ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない
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昼:アンパンに牛乳。
今日は20匹以上のムクドリが電線に止まっていて、なかなか壮観だとながめていたが、上には上があるものだ。最初、捕食者に追われた小魚の群れが海面近くで波打っている姿、あるいは農作物に多大な被害を与えるバッタが次の収穫を目指して大陸大移動の真っ只中、はたまた生命溢れる朝日を避けて、地獄へ通ずる闇の頤へ帰還を果たさんとしている蝙蝠の大群、と思っていた、黒々として不気味で有機的な流れが、ムクドリだと知り、たまげる。
先週の次回予告から誰が大田とやりあうなどと無益なことをしたんだと思っていたら、阿川兄か。両者が論戦しているけれど、その後ろに阿川パパとヴォネガットの影がちらついてそれはそれで一興。しかし、2時間半の論戦で余程消耗したのか、肝心要の使えるところを編集したオンライン版では、両者疲弊し、ぐったり模様。一体全体、放送不可なところで、どうしのぎを削ったのやら……。
しかしながら、「アメリカって何?」とは嫌らしい質問だ。アメリカを否定するにも、そも「アメリカを定義しなさい」という。そうだなあ、まず、人ではないだろう。けれど人々ではあるかもしれない。議会政治が執り行われているのであれば、その決定が論じる対象か。すなわち、国の方針。そんでもって、国でもなし。
梅雨っぽい音がする。「ゆ」と「や」の大きな違い。
インゲボルグ・ボーエンズ著『不自然な収穫』読了。
一九九〇年代後半には、利益をなによりの目的とする世界的な大企業が私たちの生命にとって必須な食物を支配している。それを懸念するのは、そして政府や消費者が黙認し、あるいは気づかずにいるために、こうした事態に立ちいたっていることを憂慮するのは、時流にはずれているのだろうか。
食糧危機対策ではなく、付加価値の追求に突き進む世界。消費者としての市民が置いてけぼりを食らうものなら、著者の懸念も自然。とにかく、怖いというより、未知で、気づかないでいるのはいけない。「デザイナーフード」を作る贅沢を見聞きすると、その労力で食糧危機に取り組めなかったものかとは確かに思う。一方で状況を改善する見込みもここにはありそうで、医療品ともども期待は大きいけれど、途上国を支援したところで、儲けに繋がらないのが企業の事業としての限界。ただ、既に足りるどころか過剰を廃棄していながら、牛乳の国内生産を上げるBSTの開発は乱暴そのもので、そうした有用を越えて、必要性の見えないもある。実際、生産性と経済面でバランスは取れたのだろうか。「富みが富み、貧しきものはそのままに」の構図は、別の社会でも見たものであり、やはり馴染み深い。
門外漢が将来を懸念しても、科学的に証明できなければ、単に感情的に毛嫌いしている、と言われてしまうのが落ちである。果敢に楯突き、工業的農業の延長としてのバイオ産業であれば、地球を貧しくしている多様性の喪失は目に見えているので訴えられる。まあ、何を念頭においているかといえば、雑草どころか、雑虫を愛する人もいたと思い出してね。
除草剤を除草剤耐性作物と組み合わせて販売するしたたかな企業。遺伝子組み換え作物は大豆やトウモロコシだけではない。何も知らないだけで、想像を絶する組み合わせが試行されている。危険なものでもなさそうだけれども、日持ちするトマトの存在すら知らないのだから、そうした浅薄な己が憎々しい。本書の出版は10年前。利益追求で急成長したバイオテクノロジィ業界を語るには遅きに失しているが、当時までの事柄をまとめたものとしては申し分ない。その後の今日に至る10年はこちらでも多少は調べられる。モンサントは相も変わらず順調で「2008年世界で最も影響力があった10社」に選ばれた。主力製品である除草剤「ラウンドアップ」は特許が切れジェネリック化、数々の類似品が発売されている。そして、不安視されていたBT耐性を持つ昆虫が、ついに去年発見の報が上がった。そういえば、一度しか満足に収穫できないように改良された「バーミネーター」などの不稔性種子の特集を先日TVで見たばかり。もう日本産のものはほとんどなくて、あると思っていたのが、とんちんかんだと思い知らされた。DVDで限られた数しか再生できないものは、まあ、受け入れられるが、著作権侵害が、農作物まで支配して、それでどう農業を持続させていくのだろうか。まあ、出来のいい実がなるからこそ、種を求めるのであって功罪半すだ。
ところで、北米の食品市場はこちらが考えている以上に規制の緩やかなもので、案外企業からの圧力と張り合えていた日本の抵抗と厳格さが際立った。被害が出るなら北米が先に出ようものだが、何世代先に被害出るか測れないので、観察対象とするにも根気よく観察しなければなるまい。カナダ人による出版物なので日本のことも少しは登場するけれど、それは文字通りささやかなもの。もっと日本の状況を知りたい。そういえば、ここ10年で特定保健用食品という言葉もよく目にするようになったような気がする、それもバイオ産業の賜物か。
次世紀には、ヒト用の生物医薬品を製造するクローン動物についてのニュースがますます多く聞かれるようになるだろう。
有名なクローン羊のドリーは、今日のバイオリアクタ(動物工場)としての布石となっている。単純に複製に成功しましたという話でもなかったか。そのドリーも2003年に死亡した。
そういえば、先日クローン牛の販売を見合わせるという報道があった。牛の健康と人間のクローン技術に対する嫌悪感が拭えず認められなかったと記事にはあったが、これも今のシステムを変えるほど日本人が牛肉に飢えているとも思えない――というか、BSE問題がまだ鎮火せず、年齢制限の撤廃云々でもめていたはずだが、ああ、そうか、そちらは成長ホルモンで極限まで肥大化させて年齢制限以下で充分出荷の品質を保てるのか。また動物の健康もおもんぱかねばなるまい。クローン特有の肉体の脆弱さから抗生物質を投与する、それが体内の取り込まれ、食品に加工される、回りまわって人間が食い、耐性菌が誕生、ひいては魔法の医薬品抗生物質すら無効化してしまう恐れがある。これは懸念材料。そして、百歩譲ってクローンやホルモンは許してもヒト遺伝子入りの「ヒトに似て脂肪分が少ない大きなブタ」
は遠慮したい。
ほとぼりが冷めたのか、豚からの臓器移植の可能性の話題も最近はとんと聞かなくなった。先日脳死に関する法律改正案が可決されたが、どの国でも臓器は足りない。脳死ドナーからの提供が可能になっても臓器は足りないのだ。豚で育てた臓器が一時的にでも使用される日が本当に来るのか?
「遺伝子組み換え」「トランスジェニック」などと呼ばれたりするが、馴染み深くて伝わりやすい姿は「キメラ」。
北アメリカの消費者は規制は厄介なもので、進歩や個人の自由に対する不必要な障害であると考えている。規制しようとする意思、公益のために集団的な措置をとるという意思、ゆっくりと慎重に歩むという意思は、北アメリカ社会では賢明と思われていない。対照的にヨーロッパの文化は、政府が不正を取り締まり、欺瞞を防ぐ仕事をおこなうことを認めている。(中略)今日のカナダとアメリカの社会では、商業的な価値が優先し、消費者の個人的な自由が唯一重要なものと考えられている。
この思想がバイオ関連だけではなく、BSE全頭検査拒否や昨今の金融問題に影を落としている。もっとも、ヨーロッパも一度イギリスの狂牛病で煮え湯を飲み、鞍替えしたので、サブプライムローンで少しは規制も必要なものだという意思も拡がるかな……、なんて思っているとそれほど甘くもなくて、バイオ企業と金融は一緒くたにされてもいい迷惑だと反論するだろうし、第一、見えないだけで、忘れちゃならないのは、サブプライムローンでがっぽり儲けた人たちもいる。アメリカの民主主義のやり口はまだ変わらないよ。
突然だけど、ドッキリでもなさそう。「喰霊-零- 超自然災害ラジオ対策室」最終回。安定した明るいクオリティを発揮、聞いて悔やむ等の精神汚染を積むこともないので、一週間のうちで今もっとも心安らかに避難場所として機能していた番組なので突然の幕引きとは、かさねがさね残念なこってす。特に伊藤Pへの「アニメ業界なんでも質問コーナ」が充実してためになることしばしば。口惜しいことに、咄嗟には収納した記憶を引き出せず、そのほとんど忘れているような気もするが、たとえば、DVDと異なりブルーレイを製作する場合に英語による手続きの煩雑さとか、海外展開のせいで、いつまでも過去の作品にかかわっていくプロデューサとして仕事および忙殺されていく生き方が印象的だった。あと「喰霊」で手間取ったから「ハルヒ」の製作が延びたとかそういう裏話もここだけな感じで聴き応え充分。しばらくは「ハルヒ」に集中して影を潜めそうだが、製作側の人間とは思えぬ芸達者な人物。最後の物まねは、本人かと錯覚するほどの酷似ぶりで、誰よりもおかしかった。そしてPにお株を奪われているきらいすらある白石稔は、仕切りというポジションにいたので、「ねとすた」においての孤軍奮闘よりはマシだけど、不幸なことに躰を張った苦労話は聞けるが、面白話はついぞ耳にせず、そこが致命的。水原薫のキャラクタは収穫で、Pと一緒でまたどこかで聞きたい。茅原実里が何故あれだけ近況に苦戦するのかわからず、あれ、こんな不思議ちゃんだったかなと認識を改めた。
「蟲師」も最終回だったか。以前に何かしら綴っているはずなので、特筆すべきこともないかとも思われるが。動物、植物、以外にもうひとつの生がある。それらは「蟲」と呼ばれ、特別な体質を持った感受性の高いものたちにしか見ることもかなわず。と、そういうことなんだけど、もう一通り観察してこの物語は「生」よりも生々しく「孕」だったなと受け取った次第。
原作のプロットの素晴らしさは言うに及ばず、正直な話、これほど見事に感服させられる物語も他には見当たらない。同時代では遅れをとらず、他の追随を許さない。そろそろ続きが作られないものだろうか。来週からは「プラネテス」らしい。これも好きなアニメだが、これ以上見ると反対に嫌いになりかねないのでこちらはパス検討中。本来、この時間帯は「週刊ブックレビュー」に当てていた時間であった。4月からの改編でハイビジョンを除けば朝にしか見れず、夜しかTVを見ない人間には満足な視聴もあたわず。それにしても、ハイビジョンの番組CMを見る機会が増えた。そんなに加入者がいるのかしら。もっとも、そのハイビジョンの放送時間にしたって、厳しい。
普通、体調が悪い。といえば、頭痛か、腹痛、あるいは倦怠感などが考えられる。けれど、骨を折っているのは論外だよなあ、と、本すら支えられない左腕に溜息を吹きかけた。かばって浮かしている腕の筋肉もいい加減疲労が蓄積してだるい、と愚痴る。
モトGPだろうか、それとも日本のレースだったろうか。ともかく、バイクレースの映像をスポーツニュースで見たが、ああ、もう、ここにはノリックも大ちゃんもいないんだと突然、喪失感に襲われた。いずれマイケルのことも唐突に悲しむ日がやってくる。今は死亡原因の究明とわずらわしいことに世間がうるさくなっているのに嫌気が差し、ほとぼりが冷めるまで、あきれて悲しみが見えない。ラジオから11歳の歌声が響く、ああ、天才だ。それはもう強烈なほど輝いて、今となっては痛々しいほどに。
朝からビックリしているのかすらどうかワケワカラン。ただ、この人にはいつもドギマギさせられたので、情けないことにこの状況がイマイチ理解不能。しかしネ、やっぱりナ、と言うべきか。天才は長くは生きないものだ。この人も、タヴァナーやディックと同じで、ただ人の目を集めすぎた。思えば、これだけの大物で歴史に名が刻まれた海外スターが亡くなることを私は経験していない。
古傷悪化による思わぬ弊害。キーボードを打つ支点がずれて躰に染み込んでいるパスワードを入力できない。頭で一つ一つ入力しようとしても頭には染み込んでいないので、弾かれる。
誓い。牛乳を飲もう! 魚は骨まで食うぞ!
HPの表示をシンプルにして、それに伴い掲げ続けた「傲慢な日記」の看板も下ろしたが、日記から傲慢さが消えた、といえばあからさまな嘘になる。ちなみに私の中での傲慢の定義は、人を小馬鹿にしていること。したがって、理解不要で説明も皆無。曖昧は曖昧で。模糊は模糊で。錯覚は錯覚のままに。お好きなように。
少しずつ積み重ねている読書も近々300冊になる。一覧もようやくリストとして形になってきた。次の400冊までの目標を置くとすれば、五十音を揃えることだろう。だとしても、狙いはしない。実際、狙うどころではないのだ。しかし、ほどほどの距離を保っている著者もいれば、すっかりご無沙汰している著者もいる。気が向いたら、日付でソートさせる機能を付け加わえるのもありだが。はてさて、気が向くことがあるのかしらん。
インゲボルグ・ボーエンズ著『不自然な収穫』(光文社)、シェイクスピア著『オセロー』(新潮文庫)、ジュンパ・ラヒリ著『停電の夜に』(新潮クレスト・ブックス)を借りた。昨今の傾向からすれば、一冊足りないが、これは今回から家本が含まれる予定であるからである。第一段は三島由紀夫著『潮騒』(新潮文庫)。
去年の夏からこつこつと読み進めていた河合克敏作『帯をギュッとね!』(小学館文庫)を読み終えた。柔道着に袖を通したのは、中学での体育の授業が初めてだった。その頃には、『帯ギュ』は書店に並んでいた。したがって、とてもとても懐かしい。あれから決して短くはない時間が経過したけれど、流行りものが廃れるだけで、柔道や漫画の面白さは古びない、としみじみ思わせられる。後々のことを考えると、流行を取り入れるのは考えものだけれど、その時代性は出ているので一長一短。前にも書いたが、最初から最後までじっくり付き合う漫画というのも限られる。男子柔道漫画なのに何時の間にか女子柔道をより力を込めて応援してしまうのはご愛嬌。しかし、そんな私ですら桜子やマリちゃんを押さえて主役はあの柔道バカしかいないとも思う次第。最後に進路が関わってくるところは、もろビタミンC。
中学の終わりから大学生まで、帳尻を合わせた形だが、連載期間とほぼ重なる時間の感覚は素晴らしい。なかなか、特にスポーツ漫画では難しいことをやってのけた。逐一追った物語としては高二までだが、『スラムダンク』のようにそこで断ち切られたわけでもなく、きちんと高三の成績をカバーし決着をつけて、これ以降の展開も、後腐れも、望めない形である。つい引きずってしまう『スラムダンク』の瞬間凍結のような終わり方も考えものだけど、一挙手一投足を描いて『DEAR BOYS』のように高校生の物語が長期連載化するのも、それはそれで考えもので、その点『帯ギュ』は過不足なく時間を捌き切った。
さりとて、物語が終わったとき、その続きとして、この登場人物たちはどうなるのだろうと考えるのは少なくとも私の常である。最後の試合は、オリンピック出場を巡る戦いだった。そのオリンピックとはアトランタである。はて、結果はどうなっただろう。希望がかなえば、アトランタの先のシドニィとアテネにも出場したかもしれないし、昨年の北京でも彼は戦っていたのかもしれない。
ところで、読んだものはコミックス、ワイド版に次ぐ文庫版であった。第三段までくると、全巻に解説が付属するぐらいのサービスがあっても良かろうと思うが。いかにも数が半端で、『帯ギュ』のためなら、と16人ぐらい一肌脱いでくれる人も駆けつけてきそうなものなのにね。
「クイーンズ・ブレイド」の第一期が終了した。突っ込んだら負け、と暗黙の了解がひしひしと身に迫るなか、黙って見過ごすぐらいなら、そんな勝ち星など拾いたくもない、と、いざ、負け戦。
古今東西、キャラクタというものは個性的なものである。それが、枝分かれし尽くし、昨今は1キャラクタ=1属性のクラスメイトという細分化の最たるものも出現しているが、ところが、どうだこれは。いかに切り取っても異様といえる。そもそもの根幹からして基準が違うようで、普通、性格や外見があれこれ検討されそうだが、これはエロをどう区別するかとそちらの方面に非常に力が入っているように見える。特に並居る巨乳が霞んだカトレアの非常識な乳には人間の底なしの欲望が高まることの醜悪さをまざまざと見せ付けられた思いで戦慄した。おんぶして戦うなんて、そうか「人妻」でも「ママ」でもなく「子持ち」か。
アニメは「一騎当千」のスタッフによるもので、なるほど、たしかにそうらしい。ただ、「一騎当千」がそうであったようにエロだけなら、どこかの段階で見切ってしまっていただろう。見切れなかったのが、これが案外、話が真に迫っていたからで、これ絵さえまともなら随分まともな物語であったろう。そのマジなストーリィと視聴者しか感じていないHなバランス感覚の異様さに唖然とさせられ癖になった。そもそも、突き抜けたエロとは突き抜けた段階でエロにはなり得ず。
佳景、絶景、殺風景、花鳥風月、風光明媚、寂寞荒涼と奇抜な景色をながめては、快哉を叫ぶのがSFの醍醐味。反面、物語の場面転換の切り替えがあまりにめまぐるしいと、こちらの加速が悪く、なかなか調子がつかないけれど、一度背景を作ってしまえば、後はキャラクタを台本に沿って舞台上で動かすだけだから、楽なもの。ジャック・マクデヴィット著『探索者』読了。
ミュート人との出会いで繰り広げられる赤裸々なパニックとストリーキングなやりとりは終始傑作だったし、600年か……、多くは語らないけれど、ラストの出来事には、ぽつねんと浮かんでいる地球を勝手に重ねてしまい、郷愁に近い感慨を覚えた。もしかすると、気づいていないだけで、案外近いかもしれないゾ。その故郷である地球も登場したけれど、地球すらリムウェイ同様他惑星のように感じたのが不思議な感情だった。僭越ながら、この著者には地球が書けるんだろうかと訝しむ。もっとも、9000年の未来である、されど、9000年の未来として、何か残せなかったか。そうそう、遺された情報からペルソナを復活させて死者とも会話できるアヴァターは面白く、それがこの作品でもっとも気に入った仕掛け。
そういえば、ちょうど先日の「ニッポンの教養」で時間の概念を扱っていて、ひらめいたけれど、他惑星への移住可能な世界になれば、その時に始めて人類は24時間の軛から解き放たれる。緯度によって日中の時間は変わるので、時間の感覚は世界でひとつではないが、地球で生きるかぎり24時間からは脱せない。
ところで、読んでいて、ちょいちょい引っかかる翻訳がいただけない。いただけないものは、読みながら再解釈を加え改変している、あたかも、ミュート人の博物館でやったように。でも、こんなことも最近になって多くなった事柄のようだ。どうせ日本語はオリジナルではないのだし、と翻訳を勝手にリズム良い日本語に組み変えてしまうのである。さりとて、どうしてプロが訳した文章でこんなことが起きてしまうのか解せない。日本語でしか読んでいないから余計に妥協点が際立つのか。
人が肝を冷やす瞬間というものがある。たとえば、カーテンにカミキリムシがよじ登っているのを発見したとき。2日前の大荒れからここまで快晴に至るものかと口をあけつつ、現実的には布団を干そうと窓を開け放っていた瞬間に闖入してきたんだろうが、驚いた。しかし、ちょっかい出すと「キュッキュ、キュッキュ」とおもちゃみたいに鳴くから途方もなく可愛い。
得手勝手診断:疲労骨折。
自由奔放治療:2週間の安静を要する。
5本の指は動くのでぽっきりは折れてはいないものの、多少クラックが入ったやも知れぬ。手先が痺れて重い。非常にまずい。ヤバイ、ピンチだ。とはいえ、安静以外にすることもなし。ただし、いかんせん傷が関節の付近なので、何気ない動作に捻りが加わるのが痛くて、骨を折る。
Gメンの後の祭り感がすさまじい。2週間萌え上がるだけ燃え上がり、もはや燃焼維持できる酸素もなくて、代わりに二酸化炭素が増加すれば、必然的に番組自体鎮火してしまうのではなかろうか。
「鋼殻のレギオス」が最終回。絵に関して言えば、2クール放送していたが、その2クール期間中、ツラがでかいのが気になって気になってしょうがなかった。正確に言えば、ツラがでかいのではなく、ヒトミが極端に大きい。日本のアニメや漫画は目が大きいのが特徴だけれども、実際、これよりも大きい目も珍しくもないのに、これには結局慣れなかった。表情がキリッと引き締まると、バランスは良くなるんだが、いかんせん日常生活がね……。
それにしても最後にどたばたと詰め込んだのはいただけない。端から2クールでこのストーリィを消化するのは無謀だったのではあるまいか。ラストだからって急がず焦らず根気よく、これまでどおり確実にじっくりと築き上げて欲しかった。おかげで山ほど花が開きそうな要素はあるのにそのほとんどが蕾のまま花を咲かせることがなかった、とも言えるし、何時の間やら見頃が過ぎていた、とも言える。汚染獣もべらぼうに強いというのが、ラストになってようやく実感したのに、ここで終わるかな。アクションは流石最終回と素晴らしい出来だけにますます惜しい。個人的にだが、ヒロインを巡る争いは、隊長は勝ち目が乏しいと思われる。そう思っているせいもあって、ストーリィをじっくりとやる時間もないのに隊長の介入がわずらわしい。すべてがレイフォンのための噛ませ犬とは承知していたけれどサヴァリス! 飛ぶのか天剣! と、悲鳴のような嬌声と怒声の突っ込みが最終回なのに連続で飛び交った。怒涛の展開に唖然としたまま、すこんと突っ込むことすら忘れているけれど、英語パートやら意味不明なままだ……。
見たまんま。文字通り。一目瞭然。火を見るより明らか。気付け馬鹿。軒下に営巣するものしか見たことがなかったので、野鳥らしく樹上に巣を作っている様子、それには感激もひとしお。
直前のアニクリからはじまり、NHK馬鹿丸出し。何で、生アフレコのチョイスが入浴→カジキマグロ→エウレカなんだ。まあ、いいけどさ……。とにかく、名塚佳織の顔をまじまじと見たのも初めてだった。大地監督と一緒で声質に惚れ込んでいるから、音として結構耳に届いて残るし、はきはきとした物言いがラジオでも痛快に現れていて好感な人物だけど、流石声優というべきか、顔はそこまで見てなかった。しかしながら、もっと舞台役者としての一面にもスポットを当てても面白かったかとも思われる。次から次へと舞台をこなすバイタリティは生半ではない。中学生時代のVTRに一緒に三瓶由布子が映っていたが、あれは今回被害者だろう。ところで「エウレカセブン」は、05-06年にかけての作品だったか……。日曜の朝7時というハードな日々だった。終わった日が4月2日とは覚えていたけれど、年のほうは記憶していないことからも気にならなかったらしい。振り返れば、この時期がもっともアニメと決別していた。たしかに見続けているものはあるけれど、それが終われば最後かなとそうした予感に包み込まれていた時代である。それが、まさか「エウレカ」が終わって交代するようにふたつのSFに卓袱台をひっくり返され、おまけに横手からWEBラジオにはまり、ラジオのためにアニメを見るルーティンが育ち、もうちょっとだけ付き合ってみようかと思い今日に至る次第。
雨が降ると涼しくなるけど、これほど降れとも望んでいない。2時22分を頂点とした雷群は凄まじかった。まぶたの中に飛び込んでは這いずり回る光がちらちらして眠れやしない上に存分に頭を働かせて窓を閉めるまで雨音もうるさかった。おまけに、連日の熱帯夜で朝は早くて、夜は遅い。ある意味、理想的な生活幅だが、望んでそうなっているわけでもないので辛い。それに昼間もおよそ快適な湿度でもなく、夏先取りで一足早く夏バテを引き起こし、ぼうっとして無駄にする時間が多いなど、明らかに電池切れを起こしている時間帯が目にあまる。
以前、骨にひびを入れた箇所が何故だか痛む。寒くなると古傷が疼くとか言うけれど、今は梅雨。古傷は湿気にも疼くものなのか、そうでないとしたら、負担をかけすぎているのかな。それでも、負担をかけたからといっていちいち音を上げられても我が腕ながら付き合いきれん。
終始夢中で読み進めていたのに、落ちがわからなかった。いや、そんな私を満足させる落ちなどここには最初からなかったのだと断言しよう。メイン・ストリームだと思っていたものは、サイド・ストーリィ。フィリップ・K・ディック著『流れよわが涙、と警官は言った』読了。そうした、ささいな戸惑いも小さな混乱も解説と著者による序文に目を通して、綺麗さっぱり憑き物が落ちた。SFの皮を被った自伝。ラストで生きた人間より生きていない物への愛が消えることなく、いつまでも――少なくとも人間よりも長く――残ることを示したことで味わいを深くしている。それにしても、ディックは53歳と若くして亡くなっていたのか。その残した作品は近年に至るまで、いや、近年になったからこそ、より再現率を上げて忠実に次々と世に送り出されていて、非常に魅力的なものを今なお生み出す源泉であるがゆえに、失われた才能、取り戻せない筋書き、見ることのかなわない物語に思いを馳せるとつくづく惜しまれる。
「なぜだい?」ジェイスンにはその気持ちがはかりかねた。彼からすればそれは避けるべきことだった。そんなものは味わうにしても、さっさとすませてしまうことだ。
こちらは、「それでもわたしは悲しみを味わいたいのよ。涙を流したいの」
というルース・レイの言葉を受けてのジェイスン・タヴァナーの反応だが、ディックの愛よりヴォネガットの諦観に、ヴォネガットの諦観より森博嗣の科学者然とした様にシンクロしている私にはこの会話で立場や距離感を掴める。ために、ここでどこに寄っているかでこの小説の価値が変動するのだろう。ま、例外なく何だってそうか。いや、本当にスイックスだと思わされてネ……。
サイドをメインと読み違えた原因のひとつには、いきなりかっ飛ばされて、置き去りにされたことがひとつある。常日頃からSF世界に浸り、しっかりとしたSF者ならば即座に対応できた加速だろう。しかし、準備運動もろくにせず、いきなりの加速に対応できないものは、振り切られて取り残されてしまうのが、SF全般に及ぶ弱み。私の場合は、追いかけるのが好きなので、振り切られても一向に構わないのだが、本書ではやっと追いついたと思っていたら、なんとそれは別のものだったのである。でも、引っ掛かったSFギミックは貧乏性には捨てるに惜しく、活かしたいとつい企みたくなるものなんだが、これは、そうしたギミック溢れる世界が前提なら、それについて書くのは野暮ったいことなのだろう。
冒頭1988年から開始するものだから、日本人は妙なことを勘ぐりこだわってしまうが、原作は1974年の作品であるからそれとは毛頭関係ない。むろん、1984年ともゆかりもない。しかし、薬物の描写には時代を感じる。決して未来ではなく、どちらかといえば、70年、60年を偲ばせる過去の風景だ。
巻末にハヤカワ文庫SFの他巻が紹介されているけれど、どれもハードで心惹かれる垂涎のラインナップ。ただし、ひとつとして攻略したことがないのが、げに恐ろしい。
「Gメンアニソンフェスティバル」。ただのゲスト回かと思いきや、存外に収穫ある企画だった。2年ぶりにラジオでがっつり声を聴いた豊崎愛生はそういえば気の利いたアドリブが得意な娘っ子だったと思い出したり、野中藍のスクータは生放送の危なっかしさが存分に発揮されて一聴の価値があり、中島愛が地声も演技も歌でも声が変わらない三拍子っぷりに驚いたし、小林ゆうはここでも暴走、喜多村英梨は案の定気持ちよく空回りしていた。しかし、続々と若い子が現れると、野川さくら、田中理恵、堀江由衣などは、すっかり下から押し上げられて、安定した頼れるベテランになったものだとしみじみ。「アニタン」が放送していた頃は、ああいうコントや着声ランキングのようなものは毎週聞けたものだが、久しぶりに聞いて、相変わらず布団の上で身を捩じらせ悶えているはいかがなものか。ともあれ、百戦錬磨のつわものぞろい。演技力では同世代のアイドルは到底太刀打ちできない。ともあれ、リスナのリアクションも抜群だった。即座に反応がメールで返ってきて放送に反映される。WEBラジオにはない生放送らしい臨場感を体験した。
タイトルにもなっているアニソンで言えば、リスナの層が若いのと、ゲストに関係したものが多く採用されたから、近年のものが目立つ。90年代がぎりぎりで80年代になるともうかからない。一度中島愛関係で「うしろゆびさされ組」が流れたのが異質だった。ま、でもだいたいは懐かしい。その中で「アンインストール」だけが特別な感情が湧く。曲自体は非常に格好いいが、耳にするだけで、アニメ「ぼくらの」の内容に引きずられてどうしても暗くなる。もう2年ぐらい経つのにいまだ求心力は衰えず作品を引きずっているらしい。あと、旧「鋼」へのリクエストが意外と集まったことにも、意味深だと勝手に勘ぐっているが……。「銀魂」関連のリクエストも多くて、ああ、そうか、あれらをアニソンと呼べる年代かと思った。まあ、「スラムダンク」関連をアニソンと認められるのと同様だろう。
つくづくもったいないのは、折り返した2週目から、ビンタ選手権がハリセン選手権に変わったことだ。自らの手を痛めてまで殴る、そこが肝要なポイントだったんだがな……。ちなみに優勝はまさかのコンボで田中理恵。一発の破壊力では加藤英美里で、ビンタ限定なら、何事にも懸命に取り組む画伯が持っていかれました。
ところで、TAKUYAって誰? と思っていたら、げ、芸人か。有名なのか? まったく知らないや。ともあれ、普通、声優が番組にメディアに露出するときにはホームの雰囲気が出来上がっているものだが、まさか司会者が「コナン」すら知らないアウェイってのは珍しかった。だからこそのもどかしさ、キタエリの悲劇。
梅雨の全休止。空を見上げてすっかり夏だと思った。そもそも太陽はこの季節が一番高くまで上がる。星運的にはもっとも恒星に近づき、超鳥瞰図でもっとも夏なのだ。ただ、冬だった北半球を温めなおすには、時差が出て、肌で感じる灼熱の日々は2ヶ月遅れる。
そうして、徐々に気温が上がる中、活性化するのはGに限らず。スズメバチという暴君もいる。あれは怖い。もともと、小粒でも蜂が不得手なのでラスボスのようなあれには存在からして勘弁して欲しい。充分距離をとっているようでも、すこぶる戦闘的であちらから突っ込んでくるので、どうしようもなく、目敏く発見したら即座に踵を返すことにしている。もっとも、こちらとは数百倍の体重差、戦えば負けやしないだろう。ただ、仕留めそこないSOS信号を発信して仲間を呼び、蜂起されても厄介なので装備もなければ無闇に近寄らないほうが賢明な傍迷惑な存在だ。そうした迷惑を蒙るのは人間に限らず一緒に連れ立ち生き甲斐である散歩コースが突如変更される犬もである。ただし、犬は何が起きているさっぱりだろう。到底信じられないほど、鼻先に蜂が飛んでいてもぐっすり居眠りできるのだ――人間と動物の確かな違いをまざまざと感じた瞬間だった。それに得てしてペットである動物は野生が備える危機感を失ったのか図太い。自動車がぎりぎりのすぐ脇を通ろうが、自転車が目の前につけようが、向こうがよけてくれると安心しきっておりビクともしないのである。その無警戒振りが頭にきて、自転車の前輪で多少踏んでも相も変わらず表情は穏やかもの。おそらく、世界は自分を中心に回り、自動車は降着円盤のように周回しているように見えているだろう。
所詮、消化試合。とはいえ、結果だけは知りたいと終了直後にTVを見たが、どうやら負けたようだ。もっとも、そんなことはさて置き、スタンドの横断幕の文言に怒髪天。
しかし、その怒色さえ置いてしまうと、たかがサッカーで見せるあの攻撃性から、オーストラリアはヨーロッパ型なんだとしみじみ思ってしまう。実に平和で無毒なスポーツサッカーと付き合っている日本人からすると立派な異文化衝突事故。あの国では女性や子供がスタジアムに入れるのだろうか。試合当日、町から人気がなくなるということはないだろうか。
ただ、浮かれてのぞむより、危機感を持ってのぞんだ方が身を寄せやすく居心地は良し。ために、苦くて顔をしかめてもこれはこれで可。
W杯まで1年と迫ったこの大切な時期に緊張感の欠片もない消化試合は耐え難い。南アでコンフェデをやっていると知れば、ことさら残念に思われる。アジア予選は見なかったけれど、手っ取り早く強豪と戦えるコンフェデなら、どんな形であれ徹夜したい。予選1位を惰性で競うことより燃える。ただ、日本がいない形は論外だ。そのプレイはいただけない。ところで、アジア代表はイラクなんだそうだ。まあ、アジアカップで敗れた日本は口を挟む立場にはあらず。敗者は口をつぐむべし!
暑いので扇風機を出した。片付けるときに掃除をしてあるので軽く埃を払えばすぐに使える。日本は夏だが、オーストラリアは冬だ。こうして気温が上がればGが活発化するもので、出てきた出てきた。殺虫剤を降り掛けてしばらくしたらポトリと落下、ヨタヨタ歩いている様子を見て、覿面に発揮された殺虫剤の恐ろしさを実感。しかし、最終的にはティッシュで包むわけで、ソフトに包んだところで手の中を確認したら、器用に皺の間から脱出してきて、半径50Mに奇声が飛ぶ。
支持された? さあ、どうだろう。不支持を支持されたんだろう。内輪揉めにほとほと嫌気が差したんだ。馬鹿正直に支持されたと厚かましくも勘違いされても困る。
貫太郎、おめえ重いよ。体重もそうだけど、態度も重々しい。おかげでページを捲る手が重い重い。道尾秀介著『カラスの親指』読了。前にもあったけれど、被害者の首が回らなくなり、同じ被害に苦しむものを落とす加害者側に回るパターンは闇にはあるものなんだな。まあ、人手がいる割にはおおっぴらに求人もできない仕事なので、人材確保には被害者は手近な存在か。しかし、明るくはない。それもあって、暗いというか、期待外れというか、人の評価を当てにして否応なく期待値を高めてしまった己がまったくもってうすらとんかち。確かに、目を見張る変化はしたけれど、特別これが抜きん出て素晴らしいとも思えぬ。これなら、あちらこちらにゴロゴロと転がってそうなものだが、そういうものではない? もしかすると古今東西、傑作はほとんど未読の状態であり、新刊しか読まない贅沢な人間ではないので、余計にそう身にあまる自由を手にしているのかもしれない。と言いつつ、一方いまだ「暗鬼館」に淫しているのを物の見事にひきずっているのが心機一転の妨げとなり致命的である。早く藁なり火掻き棒なりにでも掴まって回復せねばとは思うけれど、どこか遠い目ぼんやりと、心ここにあらずに過ぎる。
ところで、『サクリファイス』『ジョーカー・ゲーム』『インシテミル』『カラスの親指』と改行頻度が高いのが気になるところ。具体的には、地の文を会話分で挟む文体が見受けられない。誰が喋っているかわかりづらい点を除けば、好印象。これが昨今のリーダビリティを追求した結果か、それとも単なる妄想か。
そういえば、若々しいCROWのつがいが2組やってきた。若いだけあって、なかなかにぎやかだ。にぎやかの常といえば、STARLINGだが、今年も相当なもの。とはいえ、STARLINGは期間限定なので、真実にぎやかなのはSPARROWだろう。年がら年中ピーチクパーチクやっているので、トンと無視しているが、気にするとこれほどうるさい鳥もいない。HERONは見たことあるだろうか。それに近い種なら、蒼穹を背景に縦横無尽に横切っているのを毎日見かける。移動距離も大きくて実に優雅だ。日暮れどきなど、寝床へ帰るのか、それぞれがばらばらに次々と同じ方向へ飛んでいるのが面白い。そうそう、珍しくSWANのつがいに雛が生まれてそれがなかなか可愛い。とうが立たないうちにどこか取材に来ないかと睨んでいたが、こないものだ。しかし、あれらすべてが大人になるというのも狭い河なので渋滞が置きそうだなあ。KINGFISHERとは今年は出会えず。先日は6月なのにBUSH WORBLERが囀いた。もっとも、昆虫ではないので、声をひそめているだけで秋も冬も生きてはいるが、梅雨というのに囀りは珍しい、命懸けの遅刻(求愛)である。昆虫が飛んでいないのか、家の近くではSWALLOWを見かけない。昔から、にぎやかなところに巣を作るといわれるが、袖にされ、我が家が一度として営巣の舞台に選ばれたことがないのが残念だ。
これでどうしてうまくいかないことがあるだろう。
すべてこうであるならば、そりゃ、わかりませんわ。
盲目のピアニストが脚光を浴びている。しかし、コンクールを優勝したことよりも、それを引き金に「目が見えないのにピアノが正確に弾けるなんて」=「天才」という構図に偏っている。また、そこだけに留まらず、「才能を伸ばす子育て方法」とそちらにもメディアの触手が延びた。めでたいニュースだ。どこにも悪意など潜んでいないように見える。なのに、なんだこのむくむくとするロック譲りの反骨精神。どうも、報道に触れるたびに心がざわつく。明鏡止水とはいかない。畢竟するに、プロセスばかり注目されて、輝かしいきちんと評価すべき結果が祝福されずないがしろにされているのに怒り心頭なのだろう。もっとも、私もそうなのだが、ピアノを聴いてもきちんと評価できる耳がないのが情けない。上手いなあとは思えるけれど、天才には聴こえない。ピアニストはピアノが弾けるものだ、ピアノが弾けたからとはいえピアニストを手放しで褒められない。
個人的に思いとしては、続けていれば人間、芽は出る。それは、健常者、障害者は問わない。与えすぎでも与えなすぎでもなく、きちんと管理して腐らせず、いかに飽きさせず続けさせるかが、一番のポイントだろう。
では天才ではない障害者はどうしたいい。意味があるのか。無意味なのか。必要なのか、不要なのか。これは先日の「爆笑問題のニッポンの教養」から与えられたままの命題。
『サクリファイス』の舞台となった自転車レースの模様が放送されていた。平坦なコースといってもロードであるからには、真実、のっぺらぼうなわけでもなく、それなりに起伏がある。だとしたら、山岳コースとは何ぞやと思えば、こりゃ、きつい。ただ、同じ場所でも小説を読んでいたときに思い描いたコースレイアウトと違っていたのが、残念でならず、周回コースなのがひどく興をそいだ。
松井が去年に続いて誕生日にホームラン。今年は出足が悪くて、今期契約満了で来期は放出の噂が絶えないけれど、去年の時点では何号だったんだろうと調べてみたら、ありゃ、今年より2号少ない7号だ。そのかわり打率が今年より6分ほど高いので、まあ、批判も封じれていたのだろう。毎月5本打ってくれたら心配などしないのに。
Playing for Changeの「One Love」を聴き、全身が喜びに総毛立ち、毛先まで小刻みに揺らしたその快感がそのまま目に到達、集約して涙。初めて聴いた曲でもなかったのに、改めて感動した。
相変わらずクローズドサークルにぐいぐい、後ろ髪を引かれ、とにかく滅入る日々が続く。どうやら『インシテミル』が面白すぎた。その反動で憂鬱に落ちているらしい。読んで躁になる本は、言い換えれば、読んで鬱になる本だった。
三沢光晴突然の訃報に眠気も憂鬱も吹き飛び、感覚が磨がれ、皮膚がビリビリしている。よりにもよって社長かよ。若手が死んでしまうケースは稀に耳にするが、トップの試合中の事故は聞いたことがない。新日派なので、全日はあまり見なかったのだが、それでも三沢には惹かれるものがあった。プロレスって昔より高度でより技も過激になっているのに、人気は比例していない。むしろ、過激になればなるほどマニア受けして一般からは皮肉にも離れていく。今日のように人が死ぬぐらい危険に身を晒しているのに、八百長だと言われてしまうのだ。皆が本気を求めるけれど、本気に応えた末路がこの結果なら、報われない。
大ベストセラー『バカの壁』の著者は「虫バカ」。養老孟司著『養老孟司のデジタル昆虫図鑑』読了。デジタル図鑑なのに紙媒体。いきなり大いなる矛盾に突っ込みたいが。いや、まて本当に紙ではデジタルできないのか、メディアとデジタルが混線したこちらの誤認ではなかろうかと、まずは己を疑ってみることから始めよう。それに家庭用スキャナで撮影された虫は目を見張るほど克明に撮影されていて凄い。その凄みを前にしたら些事など、本当どうにでも良くなる。ただし、その克明さでトゲナシトゲトゲを見ると心底後悔するかもしれない。
噂はかねがね、こやつがヒゲボソゾウムシか。たしかにペニスの形も違うようにも見える(?)。これだけの違いで、確実に別種とは生殖ができなくなるのだから不思議であるが、当然、合致したペアを作らないと結実しないわけで、どれだけキチン質で厳格であろうが、独走しても滅びるだけだ。しかし、DNA単位では子孫を残すことが一義的な使命でもないとも言われる。ともあれ、こんなのいたかなあ。日本全国にいるらしいが目撃したことがない。1センチ近くある虫なので、見れば気づくと思うけれど、私の目に留まっても雑草同様、目に映らないのかもしれない。ゾウムシは色黒と名前の由来であるあの長い口が苦手だけれど、こやつは色が緑で加えてゾウムシらしからぬ短い口なので平気。
この本の中で唯一親しみがあったのはミヤマクワガタである。ここで、ふと思ってしまったことが、迷宮の入り口だった。思えば、どこでどうやってカブトムシやクワガタを毎夏集めていたのだろう。無論買ったわけでもなかった。それなのに、毎年数種類(ミヤマ、コクワ、ノコギリ、ヒラタ)が簡単に集まったのだ。しかも、わざわざ罠を張って虫取りに出かけた憶えもない。憶えもないが、山へ分け入り捕ってきたのか、それとも向こうから飛んできたのか。絶対にありえないシチュエーションのようだが後者のような気が強くする。思えば、玉虫も地面に落ちていたのを拾い小躍りした記憶がある。それが、今では皆目見ない。ゴマカマキリなら何年か前にもやっぱりあちらから飛んできて、捕まえては「キィ、キィ」可愛い悲鳴を響かせた。近所からいなくなったか、探していないだけか、と言えば、これもまた後者だろう。大人になって活動範囲は恐ろしく拡がったのに、子供のようにアンテナを広げなくなってしまったところに所以すると思う。
タスマニアとか、コスタリカとか、バリ島そうした明光風靡な地名をながめているなか、隠岐が異様に身近だ。でも、その隠岐特有のコアオハナムグリの青は実に綺麗。掲載されている虫で一際目についた。そもそもカナブン自体、可愛い(傷も治してくれるしネ)。ただ、そこで留まらないのが「虫バカ」。でも、いくら好きだからって大型ポスタにプリントアウトはやりすぎだろう。黒、緑、茶、黄、赤という色が昆虫には多いようだが、その中でも青(瑠璃離)は特別な色だ。そういえば、部屋の壁紙がピンク色なのも青という引き立て役を前に持ってくるための布石だったことを鑑みても、青は好きな色なのだろうなと思う。けれど、皮肉なことに現在、部屋の中に青は少ない。そうそう、色一番はコアオハナムグリだが、随一のプロポーションの美しさを誇ったのは何と言ってもミツギリゾウムシである。
害虫以外なら、たいていの虫は平気で手掴みするが、触りたくても触れないの筆頭といえば、女郎蜘蛛。あれは誰が名付けたか知らないが、黄と黒の縞で飾り、手足の長い超絶スタイルはなるほど妙にあだっぽい。オスであってもメスに見える。手で捕まえたいのに、口説き落とすちっぽけな勇気もなくて手が出せない。さる地方では蜘蛛を使った喧嘩相撲が執り行われ、参加者である老若男女が何食わぬ顔して手掴みしている様子には、毎年呆れつつも感心するばかり。高嶺の花。軒下の女郎。
虫はそう移動するものではないし、土地柄が強く出る。何度も紹介したヒゲボソゾウムシはその典型で、あなたの自宅の裏山の虫が、その地方に独特のものかもしれない。生物多様性と環境との関連を知れば知るほど、世間一般の環境に関する認識の欠如を感じてしまう。現代人は乱暴な人たちだと、しみじみ思う。あっちの山もこっちの川も、要するに”同じだ”と思っているに違いないからである。
昆虫採集は楽しいと思うけれど、標本にするのは可哀想で、それも、少量ならともかく、大量に”同じ”ようなやつを何百、何千、何万匹と死骸を集める貪欲なコレクタ心理が理解不能だった。むしろこの感情には、コレクションに対する「暴食」や「強欲」の罪の意識が重なる。ただ、理解不能がネックだったとすれば、きちんと研究に使われているのなら、理解可能で気持悪くない。
ところで、一番気味悪がったトゲナシトゲトゲを巨大プロジェクタに映してご満悦な養老御大の顔を見てもおかしな人だと思ったが(ミツギリゾウムシならわからなくもない)、通常、ゴミとして片付けてしまう虫の死骸をビンに集める、そもそも虫をスキャンした張本人山根一眞の日々の小さな努力からして、この人たちナカナカ、イカレテル……。
忘れられないの裏返しで、気になる存在ではあったのだが、唐突に存在が解き明かされた。単刀直入「惜しい」。男装しなければ、かわいい女性アイドルとして活動できるのに、何がどうして、ああ、なったのか、ゲテとなる。「もったいねえなあ」が御馴染みの感想の中、降って湧いた理解。女の子が男子学生のフリをして学校に潜入。そこを男子学生に見つかるが、その男子学生は男装した女の子のことが気になってしょうがない。「まさか、俺は男が好きなのか?」というパターンが、漫画でよく見受けられるが、あれだ。直近で言えば、「イケメンパラダイス」。結局「同じ」を見つけようと科学した。
そういえば、「ヤッターマン」のEDを歌っているらしい。元々見なかったのに、朝に移動して一度として見ない。もう二度と見ないかもしれないほど離れてしまった。加えて「コナン」も見ず、夕方も朝も生活圏外だ。
昨日のぬるい雨には、なるほど梅雨入りしたとそれらしい趣きが感じられたが、今日は猛烈な風に鬱屈したすべてが吹き飛ばされて実に清々しい。
養老孟司著『養老孟司のデジタル昆虫図鑑』(日経BP社)、道尾秀介著『カラスの親指』(講談社)、フィリップ・K・ディック著『流れよわが涙、と警官は言った』(ハヤカワ文庫SF)、ジャック・マクデヴィット著『探索者』(早川書房)を借りた。
『インシテミル』に味をしめ、クローズドサークルを狙っていたのだが、タイトルからはこれがクローズドサークルなのかどうか判断つかねる。しかも、外国人作家に至っては、不案内であるがゆえにミステリィ小説家なのかどうかすら判別がつかん。よって、ワクワクの冒険より至って堅実な道尾秀介という安全パイに逃げ込んだ。
これに尽きる――存外に良かった。最初から最後まで一切だれることなく進行し、起承転結飽きとは無縁に絶えず面白くあれたことに自然と脱帽する。米澤穂信著『インシテミル』読了。
日本ってこの系統は十八番なんだろうか。翻訳ものではなかなかお目にかかれないハイ・カロリィ型だけど、国内に限っては好んで読んでいる。どちらかといえば小説より漫画、いや、アニメよりで、柔らかいというか優しいというか軽くて早い。勿論、硬派でもなく、言うに及ばず軟派でもない。言ってみりゃ、すっとぼけている。で、そんなすっとぼけた作品を記した著者のことをすっとこどっこいと呼ぶのデス……。
思えば、これほど正面切って確かなミステリィを読むのも久しくなかった。ましてやクローズドサークルである。一体、いつ以来だ。密室とはよく出会うし、ミステリィともほどほどの関係を維持していたつもりであったのに、振り返ればどれも開放的な情景だ。取り残された空間には出会っていない。脱水症状の怖いところは、無自覚なゆえに本人が思っている以上に病状が深刻なことで、補給してはじめて喉が渇いていたことに気づいた、そんな気分。
べた褒めも座り悪いので、強引に言わずもがな余計な突っ込みを一箇所入れると、
○○の頬を、しずくが落ちていく。距離が遠くて、そのしずくが何なのか、××にはわからない。
人名は伏せたが、これのどこが散文的人間の思考なんだ。充分お前は詩的だよ。
それにしても、意外性のある結末だった。ミステリィは意外性の塊だが、これは意外だ。
日本にいながらにして、異文化との正面衝突を相果たすこともある。もっとも、今日は目撃に終始したわけだが、いつもながらこのファースト・インパクトは見逃せない。まあ、初体験でも3時間もあれば、人となりも掴める……、わけもなく、いまだに慣れているようで慣れていないというか、どれもこれも一切合財が不意打ち過ぎる。苦笑と呼ぶには呵呵大笑している気もするけれど、表情は引きつっているだろうなあ。
それにしても、地上波で「豚のご飯」を耳にする日がやって来るとは思わなんだ。2日目にして紛うことなきエベレスト。
「艶やかに輝くぽてっとしたふくよかな頬が首を振る動作に追従して揺れるさまを表現した擬音」などと、すっとぼけたことを本気で思っていた自分が、手前味噌ながら初心で可愛い。この調子で、よくもまあ『ハリガネムシ』を暢気に堪能できたものだ。もっとも、何をその目の奥で読んでいるか量れたものではないが……。まあ、なんだ、とりあえず、ワーォ!
批判される部分の予想も容易く、見えるパンチでは倒せない。吉村萬壱著『ハリガネムシ』読了。けれど、退廃的で案外いい、充分ゲテモノ的旨味が滲出している。人間の鑑であるべきとされる、学校の先生の胸のうちに、不意に湧き上がる「死ね!」という感情も危なっかしくて、ゾクゾク。また、それを思うなら、著者が教員というところもポイント高い。振り返ってみると理不尽な先生は結構いる。得てして個性的と呼ばれる方々だが、あれぐらい飛び抜けた肝っ玉を持っていないとガキどもを大人が相手にするには、かえって真面目にやっていけないか。
サチコがポイントかなと思っているとそうでもないなと気づかされる。サディスティックな喜びに理解を示せるなら、たとえ結末が虚無でもありだろう。ただし、物語として違う、そうではないとも否定する。夢見た展開とは違った。突き詰めれば、性癖の違いに由来する反論にたどり着きそうで危険な妄想だ。この物語には十人十色の結末がありそうだ。
これ、芥川賞らしいけれど、芥川賞が品行方正であると盲信している人たちを殴り倒すには余りある一撃で実によろしい。こちらこそ見えてない。実際、芥川賞も直木賞も正体不明なところがある。
ところで、ハリガネムシって見たことありますか? 私も肉眼で見たことはないけれど、TVで見た、突如、カマキリの腹から長く飛び出した黒々としたそれは、寄生虫特有の嫌悪感を抱かせるのに十二分な存在だった。したがって、そんなものがタイトルに取り上げられた時点で相応の内容を覚悟すべし。なぜなら、「カイチュウ」「サナダムシ」では何ら淡い期待も抱きようがないだろう。また暇があれば、覚悟して読んだ人間の胸中も推し量られたし。ま、直接、目撃されたい方はカマキリの腹を水に沈めると……!
柳広司著『ジョーカー・ゲーム』読了。この時代のものには目がない私だから、贔屓目に受け入れてしまうけれど、おそらくもっと大勢の人もほんとは好きなのだ、そうでないと、あれほど軍国主義がはびこる道理が立たない。ただ、要所を押さえているようで、押さえていないのがもったいなく映った。シリーズでと考えれば結城中佐と佐久間で物語が展開するのが好ましい。しかも、道理などすっ飛ばして腐敗するのもありだが、それは同人誌の出番か。結局のところ、純粋な組織に他人の血が混じるのを好み、それが感化される心模様を面白がった。『ジョーカー・ゲーム』『魔都』が該当する。『XX』もそれに当たるが、これは逆のベクトルだ。それにしても、続きが読みたい、これが何を渇望しているのかといえば、敗戦、そして戦後のD機関としての在り方である。とても「はい、わかりました」と、二つ返事で唯々諾々と解散するような無垢な組織とも思えず、まして全滅したとも思えない。おそらく目に見えない形がある。
「およそ心臓が動いている限りは、何とかして敵地を脱し、情報を持ち帰ることが、諸君に課せられた使命だ。そして、そのために必要なものは、無論、精神力や大和魂などといった訳のわからないものではない」
陸軍の愚直な忠義に対して、絶対零度の視線を送るD機関のものたちの使命とは一体全体、何ものだろう。何にここまで突き動かされているんだろう。お国の為か……。国の存在が絶対でないものにとっては、畢竟、陸軍もD機関も同じ穴の狢に見える、などと沈思していたところ、なるほど、こいつらゲームをやっているのか。自負心をかけたゲーム。ああ、これは手強い。ともあれ、ゲームというとTVゲームに代表される遊興に誤解・誤訳されがちだけれども、スポーツの試合のことをこう呼んで真剣勝負という意味合いもあるから馬鹿にできない。甘く見たやつが痛い目を見る。
出場に王手を掛け、もはや決まったも同然のアジア予選を前半から見るというモチベーションは既になく、後半からぼちぼちっと観戦。もっとも、ラジオで先取点の確認をして安心はしていた。もし「負けるかもしれないだろ?」と言うのであれば、「そんな不細工な試合は見たくもない」と返す。ただし、絶対的に負け試合を嫌悪しているわけでもなく、たとえばフランスにボロ負けし、遥かな壁を痛感させられた試合は徹夜してでも見る価値はあった。そこは持って生まれてそして育った強豪国とアジア国との確かな格の違い。今日も、最後にどたばたっとして、GKがボールを弾き、クロスバーに当たって跳ねたときには、どきどきっとして楽しめたが、世界最速でのW杯出場が如実に語るように張り合いない予選だった。ともあれ、親善試合からでも岡崎の連続ゴールで決定力不足という見飽きた紋切り型の報道が鳴りを潜めたことは格別嬉しい。
直後の「スーパーサッカー」で久しぶりに水沼貴史の尊顔を仰ぐ。今もマリノスのコーチ? いや、辞めたから出演してきた? 詳細不明だが、番組を卒業してからは、すっかりカメラを遠ざけていて、元選手にありがちな熱意も嫌味もなく、きちんと試合を客観視して、冷静なコメントに徹する物言いを聞くのが好きだったものとしては復帰は大歓迎。しかし、浮かれ気分に水を差すように、日本はワールドカップにおいてホーム以外では1勝もしていない現実に「あれ、そうだっけ?」と冷水を浴びせられた。
5月分更新。2日の時点で5000文字に達していたから、ありえない勢いで更新するだろうとは想像に難くなかった。むしろ予想より更新幅が小さかったのが案外で、途中で失速したのだろう。まあ、失速なら誰もができるので、むしろゼロからの立ち直りに手腕を問われる。それでも1日原稿用紙2枚ペースだった。図らずも1月から+1冊を基点に増え続けていたが、何を思い違えたのか、5月は+2冊。ともあれ、文字も本も天井が近い。月に12冊ぐらいの範囲はイメージ可能だけれど、1日1冊の計30冊は馬鹿げている。
ペースアップの種明かしとしては、読書しながらの寝落ちが障害だったので、それを防ぐため、油断すると冷やり背筋も凍る生命の危機が感じられる危険な状況下で読んでいる。こちらも充分、愚にも付かない。
やっぱあずまんが一番。限られた時間の中で気の利いたコメントを発信しなければならないコメンテイタという職分を全うしている気がする。ようは説得力の問題。
「ねとすた」のあとで、おやっと身を乗り出す番組を発見することがたまにあるけれど、直後の市村正親の経歴をたどるインタビュー形式のやりとりも正にそれで見応えがあった。そのままデュマ原作、サルトル翻案というとっても豪華な素材の舞台「キーン」放映。夜も遅いし、第2幕までで精根尽きてしまったが、やっぱ、人間、音に弱いなあと身にしみた。個人的には、ちらりとでもフォルスタッフが拝見できただけで大満足。
そしてZARD。改めて言うけれど坂井泉水は死なないなあ。たとえば、先月亡くなった忌野清志郎の死は速報の時点で受け止められた。それが坂井泉水に関しては、2年経った今も情報が心に届かない。この感情は、そのまま永遠と化けてしまうかも知れないそんな気がした。そして、いずれ年下になっていくんだろう、と。
長い長い、と思っていたら、ツーと抜けてまだまだ続く、ゆうに4、5センチ。そりゃ長い。ともあれ抜けて一安心だが、いつの間にどのようにして髪の毛ともあろうものが目の中に入り込んだものだろう。もしも瞬間の映像があるなら是非見てみたいものだ。
「私は無実で犯人ではありません」
これは17年ぶりに釈放された人間の言葉である。なんとも惨い話ではないか。世間は、同情心に溢れかえっておる。ただし、捕まえた昔も釈放した今も警察はこの証言を信用しているだろうか。DNA鑑定という決定的な証拠がある以上、結局、言葉の価値など皆無に等しいのではないか。しかし、決定的な証拠が犯罪を否定している以上、届かない言葉は無視しても釈放を認めないわけにはいかなかったのだろう。
証拠の汚染を主張するのはいいけれど、それは警察の証拠保全管理における杜撰な過失だろう。まかり間違っても、どんな容疑者にもその責は押し付けられない。
長いものほど取れない。右目はこの様で不調。症状もない左目も、もしやとついでにアッカンベーよろしく確認したら、右に比べれば短いながらも浸入済み。既に指も届かず、それでも取り出そうともがいた挙句、無様に潜り込んで消えた。なんだか、毎日、まつげが入る気がするのだが、何なの? よく抜けるのか or 入りやすいのか。始末に負えないくせして粘着質で、しつこく指先を震わし、足掻くものだから、目も血走る。とうとう対象をロストしてしまったところで、本日は止めておこう。しかし、これは明日になれば取れているなどと甘い保証もない。
開高健著『地球はグラスのふちを回る』読了。
グッと飲む。クリームのような泡が舌にのる。その濃い霧をこして、とつぜん清冽な、香り高い、コハクの水がほとばしる。クリームの膜が裂けて、消える。清水が歯を洗い、のどを走り、胃にそそぎこむ。目が薄ッすらと閉じかけて、パッとひらく。やがて腸が最初の通信を発する。チカチカと熱くなるのだ。それが肉を浸して肌へ頭を出す頃になると、チェコの民謡をふと口ずさみたくなるというものである。"タンツイ、タンツイ、ヴィクルージェ、ヴクルージェ"(踊れ、踊れ……)……
たった一口ビールを飲み込む描写がこれである。この調子で蟹にしゃぶりつくのである。うーん、参った。読書中は「うーん、うーん」とひっきりなしにうめいているから、隣の奥さんに「四六時中うなっているけど、あそこのワンちゃんは大丈夫?」と訝しく思われていないかしらん、と杞憂というか下らない冗談を飛ばしたもうた。うーん、でも、だからこそ、この人から「ヴォキャブラリーの貧困にわれながら呆れてしまった」
などと弱音の吐露を見るはめになるとは、絶句する。きっと額面通りの意味じゃない。開高健なら、これまで通り臨機応変に創作してでも書き続けられたと思う。真意は、心が、戦争、テロ、軍事裁判を拒絶して均一な反応しか示さなくなったのではあるまいか。当然、喜怒哀楽様々に高低浮き沈みはするけれど、ある程度進んだところから感情がビクとも動かなくなってしまった、そういうことだろう。
似たような意味で、私は人間嫌いのくせに、人間から離れられない。ただ、人間嫌いだけになってしまうと、小説なんて書く必要がないよね。小説家というのは、どんな悪魔的な文学、どんなに冷酷無残、どんなにニヒリスティック、ペシミスチックな小説を書こうとも、ものを書いているかぎり、彼はヒューマニタリアンさ。なぜなら、彼の書く文字というものは人間につながっているから。彼が意識してないとしても、誰か他者に向かって何ごとかを訴えているんで、訴えているかぎり、彼は絶望者であるとはいえないわけだ。だから、絶望という名の希望をどこかに持っているんだということになる。これが認識論の出発やな。
だから、文学には絶望ということはあり得ない。もし、ほんとに彼が絶望するなら、何も書かないはずだ。そういうものだと思うよ、うん。ほんとの泥棒の名人、スリの名人というものは、ついに世間に名を知られることなく去っていく。それに似たところが、ちょっとあるんじゃないか。真の絶望者は、何も言わない、何も書かない……
手塚治虫と宮崎駿の人間嫌いは、どこか肌で感じるものがあって、それでもあれだけ渾身のかぎりを尽くしたものを返しているのだから、唯々諾々と絶望には陥っていない証と読むべきか。限界を感じて筆を折ったり、TVに愛想を尽かす人もいるけれど、とどのつまり、あれらは絶望感に支配されているのかも。型破りでパワフルな生き様で闇など感じないように見えた岡本太郎も類縁か。
先進国といわゆる開発途上国を旅行者の目から見て、何がいちばん違うかといえば、先進国では人々の生活というものは扉の内側にある。窓の内側にある。ところが、南半球の国では、人生――誕生から死までが、食事もセックスも含めて、路上にある。この違いだね。日本は中進国だから、夏は野外で、冬は屋内かな。
もはやパソコンを操作しリアルタイムで世界とつながり会話もこなし、外出せずともショッピングを済ませる時代である。先進国の極めつけが巣ごもり系か。この『旅は男の船であり、港である』では冒頭、空港で心の到着を待つ男の小話から始まったが、もはや心が追いついてくるのを待つのは旅先の空港に限らず、国内において、いや、家庭の一室においても心の到着を今や遅しと待ち構えている風情がある。
心はうつろなまま文化と出会いないまま、そういう旅をしてしまう危険は逆に多くなった。これは、だめ。いかんな。新鮮な驚きが生まれてこないもの。驚く心がなかったら、旅の意味はほとんどないものね。別種の文化と接することとは、驚くことなんだ。驚く心、見る目を持ちなさい。少年の心で、大人の財布で歩きなさい。
今の時代、日本の若き小説家に、これほど旅に出るものがいるだろうか。いるとすれば、それは小説家ではなく、冒険家が執筆しているのではないだろうか。ましてや、開高健が向かったのは戦地である。海外旅行が下火になって久しいが、小説家は先陣を務めるべき存在だろう。好奇心に満ち溢れるそこが職務放棄して海外に目を向けないとすれば、一体全体誰が目を向けるのだという話である。
そうして、世界を酒と魚を友に続けてきたこの旅の終点は、21世紀の社会に爪跡を残した、かのワールド・トレード・センタにたどりつく。その瞬間、猛烈な寂寞感に襲われた。何故なら、ビルにしても小説家にしても既に亡く、同時に両者ともにいまなお存在してもおかしくなかったのだから。
大車輪でくるくる回る開高健か。まるでイメージできなかった。この情報は、ベトナム・パリ・アマゾンとすべての場面の色を塗り替える、優れた、いい解説だ。学友が解説を書く面白さだなあ。
熱いというよりもぬくったらしい気候。でも、まんざらでもなし、6月だもの。
昨日から、キムチを食べているが、久しぶりに唐辛子のツンとくる辛味を味わったものだから、一口のつもりもなく、額に汗かけど、やめられない。別にキムチだけならやめなくても問題は発生しないけれど、同時に米も口に運び、そっちがついでに止められないのは目を覆いたくなる。口は開くばかりで閉口しない。そして、時間が経過しても沸々と湧き上がるニンニクパワーがキムチを食べたことを決して忘れさせてくれない。
熱中夜話後編。「もってけセーラー服」を2年越しで歌詞を拝見。「ああ、こう歌っていたのネ」と納得する一方で、それより何より興味津々で釘付けだったのが、次々と切り替わる字幕を目で追うだけで楽しむ自分自身の発見であった。大抵、歌詞の良さに気づくのは後々であって、リアルタイムで歌詞に目覚めるどころか、言葉として聴くこともなく、歌番組でよく見る歌詞にも特別注目したこともなかった。だが、あれだけ工夫が凝らされた今どきで愉快でチャーミングな歌詞の羅列を見るのもはじめてて、ああ、まだまだ画面下方には開拓の余地が残っていたのだなと感慨に耽った。確かに、どれもこれも、音楽は進化しても、セット美術は豪華になろうとも、歌詞は、旧態依然で、あっさり、無味乾燥に尽くしていた嫌いがある。だからこそ、レターボックス同様無視を決め込むことも可能であったのだ。まあ、こんなこと書いている今の段階においては歌詞も何も覚えていないところが切なく白々しいかぎりだが……。
あとは、菅野よう子の雅俗の天才ぶりか。なかなか納得しがたいことではあるものの、ああした事前入力を必要としない、いきなりやっちまう天与の才に恵まれた人物は稀にいる。ただ、そうした天才と間接的にでも接触した折には、聴いてないとはいえ、私よりは聴いているんじゃないか、という風に解釈して、いらぬ混乱、よけいな狂乱が心に波風を立てないよう、みずからの馬脚をあらわし恐怖が浮上しないよう必死になって抑え込む。きっと本人でさえ忘れているほど前にたっぷり滋養として吸収し骨身に変換されているはず、と考え、パニックを回避するのだ。それは、もう相対性理論を呑み込むよう、がっちり腑に落とすのみ。
忘れちゃならないところでは、「ウィーアー!」の古びない保存力には目を瞠る。いや、アニソンはどれも当時を彷彿とさせる力は持っているのだが、それは冷凍保存に近くて、現在進行形のアニメで鮮度が落ちないのが曲もそうだけど、歌詞も普遍的で、二重にたまげる。げにあっぱれかな。
つくづく身にしみたのは、アニソンの名の元に連日連夜密かにとんでもないコードを読まされ続けているんじゃないかってことで、こちらに慣れるとコアなうえにハードだから、なかなか普通の世界に戻りきれない弊害がある。そもそも、衣を借りずともトラだ。それが枷もなくトラのままに市井をうろつきだしている。