ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

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# Diary

2009年7月31日(金)

あれ?

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あれあれ? あれあれあれ? いくら「あれ?」を語尾に足しても足りない。では言葉を変えてみよう。おや、おやおやおや……。ほえ、ほえほえほえ……。森博嗣著『今夜はパラシュート博物館へ』読了。

久しく森博嗣から離れていた。既に「MLA」も閉鎖されているので初接触以来これだけ離脱していた期間もなく、おかげで自己陶酔げな思い込みが解けて、見えていなかったものに対しても歪みが消えて補正されたみたいだ。もっとも、そろそろ宣言通りの引越が完了しているのではないかと睨み、ストーカよろしく僅かな異変(室内での作業が続く。夏なのに写真がいつまでも初夏のままだ、とか)はないかと掲示板に目を光らせチェックしていたが……。さすがに趣味でもないうえに、手で触れられない鉄道模型の写真見ても面白くもなんともないので、本当にたまにではある。

閑話休題。まず、あまりに言い回すので「あれ?」と息を呑む。あたかも翻訳作品のような言い回しがここにあった。台詞の素っ気なさとは対照的に地の文の喧しさ。これがまるで無意識の領分であった。おそらく、あまりに普通のこととしてBGMのように流していたらしく、素っ気ない台詞の応酬に記憶の偏重が強烈に作用していたと思われる。かつてロマンチストの烙印は押したことがあったけれど、煩い人と、はじめて認識した。

『双頭の鷲の旗の下に』。やられた! これは森作品のなかでの最高傑作だろう、と安易に思い込んでしまうのは、久しく離れていた効果だろうか。しからばそれは覿面であろう。何となれば「殺人事件なんて起きなくてもいいので、ずっとよもやま話していてください」と願う人間には夢のような話。ちょっとあのトリックも実験してみたいが、粉々に破壊してしまうのが落ちだろうな。だが、原理を理解した上でのチャレンジだったかどうかは、内か外かに関わる大きな問題。ともあれ、「最高傑作」とまたしても、ここで安易な思い込みが生まれ堕ちたわけだが、その次がまた恐ろしい。

『ぶるぶる人形にうってつけの夜』。一つ前の作品がべた褒めの甘口なので特別面白い内容でもないと辛辣に採点をつけていたら、最後の仕込みが途方もなかった。そのコードが活性化したとき、あまりの驚きに、恐怖に取り付かれて、思わず本を投げ捨てたのはどこの誰? ぶるぶる。しかも、2拍置いて訪れる混乱。こちらはどう解釈すべきか。憶測を巡らせられないこともないけれど、材が足りないのは否めない。

『ゲームの国』がアナグラムに梃子摺ったので、もっともカロリィを消費した。文字数が少ないやつが考えやすいのではないかと「胃・うどん・財布」から考え始めたのがしくじりのもと。大本が日本語として正しくないのに、なかなか答えにたどり着かなかったのも道理だ。かつ、きっと、ミステリィに関連するアナグラムなのだろうと見当をつけ、有名作家、有名作品、有名探偵から手掛かりを得られないかと逆方向から模索していたのも甚だ見当違い。暗算を諦め、紙に記してようやく理解できた。アナグラムを理解したところで、まだ何か隠れているのではと、そこからもカロリィを消費。

それにしても、陽動が極めて巧妙に配置されている。しかも、わかりきった答えは明かさない。これは『笑わない数学者』でも見受けられるパターンで憎い。『私の崖はこの夏のアウトライン』には『スカイ・クロラ』を感じ、事前知識が豊か過ぎて『素敵な模型屋さん』は半私小説と読めた。

イイ国ジャナイカ、コノ国ハー!

「逆襲のシャア」「魔女の宅配便」「ゲゲゲの鬼太郎」。「鬼太郎」は実写だけど、この3つの映画が並んで放送されている国ってつくづく凄えよ、と改めてあきれた。

2009年7月30日(木)

体温の低下すなわち免疫力の低下

躰の不調について、それが原因なのかは定かではない。ただ、顎がだるい。また顎関節症か。加えて、梅雨が明けないのが、絶えずクーラの中にいるようで暑いのに寒さを感じて激辛。こまめに水分補給はしているけれど、かえって塩分が不足して害をなしているのかも。はっきり言って、衰弱している。

2009年7月29日(水)

宇宙世紀の歴史は動いた

昨夜一瞥したかぎりは時間が深夜だ、と言う事実も手伝って「珍しいなあ」と思うこと以外、特別心が揺れるようなこともなく過ごしたけれど、今日は、こんなトンデモ歴史解説番組を夜の9時にNHKで放送していいのか、と肝を潰した。こんなにもばったもん臭が鼻を衝いた番組は記憶はない、前代未聞である。ケイシ・ナイトウ、リュースケ・ヒカワと司会者や解説者の名前からして、いかにも、嘘っぽくは製作してあるけれど、それでも真に受ける人が現れる可能性は否定できない。それがNHKの真力。しかも、フィクションを語るだけならまだしも、メタ的に現実のおもちゃ情報が織り込むので、私でさえ軽くめまいがした。これを年寄りが見たらどうなることかとは推して知るべし。

しかし、歳を取るとは惨いことで、もはや映画を2時間見続けられる熱意がない。いや、正確には2時間見続けることよりも、これから2時間見続けると想うことで嫌気がさし冷めた。よって早々に退場して読書に復帰。というか、この頃、四六時中眠くて閉口している。それはもう春のように眠い。もちろん、春ではないし、梅雨が明けないとはいえ気温は夏だから、じわり体力奪われて、睡眠も浅く、潜む夏バテの気配。連日の世界水泳で披露を重ねているわけでもないし、26時間TVも今年はほぼ通常通りの生活圏の中、いや、むしろ通常以下しか見なかったし、2週間前ぐらいから絶えずこの調子で体調面が優れない。でも、悲鳴を上げているのは、躰だけで、「脳は疲れない」と呪文を奮発して唱え尻を叩けど、眠いものは眠い。眠いけど眠らないからまた眠い。

2009年7月28日(火)

優しくて卑怯

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伊集院静著『少年譜』読了。短編集だけど、短編らしさがない短編が並ぶ。通常、短編と言えば、読後読者を天上か奈落へと突き放す鮮やかな切り口が魅力。けれど、これは、ことごとく「ああ」と吐息が漏れる不思議な作品集。とにかく、優しい。少年を囲む大人が卑怯なぐらい出来すぎている。

『古備前』の校長先生の台詞には問答無用で泣けて、『四季 秋』の結末を思い出した。そうなのだ、価値が何時の間にか評価とすりかわってしまうのだ。『腕くらべ』が唯一、私の知る短編らしさがあった好みのタイプで力強くてよろしい。『朝顔』もどきりするミステリィ仕掛けの展開が用意されていてまんざらでもない。

表題作の『少年譜』も素晴らしかったのだが、はてさて、長編で読みたかったなあと惜しむことは果たして短編の評価としてはいかがなものか。

2009年7月27日(月)

乱反射

『日本語が亡びるとき』の他人の感想を読んでいて、題目通り「日本語」が亡びる話が、「日本文学」が亡びる話にすりかわった上で反感を買っていて、面食らった。まったく同一なものを読んでいるのにこれだけ感想が分裂する。本を読んで得た理解とは、多くが誤解の産物らしいけれど、様々な読み方があるものだと実感しうる。これは、鏡に対しての光の進入角が違えば別の方向に反射するように、そもそもの角度が違うからだろう。

0コース

世界水泳の予選の映像を見ていたら、コースとコース名の実況に食い違いが気になった。明らかに、上から5人目を4コースと呼ぶのは間違っているだろうと思っていたら、一番上のコースが「0コース」なのか。1なのに0が許される。0〜0.9コースを泳いでいる訳ね。

2009年7月26日(日)

絶命

西尾鉄也が描く絵は動き派手な上に特徴的なので、作画にそれほど関心を寄せない人間にも区別がつきやすいアニメータの一人。私の時代的には正面からぶつかり、過去を振り返るにこの人の存在は外せない。それが、とどめで「スカイ・クロラ」を手がけた。それこそ、とどめの一撃であって、あの時点で息絶えている。

ともあれ、映像をじっくり見たのも劇場以来。もちろん、そのつもりで見て、違いを感じたくて健気に音量を上げたのだけれど。

「亡びるね」

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耽溺する読書には、2種類。描くものと弾くもの。前者は主にSFやファンタジィから与えられたインスピレーションを雨後のたけのこのように次々と湧き上がらせて内側で花開くもの。後者は、書かれていない外の思索に自発的に飛びつき際限なく拡げるもので、水村美苗著『日本語が亡びるとき』は後者であった。要するに、どちらも決して悪くはない。

歴史を勉強しようとしても、戦争の始点と終点しか記載しない俯瞰的に見る歴史の教科書では、根本的に不足したものがある。近代化の裏にある言語戦争。<国語イデオロギー>の衝突になるほどなあと目から鱗が落ちるようで感慨深い。国家よりも人間の存在に密接に関わるものとして、宗教があるけれど、同等、いやそれ以上に言語的価値が根深さを感じる。阿片戦争が与えた危機感をようやく胸に迫った。

個人的な体験として「西洋の衝撃」をはじめて感じたのは、音楽だった。洋楽の洗練された楽曲を日本人が日本語で歌うことで、唖然とするダサさに落とし込めてしまうことへの恥ずかしさ。かたや日本のヒット曲は海を越えず国内でしか通用しないことでのお山の大将ぶり(大将は裸で充分だろう)。洋画の存在も加わえて、幕末や文学少女ではあらずとも一方通行の弱さが身にしみるし、むしろ肉体的には直輸入されたのかもしれない。2007年にはB'zが非英語圏であるアジアのバンドとしてはじめてロックの殿堂入りしたが、驚異的な国内リリースの実績が殿堂入りを支えたのは否めない。逆に言えば、ここまで豊かな国ではないと、幾ら音楽性が優れていても認められなかったのだろうし。かつ、そうしたもので世界は満ち溢れているのだろう。

そして、さらに、たしかなのは――たしかである以上に重要なのは、たとえ世界の人には知られていなかったとしても、世界の文学をたくさん読んできた私たち日本人が、日本近代文学には、世界の傑作に劣らぬ傑作がいくつもあるのを知っているということである。

ドナルド・キーンにとっては迷惑極まりないだろうが、彼が生きている間は日本語は世界の中で安泰だろうと多大な信頼を寄せている。それは、樹齢1400年を越える桜の木が大きくなりすぎて、もはや自力では幹を支えられなくなったときに何とか支えようと桜の木を愛する有志たちが設置してくれた添え木のようなものだ。ために、添え木がなくなれば、当然、桜の木も倒れてしまうのもごく自然な成り行きだろう。

くり返すが、学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉>であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず、その本質において<普遍語>でなされる必然がある
 このことは何を意味するのか?
 それは、<自分たちの言葉>で学問ができるという思いこみは、実は、長い人類の歴史を振り返れば、花火のようにはかない思いこみでしかなかったと言う事実である。<国語>で学問をしてあたりまえだったのは、地球のほんの限られた地域で、ほんのわずかなあいだのことでしかなかった。そして、その時代は、長い人類の歴史の中では、規範的であるよりも、例外的な時代であった。

実は図書館に足を運ぶたびに言語ヒエラルキィを実感していた。英米文学の数に比して、なんと他の文学の数が少ないことか。新翻訳ブームで少しは割合が増したけれど、ロシア文学やフランス文学の棚を占める狭さには愕然とするし、その他は目も当てられない。そうした<国語>の時代が当たり前ではなかったことを今更知り驚く。そして、ここに西洋への憧れの種が撒かれたのかと原点を見る思いだ。

漢文学も英文学も「学力は同程度」なのに、「好悪のかく迄に岐かるゝ」はなぜか。

本当に何故だろう。細部で見れば、引けはとらないのに、全体で見ると分が悪い。そして、その分が悪さが全てに及ぶのである。

言葉について真剣に考察しなくなるうちに、日本語が西洋語に翻訳されることの困難さえ忘れられてしまったのである。近代に入り、日本語は、西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性があった。日本語で読んでも西洋語の文学の善し悪しがある程度わかるのはそのせいである。ところが、西洋語は、そのような変化を遂げる必然性がなかった。西洋語に翻訳された日本文学を読んでいて、その文学の真の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえないのである。わかるのは主にあらすじの妙であり、あらすじの妙は、文学を文学たらしめる要素の一つでしかない。

これは嘘偽りなく盲点であった。日本語と英語とは本来違うものだとは、英和辞書にも書いてあったので、完全翻訳できるものではないとは意識していたつもりだけれど、実態がここまでかけ離れていたとは。これが非対称という名の<普遍語>と<現地語>の上下関係。文化が違うから理解できないのだろうと受け止めていたことはそればかりでないのか。あれこれ思いを馳せるうちに『ハリー・ポッター』での『不死鳥の勲章(仮題)』をめぐる顛末が蘇り、さらには、原丈人氏の姿を思い出した。時折、ジョークを翻訳して楽しもうとする人がいるけれど、いくらある程度通じるようになったとはいえ、それは無茶だ。しからば、アメリカンジョークは日本語では永遠に楽しめないだろうし、それで詰まらないとの烙印を押すのは難癖に近い。早くPUCが実現しないかな。

インターネットの時代、もっとも必要になるのは、「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは、世界中で流通する<普遍語>を読む能力である。

読む必要性。さすれば、どこを手始めに読んでいけばいいのかがわからない。学校教育も、本物の「音楽」をまずは聴かせるべきなのに、いきなり演奏させる。担当の先生や同級生の同様の不出来な演奏から見よう見まねで学ぶのである。「図工」の時間に本物の絵画をじっくりと鑑賞したことがないなと今更気づくことの摩訶不思議さ。おそらく、日本の教育のすべてがこの調子で、とにかく見るよりやるの実践型なのだろう。それは独創性は築けるかもしれないが、あまりにも無軌道で伝統とはかけ離れ、正解を知らない格好になる。そして、悲劇的に個性が備わるのだ。

では「国語」はどうだろう。大量消費社会において活字離れは日本に限らず世界各国でそうした傾向が強い。本書を読む前から韓国の読書事情には興味を持ち注目していたが、何でも、自国の作家よりも外国の作家の作品がよく読まれるらしいのである。しかも、日本の小説も人気を博する。韓国の映画業界は数年前まで確かに活気があったし、アニメ産業にも国を挙げて保護政策として取り組んでいる。その国で小説というメディア芸術の基盤がそこまで生まれず育たず読まれない、と不活性の憂き目に落ち込んでいることも腑に落ちなかったのだが、どうも日本とは活字離れと言いつつも、それでも、まだよく本を読む国民らしいと活字に貪欲な一面も窺える。それは娯楽が溢れる以前にきちんと日本に文学の隆盛があったことの貴重な名残だろう。その築いた地盤が引き継がれた日本に比して、韓国に隆盛があったかどうかは定かではないが、盛り上がりが欠けていたのではなかろうか。その時期を過ぎ地盤を築けないまま、先進国同様の大量消費社会に突入したわけだ。すると、基盤のないまま欲望が分散した。ために、一足飛びで映画やドラマでは世界に誇れるものが作られる状態なのに、育つ暇のなかった文壇が省みられない事態に甘んじているのではあるまいか。むろん、憶測でしかない。けれど、これこそがネットの時代における文化の発展の王道として韓国に限らない形になるのではと一抹の不安を覚える。

つまり、「あいうえお」の五十音と最低限の漢字さえ覚えれば、国民すべてが文章を書けるようになる。

ああ、これが花開いた先に国民すべてがブログで日記を綴るどころか小説を綴る奇怪な事態が待ち受けていたわけか。そして、発信のお手頃感に比べ、注目を集めることの困難に加えて、さらに<読まれるべき言葉>ではないから読まれないと。推し進めた表音主義者たちもびっくりな現象だろう。

だが、強調してもしたりないことだが、明治維新があったころ、私たちが知っている日本語は存在しなかった。

では、「日本語が亡びる」とは一体全体どういうことか。これは「亡びる」とはどういうことかを考えることが一助となる。ジュラ紀に覇権を握った恐竜はヒトが誕生するとうの昔に地上から姿を消した。現在、知りうる恐竜の知識とはのこらず化石から推察したものだ。先端科学を駆使して徐々に詳らかになっていく恐竜の生態にも致命的にして届かない領域がある。それは意外なことに色だと言われる。化石はすべて石。当然、色がない。したがって、映画で肉付けされ走り回る恐竜とはなんとなくそれっぽい色で再現してあるに過ぎない。さすがにピンク色の水玉模様が施された恐竜がいたとも思えないが、それすら強く否定できない。しかも、化石として残るのはごく一部の奇跡的に運が良かったと呼べるものでしかないのだ。これが「亡びる」という現象である。「日本語が亡びる」そして「亡びた」ということは、化石から肉付けして限りなく本物に近づけることは可能でも、色がない、匂いがない、味がない、全身骨格をためつすがめつ舐め回しては全体を想像し、開かれた博覧会で右往左往した挙句、骨をバックに家族揃っての記念撮影の他ない、そうした状況なのだ。そして、日本語が母語として読めるのは日本人だ。日本人が読まずして誰が「日本語」を絶滅から守れると言うのだ、となる。翻訳や詩でいいらしいから古典を読まねば……

世界的な日本人の作家として村上春樹がいる。著せば国内のみならず世界各国で読まれるけれど、一体、日本語で読んでいるものはどれだけいるだろう。英語圏は英語だろうし、南米はスペイン語、韓国はハングル文字で、中国では北京語か。読まれるべきものを書いても、それらは日本語では読まれていない。本書ではアリストテレスが引き合いに出されていたが、それはそのまま村上春樹に置き換えられる。だが、これだけ成熟した日本語である。明日明後日に亡びるものではない。けれど、50年、100年、200年後には残っているだろうか。専門家しか書かなくなってはいないだろうか。もう100年前の小説さえ読まれなくなりつつあり、200年前のものは、それこそ専門家の出番だ。かたやシェイクスピアが原文のまま読める文化が確かに存在するというのにである。救いになるかどうか不明だが、「日本語」は一度として「普遍語」にはならずにやってきたのも嘘ではない。このことからも「今まで大丈夫だったではないか」と反論の向きもあろうが、これらの動きがこれからはネットの拡がりと共に爆速する。そのとき世界の叡智とアクセスするのに、いちいち効率の悪い日本語が選ばれ続けるだろうか。既に<学問の言葉>では勝ち目がなく、アゴタの『文盲』には衝撃を受けたが、近未来の日本人の総てが他人事ではなくなる日がくるやも。麻生首相が「漢字も読めない総理大臣」とこっぴどく叩かれていたが、漢字が読めない代わりに英語が使える。もしかしたら、あのタイプが未来の日本人像なのかもしれない。本書が2008年の8月に書き上げられているものだから、首相への言及がないのも当然の成り行きだが惜しい。まさか国家元首が交代するとも思えない時期ではあったし、かてて加えて、あそこまで漢字が読めないことで醜態を晒すとは自民党の人間でさえ想定外であった。思えば、ノーベル賞を受賞した益川博士さえ英語が喋れないことで衆目を集めた。これが、タイプライタの衝撃のように技術で解決可能な杞憂であればいい。

ベトナムが漢字圏だとはじめて知ったが、あの国の言葉からはどう見ても、漢字の名残が感じられない。あれはあれで日本がローマ字化して歩んだかもしれない別の形として参考になる。

著者にはけったいなこととしか目に映らないだろうが、漫画、アニメの力が尋常ではない。アニソンをそのまま日本語で熱唱して、漫画は日本語で読みたい楽しみたい、とそこはそれ確たる大人がいないのだから<女子供>の娯楽でしかなく学問できるような代物ではないものが多数を占めるけれども、ジャパノロジストを育てた日本の近代文学ではなし得なかった事態が草の根から起きているのだ。翻訳が困難であることは漫画にしろ小説にしろ変わらないものだが、そこに絵がつくことで補い、理解が深まる。B'zや村上春樹でもここには届くまい。

ともあれ、『三四郎』の解説は見事だった。ああ、そういう風に小説は読み解くものかと見方を学習する。『福翁自伝』に綴られた若き福沢諭吉の姿はとにかく凄すぎる。「ペーパーチェイス」を彷彿とさせ尻を叩かれた。これで、はじめて万札にもなる偉人ぶりに納得がいった。どちらの書物にも近いうちに目を通したいものだ。それにしても、1905年を境に日本人は現実と虚構を生きるようになったらしいけど、漱石も落ち込んだ口か。日露戦争を形だけでも勝利を収めて、浮かれ騒ぐ感覚に近しいものが現代残っているとすれば、WBCの優勝やW杯出場で浮かれている日本人の姿だろうなあ。本当に、変わらないのだろうとしみじみ思う。

日本語は<話し言葉>としては特別な言葉ではない。
 だが、その<書き言葉>は世にも特異な表記法をもつ。

なるほど。日本語は難しいという話を小耳に挟んだことはあったが、それは会話ではなく文章の方か。具体的になってすっきりした。

2009年7月25日(土)

たのしく、ときにイラっと

「マミコバレル」もとい「ラジオバレル」終了。いくら本人の性質がずぼらであろうと外堀から懸命に築き上げてきた神聖不可侵のサンクチュアリの虚構が侵されるという珍しくも最低でナースな展開だった。

アニメのラストの記憶が薄いと思ったら、それはそのはず、何かしら追われ忙しくしていて見ていないという記憶は残っている。それも3月の出来事だった。普通、アニメが終われば、ラジオも命脈が絶たれて、徐々に衰弱し命運が尽きてゆくはずだが、なんとここから羽ばたいた。イベントの噂は聞いていたし、あらぬところからの好評価も気になり、まだ放送しているようなので、と試しに聴いてみれば、アニメ終了を「これ幸い」と自由を得、たとえ消え行く運命でも放送が続く限りは精一杯やってやる、と実存主義的な吹っ切れかたを示して、かつて聴いていたときよりも面白さは変態と比例して増量。しかし、それでも終止符を取り消せないことには変わりなく、虚しさと同時にうら淋しさを味わう。

しかるに、能登麻美子はこの番組が終わればサンクチュアリへご帰還と元鞘に収まるものと思われるけれど、これまで「日本語喋らない」「ドリル」のイメージだったカッキーはこのまま変態として歩んでいきそうな予感がする。

2009年7月24日(金)

からきし

B'zの新曲かなと耳をそばだてていたものの正体は、2003年に発売されていた。からきし駄目じゃん。

鷹の目

糸井重里がいる、西原理恵子がいる、と思ってTVを見続けていたら、元西ドイツの首相であったシュミットまで出張ってきた。90歳だが老いても残る眼光の鋭さはいかにも指導者らしいリーダの目をしていると、話の内容そっちのけで関心が向かった。思えば、キューバのカストロ議長も鋭い目をしていた。威圧するオーラを放ち相手を怯ませたり、雰囲気に呑ませることは信奉者にはカリスマ性と映り、敵には脅威と映る。優れた政治家や指導者には必要な才だろう。戸惑うことしか能がなく、苦し紛れの発言を連発して更に顰蹙を買い続けた日本の政治家には久しく見られない得がたくも気高い目だ。日本人で持っているといえば、鶴見俊輔には感じたな。

2009年7月23日(木)

ちぇ、曇りか

伝説ならず。

2009年7月22日(水)

スピナ・ボックス

今日の話題は一も二もなく皆既日食。

報道各局は各地で中継を張っていて、そうした生中継につきものなのは思わぬハプニング。特に今回は奔放で演出不可な気象を捉えようとするのだから狂騒ぶりも輪を掛け、一大事であった。なかでも傑作だったのは「ペンギンが眠りだしました!」と真剣に中継するアナウンサ。誰も真剣には受け取らないが、これには笑い、「ああ、この皆既日食は厳かではなくこうした雰囲気なのか」とノリを了解した。また日本で一番長く観測できる悪石島では、いよいよ観測の時が近づいたところで暴風が吹き荒れ竜巻まで警戒するに至ったことには、神の怒りを……、もとい、思わず不幸を蜜として堪能してしまったけれど、ダチョウの交尾にはそうまでして日食と故事つけるのかと苦笑。一方で悲嘆に暮れてとことん滅入ったのは、折角、日が欠けはじめて、空が暗み出しているのに、その絶景をを映さず、それらを観測する人たちを映しているカメラマンの安直な思考。目の前に輝かしい光景に直接感動できず、他人の反応を見なければ、先んじて感動して良いものかどうかすらと判断を見失っている。思えば、これが昨今の共感を与えるバラエティの形である。まあ、バラエティのスタッフが制作する番組にそうしたものを期待する方がいけなかった。教育的で正統な日食の映像はNHKに任せればいいと納得させるけれど、今なお解消されない皆既日食に背を向けた愚かさである。

しかし、数分の天体ショーであったことが意外でもあり大きな発見でもある。古今東西で伝説になっているが、その口碑なり文献なりで連綿と伝えられてきた逸話の規模を考えるとなんともあっけないものである。しかし、未来を予想できたということは過去のこともわかるということだ。しかも、観測範囲は限定される。もし卑弥呼がいたとする邪馬台国も皆既日食から見当がつくのでは? とも考えたが、流石銀河規模のショーである。あの竜巻を呼び込まんとする厚い雲にさえぎられた悪石島でさえ数分間は夜のごとく暗闇と化した。「雲に隠れて観測不能ならば、日食による騒動が起きない」とは何とも浅はかだったことか。加えて、全国規模で皆既は無理でも食は観測されたという。これでは、地域を絞れない。しかるに、卑弥呼は日食見たのだっけか?

ともあれ、そのとき私は何をしていたかだが、このところ、ニュースになるほど天気が荒れて、ずっとお天道様の機嫌が悪く、昨日も雨が断続的に降っていたので、降らずとも曇りかと予想したらそのとおりで、がっかり。晴れていたら、食でも見ようかとも好奇心が疼いていたので残念極みである。その時間帯に、外の景色が色を落として暗くなったような気もするが、それすら雲が厚くなっただけかもしれない、とぬか喜びに終わるのが嫌で外にも出なかった。皮肉なことに昼下がりに太陽が顔を覗かせる。「遅い!」と突っ込みを入れたが、これは梅雨明けかも? もし日食を境にニッポンの雨雲を涸らして梅雨が明けたとすれば、恵みとも災いともなる雨が絶たれたわけだから、これはおそろしく神秘的だなあ。

2009年7月21日(火)

距離感

サガン一読、ヘミングウェイの魅力に目覚めたり。サガン著『ある微笑』読了。言葉が内に内に向かいおる。紡がれた叙情は関取級。触れれば読者に纏い離れず断ち切れない感覚は日本列島を濡らす梅雨によく似合う。お陰で、本の薄さとは裏腹に思いのほか読み解くのに時間を掛けた。この自己中心的な形こそ私が思い浮かべる小説の典型と合致したが、通常、この形に差し掛かる手前で道から逸れ、ここまでまっすぐ心理が連綿と綴られた作品は、未体験であった。未体験ではあったが、それすら、そもそも狭い了見と見識で構築した自惚れの強い世界でしかないことが皮肉でいやらしい。

そのサガンと対極の存在がヘミングウェイであった。重々しいことをまま重々しくせず何気なくさらりと綴る。実際、彼の尺度ではそれが普通であったのだろう。重量が増せば堅牢堅固な性質を与えるけれど、必ずしも重いから丈夫、軽いから脆弱とも限らない。たとえば、軽さと硬度を兼ね備えた技術にはカーボンがある。軽量性と耐熱性で秀でたカーボンは宇宙を目指すには外せないように、正しく減量してシェイクアップした文体は飛翔可能。『武器よ、さらば』は豊富な情報量と共に距離感が絶妙で優れていたのだと、遅まきながら理解した。

退屈と倦怠と疲労と孤独。まるでロスジェネを解する鍵となり得る言葉だが、サガンの時代は戦後と大きく隔たる。明らかにロスジェネとは異にする平和の日々に快楽を享受しているはずなのに、これは如何に。あるから余計に辛いのか。そうした人間の種類なのか。なにぶん私もそちらの世界に属するものだが、それはまた時代を異にした話だろう。ただ、平和な時代を謳歌すると時を一にして、アゴタのように社会制度が変われば圧制にもがき苦しむ人たちがいる。すると、どの時代にも失意は絶望という形を得て絶えず存在するのだと知れる。

2009年7月20日(月)

HOW TO 縁日

縁日特有の匂いには、粉もの焼き上げると発生する湿っぽくて甘い香りの他に香ばしいイカ焼きや陽気な綿あめ、すかした甘栗の匂いが漂ってくるものだが、そのどれにも増して外せないのは、うなり続ける発電機から発する排ガスの匂いだろう。この排ガスの匂いがたまらなくて、タクシーの後を自転車で走ったり、縦列タクシーの間を縫うのが好物だったのかも知れない。これら鼻をくすぐる諸々の匂いに夜の帳を桃色に染める提灯の明かりと高ぶった人々のざわめきや太鼓と笛の音が溶け合えば、いよいよ完成。

2009年7月19日(日)

図書館と雨漏り

水村美苗著『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)、伊集院静著『少年譜』(文藝春秋)、森博嗣著『今夜はパラシュート博物館へ』(講談社NOVELS)を借りた。コンスタントに図書館へと通っているから、その都度、腕の回復具合が計れる。今日は、本が持てるようになったことで回復を実感。だが、まだ危うい感じで辛うじて繋がっただけでもある。

雨が強い。雨宿りしながら雨脚が収まったときにタイミング良ろしくずらかろうと計っていたら、バケツをひっくり返したような雨を腰まで沈む居心地のよろしいソファに座って見続けるはめに。窓からながめる幹線道路にも楽しい水溜りという幼稚園のお遊戯レベルを超えて冠水の域に近づいている。もっとも、昨夜の時点でこの程度は降ると予報していたので、閉じ込められる覚悟はできてはいた。そうこうして時間を潰すうちに施設に雨漏りを発見する。吹き抜けになっているアーチ上の屋根のどこかしらから漏れているようだが、デザインを優先して雨漏りを起こすようではデザインがなってないし、図書館で水害はもってのほかだろう。もっとも、20年経てばどこかにがたが来るものか。とはいえ、アーカイブ施設なのだからと正直気遣いは欲しかったと落第点。

全国ニュースでも、この地方の雨は凄かったと放送していた。ただ、平成の大合併効果で、市が大きくなりすぎて、地名を言われてもどこのことだか地元の人間でも見当がつかない。

2009年7月18日(土)

彩雲を見たが厄日

「けいおん!」が終わった。今更言及するのは、番組をBS-iではなくBS-TBSで見ていたから。一方で、この系統にはとことん嵌れないなあ、とまたしても確認するに至る。なので、盛り上がりを傍目にじっくり見ることもなく、見てないうちに成長しているなあと思いきや、作品内では時間軸が早回しになっていただけのこと。あっという間の展開に、もう少し楽器初心者の戸惑いをユーモアと遊びでもっての表現が欲しいところ。とはいえ、チョーキングの他にもビブラート、バッキング、ハーモニクス、ミュートと求めるのは、どちらかといえばメカ萌えの流れであろう。ために、案の定純粋に萌えず偏屈な見方をしてしまう。だからこそ「生き甲斐」発言には余計しびれた、とこちらもとことん三者的。おまけに「生き甲斐」からは、オットー・ペテルソンの言葉を連想した。

死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね

生きていたから「けいおん!」が見られたわけで、だから生きるってことはそれでいいことなんじゃなかろうか、とあの叫びにも是認する気持ちになれる。今、振り返っても、感慨もなく、しょうもないことなんだけど、21世紀になったら死んでもいいやと平気で「生き甲斐」として掲げていた人たちもいたと思うんだ。そういう軽い感じも生と死が乖離した哀しい世界にはありでしょう。それにしても今、22世紀を「生き甲斐」に掲げるには夜明けは遠いなあ。

ところで、オリコンチャートをも荒らしたED曲は抜群で、私の目的はあのロック調の再演を求めていたと言って過言ではなく、再び体験できなかったのは無念極まる。アニメとしては頽廃的で不健康な軽音部の空気が腐敗していて素敵でした。

今後の声優界は歌って踊れるだけではなく、歌って踊れて楽器も弾けることが求められるのだろうか。そちらの方が精鋭揃いでよりハイスペックではあるものの、目下、ちらほら練習中とも囁かれているが、演技を超えた繋がりがキャラと生じて凄い形になってきた。

2009年7月17日(金)

いやはや、参った

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弱り目に祟り目。我が事ながら、まさかこうした事態に出くわすとは……。「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」視聴。そして、物語への知識ではなく情熱を喪失していると気づくクライシス。実のところ、この薄ら寒い感覚自体はただいま頻繁に放送されている新作映画のプロモーションからも漠然と感じているものではありはしたが、映画の視聴で見るも無残な醜態を浮き彫りにしてしまった。具体的には、「マグル」というある種象徴的な言葉にすら新鮮味を覚える始末。まったく誰が予想し得ただろう、大作映画のすべてを見終える前に感興が消え失せるとは、正しくもってのまさかである。こんな喪失が続くのであれば長生きなんて真っ平御免だ。

しかるに、これもループものである。ループということはその無限機構から抜け出す境に果たし得るものがあるはずで、私はまだ原作の最後の一冊にもたどりつけていないので、はてさて、どうなることやら。ちょうど、この夏はエンドレスなループが話題騒然と真っ盛り。まあ、それについては後々綴るとは思うけれど、目下、これがどの『ハリー・ポッター』かと思慮。なるほど、最初に襲撃されるパターンね。

では、恒例(?)の「カットマンチェック」。『不死鳥の騎士団』は「すれ違い」が主題のひとつ。魔法省や世間といった外の世界とのすれ違い、かつて楽園だった学校とのすれ違い、そして学友、ダンブルドア、シリウスともすれ違う。そう、シリウスともすれ違うのだ! なのに、そこを潔くばっさり切り落とした。ハリーを魔法省へと駆り立てた本書の肝とも言える重要な導きとなるのに、そりゃ、ねえよ!

ディテールのカットへの抵抗は早々に白旗を翻し、渋々了承しているとはいえ、穿ったことを言えば、ハグリットがホグワーツから追われ、巨人族の底力を見せ付けた鬼気迫る場面、ウィーズリーの兄弟が作った沼を泉にして残すマグゴナガル先生の可愛さ。姿が見えない動物の背中に乗って飛ぶことで沸き起こる悲鳴などなど、見えているところは申し分ないからこそ、見えないところまでを含めた完全版が見たい、というか本末転倒してディテールこそ映画で見て驚嘆したい。真実、美術は素晴らしく、映っている箇所はケチのつけようもない。物語そっちのけで背景を凝視する人間も太鼓判を押し、魔法省の内部やシリウスの屋敷には、頷くことしきりであった。だからこそ、神秘部では他の部屋でも遊んで欲しかったし、夢のある授業風景をもっと沢山見たいのだが、そちらは、そもそも原作からも消滅している嫌いがあるので、ね……。

こちらは、カット場面ではなく、あるにはあったが、アーチの潜り抜け方が、今ひとつズレた。想像では、香港映画のワイヤーアクションばりに左から右に吹き飛ばされて、放物線を描く軌道上にたまたま在ったアーチを潜り、予測される落下点に落下すべきはずのものがはない、という衝撃に耳を聾し、狂乱の静寂に包まれる乾いた場面だったのだが。映画では「ああ、あちらに持って行かれてしまった」と戸惑う隙もない、見誤りようのない形である。

とにもかくにも、最後のゴーストとの語りがカットされていたのは無念が募る。病院の場面もごっそりカットされていたけれど、「死」の扱い方がもうひとつのテーマだろうに。やはり、あのカットがどうしようもなく響いた。どうも、これに限らずラストの件でズレるのがハリポタ映画と私の特徴だ。こちらとしては、これは絶対外せないと思い入れがある場面も、どうやら私がそう思い込んでいるだけのことで実際は映画のように易々と外せるシーンなのだろうか。

移りゆく時代と景色

『虐殺器官』に続いてこちらに手をつけるとはいかにもあてつけがましいような感じで気が引けたが、思いの外連結した。ヘミングウェイ著『武器よ、さらば』読了。Xマスまでに終わるはずだった戦争の渦中を生き抜く中で得た、厭戦感、そして厭世観に、信心を問わず包まれる。前線で戦う兵士たちにとっては、ともすれば100年戦争沙汰になるかもしれないと悲嘆に暮れた戦争だった。それすら終わってみれば4年のこと。だが、その4年間をちょうど青春期が衝突したものたちがいて、一方でうまくすり抜けたようなものたちもいて、それを想像すると運命のいたずらが切ない。当然のこととして青春を謳歌し満たされたものたちがいるから、異常と呼べる経験を戦場で得た代わりに当然の輝きを失っている自分たちの存在に気づく。これがロスジェネの気風か。『虐殺器官』でも説明があったけれど、そもそも民衆がこぞって愛国心を掲げて戦争を参加または支持するようになるのも、近代化が進む時代からのようだ。

味も素っ気もなく、終始、淡々とした語り口であるくせにすみずみまで面白い。大いに盛り上げ接待尽くしで快楽を伝えるというのであれば、仕掛けが見え透いていて波及効果までの筋道も捉え易いものだが。このうっとりする心地良さの正体はなんだろう。単に戦争ものが好きなだけでは説明がつかず、一体全体、どのような「文法」が組み込まれているんだ、とあれこれ考え合わせる。直近で言えば、『オセロー』もくまなく面白いものだったが、あれは文章としての品、そこに惹かれていると自覚しながらの読書であった。他方、こちらはあの飾りのない単純さである。果たして、どこに酔っているんだと考えた抜いた末に弾き出した一応の答えは、「風景」であった。とにかく一所に留まらず移動が多いので次々と場面が変わる。しかも、戦場とあって進むべき方向は障害物だらけと難所続き、そこを読むのがなんとも言えず楽しい。そういえば、『エンディミオン』シリーズでも醍醐味は移りゆく船旅の描写であったし、目まぐるしい移動には映画「ハリーとトント」でも惹かれれていたっけ。そうした内面より外面においての情報量が彩り豊かの正体かな?

ともあれ、これが子供向けに編集されたダイジェスト版であったことが残念の一言。

それにしても、第一次世界大戦のことに関しては無知を晒した。発端の暗殺事件やドイツが敗れたことは知っているけれど、どこが戦火に見舞われていたのかさえ知らずにいた。そうか、イタリアでも戦っていたのか。

2009年7月16日(木)

PKのように

偶然、夕方のニュースで石川遼の一打目を生放送で目撃。たった一打、たった一打のスイングに釘付けとなり、ゴルフとは思えぬほどどきどきして神経をすり減らした。これではまるで、サッカーのPK戦だ。主因は石川遼ではなく一緒に回るウッズの存在。同組で回るということでなければ、ここまですり減らないはず。石川遼の未成熟な肉体ゆえの爆発と低迷の不安定さも心配だが、なにより、石川遼に張りつく日本のマスコミの存在がストレスだった。なにせ、前科持ちである。ウッズの邪魔にだけはなってくれるなと祈った。

2009年7月15日(水)

梅雨でよかった

昨日、一昨日と猛暑で、さすがに危なかったけれど、明けて雨が降りとても爽やかで気持いい。老いた犬なぞ、昼寝しているだけなのに駆けずり回った散歩のあとのような息切れを四六時中起こしていて、人間より危機に瀕していた。梅雨には梅雨が嫌われるけれど、夏には梅雨が恋しがられる。

2009年7月14日(火)

地球大紀行〜ご近所篇〜

ムクドリの雛が巣から落ちていた。幼いころ、おそらくスズメと思われる、まだ産毛も生え揃わずいかにも悲哀を誘うピンク色の地肌がまる見えな雛を拾ってきて親を大いに困惑させた出来事があったけれど、これは頭に産毛が生えているだけで、体のほかの部分は成鳥に近い。あと1週間もすれば飛び立てたのではと思われる。だとしても、その1週間世話を焼くのか? だが、このままでは餓死か野良猫に襲われて終わりを迎えるのが確実視される。それでも、猫は猫でこれが命を繋げる。TVの動物番組で見る自然の過酷さを部屋の窓からまざまざと見せ付けられると混乱を来たすなあ……。そういえば、過去にはウグイスを拾った前科もあったっけ? その時に痛感したが、人に懐かない野鳥は手ごわい。一朝一夕で恩を着せる+お返しがあるなどと甘い考えは捨てよ!

ところで、鳥は1匹だけ育てるようなことはしないはずなのに、1匹が落下しただけで、親鳥が警戒して巣に近づかなくなったのが解せない。角度が悪くて巣を視認できないから、死角で何が発生したのか、鳴き声も聞こえず、もう他に兄弟鳥がいないのかどうかすら不明である。思い返すと、ムクドリより小さくいかにも弱者であるスズメが巣にちょっかいかけていたのが気になる兆候だった。

本の手前にある死

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伊藤計劃著『虐殺器官』読了。いきなり頭や腹を風穴を開けている少年少女。焼かれて炭化している性別不明の人間。腕や足が吹き飛んだ人間。まだ不具と呼べるのか、頭のないもの、骨だけのもの。そうした死の国の行進から歩き出してのデジャブ。というより、『XYZ』

内戦が勃発した情勢不安的な国に主人公が突入する中で、敵となった兵士には年端も行かない孤児部隊がいて、そこも確実に圧倒的兵力差を見せ付けながら蹴散らすわけだが、『裸者と裸者』を読み孤児部隊に肩入れしている人間には辛い光景だった。

アクションすれば、事実として、迫力のあるシーンを作っているが、作品としてそちらには向かわず敵となる相手と差し向かいで長々と小難しく語り合う様子から、押井作品を連想。よって読者には謎もない、情報開示した上での真っ向勝負となっているのが、情報開示社会における皮肉。ただ、そうした冗長性から押井作品につきものの退屈さまで持ち込む。映画なら黙って人知れず眠っていても先に進むが、本では眠れないから、ぼんやりもできず、「眠い頭で見るとちょうどいい(はぁと)」などという寝言も出ない。まあ、終盤では一転してその退屈さも霧散する盛り上がりを見せるので、狭い世間の高評価も頷けた。これがデビュー作ならそりゃ誰だって今後を期待しないわけにはいくまい……。

一望して、近未来の景色で、サイバーパンク的なオルタナ方面に注目が集まりそうだが、私はフィクショナルなオルタナよりポッドの人工筋肉の量感にこだわりが表れていて惹かれた。オルタナの使い方として感動し、膝を打ったのは、広告から歴史的価値のある美観を守りながらオルタナティブ・リアリティで広告を表示するプラハの街の様子。これは実用的な構想だ。

2009年7月13日(月)

見覚えのある空

昨日の今日で風強し。形ある雲みな引き千切られる。夕、ようようにして晴れ間が覗き『スカイ・クロラ』のごとくなり。

2009年7月12日(日)

こじれる

眠くないのに眠ろうとしてこじれた。いや、そもそも、明かりを消したあとにもう一度つける気力が果て、そのままにしていたのがまずかった。普段より消灯が早めだったから余計寝つきが悪い。また、風がびゅうびゅうと吹き込んで、それはそれで昼間の湿っぽい暑さを吹き飛ばして心地良かったけれど、反面、これは雨雲を運んでくると愚図でもわかる。そうなると、窓を閉めて寝るか開け放しで眠るかで気を揉む。そして、風があるから、ブラインドも下ろせないし、下ろさないと朝まぶしいからとアイマスク着用して睡眠をとるかでまた悩む。ともあれ、湿気がないのは心地良くて快適だ。昼間よりずっと過ごしやすく、夏の間はこの時間に活動したほうがよろしいと新たな欲望が高まり静まらない。本なんてものに関してはずっと読みやすそうだ。妄想の矛先を変えようと気分転換につけたラジオは軒並み休止中。つーか、風がいや増しサッシを抜けるだけで女性の長引く悲鳴のようにうるさい。やっぱり閉めよう。しかるに今度は気温が上がる。とうとう空が白んできたそんなこんなで5時近傍。鳥も目覚め、蝉も鳴く、ラジオがようやく日本語を話す。もうそれほど眠れまい。ところがどっこい、この時間になると、いついかなるときにも落ち着き払って安眠を手にするのだから不思議なものだ。

2009年7月11日(土)

1Q64

「ねえねえ、1964年にはじめて作られたんだって」

「かっぱえびせん」の袋に「かっぱえびせん」の歴史が綴られていて、まんまと「かっぱえびせん」の誕生年を興味を持ち得たわけだが、私は「最近だな」なんてしみじみ思いを馳せていたりしていたものだから、まさか「古いね」という言葉が返ってくるとは徹底的に予想外。いや、まあ、確かに古くはあるけれど、戦前、もしくは戦後すぐに生まれて庶民の口に上っていた生活を思い浮かべていたので、高度経済成長期のおいての登場に、リアルに「かっぱえびせん」がない生活が日本の居間にあるということが思い浮かべられて不思議で仕方ない。極端な言い方すれば、醤油のない日本に匹敵するほどのあるはずのものが欠けた衝撃であった。

ちなみに、1964年は昭和3Q年東京オリンピックの年です。

2009年7月10日(金)

筋肉痛

上半身が駄目なら下半身だとはしゃいだ末路。でも、跳ねただけだぜ……。

スリラ

ニュースで取り上げられるほど韓国が憂き目もあっているわけで、昨日から韓国系のサイトが不通になっているのはそういうわけかと納得した次第。まあ、ちょうど年2回の大掃除をするタイミングなので、大々的に化け物退治の総ざらい。しかし、よくある手口だけど大渋滞だなあ。

腹立たしい快楽

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ああ、クソ、チクショー、ムカツク、臍を噛み千切るぐらい面白い。西尾維新著『クビツリハイスクール』読了。まず、物量で押す物語にしては、登場人物表に載る数が少ないのが意外で、次に、いーたんに違和感。突っ張っているのか、心が重なり合わない。まあ、世にも珍しく、確実に少数派として、行きがかり上、戯言シリーズを逆順に読んでいるのだから、そういうこともあるのだろう。成長していない、より未熟なぼくに出会える。棺桶から子宮に遡るお話。これを成長物語なんてダサい括りに縛らず、どちらかといえば、憑き物落としの百鬼夜行。ただ、未来を知っているから、過去も知り尽くしていると安心するのはどこの馬鹿、全然違って的外れ。どこを切っても美味しいと、どこから読んでもいいように考え尽くされている。

もはや恒例、今回もしっかりと説教された。「面白くねえ――全然面白くねえなあたしは!」からが、圧巻で、役者が違うと思い知らされる。とことんキャラでないやつが、主人公を張ることの悲劇をつくづく実感した。戯言ならぼく、京極堂なら関口、『オセロー』はイアーゴーで、『潮騒』は安夫と、欠点、ルサンチマンのオンパレード。さて、どうするよ。口汚く罵られ、白い目で見下され、こっちはこっちで曲がりくねった下種根性を遺憾なく発揮、キャラでなければ、主人公を辞めますか? まったく地でいってどうするんだという物語だが、ここからこっちは運命の皮肉というやつで答えは既に読んでいる。

それにしても、表紙を見ているだけで、目から海洋深層水。

2009年7月9日(木)

ミー

「ああ、チェンソーの音がする」昨日、植木屋さんの姿を見たからなあ。「お仕事ご苦労様です……」って、こりゃ蝉だ。

2009年7月8日(水)

遅れて知る

上半期のブログの注目ワードの1位が「あいのり」だったらしいけれど、「あいのり」ってひっそりと終わってたんだ、とようやく知った次第。まあ、これだけ世間からズレているんだから、番組のことは今も昔もどこ吹く風だけれど、このズレの認識自体は好ましいもの。

スタミナ切れ

Q、骨折していると、読書にどのような影響が出るか。A、重い本を避けて選ばなくなる。

武田康男著『すごい空の見つけかた』(草思社)、西尾維新著『クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子』(講談社ノベルス)、伊藤計劃著『虐殺器官』(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)、ヘミングウェイ著『武器よ、さらば』(金の星社)を借りた。今回の家本は、サガン著『ある微笑』(新潮文庫)。

この3年ぐらい同じ轍を踏んでそっくり繰り返しているパターンだが、一年の計からある目的を持ってスタートを切り、ちょうど夏ごろに息切れを起こす。そして、給水目的でルートを外れ、栄養補給。それが今年は今日らしい。問題は、律儀に年明けからはじまるでない一年の計がいつはじまったか。そしてコース復帰は可能か。それとも、いっそ暮れまで外れて新たに一年の計を立てるか、に分岐。まあ、だいたい、3番目が選ばれる。でも、目に留まったものは仕方ない。極端に不意打ちに弱く、怒涛の破壊力にとても抗えず身を任せた。

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早速、武田康男著『すごい空の見つけかた』読了。とはいえ、写真半分・文半分だから、まあ、写真集だろう。気がつくと、解説的な文ばかりに目を向けて、情報量も多い雄弁な写真をおろそかに扱っていることがある。これはいけない、と反省。どちらにせよ、これを手に取る当たり、相当疲れてるらしい。まあ、精神的な面はわからないが肉体的な面では少なくとも骨は折れている。

それが、どれほどの絶景であっても、また人を寄せ付けぬ自然の雄大な眺めでも、あるいは、迂闊にも言語に絶しようが、空の写真では、もはや残念なことに心は動かされない。本来、好きだから余計飽きてしまった、とそうした皮肉なものがある。元々、天気とは儚いもので、儚いからこそもののあわれと愛せて、それがいつまでも綺麗に保存されて、誰しもが観賞できても、これがいつまでも愛せるとは限らない。企業のポスタか、カレンダになるのが行く末ならば、それでは愛しているとは叫べない。そんな不感症な私にも食指が動いた写真があった。それ自体は何てことはなくて、もったいぶるのも似合わない、ただ降り落ちる雨を写した「雨すじ」である。

種を明かせば、これはすごい写真には見慣れていたが、すごくない写真には見慣れてなかったことが、衝動的に働いた。それこそうっかり一目惚れの大火傷。現代アートとは想像力の発言。「これがぼくのイメージ!」「私の目はこれを美しいと考えています」と、みずからの発見を売りつける。そしてありふれた事柄にも名つけ、額に飾る。不興も買うことはあるが賛辞を受けることもある。「雨すじ」は空から落ちる刹那を捉えたもの。一瞬だけど、夕日ほど美しくもなくて、一瞬だけど、雷ほど恐れられてもいない。どちらかといえば、邪魔くさくて、鬱陶しい。だから、雨が降っていれば、目をそらし、無視する。だからこそ、ここに世にも珍しい空の写真に紛れて一枚入っていたのが嬉しかった。また、雨の背景に木の幹と葉っぱがぼやけて写り、その緑色が青と赤の世界で新鮮に響いた。そうは言っても「偏西風」の見えない流れを雲の捻りで写したのも気持ちよく。「空からの夕焼け雲」は烈しい光景で、これは見逃せない。誰かの夕焼けが誰かの朝焼けになる。

2009年7月7日(火)

メイン

RSSリーダのない不自由な生活を経て、ひょっとしてWEBのメインはRSSに移った? と失くしてから気づく偉大さ。もはやただのブラウザではブラウジングを続けられない。待ちきれず、Feed Sidebar 4.0を入れて恩恵を浴びる。ついでに、こやつをマウスジェスチャを利用してサイドバーで開閉可能にならないかと小手先であれこれ手を尽くしてみたが、捗らず、根気もないので、面倒は一端置いておくことにしても、その過程で、コピーが手に入れたのが吉報。死角なのか標準装備されてないけれど、少なくともクリップボードから辞書を利用している私にはあって損はなし。

RSSは情報を集める利便性。アンテナは情報の情報を集める利便性。更なる利便性を追及するなら、自分専用アンテナを作るのが一番いいのだろうとはっきりしていても億劫で立ち上がれない。色々と入れたくなるし、拾っては入れているが、しかるに比例して挙動が重くなるだろう、が憂鬱。

ところで、ダブルクリックを久しぶりに使った。いや、ダブルクリック単体なら、単語文字選択には重用しているが、それ以外の使い方はもう本当に久方ぶりだった。段落全体を選択するトリプルクリックもあるけれど、こっちは本当に使わない。そもそも使えないというか、「使うぞ!」と指先に気合を込めて連打しないと無理で、それは割に合わない。

桃色の貝

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七夕か……。三島由紀夫著『潮騒』読了。大胆だ。品行方正で残念ながら想像力の乏しいぼんには描けない。三島由紀夫のことを思うと彼をうっとり語る美輪明宏を連想するが、氏が褒め称えていた美がここに拡がる。毀れていない桃色の貝が殊更印象的。

三島由紀夫といえば、もっと熱くて夢中にさせうる文章を綴る人と予想していたら、紡がれた物語はすごぶる静か。静かで面白い。打って変わって台風の場面は、どきどきとしたから、きっとああいうアクションものもきっと書けるのだろう。

平成っ子が昭和天皇を知らないように、私は三島由紀夫を知らない。あとで幾らでも調べられるし、いわんや、そうして詮索したほうが、これまでの知を軽々と上回ったりもするけれど、そういうことではなくて、この同じ時代に同じ空気を吸って生きている圧倒的な存在感というか、高気圧が失われている。先日、マイケルがなくなったけれど、彼も同じような指標となる存在だろう。エピゴーネンには、とても埋めきれない虚が残る。戦前、戦後と時代は大きく区切ることが可能だが、そうした人よりも時代と似た存在感。

それにしても、たった50年前の世界である。その50年前の世界は、100年前や200年前の世界とも地続きに繋がっていそう。それが、50年後の世界になると、一転、断絶した。戦争では世界は変わらなかったのに、その変わらなかったものさえ、戦争のなかった、この50年のうちに輪をかけて変化している。ちょいと浦島太郎。

2009年7月6日(月)

いざ解決

CPUを食うのは、杜撰なJavaScriptによる階層メニューの弊害かと思い込み、頭を抱えていたが、原因を突き止めれば、階層メニューに含まれるルビの問題だった。よってルビを消して解決。

HOUSE

Gacktがまたしても寝室に工事した滝の話をTVでしていたけれど、まだあの家に住んでるのか。話を聞くかぎり明らかに失敗作で居心地が悪そうだから、すぐにでも引っ越すものと踏んでいたのに意外や辛抱強い。まさかあれでいて快適で過ごしやすいとか……。もっとも、自宅はひとつとも限らず、過去の話かもしれないので、今も生活しているとは不明なところ。

しかし、常識外れの寝室や規格外の風呂などの内装は目にすることはあっても、それを中に孕む家とは、どんな形だろう、と外観が気になる。あの内部に釣り合う外部ってあるんだろうか。それとも外面は凡庸のマンションで、内部に一歩踏み込むとあんな魔窟になっているのか。と、そちらの方面を考えるのが妄想をかきたてられて楽しい。別にネバーランドにしろとは言わないけれど、スターの家は特別であって欲しい。

2009年7月5日(日)

まがいもの

てんとうむしによく似た虫が部屋にいる。よく似ているが、てんとうむしではない。黄色地に黒の水玉模様と悪くはない色合いだが、それでも、てんとうむしではないのだろう。きっと害虫。でも、可愛い。

2009年7月4日(土)

すごいです!

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ジュンパ・ラヒリ著『停電の夜に』読了。これが世に名高いピュリツァー賞か。ともあれ、これで番地は覚えたので、今後は、いつでもここにジャンプできる。

どこかで見た色調。基本成分が漫画やアニメや海外ドラマとサブカルで出来上がっているので、覚えがあるなら、自然、漫画で体験しているとも憶測可能だが、そうなると、おのずと浮かびがあがるのは、手塚治虫。表題作の『停電の夜に』や『病気の通訳』、『本物の門番』では特に滲み出しているものが色濃く感じられる。蛇足だが、私は音を色で捉えるところがあって、むろん「ラがピンク」と音大生並みの高機能でもないけれど、メロディを追いかけていればモノクロで水墨画ぐらいは描けそうな気だけはする。

全9篇通して「距離感」が印象的。もっとも私との隔たりがあったのが『セクシー』。自分が修行を積んでも届きそうにないものや作り出せない雰囲気には頭が下がり、それを生み出す人や物には凄いなあと一目置いていて、この物語の機微はとても書けるものではなかった。発想すらままならないのではないか。仮に発想できたとしても私の網目ではこの機微は捕まえられず、イメージは流れるまま抵抗さえ与えらないことだろう。一方、上手さを感じたのは『神の恵みの家』。篇を進めるほど盛り上がり、最後の『三度目で最後の大陸』は最高だった、もちろん「すごい」。あれだけ長寿のキャラクタもこれまでいなかったと思ったが、良く考えれば、サイリーナスがいる。

ところで、インド系の名前には馴染みがなくて一見男か女か迷う。そういう意味ではインドは遠方だが、生活感の根底に流れるもの、たとえば、家族のあり方などはアメリカよりもずっと近い。インドに見る文化の近さとアメリカに見る文明の近さ、そういうことだろう。それでも、インドの日々の姿は圧倒的で、『深い河』を思い出しながらの読書だった。世界では貧しさの方が多数なのに、それをつい忘れてしまう。

2009年7月3日(金)

続Fx3.5

ああ、やっぱり起動は重いか。昨日はそう感じず、今更感じるようになったのは、その後、アドオンを加えたからかな。しかし、鬼の首を取ったと狂騒するほどでもない。メモリの開放ぐあいはどうだろうと監視していたが、開放されているかもしれないけれど、起動中に捕まっているメモリが増しているので、功罪半ばか。

徐々にカスタマイズが進み、メニュー表示も落ち着いてきた。ブックマークとボックスの相性の悪さから2のときとは異なる配置になったが、どうやらこれまた引き続き2段組で落ち着きそう。何故だが、巷ではブラウザ戦争が速さの優劣を競って再燃している気配があるけれど、そこまで大差もないだろうと甘く見ていたら、案外速さを実感したのが、むしろ意外なところであった。プロパティの表示も迅速になっているので、アクセスまでの内部処理のパフォーマンスが上がりラグ解消に繋がっているらしい。ただ、JavaScriptの処理が上がったと聞いていたので、まさか自分のページが重くなる事態は想像だにしなかった。その場しのぎの階層メニューではあったが、それなりに満足度は高かったので、がっくし。ところで、従来使用していたものとは、マウスジェスチャを別にしても操作は同じにしたので問題はなくて、唯一「画像の拡大・縮小」の項目がないのに閉口していたけれど、そちらはそれ専用のアドオンを発見して対応。一方でRSSが未対処。こちらはマウスジェスチャとは対応が異なりアドオンの対応待ち。別のものを利用してみたが、使いこなせなかったのが主な理由。

ほぼ順調にカスタマイズされているが、失敗もあって、同梱してあるサーチプラグインを削除したら、反応しなくなった。まあ、検索機能は失っていないので構わない。

無欲の勝利。6月分の日記の文字数が過去最高を記録。一体、何を書いたんだが、記憶にないけれど、それほど力んだ覚えもないのに、結果がついてきたのは不思議なものだ。

文殊の知恵?

前代未聞。浪川大輔の飲みの奢りの上がりで製作された番外編を経て、「くろかみ 〜Radio しすてむ〜」いよいよ本当に終了。サブ浪川、妄想下屋、女王大原、と各地でそれぞれ暴れていたつわものが集合すればどうなることかと心震わせていれば、下ネタでまとまるのか……。ともあれ、リスナ全員の首を傾げさせるどころか、へし折った、ラジオを欠席して全国大会まで行くさあやが応援した部活って結局なんだったんだろう?

それにしてもマチュが結婚か。「たくろあ」「はんぎゃく」「シゴフミ」「くろかみ」と足掛け3年追いかけているので、一スタッフの私事ながら、感慨深い。ところが、「BEAT Net Radio」も落日の気配。3年途切れることなく何かしら聴いていたが、「くろかみ」の終了で、ついに果てる。しかし、更新日では「音泉」に遅れをとり、放送も、もはやこちらで聞いてなかったのが実情でもある。

へん!?

皆「ヱヴァ」が好きだなあ。その盛り上がりに熱を奪われ、こちらは興醒めしている。今はノスタルジィを欲してない(では、先日の「蟲師」は何? と訊かれれば、あちらはまだ色々と消化できてないんだろう)。もっとも、こうした屈折した感情すら、なんとも馴染みの光景。したがって、メジャを抜かして偏食ばかりしていては、まともなオタクになれず。また戦闘力のある人たちの行動力を知っているので、とても追いつけず、追いつこうと不遜にも抱かず、そうした態度からも、アニメは好きだけれどアニオタではないと距離を自認させる。かてて加えて、研究者でもあらず、旧作との違いに眼を輝かせようという気概もなくては皆目駄目だ。では、何であれば及第かと思案に暮れれば、「アニラジなら、なんとか仲間入りを果たせそう」とやはり変則気味である。趣味化している読書ではとても張り合う気にもなれず、一時、かなり押さえていた海外ドラマも昨今の量産体性で相対的にすっかり弱くなった。ともあれ、先日も一般的な情報を鵜呑みにして煮え湯を飲まされたばかり、一般的な好評価の報がもっともいらない。それにしても2年前の作品か。1年に1作だと思ったら、案外手間を掛け、時間を食っている。まあ、「エヴァ」もとうとう最後だろうし、スタッフも悔いを残したくはないだろう。よもや悲劇を再び巻き起こしたくもあるまい。

そして「ねとすた」はインタレスティング。なるほど、変態ということか。よく分かりました。

2009年7月2日(木)

Fx3.5

「2の10倍、3の2倍」という言に後押しされ、そもそも「3.2になったら入れよう」と書いた手前、負い目もあるし、実際のところ、3.2をすっ飛ばして3.5になったわけだから、そこは潮時、仕方あるまいとインストール。

ただ、久しぶりの作業で、すっかり油断していた。充実していたAdblockのフィルタぐらい記録しておくんだった。まあ、見た目をいじるのは楽ちんだけれども、目に見えないJavaScriptを消すのに重宝していたので、結構面倒なんだよなあ。いや、面倒なのは全般にわたってか。「え、ジャンプボタンから設定やんの」と目下、絶望的な状況に気が塞いでいる。まあ、一時には処理できないので追々捌いていくことにして、心機一転、新たなアドオンも取り込み、頑張りましょう。そもそも、2で1の設定をキープしながら3に対応していたから、セキュリティの問題さえなければ、申し分なかった。3で起動が重いという噂を耳に挟んでいたので懸念はあったが、そうでもない。むしろ、2の欠陥であったメモリに未練がましくしがみついて開放しなかったのが開放されるようになっただけ終了が機敏だ。Adblock日本語版で表示される「ブロック」の文字はなんだかやたらと間抜けに見える。つか、90日も履歴とっておくもの? 1週間や10日で十全だと思うけれどなあ。

とにかく、あれこれ機能加わり、おそらく便利になったぶん、自由度は下がっていて、それは好き勝手にカスタマイズしていたものにとっては都合が悪い。だとしても、便利になったのだから文句も言えまい。特にブックマークの変化は顕著で使い切れていない(タグって何?)。こうしたものが標準になってしまうと、「ああ、私は標準ではないのでは」と推して知るべし。そして、こちらはバグなのか、起動時に「ブックマークツールバー」が隠れしまう……。あれこれいじっていたら、どうも「ロケーションバー」や「検索ボックス」と同じ段に入れてしまうとシャイなあんちくしょうは姿を消してしまう癖があるのを発見した。

それにしても、頭を抱えるほど、やることが山のようにまざまざと見える。だからこそ敬遠してたんだな、と過去の判断を痛感している。

2009年7月1日(水)

2日の夢

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よもや我に、シェイクスピアで現を抜かす瞬間があるとは、人生摩訶不思議なり。シェイクスピア著『オセロー』読了。名誉を重んじる態度は武士道にも通ずるものがあり、理解しやすい精神構造。それだけ名とは国境を越える普遍的なものか。また、イアーゴーの現実的なところも国境を飛び越えていると思う。訳者による解題を読むまで、例に洩れず「嫉妬」の物語と捉えていた。いや、少なくともイアーゴーは嫉妬に駆り立てられているだろう、とまだ未練が残る。ところが、肝心のきゃつの動機に得心行かず同情できない。この劇の醍醐味は「嫉妬(愛の崩壊)」と「謀略の過程」と見做したが、劇の前に企ての企てが陰謀として潜伏するのではないかという気もしないでもなく、材を取ったツィンツィオの物語では、その点、動機が克明に記されていて、推論が暴走しようの余地もない。されど、そうした暴論はとっくに研究し尽くされて何某かの結論が出ているでもあろう。

読みながらノッてくると、つい声に出して読んでしまうほど、日本語として熟成されている。それはもう「声に出して読みたい」と命令せずとも声の方から声帯を震わせ飛び出してしまうのだから。しばしば身にしみる事柄だが、現代作家の言葉より過去の作家たちのほうが音が良くて、気持いい。起源をたどれば際限なく、定家までは易々とたどり着きそうだが、そこまでたどらずとも初期の文言一致体は流麗だ。先日のSFのように手を入れる間隙もなく、もう、教養からして天と地も開いている。これは作家の筆力の低下とは一言では片付けられず、読者の読解力の低下および大袈裟な神が不在の生活も密接に絡んでいて深刻だ。

戯曲だからこその面白味としては、ヴェニスにしてもサイプラス島にしても、舞台上をイメージして読んでいることだ。そこが小説とはまったく違った。同次元なのに別次元。地の文がないだけでなく、「退場」などの行動を指示する言葉が挟まれるから余計かもしれない。終始、読みやすいのが不思議で、これだけの戯曲を知ると、一体全体、いつから小説とは読みにくくなったものか首を傾げる。地の文でわざわざ高度に読みにくく工夫しているような悪意すら感じる。金言も潤沢でなにより生きている。ある程度、上の世代になると、シェイクスピアをそらで言えるほど読みこなし、引用にはすかさず「それは『オセロー』、そちらは『ハムレット』」と完璧に指摘できるのだろう。今はその役目の一端を「ガンダム」が占めているような気がしないでもなく、それはそれでどうなの? といささかあきれる。見誤りようもなくこの末期的な状況は日本限定だろう。

それにしても『オセロー』か……。ボードゲームの「オセロ」で遊ぶ小学生の頃には、既にシェイクスピアのこの戯曲の名を知っていたが、それすら2日で読めるものか。読まずにいた期間を思うと、ああ、儚いな。


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