千載一遇の機会を逃した可能性は否めない。

図星

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ねえ、ソーニャ、きみもわかるだろけど、低い天井とせまい部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ! ああ、ぼくはどんなにあの穴ぐらを憎んだことか! でもやっぱり、出る気にはなれなかった。わざと出ようとしなかったんだ! 何日も何日も外へ出なかった、働きたくなかった、食う気さえ起きなかった、ただ寝てばかりいた。

長い。長すぎる。文字でびっちり埋まった末の上下巻は、どこか削るか、もしくは改行するなりしてリーダビリティの向上を求めたほうが色々と都合が良かろうと思われるが、活字全盛期は、そういった読者の意向に添う戯けた概念は不在だったのだろう。ドストエフスキー著『罪と罰』読了。

1時間で読破する蘭丸も蘭丸だが、私はといえば、1時間掛けてほうほうの態で1章読んだ時点で満足して本を閉じた。まあ、こうした様子からも、時間が掛かるのも伝わるだろう。一方で、長さは読む前から目に見えていたので、覚悟だけはしていた。けれど、難攻不落の城壁かと想像していたから、見当違いもはなはだしく、ひじょうに読みやすかったのが、意外と言えば意外でむしろ狼狽したほど。おまけに、最初から最後まで、ひたすらくだくだしいだけで、難解な部分は微塵もなく、これならよほど京極夏彦が頭痛の種だ。ただし、長時間の読書は、日頃から姿勢が悪さが欠点な肉体には厳しくて、8月から頸部から後頭部にかけての痛みをごまかしていたけれど、いい加減、ごまかしも利かない程度になった。このままではカジモドになりそう、と居住まいを正すも、加えて、肉体も駄目なら、精神も乱れた。読了という一体のペースが維持されることによって精神の危うい安寧を生み出していた感は否めないので、ペースが乱れて気塞ぎ。顕著なのが、日記で、一気に文字数が落ちた。もう、どうやってくだくだと書き綴っていたのか思い出せず、現状に隔世の感がある。一息ついて、冷静に振り返ってみると、長文をインプットしているのに、同時に長文をアウトプットすることが耐え難かったのかもしれない。

「え? お坊さん?……いらないよ……どこにそんな余分なお金があるの?……わたしには罪なんかないもの!……神さまはそれでなくなって許してくださるはずだわ……わたしがどんなに苦しんだか、神さまがご存じだもの!……許してくださらなきゃ、それでいいじゃないの、いらないよ!……」

平たく区分すれば、これはサスペンスである。貧困が罪だとする圧倒的リアリティを含んだ困窮に、今更「いつの世も人間は変わらないものだ」との論を俟たない常套句を吐く気はさらさらないけれど、心理的描写の正確性の演出が巧みで、引きずり込まれた。ずばり的を射抜かれたのである。しかも、おそらく他人ではなく自分自身の反省と後悔を含む告白をしているのにも関わらず、他人が自分のことのように共感して重ねる結果を生み出したのだから、面白い。もっとも、名作なので、読まずとも生きていれば少しずつ内容を小耳に挟み、回避不能なネタバレを犯した地雷を踏むわけで、それでなくとも環境も境遇も展開すらも考えられないこともないなかでは、オチはどうつけるのだろう、とその一点に興味は完全に絞られた。しかし、長編には予想を超えた、あるいは早々に計算を使い果たした度肝を抜く展開が待ち構えているもので、ペンキ屋の自白には泡を食った。ああした、絡みが重層的に一作品に纏まっているのだから、壮絶だ。振り返ってみると、婚約者であるピョートル・ペトローヴィチとの攻防を楽しく読んでいたと知れる。犯罪者の物語なので、どうしても暗澹となる一方の気持ちの中では、唯一ペトローヴィチに対してだけ、臆面もなく義憤が貫けれた。それが、気持ちのうえで大いに健全だった。しかし、ドストエフスキーが当時のロシアの社会風俗を捉えたように、私が日本を捉えられないことには引け目を強く感じる。捕まえた気になるどの諸問題も実は日本とはかけ離れた問題のようで身近に手繰り寄せられず、身近な問題はあまりに私的で肝心な日本の姿を見失っていると悟るのだから面目ない。

あなたはこれまでどれだけ生活して来ました? どれだけものごとを理解しています? 一つの理論を考え出したが、それが崩れ去り、ごく月並な結果になったので、恥ずかしくなった! 卑劣な結果に終ったこと、それは確かだが、でもやはりあなたは望みのない卑怯者ではない。決してそんな卑怯者じゃない! 少なくともいつまでもぐずぐず逆らっていないで、ひと思いに最後の柱まで突進した。わたしがあなたをどう見てると思います? わたしはあなたがこういう人間だと思っているのです、信仰か神が見出されさえすれば、たとい腸をえぐりとられようと、毅然として立ち、笑って迫害者どもを見ているような人間です。だから、見出すことです、そして生きていきなさい。あなたは、まず第一に、もうとっくに空気を変える必要があったのです。なあに、苦しみもいいことです。苦しみなさい。ミコライも、苦しみを望むのは、正しいことかもしれません。信じられないのは、わかります。だが、小ざかしく利口ぶってはいけません。ごちゃごちゃ考えないで、いきなり生活に身を委ねることです。心配はいりません、――まっすぐ岸へはこばれ、ちゃんと立たせられます。どんな岸ですって? それがどうしてわたしにわかります? わたしは、あなたにまだまだ多くの生活があることを、信じているだけです。

不思議なのは、これを読むことでロシアとの心の距離が縮まったことだ。コンテンツの力とはげに恐ろしい。また舞台となった広場や建物が現存しているのが、嬉しい。日本発のコンテンツといえば、昔は浮世絵で今はアニメに取って代わったが、ごく僅かに聖地巡礼として話題となる部分もあるけれど、それらが、150年後に残っているかといえば、すっかり変わってしまっているとしかこれまでの日本の歴史を考慮するとそれ以外の未来を描けない。唯一、残る可能性があるのは、神社で、大人が神社仏閣が好きなのは、子供のころから見た情景が歳月を経ても手付かずのままそこに保存されているからだろう。そういう意味でもヨーロッパの人たちは何が観光地にさせるかきちんと理解していて、「変えなければいいだけ」の精神が身についている。ついでに、当時のシベリアとはどんな存在だったのだろうと思いを馳せた。日本からすれば、戦後のシベリア抑留の印象が根強く、今もロシアの僻地としてのイメージから飛躍しない。しかし、幕末の頃にドストエフスキーが案外、日本と目と鼻の先にいたかもしれないと想像するとそれだけでちょっと興奮する。そもそも、数少ない隣国なのだから敬意を払わないと。

現在は対象も目的もない不安、そして未来は何の実りももたらさぬ、たえまないむだな犠牲、――これがこの世で彼のまえにあるすべてだった。八年すぎてもまだやっと三十二だから、まだ生活のやり直しができるといったところで、それが何の慰めになろう! 何のために生きるのだ? 何を目標におくのだ? 何に突き進むのだ? 存在するために、生きるのか?

2009年9月14日(月)

十年一昔

イチローの9年連続200本安打は立派なものだが、やはり振り返ったときに繰り返し流れる映像が内野安打では、いくら持ち味でもすっきりとはいかなかった。もちろん、気持ちがすっきりしないだけで文句ではないし、ましてや非難ではない。言うなれば、ぐち。

次の目標となると10年連続か。ちょっと引っ掛かったのは、大リーグで通算2000本安打を達成したときに珍しくも大リーグ史上2位のスピード記録であったので、3000本安打を達成した暁には是非、最速を期する。とはいえ、「10年……」と、言葉では簡単に口に出せるけれど、真実、未来予測は不能である。あと5年なら、今のペースでいけるかもしれないとは期待は持てるが……。まあ、10年前にイチローが日本でプレイしていたことさえ記憶から薄れているのだから、先を見通すこととは、げに困難を極める。

2009年9月13日(日)

ゴリゴリとしわ寄せ

右の肩を回すとゴリゴリと音が鳴る。左の肩を回しても何ら音は聞こえない。正確には肩ではなく、肩甲骨が鳴っているのだが、これは右利きだという以外に何を意味しているのだろう。未来に何が待つのか。思えば、事故による骨折は別にして、右半身のほうが、躰の不調が目立つ。この頃は、右の股関節が炎症しているのか、痛みがあり、足を組むのをやや控え、しいて組むなら左足を組み上げるよう工夫している。それは胡坐をかくときも一緒で、実に不自由だ。

2009年9月12日(土)

とぶくすり

自主規制の形でタブー化されているが、ナインティナインだけは芸能界に蔓延るクスリをネタにして突っ込み笑いを取る。その不適さは痛快で清々しい。先週も先々週も鳥居みゆきでいじり、『オールナイトニッ本』のイベントでも組み込んでいたが、さすがに今日の海辺の別荘を優勝商品にして提示したのには肝を潰した。もっとも、実際は99ではなく、番組が提示している。爆笑問題も突っ込んではいそうだけれど、主に99の番組しか見ていないので、要は他を知らないだけである。だが、それにしても、それにしてもだろう。今後、やって欲しい企画としては、「めちゃイケ」で「抜き打ちおクスリ検査」。まあ、厳格な検査ではなくても麻薬検査犬がその場をうろうろするだけで充分成り立つ企画だと思う。「お台場警察24時」内でありかな。

風呂上がりに「華麗なるスパイ」をちらり。深田恭子はもともと顔が人形みたいな目鼻立ちをしているので、ドロンジョ様のときもそうであったが、デフォルメされたキャラのドラマ化にぴたりと符合する。画面に浮かない力のは天性のもので、他の女優では太刀打ちできない。

2009年9月11日(金)

それだけ

調べもの。ふと「スカイ・クロラ」で目が留まる。

それだけでは、いけないのか
 それだけのことだから、いけないのか

これと同じような言葉を先日見たばかり。確か『すてきなひとりぼっち』に収録されていたはず……。ああ、『はな』だ。気にはなっていたけれど、蒸し返すほど引っかかっていたのは、これのせいかな。

にんげんはなにかをしなくてはいけないのか
 はなはたださいているだけなのに
 それだけでいきているのに

「よみがえるビートルズ」

NHKにて放送。結構、生々しいバンドの軌跡がそこにあって、英語が聞き分けられると、それらも当時の音楽から生々しく感じられたはずなのだが、いかんせん英語なので耳に飛び込んできた全てが聾で神格化している。

「成功して、今まで勇気がなくて出来なかったことが出来るようになった」と、実に平凡な発言をビートルズのメンバがしていたのが、感慨深い。ちょっと前に、ビートルズについて考えていたことがあって、まあ、それも今回のアルバムに端を発しているのだが、一曲できれば、あとは作れるなと、深い意味もなくそのままに、単純に手ごたえを感じていた。

こうしたメンバの回想があるときにジョンの回想が抜けているのが返す返すも惜しまれる。

2009年9月10日(木)

鰯に羊

天気は悪くないのに、太陽の腰が低くて、日が当たらないから、不安になる。見上げれば、鰯に羊。

堂々と演じ切る人たちの存在を知っていると生放送は特別緊張するものだといった当然のことをうっかり失念してしまう。今日は徳永愛の照れと羞恥と戸惑いと諦念によって大切なことを思い出せた。既に舞台はパーソナリティ、スタッフ、リスナによって用意万端整っている。そこへ、突如、立たされ脚光を浴びた当人にとっては、大事故であったろうが、聴いている分には反対に、慌てふためくが故に愉快な時間であった。久しぶりにラジオで声を出して笑い、ついに飛び出した「こんなもんです、徳永愛」は名言。再来して欲しいけれど、決して舞台には慣れないで欲しい。しかし、この性格で総合格闘技が好きなのだから、人間は複雑さを証明している。格闘技は好きな私でも総合だけは、スポーツにそぐわない荒々しさで忌避しているので、なおさら印象に残った。

何はともあれ、本日の主役H2Bの打ち上げ式は当然NHKで中継の機会が設けられていると思って楽しみにしていたのだが……、蓋を開ければ金朋地獄。新型のお披露目なのに世間は冷遇と無遠慮。しかし、誰も見ずとも少なくともNHKぐらいは国力を挙げた開発に目を向けるべきと思うのだが。「月探査衛星かぐや」からの中継や『ふたつのスピカ』のドラマ化、数十年ぶりの皆既日食の撮影と、薄々宇宙に関心を寄せていると思っていた矢先の日本の宇宙開発の根幹に対してのどこ吹く風はちぐはぐな印象を与える。先日、韓国のロケットが失敗して、ここは日本の力を示すべしとの意気込みと、失敗を繰り返し名を下げた新型の不安も噛み合い割と力の入った打ち上げだっただけに、冷ややかな目は秋風より冷たし……。

それにしても、大きさを見るとガンダムのゆうに3倍はある。まあ、ほとんどが燃料タンクだし、お台場に立ったガンダムが想像よりも小さかったとは言われているけれど、一応あちらは輸送可能な仕様なので、輸送するものと輸送されるものとの差異が厳然とあるのは道理。大きさでビックリさせるのが目的となるとサイコガンダムでも用意しないと皆の度肝は抜けないだろう。

2009年9月9日(水)

抜きで

眠る前から冷えを感じていたが、朝になれば、暖かくなっているだろうとの目算のもと目を閉じたものの、目を開ければ、軽く後悔するほどもの酷く冷え込んでいた。せめて窓ぐらいは閉めておくべきだった。タオルケット一枚では過酷な秋だ。新型抜きで風邪引きそう。

オーディション

TVを点けたら、立て続けに3得点で逆転勝利。一体誰が福の神なんだか……。重陽。

ともあれ、アジア予選よりもずっと面白い。何となれば、既にオーディションが始まっているからだろう。その緊迫感が選手を後押しし、また硬直させる。見ている方も健全にはらはらしてきて、何とも甘美。少なくとも選手たちの間には、どうでもいい試合は消えた。視聴者がそれに気付くのはいつ頃だろう。

2009年9月8日(火)

夏のお別れ

朝から洗濯しようと心に決めていたが、窓を開ければ曇り空でお預け。でも、お預けより何より、季節を感じる気候で、一気に秋が走り出しそうで寂しい。蝉は鳴いてるけれど、アブラゼミはいない。

2009年9月7日(月)

カンブリア

たまに三葉虫のような巨大に成長したちみ(しみ)と出会う。餌を考慮すると腹立たしいが、いっそ三葉虫にまで成長しないかな。

2009年9月5日(土)

止まれるか?

詩は覚えなくてはいけないものとは、先日書いた。では、覚えている詩ってなんだ? と頭を捻れば、『故園黄葉』、つまり「聴角思帰」が辛うじて絞り出せた。これを覚えている理由は単純明快で、かつて丹念に覚える努力したからだ。その賜物が数年経っても褪せずに残っていた。つまり、忙しさにかまけて努力を怠らなければ、幾らでも覚えられるということなのである。ああ、でも、止まらず先に進みたい。常に新鮮な知識を浴びていないと頭がおかしくなりそう。

面目ない

骨を故障して以来、ギターを久しぶりに手にした。バレーコードは嫌な感じがしたので簡略化をして避ける。爪を切ったのに爪が長い。どれだけサボっていたのか、躰が教えてくれる。かてて加えて、弦を押さえた薬指に痛みが走った。押さえただけで指に痛みを感じることはついぞなかったので、これは恥ずかしいなあ。

ヘロヘロJAPAN

後半20分までは、スコアレス、そこから3-0の完敗。マラソンで喩えれば、30キロ過ぎまではトップ集団を形成していたが、そこからずるずると引き離されて、最終的にはメダルどころか入賞すら逃す惨めな結果になったようなもの。でも、勝って当たり前の風潮の試合しかこの2年間は組めなかったので、アウェイで世界3位とぶつかれる幸せは、実力が測れるいい機会だった。これで、無邪気に漂う浮ついた空気が払拭できるのであれば、なおさら結構。

それにしても、ひどいへばり具合で、あれほど足が止まっている日本代表は記憶にない。サムライJAPANならぬ、ヘロヘロJAPAN。しかし、TVを見始めたら、立て続けに失点したので、一体誰が疫病神なんだか……。

2009年9月4日(金)

がっちり

ユニコーンの「大迷惑」がたまたま耳に入った。バックを駆けて絡みつく本物のオケが素晴らしい。ストリングスなら、まあ珍しくもないけれども、本格的なオーケストラとロックとの融合は、ありそうでないから、世にも珍しく、ヒットしたケースになるとまた格段と稀少。

また、歌詞のセンスがずば抜けていて、貫一とジュリエットが転倒して組んず解れつ絡み合うところなどは、並々ならぬ快感を感じる。

そうか、普通か

あれ? 今回のゲストは誰だろうと見守っていたら、新谷良子か。少なくともラジオを2年は聴いているのに、顔を見ても判別できない、ていたらく。しかし、それで迎えたのが腐女子特集。別に引きもしないし、惹きもしないけれど、いつにも増してパワフルで強烈だったのは気のせいではないような気がする。でも、この濃さを、ありか、なしか、と問われれば、紙一重でありだ。

番組自体が随分とご無沙汰していたような気もしたが、実際は月一で放送しているわけで、それほどでもない。この番組の価値は、あくまで新鮮な話題を届けるところに比重を傾けてきたと思っていたので、この感慨を抱かせた時点で、どこかずれてしまっている。

2009年9月3日(木)

スパークリング

「突沸によるやけどに要注意」と耳慣れぬ用語と共に電子レンジで加熱された液体が突如七転八倒する映像が流れていたけれど、あれが要注意とされる「突沸」という名の現象か……。あの状態のコーヒーを飲むのを無邪気に愉しんでいた人間がここにいる。静謐な液体に砂糖を投入したとき、阿鼻叫喚とのた打ち回る眺めがうっとりするほど淫靡で……。

めっけもの

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山田詠美著『A2Z』読了。

私たちは言葉の使い分けを身に付けて来た。一浩程、悪達者ではないにしても、お馬鹿さんな言葉とお利口さんな言葉、そして、世間様相手の言葉を組み合わせて喋るのが好き。そんな私たちのための恋愛小説、誰か書かないかな。

ここの部分に、すべてが表明されている。恋愛小説は鬱陶しくて避けがちな私にも、これは終始軽快で調子が良かった。結局、恋愛関係で生じる我が我がの独占支配欲や近視眼的思考が読む前から面倒くさくなってしまうのだが、この物語の中で登場する関係は、たとえ不倫であっても、ずっと継続可能なものなら続いてしまえと応援できる好意的な形。一昔前なら、それらのドラマもよく見たりしたので、必ずしも忌避しているわけでもなく、過去に培われ開拓された広い土壌も胸の奥のどこぞにありそうな分野だけれども、やはり恋愛に自己表出が重なり複雑に絡み合うノロケを読むのかと思うと気が引ける。本来、重ねず別個で処理してもらいたい。それに、いくら軽快といえども、重層的にもなれば、さすがに息も苦しくなり、軽さを謳う天使の羽も重いというものだ。

一浩の恋人だって若いけれども、決して未成年ではないのだ。

まあ、これはとうの昔に閉鎖的思考から抜け出た大人の物語であったというか、経験値の差が如実。あと、編集者という設定で、出版業界を切り込んでいく形が痛快だった。読書を趣味にする人ならば、諸手を挙げる業界ネタ。結婚、不倫に劣らず、こちらの関係も素敵で、全体的に嫌いなものが登場しない物語だった。ゆえに、嫌悪する動機がない。1冊で著者のファンになるのも勇み足を踏みそうでおっかなびっくりだが、他の作品も軽快な調子であるなら、相当好み。やはり売れている作家にはそれなりの裏付けがあるものらしい。しかし、こんなの26文字も駆使せずとも2文字で事足りるじゃないか……、と、まったく人騒がせな男女である。

ところで、各章をアルファベットを配して区切り、各章には該当するアルファベットを頭文字にした言葉が含まれているけれど、「X-ray」は無理繰りで苦しくないかな。

分子生物学的見地

8月分更新完了。決して少なくもない文量なのに、感覚のねじが馬鹿になったのか、いつだってこんなもんだった気がする。あながちその感覚も偽りではなく、今年に限れば、確かに日常になりつつあって、異常気象とも張り切り奮発した結果とは、もはや言えない情勢。

そういえば、「ビーバップ! ハイヒール」で分子生物学を扱うとの話だったので、もしやと睨んでいたら、案の定、福岡先生が特別講師として登場。思い出したときには、番組開始時間を過ぎていたので、中途視聴だったけれど、すれすれで間に合ってよかった――ストーカの面目躍如。

「いくらコラーゲンを摂取しても、それがそっくりコラーゲンにはならない」といった見解にハイヒールの二人が立ち直れないほど甚大なショックを受けていたのが笑えた。美容に心を砕くなら、こうした効果の正否からのアプローチも問うていかねばいけない気もするのに――私の場合は著作を読み知っていたから常識になるのだが――第一に知っていなければならない、肝心の美容に気を遣う女性陣が揃って知らないのだから、どこかいびつだ。また、これだけショックを受けるということは、裏を返せば、真実有用な知識なのである。それにも拘らず情報として社会の相応しい地位(常識)を得られてないのも不可解。しかし、納得とは別に信じられない(否定したい)気持ちもおもんぱかれないこともなく、直接一つひとつの疑問を質して、潰しておきたい。例えば、チョコレートを食べたらにきびが出来る話の真贋は、どんなものだろう? やはりこれも関係ないのか。

単なる偶然だと思われるが、番組終了直後、BSにチャンネルを合わせたところ、髪の毛の炭素成分から、「あなたの髪の毛はトウモロコシで出来ています」と報告されているのを見て、二重に息を呑み窒息。

あとは、年を取ると1年の感覚が短くなるという問題を分子生物学的見地からの解説が非常に腑に落ちてゆくものだった。絶えず構築と排除を繰り替えず新陳代謝のペースが時間そのものであり、そのペースが若い時期は早く、年を重ねると遅くなり、ひいては体内時計が遅くなる。しかし、躰の外側を流れる社会の時間は不変で、あまつさえ果ては原子で制御され、冷酷なまでに正確無比。よって、ここに感覚のずれが生じる。これは、今まで信頼を寄せてきた、1年を年齢で割る説より随分と物分りが良い。それだけ、現実に近い証左ではあるまいか。

2009年9月2日(水)

ぎりぎりの平衡感覚

この2週間ぐらい爪が伸びたなと気になる状態だったのだが、いよいよ気に障る状態に移ったので、切った、それだけのこと。ただ、爪が伸びたぐらいで読書すら妨げられるなど、真実、何も手につかなくなるのだから、ピーキィかつ魂の錬度が脆弱だと言わざるを得ない。

2009年9月1日(火)

泥棒も夢のまた夢、夢の中

まぶしいほどの月の光。これが本当に一度死んだ光だろうか。これを浴びれば年を取らないのかな。『魍魎』を読んでいて、一番違和感を感じたのは、月の光を一度死んだものとして扱った箇所で、ああ、そういった発想もあるのかと、感じ入ったりしていた。私はことさら月に光は求めてなくて、月はいつだって月という独立した存在だった。きっとアポロ計画が心に大きく作用している。

それにしても明るい。これなら月の光で本も読めるかもしれない。昔の人ならこの夜の明るさに浮かれただろう。ひょっとしたら踊り明かしたかもしれない。ただ、街灯が近くにあるので実証できないのが返す返すも残念だ。

半端者

「(サザンが)分からない」

はあ……、考えさせられる。音楽を聴かない人の言葉ではなくて、音楽を人一倍嗜む坂本龍一の言葉だから、非常に感慨深く、カルチャ・ショック。

一方で、趣旨を理解できないこともなく、私も、もともと歌詞が頭に入らない人間だから、インストも平気に堪能できるし、それどころか泣ける。仮に頭の中でリフレインしている歌詞が口ずさんでも言葉は既に蛻の殻で意味はどこかに置いてきた。でも、サザンが分かるほどには歌詞も理解できるので、半端者……。まさに凡夫です。

しかるに、音楽に身を任せる瞬間に日常に戻れたことの幸福はあると思う。


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