ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない
Home | Diary | Book | RSS | Mail | Prev | Next
谷川俊太郎著『すてきなひとりぼっち』読了。
詩が好きだ。なのに、詩は苦手。見えざる空気を掴むように、掴み所なく持て余す。きっと覚えなくちゃいけいないのだろう。詩って暗誦できなきゃ駄目なんだ、と読むたびに反省する。今日とて、すぐに反省するのはどうせ覚えないだらしなさと知っているから。「あれが、ああで、ああなった」「これが、こうで、こうなった」と小説では、名前すら憶えようとせず通りがちで、印象しか残らないが、それでも印象は残る。ところが、そんなに大きな網目では詩の1つ1つが捉えきれない。たとえば、選集なので、1つだけ『夜のミッキー・マウス』からも選出されていたけれど、覚えてない……。ただ、ラストの2行を全く同様に感じ取っている、と頑固で落ちなかった染みのような記憶はある。心ではなく躰の記憶かな? 片や『いるか』の歌は素敵に知っている。
選集なので、当然選者の意図もここにあり、その1つに、分かろうとしなくても信じればいい、といったものがあって快感。
詩は言葉を超えることはできない
言葉を超えることのできるのは人間だけ
ゆうべぼくは涙が出るほど笑ったが
笑った理由を今日はきれいさっぱり忘れている
さよならは仮のことば
思い出よりも記憶よりも深く
ぼくらをむすんでいるものがある
それを探さなくてもいい信じさえすれば
ところで、やっぱり「がいこつ」は好きみたい(笑)。
『星の勲章』はまさに「ハウル」の情景。切り離すのが至難だよ。
さて、余裕はあったけれど、今日はこれ以上活字を貪るのを控え、目に休養を与えた。思えば、バレーボールの頃には不調を訴えていたので、それから世陸、『魍魎』と梯子して、相当お疲れさんだった訳だ。しかし、昨日今日と休んだので調子は快方に向かうだろう。ついでに、読圧も高めたのでこれからに期待できる。
何を読めというのだろう。暑さが去って秋が来る。読むべきものは多々あるけれど、何から何まで白々しい。
谷川俊太郎著『すてきなひとりぼっち』(童話屋)、山田詠美著『A2Z』(講談社)、ドストエフスキー著『罪と罰』(新潮文庫)を借りた。
この頃、うたた寝した後は必ず喉元に痛みが伴う。8月なのに、昼下がり以外はすっかり秋の気候。そういえば、家族連れが皆マスクしていた。ごく近い将来はお馴染みの光景かもしれないけれど、その先取りファッションはまだまだ異様な光景と目に映る。ひょっとしたら、帰省中の家族かもしれない。これでも8月なので。
各局が張り合った選挙特番は、テレ朝の速報がシンプルに一覧で表示されて、文字通りの速報で分かり易かった。情報しか求めないものにはそれで大変結構である。一方で、現職大臣や古株が相次ぎ落選するなど、ありのままでも十二分に見応えのある選挙だったので、演出が利きすぎた業突く張りの番組には興が渋滞して鼻白んだ。
損な性格をしているので、皆が左を向けば右を向きたくなるし、皆が笑っていれば怒りたくなる。ともあれ、民主党が何かしたわけではなく、自民党が自壊した印象が強い。森政権時で既に崩壊し、自民党をぶっ壊す自民党が奥の手いわば「自爆スイッチ」を「ポチっとな」と糊口を凌いでいたが、その後も糊塗の連続で新しい自民党を印象付けれなったのが敗因だろうから、皺寄せの結果を全て現職の総理に押し付けるのも酷だが、状態を一段と悪化させたのも事実で、無難にやればここまで大敗を喫することもなかったのだろうに。ただし、敗軍の将は平然と当選を果たしているのだからしぶとい。しかし、オタクが担ぎ上げた負い目はあり、まかり間違えてオタクが天下を取ると国が転覆することが、今回、熟知するに至った。まあ、郵政選挙から動きの鈍かった票が風に乗って動くようになったとは感じ入るところで、今回は民主党に向かって風が吹き寄せたのだろう。しかし、二大政党制を訴えているかぎり、下野するのも定めではあるので、がむしゃらに与党に執着しようとするのは興醒めするのでやめて欲しい未来。
あとは、有権者の毅然とした自覚が求められ、単に騙されたと叫ぶのではなく、ペテン師と木偶の坊、その差異を見誤り、投票した責任を忘れる姿が最も醜悪な構造。せめて、次の選挙までは誰に投票したかぐらいは記憶に留めてもらいたい。
1年前に、1年ぶりに出会った作品は、1年後の物語だった。そして今年出会った物語は、時期はぴったり、時宜にかなって選挙が行われている。加えて、ただの選挙ではなく、「抜き打ち解散」。仲良く祖父と孫が選挙中――小さな暗合。もっとも、裏がないわけではなく、1作目の続きだとすれば、季節は夏だろうとの予想は訳なく立てられ、『妖怪大談義』で解散のことにも触れられていたので、不思議なことなど何ひとつないけれど、そもそも、いつだって臨戦態勢で満を持するが、通常閉架されている書物が今に限って何かの手違いで開架されていることから偶然が発動していた。では次からが本題。
得るものがない。ひたすら喪う。苦痛そのものだ。こんな物語に関わるべきではなかったのだ。これで憂鬱にならないほうが嘘になる。そしてまた話が出来すぎた。これで風穴でも開いていればまだマシだったのに、完璧なのが恨めしい。唯一未完なのが文字組で、これは完成した今が今で偏執気味だろう。京極夏彦著『魍魎の匣』読了。色々と思うことはあれど、終わってみれば、綴れる感想なんてない!
それでも、当初は明るく、気を確かに、慣れ親しむ謎の解明と覆い被さる作者の作為を暴こうと毅然とした態度で臨んだのだが、ものの見事に跳ね返された。ちょうど300ページで探偵が登場するのは、作為を感じたが真相はいかに(300ページといえば1冊が完結するも不可能ではない枚数だが、半分に満たない)。正直、彼がいないと辛くて読めず、掛け替えのない推進力。それも通常なら、謎が解ければ、すっきりするなり、重みとが取れるなりして、どんどん軽くなるところ、一方的に重くなる。終盤(とはいえ、約200ページ残していたが)、1枚1枚が重くて重くてたまらなかった。
まあ、ミステリィというものは、しばしば手遅れるもので、事件を未然に防ぐことすらかなわない無能が野次馬同然に集うものではあるが、これは救って欲しかったケース。読み応えはあるけれど京極堂シリーズはどれも滅入る。それでもこれは図抜けて陰鬱。フォローがない。また、前半の宗教者、霊能者、占い師、超能力者の講釈は頭痛の種。これ、喩えではなくて、本気で痛めた。度重なる頭痛と信じられない発汗を繰り返しては自律神経をやたらと刺激し、果ては物語を越えた妄想力豊かな想像でえづき、それを我慢するために歯を食いしばれば、顎関節症という負の連鎖。まあ、今後も宗教者、霊能者、占い師、超能力者が揃い踏めば、過去がほじくられ、痛くもない腹を探られて、さもありなん。
物語の事件の舞台と思しき建物の写真が表紙の裏にあるけれど、あの匣の建造物は一体……?
非常に聞き覚えのある音楽が流れてきたと思えば、「絶望先生」のBGM。流れてきた場所が場所でNHKの園芸番組で流れていた。もっとも、ピックアップすれば、とりわけ害意はないはずなのに過剰反応か……。「SZBH」が空耳する。
「はい、はい」(手を上げて)「監督、エロと変態は違うと思います」
とりわけ旧知の間柄である田中理恵への要求は容赦なく「馬鹿野郎! 私にそれを演れって言うのか」と怒声を張り上げつつも、律儀に役をこなし、その後、撃沈して机に突っ伏す理恵さんが素敵だ。
それにしても、出演者一覧表を眺めていたときには、コミケ終わりとアニサマを挟む夏のイベントが目白押しの稼ぎ時によくもまあかくも集めたり、と感心していたのだが、そっか、収録なのがからくりか。ただ、生ゆえのリスナの反応がやにわに到着してそれに即座に応答してくれる小さなコミュニケーションが失われていたのが残念だ。まあ、生放送でなければ、若干行き過ぎた演出があってもあとで幾らでも編集可能なので、暴走もそれを見込んだ上で箍が外れていたのかもしれない。しかし、生放送ではなくても、天狗は立派な放送事故だった。おまけに、見取り図には開いた口が塞がらない。似顔絵に限らず、ああした直線的な形すら描けないのか。疑ったことはなかったが、それでもこれは本物である。
ところで、裏番組である「レコメン」でも声優が登場していた。固い支持基盤に後押しされて、こちらにも進出しつつある。
寝て読み、座して読み、立ちて読む。基本はこの三つか。
寝て読むにも、仰向けとうつ伏せ、そして横向きの三つのパターンがあって、応用すればごろごろと転がるわけだが、そのまま寝入り、「胸が重い……」とうなされれば、『魍魎』が乗っていたり、とちょっとした怪談話も誕生する。
だからと言って、寝てばかりもいられないので座して読むわけだが、それでも強力な睡魔を前にすれば、舟を漕ぐものは漕ぐのであって、これはリラックスのしすぎだと、高所で足を浮かせ危機感を感じながら読んだり、座り心地が良すぎないように硬いところに座ったりもする。
そのうち、尻が痛くなると立ち上がり、そのまま運動不足を感じれば歩み始める。
まあ、集中力がない故のこうした循環が大まかにあるけれど、一番、楽ちんなのは座って本はテーブルに置いて読むことだと紆余曲折を経て本日痛感した次第。しかし、紆余曲折を経たことによって、時間が深夜になっていることも見逃せない真実。どうも日中は誘惑が多すぎて……。
昨夜は肌寒いほど涼しく窓を全開にできなかったのだが、夜が明け日が差し込んでも涼が留まっていて秋が間近に迫っているのかひんやりとした一日。こうした日に限って冷凍庫にはアイスがたんまりある。おまけに、引き続き眠い。まあ、こちらの原因は連日連夜『魍魎』の攻勢を受け止めているからで、発汗と頭痛を繰り返しては自律神経を刺激、若干、消耗戦や兵糧攻めの気配すら漂う。しかし、「寒い、眠い」と譫言のように呟いていたのでは、まるで冬山での凍死寸前のようだ。地球に思い出して欲しい、今が8月なのだと、いわばあの灼熱のエンドレスエイトの真っ只中にいるのだと。でも冷夏とは弁えていたが、まさかエアコンなしで乗り切れるとは思わなんだ。
アニソンSP完全版。番組自体の感想は前にも書いたので、今回は錬度の高いファンについて。
通常、音楽番組の収録に集められるファンというものは、それぞれの出演者枠から少しずつ集めたりするので、どうしてもモザイク状の烏合の衆になりがちである。それにも関わらず、場が一心に纏まるのは尋常ではなく、その尋常ではないものを即興で打ち返してしまうアニメファンの適応力に脱帽する。しかも、その体質はマレーシアにまで波及するのだから、オタクとはイベントや舞台および国境と垣根なく声を張り上げ参加するファン体系なのである。しかし、またもや水樹奈々で締め括るけれど、一人声の抜け違う――貫禄勝ち。
堀江由衣の新曲のPVを拝見。あのチアダンスは私に笑い死ねというのか。詮無い申し開きを繰り広げれば、踊りが下手で笑っているわけではなくて、それまで、いつもの不安を抱えたうわの空の表情を顔に貼り付けていたのに、最後の流れだけが妙に滑らかで素敵に決まっちゃっているところに受けたのであった。
主観で論じれば、あっという間に世界陸上は最終日を迎えた。時差的にも嘗てエドモントンで血反吐を吐く思いを味わっているとベルリンは屁でもない。感覚的にはやっとこさスクラップ同然のポンコツエンジンが掛かってきて、ようやく視聴体制が整いつつあると唸りを上げているのだが、時遅し無常だ。もっとも、最終日に駆け込みでメダル二つが取れ、このうえない形。しかも、女子マラソンは日本のお家芸なのでレース前から期待値は高かったけれど、槍投げは大穴だった。室伏欠場で投擲種目自体が活気を失っていたので、正に救世主。今回の日本選手団の反省点を挙げるとすれば、PBやNRで各国の選手が次々と記録を塗り替えていく中で今ひとつ記録が低調で伸びなかったところは調整の仕方を含め改善の余地がある。きちんと力を発揮する選手がメダルを獲得することは疑いようない事実なのだから、せめてSBは期したい。それにしても、世界最高峰のリレーの真剣勝負には打ち奮え、鎧袖一触空気も張り詰め、最後を飾るには申し分ない。町の運動会とは比べものにならない。
そういえば、織田裕二が現地入りしていた。違和感もなく最終日にその話が振られるまで気付かなかったが、主観であっという間に感じるほど、すんなり進行し、あっさり閉幕していく大会の裏にはこれが大きく関わっているのかもしれない。何となれば、東京のスタジオから「どうなったの?」を連呼し、開催地に向けて不通とタイムラグを乗り越え交信していく様は正に視聴者代表。織田裕二のストレスと戸惑いと混乱と苦悶の晴れることない感情は視聴者の共感を呼んだ。その喜怒哀楽が、軒並み解消されているので垢抜けて妙にさっぱりしている印象をもたらしたのだろう。どちらかといえば、その東京のストレスを肴に陸上を満喫していたと言うのに、「なんでぇ、この家は酒の肴も出さねえのか」とふんぞり返っちまう。あと、「うたばん」チームの乱入するチャンスに恵まれないのも楽しみが減じた。まさか、ドイツまでは飛べないだろう。ただ、次は韓国開催らしいので、もしかしたら……。ああ、しかし、そうなると、また時差がないのか。弱ったな……。ところで、織田裕二の曲は、毎回新曲のはずなのに、毎回同じ良い曲に聞こえる。
アナウンサも存在を無視せざるを得ない20年以上も残る世界記録を見ると、背筋が凍る。
日本記録に於いても長く破られていない記録も存在するのだが、日本の場合は、アマチュアスポーツである陸上界の不遇の環境のなかで、幼少期から天才呼ばれた人たちが孤高に孤軍奮闘してがむしゃらに記録を伸ばした結果に大きく左右されていて、天才が一線から去れば、あとに続くものがいない世界ではノウハウがあっても記録の伸びも途切れてしまうのも必然の形だろう。
しかるに、停滞することなく世界中で記録が伸び続けていても、それでも遠く及ばない時代を遥かに飛び抜けた世界記録にはぞっとしない。例としては、既になき東ドイツの余波が顕著で、これはひしひしと痛ましい政策を感じさせるものだ。もう一人、飛び抜けた記録保持者がいて、個人的にはこちらが遥かに泣きたくなるけれど、フローレンス・ジョイナその人である。途方もない記録だと思っていた時代も確かにあったのに、あまりに長い間、抜けなくなると、あの爪と美貌と力強さが色褪せ、代わりに別の疑惑が浮上する。しかも、追い打ちを掛けるように本人は若くして亡くなってしまった。カール・ルイス、ベン・ジョンソン、ジョイナ、一時代を築いたものたち。引退後は日本のバラエティでも明石家さんまとの絡みもあって、好感を持続していたのに、すっかりタブーの存在になってしまった。誰でもいいから、一日も早く記録を塗り替え引導を渡してやってくれ。
ラジオで「我が青春の吉田拓郎」と銘打ち5日間放送していたが、ファンには御馴染みの楽屋ネタも新鮮で可笑しかった。4日間をアルフィーの坂崎、最終日をムッシュが締めて、文字通り吉田拓郎が我が青春である人々なら、イメージも確固たるものだろうが、あとから吉田拓郎を認識した人間には喋り出したイチローのように、築き上げた幻想が真実幻想と化する。
それにしても、歌が色っぽくて、あの色っぽさは類を見ない。恋の歌なら蔓延っているが、無味乾燥で艶がない。それに比べると、肉食でいやはや色っぽいね。
俄雨どころか嵐で競技が中断している世界陸上を見ている。波乱なく競技が続行していたらすんなり寝ていただろうに、自然のハプニングが生んだ純度の高い退屈が病みつきだ。しかし、そんな不逞な了見でいるから競技が再開される前には眠りに就くのだけれど。
合間に新劇版である「北斗の拳」で暇を埋めていたけれど、オリジナルで育った人間には、豪華声優陣は馴染めない。昨今の流れである最初から豪華声優人を配したものなら、作品自体に諦めもつくが、一度でも作品を愛した経験があるなら、この変更は惨い。
ほんの数行で詩神ミューズに完膚なきまでの敗戦を優しく耳打ちされた気分。皮肉にも、それによって、読了前から小説の成功・失敗はどこ吹く風だが、読み終えて、益々これは今年一だと確信を深めるに至る。レイ・ブラッドベリ著『さよなら僕の夏』読了。原題は「Farewell Summer」で翻訳では「夏の別れ」になっているが、物語を堪能する上で、これが日本では馴染みのない花の名前であることは強く意識したほうが良いだろう。夏の別れと秋の始めましてを意識させる季節感のある彼岸花のような存在だろうか――この喩えだと俄然抹香臭いのが欠点。
ギロチンが空をスライスするかのように、鉄が勢いよくすべる大きな音がした。一撃が下ったのだ。町は身ぶるいした。しかしそれは北からの風にすぎなかった。
ただの「北風」がこうなのだ。かように詩情に富む言葉が並ぶわけで、これは勝てない。他にも「碑銘を飛び越えたり」「ケーキをカットしたナイフの光に目を焦がす」などと常に五感と過去と未来の一切合財を限りなく、かつ意識的に総動員しなければ、もっぱら読むだけとしても同じレベルに引き上げられない。割かし世俗的な評価軸「面白い・面白くない」以外に「できる・できない」という個人的な評価軸があって、結果的に(面白い・できない)を指し示すのだから、平身低頭する他なく、見事すぎて地団太を踏むといった対抗心すら湧かなかった。さすが構想から出版まで55年間こぎ続けた航路は伊達ではない。おそらく、今後もこの作家人生に等しい船旅を凌駕する作品には出会えまい。
ところで、何でも『たんぽぽのお酒』という名作の続きものらしいから、未読ものとしては懸念していて、多少なりとも不安が消えず、はらはらしていたけれど、何のことはない杞憂だった。実際に問題があったとしても気づかないのだろうし、また折り悪く不明と衝突すれば、そこは取って置きの想像力の出番であるが、続編というよりも、対の物語だろうという気がした。すべてを乗せて運び去る時間との戦いの末に、死で終わり、生で始まる。性に引喩して表現した箇所なぞ、ともすれば卑俗になるところも嫌味がなく、にこやかに笑える。
「ああ、手放すことはむずかしい」と、クォーターメインは言った。「わしはこれまで手をふれたものはどれも握って放さなかった。わしに説教してくれ、ブリーク!」
ブリークは、素直にしたがって、説教した――「手に入れることを学ぶまえに手放すことを学ぶべきなのだ。人生は触れられるべきものであって、絞め殺されるべきものではない。リラックスして、ときには起きるにまかせ、またときにはともに前に進まなければいけない。(中略)「いいかな、人生はわしらにすべてを与えてくれる。そしてつぎにそのすべてを取り去る。若さ、愛、幸福、友人。闇が最後にそのすべてをもっていく。わしらはそれを――生命を――他人に遺贈できるのだと知るだけの分別がなかった。あんたの容貌、あんたの若さ。それは次にまわすのだよ。やってしまうのさ。ほんのしばらくのあいだわしらに貸しあたえられているものなのだからな。それを使ったら、泣いたりせずに手放すのだ。それはとてもしゃれたリレー競争で、どこに向かうかはだれも知らんのだ。あんたはいま最後の一周をまわっているところで、いまをのぞいて、トラックの前方にだれも待ってはいない。あんたがバトンを渡す相手がな。あんたはなんの理由もなくレースを走ってきた。チームの期待にそむいたわけだ」
意識して手放すよりも既に失くしているもの数が膨大。何はともあれ、さる哲学者を彷彿とした。真実、宝石箱のような作品で、しかも、原石のまま幾つか渡された。どれも磨けは輝きを放つのだろうけども、受け渡されたバトンを掴んだところで躊躇わず走れるか、と値踏みされている気がしないでもない。そういえば、運動会で、バトンに受け取ることに必死になって、面と向かって受け取ったまではいいが、そのまま駆け出して逆走してしまった子供がいたなあ。それで慌てて引き返すわけだけれど、あれには腹を抱えた。せめて、みずからバトンを放棄しないようにはしたいものだ。
夜にベッドに入るとき、私は朝目覚めたときに自分がなにかではっと驚くように自分自身に指図することにしている。
今日は何に驚いたのだろう。我がことを省みて、あとがきのこの言葉には打たれ、心の底から敬服せざる得ない。こうして奇跡のようなことを日課にすれば多岐に実を結ぶはずだと納得する。
深夜に放送していた映画で、途中から摘み食いした関係で、名前も覚えてないし、ついに全体のストーリィも知らないままだけれど、飛行シーンが秀逸で、去年見ていたら、逐一解説できたものをと惜しむ一品を観た。
一体全体、あれはどうやって撮影したのだろうか。もし、想像どおりに撮影進んだとしても尋常ではない途方もない労力が注ぎ込まれている。CGの溢れる時代から振り返ると、雲の上での隊列組んでのダンスの撮影が言語道断のようにも思えるのだ。しかし、そもそも映画の魅力には、ストーリィとは別に裏方の撮影技術への尊敬の念も備えていたはずなのに、90年代に入ってからは出来こそ素晴らしいけれど、裏側にはPCしかなくて、そんな見る影もない状態だからこそ、世紀を越えても「トップガン」はトップアクション映画に君臨し続け、それほどアクション性の高くないマイケル・J・フォックスの映画にしても、ちょっとしたヘアピンカーブでの嘘ではない、やおらごろんと転がる車のスタントに引き込まれる。やはりあの当時はスタントマンの腕も良く、演出もそれに見合う見せ方を知っていた。この数年は、エフェクトの進化は顕著であって、実に滑らかに物語に組み込まれている。それには度肝を抜かれるし、90年代に比べると見事なものだが、どうも重みが足りない。CGで車を吹き飛ばせば、迫力は生じるけれど、新聞紙がとんぼ返り打っていても誰も驚かないわけで、CGには、そうした軽さがある。そうした軽々しさが、今日見た映画のように20年後や40年後にも胸を張って通用するものだろうか。
眠い……。これが、どれほど抗い難き力を猛威として振るっているかといえば、目を開けた次の瞬間にはまぶたの重みに目を閉じてしまいたくなるほど。これが、真実眠いだけなら取るに足りず構わないけれど、実は暑気当たりして気絶し掛かっているのではないかという懸念がないでもない。特に今日あたり、目の周りだけが異常に加熱していて、そのうち目からビームが飛び出しモニタを焦がすんじゃないかとはらはら怯えた。
睡魔とは別に目が霞むという問題も浮上している。視力の良さだけは取り柄で若干遠視の気があるとも思っているが、今日なんてバレーボールの試合を見ていても、ボールの動きに目が追いつかない。文字通り目の保養が必要なのに、いつから活字中毒になってしまったのか、一体全体、誰が鞭を振るっているのか、目的地はどこなのか、休息なしで馬車馬のごとく突っ走っている。また、この先には浩瀚な妖怪が控えていることからも、更に症状が悪化すること必至。
「SOULEATER RADIO」。合体と言いつつ、小山力也をゲストに迎えた形でまさかのマカSide。う〜む、おこちゃま。だが、正編は既に昔日の思い出となっている作品である。懐かしいという感情さえ響きは遠い。
しかし、小山力也は案外、暇なのか色々なところに神出鬼没している。とても多忙と縁を切ったとは思えないのに、むしろ若手より精力的に活動を果たす秘密とはなんだろう。
夏に頑張る学生は高校球児ばかりではないと言わんばかりに各文化部の取り組みを紹介する企画で登場した茨城のロボコン部。月金の帯で9時〜6時とこの時点で既に充分すぎる取り組みなのに、まだ足りないと2泊3日の合宿を敢行。それで四六時中向き合う対象が、ロボットなのだから、一気呵成にファンになってしまった。もし秋の全国大会で茨城代表が3回連続の出場校なら迷わず声援を送る。
天の岩屋戸よろしく夏を招いた効果が発揮されたものかどうか……。残暑から夏が始まるのも妙ちきりんなお話だが、そもそも太陽暦で日本の季節を扱った時点でずれてしまっているのだから、仕方のないお話でもある。ちなみに、今年は閏月の関係で太陰暦ではまだなんと6月なのだ。
シェイクスピア著『夏の夜の夢・あらし』読了。『夏の夜の夢』には思う存分「笑い」を満喫した。ついでに、惚れ薬という概念も、この頃から普通に芝居のガジェットとして流通しているのかと、人間の知能レベルにも苦笑する。この分だと『あらし』にも大いに期待が寄せられるとわくわくしていたのに、蓋を開ければ予想外のボール。そもそも喜劇って笑うもの? それとも、悲劇の反対に大団円に収束するものを指すのか? だとすれば、概念からして見誤っていたことになる、と『あらし』が的を外したせいで、存在理由まで黙考する二次災害が生じた。ひょっとしたら、写実的物語が好みで浪漫喜劇が苦手なのかもしれない。そうであるなら、『オセロー』から読み始めたことはこのうえない僥倖であった。もし『あらし』から読み始めたとして、これほど矢継ぎ早にシェイクスピアを手に取ったかどうかは誠に怪しいかぎりである。もっとも、訳者の福田恆在が「他国語に翻訳し得る限界を遥かに越えている」
と匙を投げているので、英語版夏目よろしくあらすじを読んでしまっただけのことかもしれない。秀逸なエピローグで何故か日本の芝居小屋のトリップ感を得たのも、それが日本語で書かれているからだろう。
しかしながら、個人的には『あらし』の魅力はそこではなくて、『イリアム』との絡みなのである。「ああ、『イリアム』は『あらし』がネタになっているのか」と、昔も今も堂々と公開され、特別巧妙に隠蔽されている事柄でもなかったけれど、当時は貧しくもピンともすんとも来ていなかった。よって、登場人物表にある、プロスペロー、キャリバン、エーリアルに興奮した。キャリバンなんて青色の魚にしか想像を掻き立てられないし、セティボスは強大な敵だったなあ……。とはいえ、ぼんやりとしか思い出せないのがあたら心苦しいが、現時点での結末が焦点を結ばない形だったので、詮無いことか。きっと続編があるはずだが、それまでに複層的に入り組んだ物語をどこまで覚えていられるだろうか早くも懸念している。
『オセロー』でもそうであったけれど、悲しみに暮れ、絶望のひたすら浸る屈折し怠惰な精神は叱咤される。逆に言えば、シェイクスピアにはそうしたテーマ性があるとも読み取れる。だとすれば、今後も作品を通過するたびに、400年の時を越えて発破を掛け続けられるのかもしれない。
人生の尺度の違いが如実に姿を現し、前回同様、尽きない堂々巡りに巻き込まれ、果ては悶々と眠れない夜を過ごす羽目に。
自己満足でいいのであれば、それは趣味と呼んでも差し支えない。死後の評価は、おそらく芸術家以外の人たちには、気の長いものだし、悠長で浮世離れした話と多分に聞こえる。彫刻は、最終的にはアクロポリスのように人工物を超えて自然に帰るのだから、そのスケールで話をされても、生身の人間が太刀打ちできるものではない。厳密に言えば、あの場にいた人たちを芸術家と十把一絡げにするべきではなくて、そこには売れない時代を経験していない学生と経験した先生の歴然とした隔たりも存在していた。そして、300年後に評価されるのであれば、今評価されてもいいだろう。もっと言えば、それ悔しくないですか? 何となれば、作品は変わらないのに評価だけが一変する。一方で人間の基本構造は、数千年変わらず、今後も数千年単位では変わるまい。よって300年後に理解できるものは中味のソフトウェアさえしっかり更新していれば本来、既に理解し得たも同然だろう。もっとも、学長が曲者で、学長の意見に賛同の余地がないわけでもない。若く見えても老練な芸術家である。頭であれこれ考えた一通りのことは経験済みなのだ。目先の評価に左右されっぱなしなのは、みっともないし、それで才能が浪費された挙句、潰れるのは我慢ならない。だが、先が見えた年寄りの学長はさておき、これから芸術家になろうとして巣立とうとする学生たちまで、生きているうちに成功してやるという野心や気概を始まる前から放棄しなくてもいいじゃないか。売り言葉に買い言葉で冷静さを欠き加熱した部分もあろうが、もしも、学校でそうした思想を伝えているのだとすれば、冷汗三斗背筋も凍りつく。
まあ、死後に評価される理由には、対象となる芸術家自身の人生の評価が固着するのと、死によって川で染料を洗い流すように毒気が抜け、その人物が聖人になるという性善説が働く結果は否めない。何たって数百年経てば落書きが文化財になる俗世である。他方、それはそれで純粋なアンティークとしての付加価値のみとも見做せるが。黒沢明監督が、今では「世界のクロサワ」としてしか振り返られない彼が、生前「海外ではVIP扱い、日本では乞食扱い」と愚痴を零した。これは日本の状況に心底憤慨して嘆いていたのだし、こんなことを言わせてしまったことを日本人としては悔やむ。学長と爆笑問題との温度差は現時点で生きた人間を相手にしているかどうかに収束するだろう。美術の相手は生きちゃいなくて、ペアのどちらかが欠けている。畢竟、死後の評価を是とするのは、「コップに半分に水があります」の心理問題と似ているかも。もっともっと、学長との舌戦を見たかったが、2時間あの炎天下の中でやり合っていたという話も出たので、多分にカットされているのだろう。
文学の知恵の蓄積が許されるわけは、それだけ実際的で理解が容易だということもある。そもそも言葉の存在発達理由が人に意思を伝播するためものとして発露したのだから、人を拒絶していない。ために、彫刻も人類史における知の蓄積としての見方なら受け入れやすいが、まあ、何と言っても口下手である。
しかし、「TVで活動する人」と「それ以外の人」に捌いた考察がとても興味をひいた。あれが、今回一番熱い部分であった。ともあれ、TVもインターネットもメディアなのだから、本物とメディアが反対になってもいかんよな。
ときに、芸大はうらやましいほど愉快な雰囲気に包まれた環境。製作途中のまだ半分木のままの彫刻やら土の陶器やらを見ても胸を熱くする。これはこれでいい。でも、あれだけの輝きを放つ芸大の中の活気も一歩学外に出ることによってかき消える。その間のクラッチ操作が下手くそなのだ。どこもかしこもエンストしている。
「アニメ三昧」がピリオドを打ち長休みを悲嘆に暮れて過ごしていれば、今日は一日「SF・ヒーロー三昧」。そうか、あれらはSFのジャンルなのか……。しかし、アニメの森はまだ歩けるが、特撮の森も鬱蒼として、引けをとらないどころか、畏怖の対象としても過言ではなく、足を踏み出すのも躊躇う。
何はともあれ、これはテンションが矢庭に上がる。と言うもの、音楽だけ聴けば、「ハードロック三昧」と何が違うのだろうと疑問が持ち上がる内容なのだから。重厚なベースにどかどかと心と躰を揺さぶられ、燃え上がった末に、席を離れるのは断腸の思いである。あたら記憶にはないけれど、「ウインスペクター」や「仮面ライダーBLACK」の、一度耳にしたらとことわに木霊し、頭から意地でも離れない居候振りは凄まじく、よほど逞しいミームではあるまいか。あと、世代的には影山ヒロノブは大きな航跡を残している。正義感溢れる一日を振り返って忘れられない、いや、忘れてはいけないのが、関智一のファンとしての高み。好きだという話は知っていたけれど、あそこまでか。ファンとはあそこまで接近、到達できるものなのだと小さな感慨を抱く。話も面白かったので、本当に4時間は拝聴に値するところも、16時間の長尺番組ながら、30分しか出番がなかったのが残念極まりない。しかし、布石はきっちり打ったと思われるので、これは是非来る日の「特撮夜話」で出番をがっつり頂きましょう。
NHKも何もこの日にアニソン特集をぶつけなくてもと好意の裏にある配慮の足りなさを愚痴るのだが、SCANDALが「けいおん!」のEDを披露したのには、度肝を抜かれた。「実写なら彼女たちだよな」と目星はつけてはいたものの、本当にやっちまうのだと恐れを知らないNHKの実行力にたまげた。しかし、まだ慣れていない様子で、テンポが若干遅くて調子が狂う。裏を返せば、本当に演奏している証明だけど。それでも、ビビるほど息を合わせてノッてくれた客席のオタクたちのノリに気圧されたのか、感謝していたのか、面食らったのか、演奏中に零れた笑みが意味深だった。しかし、それよりなにより会場と合一する水樹奈々の方が数段上手であったが。
幼き日には演歌と歌謡曲の思い出しか残していない、NHKの辛酸な日々に思いを馳せると、どちらも突飛な印象を残す摩訶不思議な現象であるが、確かな固定客のいる層にはNHKは快く応じてくれるものかもしれない。もっとも、これから30年程歳月経れば立場が逆転して、アニソンが疎んじられる世の中に変化するかもしれないけれど。
女子100mの1次予選で、銃声と共にいきなり引き離されて、スタートをしくじったと見て取れる選手がちらほらいる。けれど、そうした選手に限って結果としてNRやPBだったりするのだから、ほう、と息を漏らす。これこそ夏の夜長に行われる世界陸上の楽しみ方であり、ボルトを目当てに長々と待つだけの、楽しみ方を開発してない人には時間も時間だし辛抱のかぎりだろう。もし諸君らが、ボルト一点買いであれば、迷わず眠れ! そして起きろ!
昨日放送していた「火垂るの墓」も見られなかったけれど、今日放送している「硫黄島からの手紙」は真逆の意味で見られない。つまり、この映画を見るぐらいなら、本物の映像流せばいいではないかと思うわけで、どうも冷静さを甚だしく欠いてしまっている。この裏には、昨日まで連夜、白黒映像をカラー化した番組を視聴していたから、いっそう思いが加速されている。何となれば、カラー化が、頭で考えていたものより強烈に働き、これまでにも貴重なカラーフィルムを見た経験はあったし、おそらく同じ映像をモノクロでも見ているだろう。しかし、21世紀に生きる人々と何ら変哲もない、どこにでもいる不器用で笑う人間を、モノクロでは感じ得なかったものとして色着きの映像からは理屈ではなく、教えられるのでもなく、感じ取ってしまった。それは不可逆性の感情。
その裏では核武装・非核三原則の見直しの是非をテーマに据えた挑発的な趣旨のNHK特番も放送していたようだけど、何もこの日にと、つい身構えてしまうが、もはや、年に一度の終戦記念日でなくては、こういった話も大っぴらにできない時代になってしまったのか、と一方で思い知らされる。しかし、核武装するにしてもどこに地下核実験施設を設ける気だろう。安全を謳うプルサーマル計画すら捗らないのに、お世辞にも安全を謳えない実験施設が日本国内に建設できる見込みが立つとも思えない。まさか、自国開発をせずに核拡散防止条約に背いて核弾頭を購入しようと、そうした決着のつけ方を目論むのか。たとえ国会で話がついても、どこも売ってくれないだろうに。唯一、売却の意思を示してくれたのは北朝鮮だったとか……。
去年一昨年と時差が少ない昼間に競技が行われ、どうも離れがちだったが、今年の世陸はドイツ開催であり、いい感じで夜更かしできそうだ。「やっぱスポーツ中継は深夜だろう」との考えは、時差の影響を甚大に蒙る辺境に生きているからこそのマゾ的劣情でしかないのかもしれないが。
裏で百物語形式の怪談もやっていたけれど、声だけで仕事をしている人と躰を駆使して仕事をしている人たちの違いが残酷なまでに現れていた。ただ、声だけでは今ひとつぱっとしない女優さんでも躰を使った演技になると立ち居振る舞いからして様になるのだから、役者としての種の違いが面白い。しかるに、声のお仕事を専門にしていても「山崎バニラ+怪談」はそれこそ奇怪な組み合わせでした。
吉村仁著『素数ゼミの謎』読了。この先生が「素数ゼミ」と名付けたのか。だとしたら、それは凄い。過去に色んな仮説があったらしいけれど、そちらも人の歴史として興味があるし、「素数ゼミ」以外での数理生理学という大層な名前の研究内容にも惹かれるものがある。
ところで、「素数」と「素数」が出会いにくいのではなく、「素数」と「素数でないもの」が出会いにくいのが繁栄に覿面なのだと、そこが肝要なのに読むまで逆さまに解していた。でも、結局のところ「素数ゼミ」より「素数」の存在が不思議極まりない。特にこの蝉の場合はたまたま素数周期の発生であっただけで、今にしても自らを堅牢強固に守る「素数」の理屈を知らないまま偶然が作用し支配された生物である。1年早くても、1年遅くても、その縛りから抜け出した仲間は消えてしまった。アインシュタインが言うのだから、時間とは紛れもなく宇宙を構成する自然の一部だろう。だとすれば、「素数」とは無理矢理、地球時間というものを作り上げ、「時」を区切ってしまった末の必要悪だろうか。
ときに、平均気温が5℃下がると氷河期らしい、え、まじで。
昨日に引き続き「プライムニュース」。福岡伸一が出演するというので、期待したけれど充分応えてくれた。この番組自体は以前から知っていたが、これほど面白い企画が続くものだったかしらん。もしかして夏休みSPとかどこぞに銘打ってないか。
しかし、本当に何も知らないのだな、と昨日と同様の感想だけど、まあ、何も知らないは受講生なら失格だけど、リアクション命のTV番組としての聞き役としては適切なのかもしれない。ともあれ、「弘法大師は生きています」との発言に、放送事故寸前の絶句は抱腹絶倒。「脳死判定による死の人工的な切断」「反対に脳始による命の点火」「無知ゆえの万能細胞への期待過剰」「命の流れに背いて臓器移植しても神経は繋げない」など、今回は過去に2冊読んでいるとはいえ、私にも知らないことが沢山あったので、無知のレベルでは同じようなものだった。むしろ、知識を補足できる喜びをひたすら満喫する。
しかるに、分子の総和は太古より変わらないらしい。ただし、材が揃っても命は立ち上がらない。それは人工的に証明されている。よって生命のスープはなみなみと満ちているのに生物の総和は減る。生物多様性維持の重要性がここにある。
さて、来週からはどうしようか。プライムとか言いながら放送時間がゴールデンなのが問題なのだ。むろん、今後も番組がこれほど実り多きものであれば、問題などないに等しいが。
吉村仁著『素数ゼミの謎』(文藝春秋)、シェイクスピア著『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫)、レイ・ブラッドベリ著『さよなら僕の夏』(晶文社)、京極夏彦著『魍魎の匣』(講談社ノベルス)を借りた。
典型的な夏に待ちぼうけ。では、こちらから夏を迎えてみようという企画。裏を返せば、夏以外に読むのは心苦しくないかという顔ぶれであり、薔薇よろしくいらない、と。でも、まさか開架してある『魍魎の匣』に遭遇し得るとは予期していなかったので、欣喜雀躍。怪異はいかにも納涼の夏。シェイクスピアの『夏の夜の夢』と『真夏の夜の夢』の違いはなんだろう。ぱらぱらと見比べたところ、違いがあるようだが、一番の違いは訳者で、畢竟、福田恆存選択。それにしても、とひょっとしたら気づいてはいけないタブーであったのかもしれなかったけれど、京極本は噴飯ものの厚みである。
ところで、『トーマの心臓』が置いてあった。無事に発売されたみたいだ。表紙も原作者萩尾望都による書き下ろしで、これは嬉しかろう。
経過報告。骨はだいぶ快方に向かい、あとは完治するだけ……。奇怪な文言になってしまったが、要するに単行本を片手で支えられるのは素晴らしい、と叫んでおります。
つまるところ、アニメ・漫画産業のことなのだが。何故、それらが落ち込んだこの時期に特集することへの懐疑も当初はあったけれど、一般的には落ち目なのすら気づかず、「世界で人気なんでしょ」と安易に胡坐をかくことへの警鐘も含め、むしろ落ち込んでいるからこそ取り上げられた側面もあるようだ。
常識という非常識で、あれこれ説明されても目新しいこともなく「それ知ってます」といった状態でも機嫌良く視聴し続けられたのは、本当に関心を寄せない人たちは現状把握ができていないのだと、ホストである司会者たちの新鮮なリアクションで通じたこと。たとえば、「人気と評価と興行成績」「興行成績と上がり」「海外展開への障害」「正規版と海賊版」「国策でにじり寄る中国や韓国」などなどの馴染みの関係性も目新しかったらしい。しかし、仮にもコンテンツを販売するTV局に勤務する人間が揃いも揃って無知を晒しているのを見ると、この人たちは本当に興味がないのだなと思う以上に、忌避していることを見て取れる。また解説をオタクを連想する若手ではなく重鎮が行っていたことが印象深い。やはり彼らのような人物が評価しないと評価できないというか、安心して評価の尻馬にも乗れないのだろう。結局、大多数の日本人の評価下手が何よりもまずく、これが体内に巣食う悪性の癌であり、かつ海外の視点が不足したうえで勘違いを犯しているというところで落ち着いた。まあ、私は、アニメも漫画も好きだけどこのままだといずれ「亡びるね」と思っている人間なので、「亡びる」がいささか乱暴で大言壮語だとしても日本映画のように衰退するだろう、と睨む。土壇場を過ぎた、その時になってようやく海外のアニメを見ながら真の価値に気づくのか知ら。その頃には、もはや、躰に首はなく、地面に転がっているというのにね……。でも、来日する外国人は一切合財オタクで、金閣寺なんて雅なものを鑑賞したい訳ではなく、一にも二にもポケモンセンタに行きたいなんて、簡単には信じられないだろうし、折り合いがつけられない。そういった気持ちももちろん伝わるので同情を禁じ得ない。
夏然とした青空が広がったのは今年初。ただし、不意に爽やかな風が開け放たれた窓から吹き込むようになったと涼んでいたら、狐の嫁入り。おかげで、たっぷり床が濡れて、助けられたのか、それとも、とことん化かされ馬鹿にされているような……。
表題からは、先日まで催されていたお祭り騒ぎを連想させる。クリストファ・プリースト著『限りなき夏』読了。
SFと短編とを混ぜ合わせ、恋愛をトッピングすると、なるほどこの味になるのか。『限りなき夏』『青ざめた逍遥』の舌触りに円城塔を彷彿し、舌鼓。一方で、円城ほど難解でもなく、初心者向きだろう。ともあれ、読み返す必要性に駆られることは請合う(こうした感想は、訳者と同意なようで、ちょいとびっくりした)。しかし、難解なものは難解であるからこそ解読できたときの感激ときたらひとしおなものだが、他人の感想を拝見していると、その感激を知らないままの人たちが沢山いて、たとえば、食堂で注文した料理が目の前に運ばれてきたところで、深呼吸一つ、香ばしい香りに鼻腔を満たして席を立ちあがり、支払いを済ませて店を後にするようなものだ。急ぎの用でもないかぎり、心底勿体無いと思わされる。よく「訳がわからない」「理解できない」「意味不明」と理解を拒絶し、理解する権利を放棄した言葉が散見されるけれど、「わからない」ことが「わからない」のだと、そこまではたどり着いているのだから、あとは「わからない」一山越えるだけなのに、肝要なときに、引いてしまい、御来光を拝むことなく下山して行くものたちの姿を眺めていると、つくづく惜しいなあと思われるのだ。もっとも、明確な答えを出すのが惜しくて理解を曖昧にしたままの例外的作品もあるけれど。
時事を意識することは、本当に重要なのだろうか?
『リアルタイム・ワールド』は、「影響指数」
の低いニュースを摂取し続けることが、人生にどれほどの意味をもたらすのだろうと、いつしかTVを見るのを止めた人間にとり、引用した命題は、経験的に感得していたことであったので、他人事とは思えなかった。もちろん、ネットがあるから、TVから離れられた感は否めないが、それでも縛り付ける時間からくる支配力は桁違い。一方で完全に離れられない繋がりを希求する弱さも実感している。
『赤道の時』。なんと綺麗な作品だろう。これの有無で著者に対する評価が一変した。高度の上昇と共に人間の思考そのものも昇華しているみたいだ。人が下世話から解脱して、孤高になれる。飛ぶってやっぱりいいなあ。憧れる。他方、堕ちるってほんとに嫌だなあ。ともあれ、上空からうっとりと眼下にながめた中立地帯である島々が、まさか、ああいう状態とは。しかも、第2次性徴による急激な性の芽生えによる戸惑いにはおもんぱかれなくもないが、それにしても、SEX恐怖症が過ぎやしないか。でも『ディスチャージ』は良い良い。やっぱ移動が好きなのか。私を虜にする鍵は移動らしい。
ちなみに、これが300作品目であった。きちんとした書評ではなく、純粋な読書感想とも呼べず、読書にまつわる雑感として、飽きもせず書き綴っているけれど、300冊でようやく大台に乗ったかなという印象。前にも書いたが、次の400作品目までにはリストに五十音を揃えたいところだ。まあ、時間の問題で、いずれ通過するのだろうが、風来坊よろしく自由奔放では見通しはギリギリである。
台風はどうなったのかしらんとTVをつけたら、大きな地震があったようで、まるで知らなかった。関東が2日連続で揺れている。1度でも嫌なものだが、度重なると物騒だ。
10年以上ぶりに蛇を見た。それも自宅の敷地内で。移動中の蛇はTVで見るような滑らかな躰のラインをしているけれど、止まっている蛇は意外と骨ばりごつごつしている。柄から判断して、青大将だろう。目が悪いのか、少し離れた位置から観察している、こちらに気づいているのかは不明。ただ、匂いも感じ取る舌をピロピロと伸ばしながら道路がある間違った方向に突き進んでいたので、横から軽く息を吹きかけたところ――息が届くかどうかすらわからなかったのに――むこうは即座に感づき、鎌首をこちらに向けて警戒態勢をとる、次に撤退の判断を下し引き返したところは愚鈍な飼い犬とは異なり賢明である。しかし、どうやって動いているか検討がつかない滑らかボディを観察しているとうっかり触りたい衝動に駆られ手を伸ばす。危ない、危ない。
「日食明けで鶏が朝と勘違いして時を告げる」。
いかにも小学生が考えるような馬鹿馬鹿しく浅はかな問いと頭で考え一蹴していたけれど、実験とは実際にやってみなければわからないものだなあ。ボビー親子による狂想曲、もとい、5分22秒間に合計10個の実験も、泣き、喚き、怒鳴り散らす、の渦中で、涙が零れ、日食をもっともバラエティとして活用できた、微笑ましい実験だったと振り返られるのも、これすべて、鳴いた鶏のおかげです。
「何かにつけその手の言い回しをしなくちゃ気が済まないのね」
いやはや、しみじみチャンドラであると噛み締める。そして、何かにつけて「言い回さなくちゃ」と存分に練れていない不完全な文章を判を押したがごとく出荷する日々を反省させられるんだ。レイモンド・チャンドラ著『さよなら、愛しい人』読了。真の依頼者とは? ドアをノックされるまで真意に微塵も気づかなかった。それどころか、悪癖を遺憾なく発揮して、本書がミステリィであるという意識もなくし奔放に楽しみ、真実に虚を衝かれた。しかしながら、小説とはこうでなくてはいけないと、頭が下がる。
逐一服装を綴る人物描写の細やかさも天晴れなもので、視点の移り変わりを追いかけていくのが、チャンドラの目(思考)の動きを尾行しているようで快感。また、服装に限らず、建築物や風景物も同じような調子なのだから、生真面目なのか、融通が利かないのか計り知れないけれど、いやに境界がくっきりしている。かつ、外面どころか内面さえも複雑な人間の存在を描き切り、当たり前に一本調子ではない人間がそこにいる。『ロング・グッドバイ』でもそうだったけれど、脇役たちも一瞬マーロウの人生と点と点で重なり、一服した次の瞬間にはそれぞれが別の地点にいて素通りしている。見方によっては、活かしきれていないと取れる箇所かもしれないが、その最高に美味しいところだけ堪能する、三角スイカの頂上しか齧らないスターのような贅沢さを備える。
本書には、ヘミングウェイに喩えた人物が登場する。今を基点にすると面白さは半減するけれど、、当時、ヘミングウェイはもちろん生きているわけだ。同時代の作家を隠喩の道具として登場させるのは凄く面白くないかと引っかかった。
マーロウってタフな男だし、それなりにガタイもよく、弱くもなさそうなのに、腕っぷしはからきし……、というか上には上がいる世界なのである。やられないヒーロが横溢して腕力に物をいわせる陳腐さに飽き飽きとした時代なので、やられるヒーロが珍しい。それでも向かっていく動機というのが、ただの酔狂な人物と思っていのだが、ああ、そうか友情か。それほど深い付き合いを築いたわけでもないのに、芽生えてしまう美しさ。これはシリーズに通底している流れかも。とはいえ、物好きであることまでは否定しない。
あとがきから、焼き付くイメージに思いを馳せる。村上春樹の場合は、マロイと船のシーンらしい。読了直後なのに、既にこの時点で村上春樹とは袂を分かっているようだ。大体、ミステリィに目を通しミステリィをおざなりにする常識外れの人間なので、事件とは離れた瑣末な部分を良く覚えている傾向が強いけれど、はて、10年後に何が残っているだろうか。ただ、この1年思い出す機会もなかった『ロング・グッドバイ』から、思い出さなかったものを本書を機に次々と引き出されたのだから、記憶力って侮れない。自宅周囲の風景やメキシコ人の使用人の存在はすっかり忘れていたと思うことすら許可されなかったのに。それと、あとがきでは、マーロウの若さにも触れられているが、『ロング・グッドバイ』では、もっと言い回していた気がするのは、そのせいかなあ。「どこを読んでも痺れる」とそういったいかにも危ない薬を服用しているような状態であったとめくるめく陶酔を経験した躰が訴えている。
これまでの経過は人死にが出ても所詮他人事と特別何でもなかったけれど、今日の逮捕状の一件は特別だった。これは、膝から力が抜けるようにこたえた。また、今年は訃報がよく届く。喜びは溶けるのに、悲しみばかりが積もるようだ。
前にも書いたが、滅多に中間報告のような形で中途の感想なぞ挟み込まないように心掛けている。何となれば、「億劫なので」がもっとも通じる弁明だろう。だから、これは参考までの覚書。けれど、これを今後参考にして何かを仕上げることもないと思われるので必然的に最終稿である。しからば、何について書き留めるのかと言えば、良きにつけ悪きにつけ話題騒然の「エンドレスエイト」についての個人的な反応。物語の記憶は残るだろうが、機微のような逐一の心の動きは恐らく時間の経過と共に真っ先に風化してしまう類い。それを記録用にざっと手早くメモしようとの試みである。
まず、これは1話目と2話目以降とに大別される。1話は、真っ当な物語で、その真っ当さからむしろ「何か臭う」と疑義ばかり強めるものだったが、麻薬探知犬でもないのに「何か臭う」程度ではどうしようもなく、そのままだった。そして、仕掛けの全貌が明かされる2話からのお祭り騒ぎ。
誰が、全3回なんてデマを流布したのか知らないが、「8月一杯使ってやっちまえばいいのに(あの頃はまだ6月で夏の気配も遠く、まして夏休み最後の日の物語なんて、遥か先に感じたものだ)」と軽口を叩いていた人間にも、終わらなかった3回目を経ての4回目は「あ、これは終わらないんだ」と本当の意味で衝撃と共に作品の意図を受け止めた回である。ただ、2話と4話でのプールサイドの長門の退屈さ、気だるげな様子が絶品で申し分ない仕上がりだったので、これは遇数回が素晴らしいのかなと早くも6回目に狙いを絞り楽しみにした。同時に、この作品のヒロインは紛れもなく長門有希だと見定める。それにしても「長門、お前にとっては3年待つことなんてどうということでもなかったんだな」。だが、皆は忘れているだけで、500年の歳月に魂は疲弊し、既視感という形で悲鳴を上げているのだから、ホラー。
そして、クラナドコンビが手掛けた5回目を経た6回目。遇数回だが、これがきつかった。6回で終わるというこれまた懲りないデマと鼻も引っ掛けない角川首謀説が囁かれていたが、ラジオでアフレコ自体は脱したとの耳寄りな情報が入っていたので、そろそろ終わるのかと密かな期待もあった。前回が、素晴らしかったので、ここにきて1回目のような忠実振りを発揮されて実に困惑した。のみならず、同じ時間をくり返すのではなく、そっくり同じ日々をくり返す無間地獄が醍醐味だとしても、頑迷な変わらなさを嘆く。せめて、喫茶店をハルヒが後にするラストシーンで毎回投げ掛ける言葉を間違えるぐらいの選択肢の演出があっても良かろうものだ。ただ、6回目からは、ハルヒ以外の声優の演技に変化が見られ、平易に言えば荒れてきた。
そんなこんなでいよいよ退屈が隠せず、目が死んできた私である――まるでプールサイド! さすがに7回目は厳しいなあとぼんやり視聴していたのだが、こいつが尋常な出来ではなかった。またしても、プールサイドが嚆矢であったが、止め絵が大変効果的で、あれだけ鳥肌が持続して立ちっ放しになったこともない。加えて、声優陣の自棄も目につき、おかしい。
かうして、とうとうたどり着いた8回目。野球中継のため遅れた時間は1時間40分。9回裏に1発を浴びて同点に追いつかれるのは厳しかった。重なっているならまだしも、重ならない10分間の海峡の深さに溺れそうだった。夏休みの一大イベントといえば、「アレですよね」と日本人なら理解できると思うのだが、まあ、何にせよ良かった、無事に終わって。「狼と香辛料」は本日は諦めよう。
それにしても、もし3年前に2クールやっていたら、「ゼーガペイン」とネタが被っていたんだ、としみじみ運命のいたずらを思わせるお祭りだった。
曇りである。昨日から梅雨明けしたとは、はて、どこのこと? と首を傾げる。 天気図的には前線が離れたということなのだろうが、まったく実感とかけ離れた結果で、これは科学技術の弊害であろう。
7月期の更新作業終了。久しぶりに文字数の停滞、いや落ち着いた良き月だったとほっと一息つくも、最終コーナでよもやの巻き返しを見せて、PB。競馬場なら熱狂に包まれているところだが、いささかこの展開は馬鹿げているし、躰にも悪い。
NHKでグールドを特集する番組があるようだ。これはチェックせねば、と意気込み視聴するもグールドはグールドだったけれどグールド違いでした。
おいおい、こちらも言葉の話からか。福岡伸一著『できそこないの男たち』読了。短編の突き放してくれる感覚には目がなく、S(SF)の衒学的に引き離してくれる感覚も負けず劣らず大好きで、どちらも読者に対しての優しさがひしひしと伝わる。むろん引き離されれば、追いかけるのが人情ではあるが、突き放されたものは、追いかけても手が届かず、仮に届いても概ね形がそっくり変わってしまっている場合がある。
前作『生物と無生物のあいだ』は題名からして深奥幽玄哲学風味と輪を掛けてややこししいものであったが、本書は題名からして察しがつく。すなわち、それだけ一般的な内容だろう。誤解を怖れず同じ含意で題名を『できそこないの女たち』とすれば、自虐的かつ刺激的で愉快千万だったかもとも妄想するのだが、薮蛇ではあるまいし、余分な刺激するだけなら無用か。ともあれ、前作は、「ああ、こういうタイプの本も私には充分魅力的なのだ」と発見の喜びを得た画期的な一冊。爾来、読み重ねてきた経験が、ことごとく無駄にならず五重塔のように積み重なっているさまを一望できたことが、今回殊に嬉しかった発見のひとつである。
しかし、一般的な内容であっても、科学者の存在にまではどうしても気が回らない。よって象牙の塔で繰り広げられる世界最高峰のレースの詳細は今回も読みごたえ充分。もちろん、後世にわたって太陽のような輝きを放ち続けるのは、科学者ではなく、彼ら、もしくは彼女らが血眼になって発見したものに違いないし、そこの判断を見誤ると変な胸像があちこちに建ち並ぶが。ただ、物語があるのは、そちらの些細な枝葉末節、本末が転倒した側である。今後も、著者には、そうした歴史の裏側に埋もれている例を数多く泥んこになってでも掘り起こしてもらうことを期待したい。一方で、競争とは無縁のような牧歌的な発見もあるわけで、そちらも実にいい感じだ。
独りミクロの世界に没入して愉悦に浸り込んでいた、おっさんであり老人であり若者であったレーウェンフック。彼が、趣味で世界を覗き続けていたことが興味を惹いた。どの時代にもこうした趣味人がいるものだな、と。そして、それらが世界トップクラスに君臨することまで当世も変わらないのだ、と。
「染色体、染色体」と言うけれど、本当に細胞を染色していたのかと素直な由来を知ってとても納得できた。また、ダイナミックな受精卵の成長過程の描写が素晴らしい。こうしたところが、教科書とは違って大変上手いよなあと惚れ惚れ。しかし、肛門から掘り始められたとは意外だった。食べ物が、口から肛門へのベクトルなので、てっきり、口から掘り始められているのだとばかり思い込んでいた。
多くの生物種において、オスは遺伝子の運び屋としての役割以上の役割を担ってはいない。アリマキのメスたちは、秋口に風が冷たくなりだすとオスを産む。メスの遺伝子を交換するために。
これを知るとオスとしての前提が覆る。もちろん、積荷があるから、そろそろ、縦糸とは言わずとも斜め糸にはなっていてもらいたいものであるが、まあ、結果的に綾織りにでもなっていればいいのかしら……。ただ、それとは別に、平均寿命が短いことは承知していたつもりであったけれど、年齢調整死亡率の統計的事実を突きつけられて改めて男の生命力の弱さが衝撃的で、こりゃ、いかん。しかし、いかんともしがたい。とにかく、「つもり」ではいけないと急に焦りだした。XXmaleでなければ、どうやら7週間は女だったらしいが、儚い剛健な人生だった。
射精とジェットコースタと生の実感を結びつけた最後の仮説は案外お気に入り。でも、生の実感を味わうのは難しい。意識的に捉えるのさえ困難だ。打って変わって死の実感となれば、ああ、何となく世界から消えている自分を想像できるのに……。美味しいものを心行くまで食べることは……、満腹感だろう。
前作では、面白さは伝わる一方、まるで綴られていることが飲み込めず、2回読んで、ようやく綴られているものがはっきり見えたりもしたが、今回は著者自身の研究も絡められず、かつ貴重な知識の繰り越し分もあるので、存外に楽々としたものだった。しかし、前作がよっぽど面白かったと見えて、前作を思い出そうとすると、内容だけではなく、本の形ごとまざまざと蘇える。
久しぶりに待望の晴れ間が覗いていたので、張り切って洗濯したがその喜びも束の間だった。もっとも、洗濯物は乾いたので、ノープログレム。気になるのは、韓国の天候も梅雨が長引き優れないことで、これはそのまま日本に雨雲が流れるだろうから、不安要素になる。あと、長引く梅雨で生態系への影響も気掛かり。蝉も鳴くには鳴いているが、今ひとつ乗り切れていないようで、蝉時雨ほど鳴き乱れての集団ヒスを起こしてはいない。土の中でじっと時を待っているようだが、いよいよ出番だとなったときには秋風が吹いているのではなかろうかと心配してしまう。一昔、惨憺たる現象がアゲハ蝶の身に降りかかった。
孵化したときは、落葉のころ。緑色の愛らしい幼虫の数に比べて葉の数が極端に少なく、その少ない山椒の葉を巡って細い枝に順番待ちの数珠繋ぎが発生するという『蜘蛛の糸』なみの地獄絵図が小庭に描かれた。むろん結末はカンダタと同じく地獄に堕ちる。これは尾を引いた。影響は1年で収束せず、翌年からはアゲハ蝶の数が激減。結局、10年掛けても往時の勢いは戻らなかった。思えば、あれが今年と比較参照されることの多い梅雨が明けなかった冷夏の93年なのか。あの頃だっけ、米不足のタイ米騒動は? あの頃だっけ、エルニーニョが日本の気候にも影響を与えているらしいとわかってきたのは? 爾来、「異常気象」は常套句と化した。
たまたま、今年は日食と冷夏が重なった。太陽が食べられて、梅雨が明けないでは「祟られている」と思っても、しゃれにならない。現代人だから気象衛星「ひまわり」の画像によって、つとめて冷静を保っていられるが、これ上代の人々なら、確実に狂乱や一揆が起きている。
何やら、悪いことばかりなので、そうでもないニュースをひとつ。今年の冷夏現象で来年のスギ花粉の実りが悪いだろうとは予想される。
NHKで「カラヤンの芸術」と題打ち放送されていたのを、チラり拝見。以前にも同じ映像を見たことがあったけれど、今見ると、楽団員の視覚的に計算し尽くされた記号的な配置がシャフト演出に見誤りそうになるから不思議である。つまり、シャフトに『のだめ』を作らせたらカラヤンになり得たかもしれない。これは、やおいを経ると『源氏物語』が急に魅力的に映った心象体験と似ている。
福岡伸一著『できそこないの男たち』(光文社新書)、レイモンド・チャンドラ著『さよなら、愛しい人』(早川書房)、クリストファ・プリースト著『限りなき夏』(国書刊行会)を借りた。各第一印象は各々の感想に回すことにして、なかなか気骨のある顔ぶれで自画自賛の選出。自前の骨の方は、まだ完治せず、治りそうで治らないところを行ったり来たりと優柔不断にぐずつき、五里霧中と見通しは悪い。
『カムイ伝』が映画になるらしく、急に読まれだした。そんなこととは露知らず、なし崩し的に読み進めていた私には急にライバルが増えていい迷惑だが、『カムイ伝』は日本人なら読んだほうがいい、いや、むしろ読まねばならぬ奇跡の作品なので、何であれ手に取られるのであればよろしかろう。
あまりの寒さにホットココアを飲む。今日から8月に入ったのにホットとはありえぬ。そういえば、喉も痛むし、軽い風邪かも知れない。ああ、馬鹿か。
アルバムでは「けいおん!」が1位で、シングルでは平野綾が3位か。世もす、末広がり……。ともあれ、さすが次世代機。可愛さが半端ねえ。そろそろ一般にも普及し広く受け入れられてもよさそうなものだ。ただ、その可愛さよりもボードを抱え指示を飛ばす姿に受けた。