ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない
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極々たまさかにあのまっくろくろすけを見かけることがる。もちろん、あれは銀幕の内側に息づく産物であるから、肉眼で捉えたそれが、本物のまっくろくろすけのわけはない。偽者というか偽者でもなくて、正真正銘、蜘蛛でしかないのだけれど、目の端で壁を縦横無尽にジグザグと走る動きを捉えると、有無を言わさずまっくろくろすけに見える。あの微妙にカクカクとした緩急のあるスピード感も、壁登りに失敗してあえなく落下、刹那、瞬間移動のごとくワープしているのもポイント高い。
相変わらず本の世界には疎くて暗い。これは、むしろ大局には無関心と言い表したほうが近似しているのかもしれない。過去に何が流行り、何が売れたという世界観とはまったく無縁で過ごしているが、畢竟、どれほど話題に昇ったとも読み終えたいまなお知らず知らされず、肌身で感じ取れているほど売れていないとすれば、間違いなく掘り出した。ジョン・ランゴーン著『ハーバード医学部』読了。
しかしながら、はなはだ口惜しいことにこの装丁では内容の充実した面白さを伝えるには不完全であるどころか、著しく魅力に欠け、足を引っ張る。正直、ダサく、カタく、デカくて、ニブい。かつ、この凡庸なタイトルでは販売は好転しなかったのではないかと察する。それが何故、読むはめになったのかと言えば、まあ、通俗ゲテもお好きな酔狂ではあるけれど、原動力となるスマッシュヒットは目次だった。「第五章 はじめての人体解剖」
そして、「第七章 男性・白人以外お断り」
。なにやら曰くありげ……。そう、この段階で直情的にある種の匂いを嗅ぎつけ、ヒクヒクと小鼻を膨らませたり、白熱電球をひらめかせないと前途多難。ただ、こちらは読んでみてわかった新たな問題点だが、誤字脱字が酷いのだ。医療関係の専門用語が頻発しているので、おそらく翻訳作業は七転八倒したんだろうとも想像に難くないが、誤字脱字の程度はこれまで読んできたもので、群を抜いて低く目に余る。けだし、この文章には校正は介入していたのかと工程を疑いたくなる精度である。どうも読めない、引っかかるなあと思うとミスが見つかり頷くことしばしば。反面、それはおざなりではなく、きちんと筋道立て読書している証拠でもあり嬉しいと自己満足の快感を得られるが。かぎ括弧の閉じ忘れや、句点や読点のミスなら、まだこちらにも対処のしようもあるが、人名やら西暦の間違いはこちらからは、正解を容易には見つけにくいので、当たり前のお願いだが、なるたけ避けてもらいたかった。もしも売り上げが好調ならば、増刷の際には修正がなされているはずだけれども、それすら儚い。どこの国の学校にも数百年の歴史はあるわけで、これ「学校学部」ものとしてシリーズにならないか、と独り販売戦略を黙考するほど、かなりお気に召しました会心の一作デス。
そろそろラスト・シーズンの噂が囁かれはじめた「ER」とも13年の付き合いである。だから、およそまともとは呼べない妙な形で医療現場の知識が豊富ですれている。それは力任せに絞ればいとも容易く排出されるという脆弱さにおいては泡がふんだんに沁み込ませた海綿と大差ないけれど、それが米国限定か、ドラマから現実に周回遅れでやってきた日本のものか、はたまた日米合作なのかはっきりしない。おそらく一様に正しく間違っている。その「ER」の製作総指揮、脚本を手掛けたマイケル・クライトンもハーバード医学部を卒業し、本の中には彼のコメントもある。だが、彼に触れても「ER」について触れられていないのが、内容をおもんぱかると不自然で、もしや「ER」放送開始以前、しかも直前に執筆されたものではあるまいかと思われる。こんな「ER」狂だから、本の中で提示されている数々の問題点はすべてドラマ内で表現されていたと懐かしいシーンに置き換え、回想しながら噛み締めていた。それでも、本とドラマの相違点として、ドラマでは医者の視点から見ているので、ただでさえ多忙を極めるレジデントにとり、学生はお荷物集団として、それ以上の役目もない存在に等しかったが、本ではインターン以前の入学から卒業までの学生に光を当てた物語である。今なら「ER」という過重労働、医者と患者の金銭問題、そして両者の心にシビアな医療現場を伝える優れた教本があるけれど、それまではアプローチする手段は身内に医者がいる家族以外何もなかったんじゃないかな。だからこそ、学生が医療に対して奉仕の夢を見ている部分がまだ多く見られているが、ドラマが放送されてからは、ベールに覆い隠されていた過酷な部分は暴露されたわけだから、今の学生は事前に現実の一端を知ってしまい甘っちょろい幻想など吹き飛び、より現実的になったのではなかろうか。ために学生の姿勢も自然と変化を来たしているのではないかと推測するがはたして……? よって、その点においてもドラマは非常に優れ、社会的貢献を果たしていた映像表現であったと思われる。「腕は良かったよ。ただ、あいつは患者と話しちまうんだ」これはベントンがカーターを語った忘れられない一節で、とどのつまり、本書のテーゼもこの医者と患者の関係に尽きる。
医学ジャーナリストとしての著者の取材にかける情熱や格物致知の探究心も無類の徹底ぶりで、第五章の小見出しから、想像していたのは、もちろん学生による人体解剖に立会い観察する様子であったのだが、まさか著者みずからメスを握り締め体験取材として解剖を行っていたことには度肝を抜かれた。むろん、彼も特別研究員としてこの学校に携わり、部外者ではないことは最重要条件かもしれないが、誰も彼もが好き好んで、または取材と称して人体解剖に身を乗り出す勇気は持ち得ないだろう。しかし、講義では意外なほどそして当たり前に湿度もなく乾き、滑稽なほどに、死体が切り刻まれてゆく。その閉鎖的な空間には、粛々とした雰囲気は感じられない。これはアメリカだからだろうか、日本では、まだ場を和ませるジョークにも死者を冒涜してはならないと指導する先生にこっぴどく叱られて当然のような気もするが、いかんせん目撃したわけでもなく、これは私の希望である。ただ、防御反応の裏返しとしか勘繰れないけれど、この人間性を失った淡々とした態度には、先日読み終えた『あなたに不利な証拠として』での遺体の描写とのギャップの差が一段と激しい。あれらの死体は、どんなに腐敗して原形を留めていないほど崩れてようが、たとえ蛆が湧きハエがたかろうと、加えて類のない猛烈な悪臭を放っていようと、まだ生き物としての名残があった。翻って、こちらはもはや物体としての解剖である。ホルマリン溶液以外の臭いなき解剖である。それらの想いがひっくり返るのは、やはり生きた人間を相手にしている現場であり、手術中の臭いという点においては「ER」を見慣れた私にも盲点であった。
30年前と違い小綺麗になっている今風の学生の姿はどこの国も同じか。そうした学生の歴史どころか学校の歴史にも手を伸ばし、おのずとアメリカの歴史にもたどりつくわけで、アメリカって国は、ヨーロッパの先進的な部分をいいとこ取りして出来上がった国だと、そういう認識でいたので、まさか、良くも悪くも人類の歴史をご丁寧にも追いかけて、成功も失敗も凝縮した形で成り上がっていたのが意外だった。でも、「いいとこ」というのもまさしく信条的結晶であり、げに「いいとこ」取りはしているものの、振り返るともったいないと思うだけのことだ。そういえば、キング牧師の暗殺が実行されたのも、たった40年前のことだと腑に落ちる。だからこそ、「創立から371年を経て女性学長が誕生」は画期的な大ニュースだが、この重大性、理解できる? あとは、複雑骨折程度で手足を容易く切断されたらたまらないから、それは消毒法が確立以後の世界に誕生したことを強く感謝した。もっとも、それは未来において、癌ができたからとはいえ、患部切除を滞りなく処置してしまう現代医療への滑稽さを皮肉る結果に繋がりかねない。しかし、医療と科学の葛藤を抱え、多々問題ありそうなハーバード医学部も、個人的には世界一の研究機関として機能していていればいいような気もする。そういう特化した機関も世界には必要だろうテ。ただ、その分、どこかがプライマリーケアを引き受けなければならず、そうした医者と科学者の分業のバランス感覚は必須だ。身も蓋もなく言えば、収入面での格差是正だろう。一方で、日本は「いいとこ」取りでプライマリーケアを充実に舵を切ったほういいのではないか。ともあれ、ハーバードの予防医学にすら後ろ向きなのにはたまげた。まあ、これも10年以上前の本だから、今はまた状況が前向きに変わっているかもしれない。
「ホームセンタに青ペンがない!」「赤と黒しかない(スタンダール!)」これもちょっとした驚きであったが、あればいいと思っていた商品が「広告の品」ということで半額以下で売られ、広告も読まず半額以下でゲットする私。ツイテル。
翻って、図書館のリサイクル市。前回の開催では、誰も足を運ばないだろうと市民を甘く見て、2日間開催の2日目の夕方に赴き、既に食い散らかされたあとで、ハゲタカも用なしというほど、骨以外何も残っておらず、しょんぼりとして帰途に着いたものだが、今回は1日目に足を運んだ――というか1日しか開催してなかった。
とにかく、不要の品として処分されるのであれば、一時的にでも貰っておいて損はないと、アンテナに引っかかった本から控えめに鞄に突っ込んでいたが、ちょいと足を運んだ時間も遅く、美味しいところは齧られて、収穫も望めまいと黙々と選別していたので、帰りに鞄が結構な重みで肩に食い込んだのが案外で、帰宅してから数を数えたら13冊なのも案外な数だった。
図書館の本は返却期限にせっつかれるという動機があるので、せっせと読んでは返却して借りての繰り返しのルーティンが出来上がっているけれど、家本はまったく開放されている状態で、何十年も手付かずのままである。そして今日の収穫は家本直行である。これは戦略を練らねばなるまい。ちょうど身の程知らずで期限までに返せる見込みもなく借りすぎたと反省の真っ只中、戦略会議は渡りに船でもある。家本の重鎮といえば、『源氏物語』なのだが、60を過ぎても放ってきたばかりに読めないと嘆く人もいるので、こちらもなんとかしたい。読んで面白さを味わっているの上で続きを読めていないという苦境に陥っているが、この際、こいつもスケジュールに組み込むべきだろう。
「昌也・真澄のバクバクON AIR!」の最終回。これも聴いたり聴かなかったりで、このところ、とんとご無沙汰だったが、最終回も間近という噂を聞きつけ前回より復活。面白くないこともないけれど、番組として停滞気味の時期にますみん青二移籍の話題が一番花を添えたと思われるが、実は番組制作費の半分は食費であったのではないかと疑うほど底なしの胃袋を誇り、魔人ブウとして面目躍如の武田さんの大食漢ぶりは、音だけの情報でも凄かった。ともあれ、またしても集英社のラジオが終わったという符合は見過ごせない不況のひとつの流れなのかもしれない。
夜に噂のBBCのドキュメンタリィを半分も見なかったのに、いわば「自分たちは繁殖のプロなんだから素人は口出しするな!」という強気の態度に出たケンネルクラブに怒り心頭。すでに人間の助けがなければ、子供さえ産めないブルドックの姿も明白な過ちで、遺伝性の深刻な疾患を持っている犬がコンテストで優勝するのは健康面を度外視している。まあ、優勝はまだしも、それを繁殖に利用するのは徹底管理して止めるべきだ。
それにしても、この100年足らずで犬の姿も随分歪められたものだ。はじめから純血種はああいうものであると思い込んでいたが、過去の写真を見るかぎり、そうでもないことがよく分かった。神様の細工に人間が身勝手な細工を施してはいけない、ということが身にしみる。まあ、このドキュメンタリィの反響で少しは改善されるようだし、これからだなあ。そもそもケンネルクラブも由緒正しき犬愛好家たちの集まりなわけで、自分たちの価値観が大きく非にずれてしまっているところに気づけないでいるところは哀れ以外のなにものでもないが、指針さえ正しければ問題など起きないだろう。
ふと、様々な金魚のことが頭に浮かんだ。哺乳類から魚類に指摘が飛ぶ日はいつだろう。
松井が2打席連続HRを放ち、例によってスポーツニュースを梯子していたが、不調の中での上昇のきっかけになればいい、素晴らしいHRなのに、打ち返した瞬間に確かな手応えがあったのか、両打席ともバットを放る前から奇妙な表情を浮かべていたことが、脳裏に焼きついた。これが、多少なりとも笑みを浮かべるなり、はしゃいでいたりすれば、なんでもないシーンとして見過ごせたのに、感情を押し殺して淡々とベースを回ることは松井に限っては変哲もないことだが、晴れず曇りがちで覇気のない表情を浮かべ、ベースランニングする松井にスランプと謎を感じた。
栗本薫死去により『グイン・サーガ』も未完になってしまったが、これは未完が宿命づけられていたよなあ。病を患っているとは知っていたが、それでも150巻、あわよくば200巻と夢を見ていた部分もあるので、120巻で終わったことが、案外なほどだ。ともあれ、厚い本には手を伸ばすことさえ怯んでしまう私なのだから、120巻にも及ぶ大叢書には怯え身をすくめている。
てっきり防衛失敗かと思ったら、チャンプ防衛成功したらしい。最後まで付き合い見ても良かったが、実況聞いたら案の定うんざりしたので、切り上げて風呂に突入したのだった。それでも、見たところすんごいピンチでふらふらしていたから陥落と思ったのに、あれでよく勝てたなあ。
副音声での実況なしスポーツ中継をしばらく提案しているが、それがプライドを刺激するというなら、英語実況にしてしまえばけちな誇りも保たれるのではないだろうか。英語なら、言葉より音としか聞こえず邪魔にならない。
一昔前に比べるとガムの味は飛躍的に長持ちするようになった。実際のところ、ずーっと味が続いているのだろうが、脳は味をずっと感じているわけではないらしい。味の始まりと味の終わりの変化さえ掴んでいれば、中間は省いても維持として処理されてしまうのである。なんともデジタル化っぽい。翻せば、同じ状態を維持していると脳に誤解を犯させれば、その間は永遠に同じ味が続くはずで、それさえ実現可能となれば、永遠に噛み続けられるガムが作れる。ただし、その夢が実現した暁には、一定数以上のガムは売れなくなるだろうし、顎の痛みが頻出する問題が起きかねん。
この時期にマスクもせずに咳き込んでいる人を見るとおっかない。それが自分だとしたら……。いやいや、まさか……。
吾妻ひでお作『美美』を読む。まだ健康を維持して頃の作品だが、予想よりそう変わっていなかったのが印象的。勿論、絵は違うけれど、内容的にはそう変わらず、むしろ自虐ネタの今のほうが練り込まれたギャグマンガより面白いのは、良いことなのか悪いことなのか。人生をギャグマンガに捧げたか。
ジョン・ランゴーン著『ハーバード医学部』(三修社)、開高健著『地球はグラスのふちを回る』(新潮文庫)、柳広司著『ジョーカー・ゲーム』(角川書店)、吉村萬壱著『ハリガネムシ』(文藝春秋)、米澤穂信著『インシテミル』(文藝春秋)を借りた。
一言。書庫経由は面倒と敬遠していた開高健が開架してあって、予定にはなかったが、さっと手が伸びた。
「アニソン熱中夜話」。これ熱中が抜けて漫画やアニメにつぎ正式な夜話に昇格しないものか。それでも、この番組と先のふたつとの最大の相違点は、観客がやけに、にこにこしていることだ。目の前の客がにこにこしているということは、私以外の視聴者もにこにことしていると見込めるが、真偽はいかに。
どうやら解説を拝聴することを好むようで、まあ、囲碁や将棋の解説にも耳を傾けるほどだから、それに気付くのも今更で、さもありなんか。ともあれ、田中公平大先生による水木一郎のシャウト解説は見事だった。そっか、3度と5度ね。色物的に扱われがちな特有のシャウトだが、きちんと筋を通して解説できるものなんだなあ。正直、水木一郎は世代的に外れているのだが、堀江美都子はぶち当たっている。少しばかり前に「私のあしながおじさん」を見る機会が会って、この頃見かけなくなったので、いつの間にか始まっていつの間にか終わっているようだが、あれはいい歌だった。
きゃんちもNHKに定着してきた。まあ、普通にしてれば可愛い。むしろ、何故トランスジェンダ的なアイドル活動をしているのかが不可解なほどで、あの途轍もなく道を間違えているもったいない感が鮮烈で記憶にも定着しているが、同じグループでも他の子のことは露と知らないから、定着率もそこが限界だろう。
温室効果ガスの削減目標数値設定に世論調査を実施したところ帰ってきた最多回答が「7%減」。私にはこの回答が「ベストな選択」云々より心理的な作用が働いた結果以外のなにものにも見えない。つまり、「4%増」「7%減」「15%減」「25%減」と4つの選択項目があって、2番目が選ばれたという点は大いに怪しむべきだ。
例えば、19,800円、39,800円、59,800円のデジカメが並んでいるとする。その場合、最高価格の品よりも1ランクダウンの39,800円が選ばれがちだ。すると、企業はどう手を打つか、先の3つの品に加えて、99,800円もするハイグレードを開発し、店頭に並べるのである。すると、1ランクダウンして59,800円のものが売れ筋となる。これを手管として形となっているのがパンフレットであり、最高品質のものがトップを飾り、次のページからお手ごろ価格の品が続く。
今回実施された調査には、これに非常に近しいと類推を感じた。ために、当初から「7%減」を選択させたかったのではないか。先の会議による「4%増」の非難覚悟の選択も布石であり、畢竟、そう導いたのではないかと邪推するまで。
「デッド・ゾーン3」が終わった。確かこの作品はシーズン5まで製作されたという情報を目にしたことがある。早く続きをお目にしたいものだ。日曜日放送の番組なので、ついでとして語るけれど、この作品と「蟲師」だけは本当に1話完結ものとしての流れが秀逸で感心しきり。どこまで舌を巻けば許してもらえるのかという感じすらある。わざわざ欠点を暴こうとすれば、1話完結として最強なら、シリーズとしてが唯一の急所なのかもしれない。
この取っ付きにくさ、この難物加減がたまらない。円城塔著『オブ・ザ・ベースボール』読了。表題作の『オブ・ザ・ベースボール』は牧歌的ほどではないにせよ非常に長閑な物語で、経験的に円城塔という曲者の存在を文体からしみじみ思い出しては、ほくそ笑んでいたが、どだい万全に構えたところで、思い切りファールするのがこちらも身の丈にあった落下点。それにポール際すれすれの特大ファールを放ったあとは、すこぶる元気のいい空振り三振と相場は決まっているものだ。
その人物が言わんとし、淀みなく展開していく論理の筋道全体を私が全く理解できなかったことをここに記さなければならないのは、非常に残念なことである。
ものは試しと一度生のまま齧ってみたけれど、まるで消化できないまま吐き出してしまう。口に運んだままの形を維持して回帰してきたそれを観察していると、どうやら、牛のように胃を複数に分裂させるか反芻させる機構が必要なようだと身にしみる。その溶けない胃液にまみれた『つぎの著者へつづく』はパッチワーク風で、現代以前の連綿と続く過去には工夫を凝らした人たちがわんさかいたものだと、私の知らないその存在に、ひょいと脱帽。
得てして簡単なことをすこぶる難しく書いているだけだから、本質を見極め、道に迷わなければ、必ずしも難しいものではない。短絡的に「ワケワカラン」と匙さえ投げなければ『Boy's Surface』同様乗り越えられる試練だと思う。ただ、鳴り響くモスキート音のようにうるさくはないけれど邪魔くさくて、絶えず晴れないもやもやっとした霧を相手にするように、その理解できない自分を自虐的に打ち耐える段階においてマゾヒスティックな快感に目覚めなければ、耐え難いのかもしれないし、端から快感を必要としない賢人たちには、またも腐敗さえ飽きるほどの退屈なのかもしれない。
要点は、2つ目の賭けに気を取られ1つ目の賭けを見失うと私のように痛い目にあうということと、注が罠としか言いようのないほどややこしい。2度目に注釈をあまり気にしないで読むと楽だった。気にしすぎるとオデュッセウスのように彷徨する憂き目に会うだろうが、それについては帰還できたのならいいじゃないかという意見もある。あとは、これが横書きで日本語で書かれている文章ではないという裏設定も落とし穴で、ここも押さえておかないと騙されて落ちる破目に遭う。
朝、布団の中で爪がなくてびっくり。アロンアルファで固めたり、といじましい努力を続けていたが、ごっそり欠けて、伸ばした10カ月がふいになった。爪が弱いのか、伸ばしすぎているのか、どちらにせよ、よく欠ける。
美術館に誘われた。一点だけ気になっている作品があるので、見納めておきたい気持もあったが、「連れションと同じで美術館や水族館に集団で行ってもろくなことはない」とパス。あとで話を聞くと、最終日も近いせいか盛況だったようだ。絵画を見に行って人込みを見るのも閉口するので、万一足を運ぶのであれば平日だろう。モニタ画面より大きな絵があると知るだけでも価値がある。パンフレットを見ると、先日の「タモリ倶楽部」で「絶頂絵画」として解説されていたものもあったようだ。ああ、行けば良かったかな。まあ、いい、本当に見たければフランスにでも渡るさ……。
手にとったトイレットペーパの商品名は「アネモネ」。ふーん。
嘘だ、これが近藤作品なのか。近藤史恵著『サクリファイス』読了。『このミス』と「本屋大賞」でのランク入りで一躍、名声を得た作品であるが、『ガーデン』に陶酔した人間としては、いまだ違和感が拭えず、現状把握できていないことがばれてしまう作品でもある。その混乱の正体とは何といっても、爽快感。この著者にしてこんな青い風が吹き抜けるスポーツものが描けるとは感慨深く自然、溜息も洩れる。でも、ラストでどたどたとしてやっぱり何も隠せず正真正銘近藤作品という収まり方の片鱗を見せて、一安心。タイトルが意味するものの重圧。生き物が背負う宿命。抱える罪悪感。陶酔した部分とは処理しきれない後味の悪さ。チクリとした痛みも懐かしい。おそらく当時の日記を振り返ってみても、大したことは書いていないだろうが、混乱だけは伺えるはず。そうであっても、後味が主人公のお人好しぶりに引きずられて爽やかにまとまっているのが到底信じられない。歳月が角を削り丸くしたのだろうか。これを機に、後味というものに対しても考えてみたが、物語の外に物語があると後味に響くのだろう。すなわち、後味のないものは、物語の中に物語が納まっているということであり、後者の形もとれるようになったのか。腕を上げたとか洗練されたとか様々な言いようがあるけれど、ある人に言わせれば、人の成長とは、より高く、より美しく、ということになるらしい。
しかし、あれはサイテーな女だと憎々しい。もっとも、敵役なのだから、憎まれれば憎まれるだけしてやったりと評価は上々。ミドルポイントの「インターバル」から怖い視点が加わって見事だった。
ところで、ツール・ド・フランスも放送しなくなって久しい。つまり、それだけ見なくなった。スポーツならばボーリングやカーリングまで見てしまうあきれた人間なので、全て「オーライ」と守備範囲に収まるのに守備機会すら奪われているのは残念だ。だから、ロードレースのことも無知ではなかったので、チームとしての選手の役割やドーピングの根深い問題も知っていたが、改めてなるほどと腑に落ちた部分も多い。既にある素材を綺麗に組み合わせ、ミステリにありがちな強引さが目立たず、一言「上手い」。
そういえば、自転車通学していた頃は、平地から山の上の学校を目指していたので結構な起伏が途中にあった。それでも、どんな坂に対してもシッティングで制する、けちなプライドを発揮していた。ただ、そのけちなプライドもおばちゃんが軽々とこぐ電動自転車に負けそうになるので、ズタズタのぼろぼろであったのだが……。
正直、暇つぶしであった読書の習慣を今も続けているのが不思議で、今のペースで本を読み耽っているのも不可解だ。そうした諸々の思いの一歩目と限りなく近いところに近藤作品があり、ほぼ外国語のような扱いで四苦八苦していた日本語もある程度読めるようになり、ついに本書を1日で読んでしまったことには感無量。もちろん、純粋に作品の面白さや質の高さという援護は言うに及ばずである。ほんと、後味としてではなく続きが知りたくて、望みは薄くとも続編すら読みたいと儚くも願った。
「本を読め。外国語を学べ。ばか騒ぎと真面目につき合う必要はない」
むさぼるように読むタイプの本がある。打海文三著『愚者と愚者』読了。どこから切り出そう――唐突な苦悶から始まるが、表紙からかなあ。鮮やかな木漏れ日に佇む少年少女――それなりに絵というものには慣れ親しんでいるけれど、かなり好きな部類に入る。若者と呼ぶには幼くてAKさえ提げてなければ、どこにでもいるほんの子供。そしてこれは誰だろう? 普通に考えれば、あのふたり。けれど確証もない。それだけ、誰でもあって同時に誰でもないふたり。死者であり生者である。
前作同様、上巻は海人の物語で下巻はパンプキンガールズの物語の構成である。前作は上巻の印象が強烈で、あの抵抗する力も術もなく巻き込まれ、ただ生き残らんがために繰り広げられる壮絶な展開を前にして、決して小さくもないがこぢんまりとした印象を受けた下巻はスペクタルの点で越えられなかったのだが、今回は、打って変わって下巻の物語が組織の成長物語を貫いて上巻よりも高得点。畢竟、このシリーズは成長物語であると悟った。上下とも同属嫌悪の共通点が切なく前作よりも性の問題に傾いたから、その問題に対しての著者の本気度が伝わる。前作では、巻き込まれた戦争での生き残ることが先決で後はおまけみたいなものだった。
相変わらず北関東には暗くさっぱりなので地図帳のお世話になる。今回は長野、群馬、埼玉を知った。でも、土浦とか妙に親近感の沸く土地になったものだ。土浦攻防戦とか言っても、この世の中では、さっぱり通じないだろうに。
ともあれ、問題は作者急死で未完に終わった次だ。戦争は終わったのか、そもそも終わる戦争だったのか、せめて終戦という名の停戦を手に入れられる道筋さえ見えれば救われるが、その途中、誰を失い誰が生き残るだろう。悲しいかな全員無事にとは済まない。戦争には犠牲が付きものなのだよという悲しい顛末が予想されるが、いかんせんどこまで描かれたものだろう。
いい大人が泣いている映像を見た。どうやらどこぞの学校の校長先生らしくて、新インフルエンザの感染者を生徒に出したことで泣いて詫びを入れているらしい。んな馬鹿な! 病気に対して非難するなど見当違いもはなはだしく言語道断だ。差別的ですらある。ときどき、こうした非国民を見つけ弾劾するような軍国主義的日本人が生き残っていて嫌になる。むろん、軍国主義的日本人が発露した人間は映っていない。
何時からか、おそらく春を過ぎてから。使い終えた爪楊枝を半分に折ってから捨てていた。誰の生まれ変わり? まあ、誰の生まれ変わりかはともかく、誰の影響下にあるのかとははっきりしている。しかしながら、今になって行動として表に出てきたのが、ちょっとばかしの感慨あり。思考に限っては昨年末に表に出ていて、思考の顕現が先にあり、それすら頭が忘れた頃に躰が思い出す。その伝播速度のずれが面白いという他愛もない話。
マスクが売り切れることが異常だと冷めた目で傍観しているが、まあ、マスクの効果に疑問を持っても、否定はしない。ただ、マスクを装着している人が、平気で目をこすったり鼻を出したりしている映像を見ると悲しくなる。
ところで、感染源の特定にかこつけた犯人探しほど無意味でむなしいものはなく、そもそも、彼らも感染者であり、行き着くとこまで行けば、その道はメキシコへと続く。
「こんな事態になるとは予想もしなかった」
釈明会見でよく耳にする類の言葉だが、どうも釈然としない。聞けば聞腹、聞く傍から無性に腹が立つ。もし、これが競馬の感想なら腹も立たないだろう。立腹自体がお門違いの傍迷惑である。ただし、これが経営状況の悪化を報告するものなら、予想して対策を講ずれば良かったものを怠慢で予想しなかったお前が悪いとなる。そして、これが新インフルエンザの場合でも同様に予想する必要があった。フェーズ5というのは、ある種の諦めを求めた段階である。それに報道とは事後報告なので、TV画面の中の話ではなく、隣に座った人が? と疑うぐらいで丁度いい。新インフルエンザの「新」とは、誰にも免疫がないことを指す。故に感染は爆発する。
もし、先見の明を持ち予想した上で駄目になったのであれば、余程の無能か、覚悟が感じられて好感を持てる。人間予測の範疇なれば、大概のことには適応できるし、耐えられる。そもそもが、そのための洞察力だろう。まかり間違って過去しか見ない人もいるけれど、それも本当はその経験から先を見通すために活かす力の在り方だ。
ところで、1週間程度で新インフルエンザも収まればいいけれど、メキシコやアメリカの様子を観察していると1ヶ月経っても収まらないかもしれない。そうなった場合、いつまでも休校にしているわけにも行くまい。加えて、今年というか来年のセンタ試験は大変そう。その頃にはワクチンも開発されているはずだから、学生の接種は必須だろう。言うに及ばず、これは予想。
滅多に夢を見ない――正確を期せば夢は見ているが目が覚める頃には忘れて覚えていないのだろうが。1年に1度でも見た夢を覚えていたら、それはかなりの高頻度と言える。つまり、年齢の数だけ夢を見ていないことになる。
そんな夢不感症の私が夢を見た。いや、意地で忘れなかった、指の隙間から防ぎようもなくこぼれ落ちる水を意地で守り抜いたというべきか。眠っていたら、複数(3匹)の猫の鼻にくすぐられるようにして起こされたのだ。いやはや、フロイトに訊くのを躊躇うほどの快楽的な夢である。また夢の核心は猫ではないと睨んでいる。
では、どうして夢を覚えていたのかを検討する。変わったことをしたのかと言えば、早目に一度寝て、それから起きて、ラジオを聴き、本を読んで、通常通りの時間に眠り、変な時間に目が覚めて、また寝たのだ。多分にバラエティに富んだ眠り方をしている。おそらく変な時間に目が覚めたあとの夢だから、変な時間に不意に起きるのが夢を見るコツかもしれない。ただ、目覚めがいいから、1度起きると覚醒してしまうのが難点だ。
ゴールデンタイムでアニメを扱うと、いかにも品行方正な定番アニメが取り上げられるが、「アトム」や「巨人の星」なんて、そりゃ、存在は知っているけれど、いかんせん40年前の作品である。アニメ好きでも、まともに見た経験が不足していて、それを今どき知っているとしたら、むしろ実態から離れ、ランキングがオタク化しているのが皮肉。しかし、今のティーンと話をすると「スラムダンク」が通じないのだから、眩暈がする。
池谷裕二+糸井重里共著『海馬』読了。数年前に一大ブームを巻き起こし、今に繋がる脳ブームの端緒を開いた一冊。では、脳の組織である海馬の存在を知ったのはいつだっただろう。本書出版以前から部位として認知していたはずだが、海馬が記憶に対して重要な役割を果たすと知ったのは、本書がきっかけであったろうと思われる。脳の話をしているのに、自己啓発本になっているのが、おもしろおかしいところで、確かに、「脳はいつでも元気いっぱい」
と言われると妙に嬉しい。きっと誰もが平等に嬉しい。
何も刺激がない部屋に二〜三日間放置されると、脳は幻覚や幻聴を生み出してしまいます。
幻覚や幻聴といえば、妄想や独り言や鼻歌もそうだ。しかし、頭の中でよくしゃべっているというものおかしなもので、音もないのに、音と同じものを感じている。直近で言えば、忌野清志郎がヘビーローテーション。そして、そのまま刺激を一切排除した環境におかれたサルは、「トローンとした顔で欲がなくなってしまう。外に行くことを欲することすらなくなるのです」
。なるほど。日本人は、とかく欲を邪なものとして規定しがちだ。それは大晦日になると除夜の鐘が煩悩を打ち消していくことが刷り込みの元凶だと思う。ただ、欲をなくして、意欲まで消えてしまうことが見えていない。元々、欲が消えないことを前提にした悟りだろうに。
「あ、下等な動物でこれだけ発達してるのなら、生命にとっては本質的に重要なんだ」
凡庸だから取るに足りぬではなく、凡庸だからこそ重要と随所に見られるこうした科学者らしい逆転の発想に目からウロコ。
脳の機能とは少し離脱するのだが、心理学見地からの終末効果が膝を叩くもので、わかり易い例を挙げるなら、8月31日になって追い込まれる夏休みの宿題であり、見たい番組があるからそれまでに雑事を片付けることでもあり、何故か寝る前にやる気を出してしまう読書でもある、と。追い込まれるだけの人生に思い当たることが多すぎる。
最後の最後のあとがきにして、東大薬学部助手としての秀才ぶりを露呈してしまった点は、これまで対談という形で、平易な取り組みを徹底し築いてきただけに惜しい。それがなければ満点だった。ことのついでに、あとがきについて述べると、思えば心なんて探したことがない。そもそも、形ではないと承知していた気がする。端から存在を否定していたので、探し求めて心臓や脳味噌を切り開くことが考えられない。けれど、それすら誰かの切り開いた経験があったからこその帰結なのだろう。
そうそう、読み終わって、早速次の作品に取り掛かっているのだが、するとシリーズものだったので、普段思い出すことのなかった前作のことを次々と思い出している。これも脳がきちんと働いている証拠で面白いなあと興味深く観察している。もっとも、「感情に絡むエッチな発想をするとものごとを憶えやすい」
をふんだんに発揮してのことで、そこを基点に芋づる式に思い出している真っ最中。他にも、やる気を生み出す側坐核、好き嫌いの扁桃体、コミュニケーションを取りたがる前頭葉、そして記憶を作る海馬、こうして部分的に理解することで諸々の感情でそこが働いている不思議なつながりを実感する。もっとも、特筆すべきは科学的に証明しなくても、それを表す言葉が数千年も前からあるということだろう。経験則は侮れず、馬鹿にならない。
これに合わせて、ほぼ日で連載されていた「ねむりと記憶。」を読むともっと具体的に眠りの中での脳の働きが書かれていて、理解を深めること請け合い。寝る前にもっと詰め込まないと勿体無いとさえ意識が目覚める。
親鳥が絶え間なく餌をくちばしに挟んで戻ってくるのだが、早くて1分や2分のインターバルで繰り返される往復にそんなに虫がいるものかとそれにも驚いてしまう。そして、くちばしの開き具合から伺える虫のサイズは、決して小さくもない。
冬の間に履かなかった靴を引っ張り出したら、ネズミのフンがいくつものっていた。ここまでくれば、クソまみれと言っても差し支えないだろう。寝床になるならまだしも、便器になっていたのではやり切れない。無性に腹が立ったので、怒りの力でターヴィンを回し靴を洗う。履き潰すばかりで捨てていたので、靴を洗ったのも久方ぶりだ。一足洗うのでは、力を残したので、2足洗い、ついでに風呂のカビ取りをした。
池谷裕二+糸井重里共著『海馬/脳は疲れない』(ほぼ日ブックス)、打海文三著『愚者と愚者』上下(角川書店)、近藤史恵著『サクリファイス』(新潮社)、円城塔著『オブ・ザ・ベースボール』(文藝春秋)を借りた。
長いほうから、4年、2年、1年、半年。半年はまだまだ、それとも余程待ち切れないか。間隔が1年に拡がれば、そろそろかなというサイン。2年では若干の罪悪感を抱え、4年は悪夢。
面白いから読みやすいのか、読みやすいから面白いのか。ともかく、面白くて読みやすい。ローリー・リン・ドラモンド著『あなたに不利な証拠として』読了。
それなりに経験値が増えたからか、おのずと他の本との比較検討する傾向にある。過去の警察官としての職務経験に裏打ちされた固唾を呑む心理描写や、経験と徹底された取材が生きる犯行現場から装備に至るまでの細かな描写風景がディーヴァのライムシリーズと重なった。ただ、あちらがヒーロー活劇のエリート集団である一方、こちらは疲労感の充溢する現場で職務に人生をすり減らされるごくごく一般的な警察官の物語。あえていうならば、ミステリ等の結末の膳立てされている解決ものではない職業ものである。もし著者が電気屋に勤めていた過去があるなら電気屋にまつわる物語になっただろうし、スーパの店員ならスーパにまつわるプロフェッショナルな物語になったはずだ。そして警察官として刻まれ残る傷跡や物語は濃厚で、生易しくない激しさに打たれる。今後も彼女の書くものなら必ず読むという意見には賛同。それにしても、これほど精緻に描写できる著者が喩えようもなく言語に絶する味とは、どれほどのものなのだろう。
警察官と葉巻。昔から絵になる取り合わせである。もしそれが絵的なものではなく、死臭を消そうという実用的なものであるなら、大きな誤解を犯していたことになる。
こちらは技巧と呼べるもの。それぞれの短編で登場人物が重なり物語が繋がった。ただし、さる私服警察官には読み直してびっくりした次第。行動は記憶にあったが、名前は記録されず、読み直したときにようやく名前が記録されていたので、ここにパイプがあったのかと寝ぼけ眼も目覚め興奮した。
外国の作家の謝辞は長いものだが、この本の謝辞には目を引くものがある。さすが12年の歳月かけ、きっと途中で挫けそうにもなりながらも仕上げたということか。
「人を撃った経験がありますか?」
これは他所では訊かないが、アメリカの警察官にだけ尋ねたくなる質問かもしれない。
新たに2世代引っ越してきて、軒下はすべて埋まる。さあ、賑やかになるぞ。
追悼番組に食らい付いても、聴きたい曲は聴けない。見たい映像は見られない。生きていて欲しかった人は生きてなく、会いたい人にはもう会えない。
そういえば、今日がGWのゴールであるところもある。とっくに明けた感覚でいたので、「へぇ、まだ続いていたの」と正直驚いた。ところで、前代未聞の最長16連休ってどういう会社でもらえるのでしょう?
淫らでひょうきん、それでいて幻想的ですっぱく可愛い。ジム・クレイス著『食糧棚』読了。
この絵にこの題名。揃いも揃ったナリをしているので、てっきりホラーだとばかり決め付けていたら、心地良いブラックだった。アゴタを髣髴とさせる嫌味があって嫌いじゃない。加えて個人的には典型的な小説の形に思える。味わい良し。ただし、第二十一話のレジスタに内蔵されたコンピュータが過去の消費を糸口に各々に商品を勧める話は、既にネットショッピングにおける定番になっていて、妙にリアルでブラックでもなかった。時代の経過が健全な思考を麻痺させたのだろうか。
一部が連作であることに不意を衝かれる。それによって、全体がひとつに繋がる可能性が見え、ひとつの街を構成するのだろうかと混乱を招く。
太陽に暖められた空気が、新緑の匂いをまとい、圧力が私を押して、羽アリを舞い上がらせ独立を煽る。同じ建物に、ムクドリが同居しているのが、皮肉。そろそろ、ツバメもやってきて嘴を叩くだろう。
よく晴れた雨の気配もない、こんな日。なんだい、あの遺影。最後の最後まで貫いた。冗談きついぜ。本人は元気な姿で彼岸に立ち、此岸で皆が大泣きしている。
昨夜、読み終える予定が、12ページあまり残して寝落ち。一度目覚めるも意志の薄弱さを発揮して従順に照明を落として終わる。まあ、いい。負け惜しむなら「記憶の定着を図っていたのさ」とでも強がれる。
「文学界のエッシャー」と呼ばれているアンドルー・クルミィ著『ミスター・ミー』読了。なるほど、2階を歩いていたら1階を歩いていた。ただ、途中でコンピューティング・エンジンをフル活用した結末を予想し、結果、外れはたものの、そちら方が全体を入れ子にしてよほど倒錯的だったので、少し期待からも外れる。一瞬、それを円城ぽいSFだと感じたけれど、それも想像上の錯覚となる。
振り返れば刹那。久しぶりに小説を読んでいると感じた心境は確かなものだ。ただし、そのことから生じるフィクションであるが故の空虚さはいまだ消えない。もっとも、ルソーについては随分と身近になったので、そこから価値が見出せる。無論、名前は承知していたが、まさか、シンプル・ライフ唱導者としてカリスマに崇め祭られていたとは知らなかったし、「書物は人間を堕落させるもの」
というメディア批判の時代性も面白い。
「引用は最も権威主義的な叙述形式」
。まさに的確。急所といえる文言で、こう言われてしまうと非常に引用しにくい。また魅力的な言葉が散見されて、引くことを検討するが、どれもオリジナルではないので、オリジナルを読めば間違いなく引っ張るだろうから、今回は後ろ髪引かれつつ自重しようか、と悩むけれど、はたしてパスカルを読む日が訪れるのか? それを当てにできないのが情けない。というわけで、
パスカルは問う、<わたし>とは何か? 誰かから外見や性格ゆえに愛されている場合、愛されているのは真の<わたし>なのか? 言うまでもなく違う、とパスカルは言う。なぜなら人は外見を損なうこともあるし、個性が変わることもあると知っているからだ。だからといってそれで<わたし>の自我が失われたとは言わない。ならば、普遍なる本質はどこに存在するのか? 我々は、たまたまそこにある、どこか別のところに由来する属性による以外、人を愛することはできないのか? 我々が愛するのは相手に具わる借りものの性質であると、パスカルは結論を下す。それゆえ慕っている相手の<わたし>ばかりか、自分の<わたし>までもが、突如雲散霧消し、南国の鳥が求愛の証としてかき集めてくる木の葉や何かの破片にも似た、雑多な要素の寄せ集めに思えてくると。
戦中、団塊、バブル、失われた10年と続き区切られる世代。社会が集団的人格を創造する。明らかに世代間に共有する価値観はあって、それは誰から授かったんだろう、と思索すると、どう考えても上の世代、ひいては国の影響を受ける訳で、下の世代に不満を述べる、あなたが育てたというお話。
それにしても、性格まで変わるものとして取り扱う興味深い意見であったので記録。恋人選びの基準は、顔か、性格か、と永遠に繰り返されているが、一方の選択肢である性格が、不変的な誠実さを特徴としているのなら、どちらも借りものであることは滑稽きわまる。
思いの外、こたえた先週の訃報以降、初めてがっつり聴いた。格好良かったなあというのが、まず思い出したことではあったけれど、今日はその格好良さを改めて証明できた。
夢を見ようと無責任に扇動するのではなく、親の背中とでもいうように夢を見せてくれる姿勢は魔法使いの言葉。
親指の爪にクラックができたので、アロンアルファで固めた。左の小指の爪もある程度伸びると、いつも剥離してしまうので、今度からもこちらもこれでがっちり固めてしまおう。
ハエをむしゃむしゃ喰らい、石榴のごとく赤い複眼を啜る芋虫の猟奇的な映像を見た。目玉をジュルジュルと啜っているのだが、その間、ハエも大人しくしているわけでもなく、じたばたと手足を高速で動かし足掻いている様子が、強烈だった。たとえ、その窮地から逃げ延びようとも、その傷ではとても生きてはいけないのに、懸命になっているところが、また残酷劇場に味を加え、エキセントリック!
最悪の映像だが、れっきとした昆虫の生態を撮る貴重な教材なので、そういう意味でも否定的ではない。なんせ、ハエを必死になって捕獲して、あっさり捕まえたトンボに食わせテーブルマナーを観察した過去がある。ただ、芋虫って葉っぱしか食わないと脳たりんなことを思ってたので、肉食だと知ったことのほうが衝撃度としては大きかった次第。
こうした映像をネットで検索すると大量に発見できそうで怖いなあ。怖いもの見たさの出番も近いけれど、怖い。
ロックは好きで、ハードロックも忌み嫌うわけではないけれど、もっとリズム隊に寄せては返す、寄せては返す、と絶え間ないより干満なリズムを刻んでもらわないと、秩序なく押し寄せる音の洪水では、トリップできない。いい意味で、あちらの音楽は雑だ。
それにしても、今日のハードロックとメタルの総がかりによる対応に比べ、昨日は一日拓郎三昧で、独りで頑張れる昨日も凄いものだ。
若い世代に拡がる合理主義(?)はよく耳にするので、20年、30年前にワンランクアップの目指して、高級ブランドを身に纏っていた人たちが、身に纏わなくなった契機は何だったのだろうかとふと気になった。その行為を今も続けられていれば、その行為に価値あるのだと見出せるのだが、所詮、やめてしまうようなものなら、投資する価値がなかったのだと判断せざるを得ない。
問う、人は死ぬとどうなりますか? 答える、どうもならない、と。
これも考え方のひとつだろう。何もかもが消えてしまうという形。ただ、それは意識本位の答え方で、TVの電源を消すようにヴァーチャル・リアリティが消えても、そこには躰が残る。遺伝子本位の考え方をぶち込まれているときから、それは今だからだろうという思いが拭えなかった。遺伝子よりも小さな単位が見つかれば、また変わるのではないか。原子単位で考えないのは何故か? どこから、生物になるのか? そういえば、自己増殖が回答の一つとして提示されていたっけ。
小川洋子著『科学の扉をノックする』読了。読者を含めた素人相手に第一人者が基本的なことから教えてくれる。最新の研究により標準が根底から覆ることもあるので、関心はあるのに、どこから手を出していけばいいのか、躊躇うものにも有難い。それに、天文学者が家を買うときの条件やら、鉱物学者の結婚指輪など、これ以外に知る術がないのではないかとさえ思われる。色んな分野に人と出会っているが、分野を超越したつながりが見えるのは、結びつけてしまったのではないかと思われるが。まあ、健全な詩の範疇だろう。
ビッグサイエンスの施設を見ていると、下手なテーマパークの設備よりもわくわくする。緑の山を囲むスプリングエイトの全景など弥生時代の環濠みたいで美しくすらある。ここ最近の一押しといえば、無論「LHC」で、あたうことならブラックホールぐらい発生させて欲しいものだ(勿論、蒸発してもらわなければ困る)。こうした施設の説明で、全長、重量、容量、などの数値に唸ってしまうのは、総じてスペック萌えと言えるだろう。身近な例では、PCに車、冷蔵庫のパンフレットに、果ては「怪獣図鑑」にたどり着く。ただ、ビッグサイエンスといって差し支えない宇宙ステーションに萌えないことは、宇宙科学への損害を著しく感じる。ネーミングが悪いのかな。「TAMA300」は秀逸としか言えまい。
ホウレン草など植えると妙に出来がいいんです、下にゾウが埋まっていると。窒素がやたらと提供されますからね。
骨格標本を作る場合には、鍋で煮ることと、土で還す二通りの方法があるのか。まるで洗骨。メディア向きではないのか、そうした生々しい情報を伝えられる機会が奪われていたので、初めて知った。加えて、動物の献体を呼び掛ける案内書の清廉さに甚く感動した。でも、美味しいほうれん草が結果的に育つのも、面白いし、それで土地を提供した人が喜ぶのも面白い。ホウレン象……。
例えばマラソン選手が一日何もしなければ持久筋は50パーセントぐらいまで落ちます。二日やらなければ10パーセントに落ち、三日寝たきりだとゼロになると言われています。持久的な筋肉は急激に落ちてゆきます。一方瞬発的な筋肉はなかなか落ちないんです。
あれだけ毎日走っているマラソン選手でも1日で50パーセント落ちる数値が驚きに値する。あれだけ時間をつぎ込んでも、裏切られる。持久的なのに持久性がない。つまり、私はどうなる? 骨以外は溶けて消えてしまうのではないか。
ところで、アポが取れやすいところから接触していったのか、しょこたんのメル友だったり、鑑定団の人だったり、爆問で見た人だったり、と妙に馴染みある顔ぶれでもあった。
外務省の発表によると、日本にあるアメリカ軍基地で新型イフルエンザが猛威を振るっても、国外ということで国内での発生にはならないらしい。これには途方もなく、言葉遊びである感が拭えない。陸地で国境を接する場合はそうした評価も当てはまるのだろうが、島国である日本では、島レベルでの発生を評価が相応しい。体内で発生している癌細胞みたいなもので、早期に対応できずに転移して重症化したらたまらない。
ところで、数日前にネットで読んだニュースがTVでも流れるようになっているが、エジプトで豚を殺処分するらしい。ネットで読んだときには、既に人から人だから、人の殺処分ってありなのかなと残虐な妄想にぼんやりと沈み込んだ記憶がある。その数日前と今日の違い、つまり進展と言えば、カナダでは人から豚へ逆感染しているとのこと。ちなみにイスラムの教えでは「豚は不浄の動物」らしいけれど、家畜として人間が汚く飼育しているだけで、野生の豚は綺麗好きなのだ。
先日の放送は流した鶴見俊輔の特集を見た。そして再び本と同じ感慨を抱いたわけだが、ホワイトヘッドにヘレン・ケラーと会えない人と直に会っていると言える凄さ。特に今は、実際に会わなくても知己であるかのような錯覚に陥る人も多い。知らないのによく知っているような曖昧な人が増えた。故に、面識があることには価値がある。
話の内容から受ける印象はそう変わらないのだが、画から受ける眼光が鋭さが印象的で、その元が怒りなのだから、また感銘的。
昨日から打ちのめされてばかりだ。「マンガノゲンバ」で『青春少年マガジン』。
数から考えても、やりたくない仕事をやっている人のほうが、やりたい仕事をやっている人よりは多いわけで、ためにそれが普通となるのだが、実際、やりたい仕事のためにどこまでやるのかっていうところが問題になってくる。要するに、命を懸けるというけれど、死ぬまでやっていいものか? でも、寝食惜しんで頑張っている人を見ると、カンフル剤としての効用とともに猛省する日々がここ最近の流行なのか続いている。とはいえ、アシスタントはつけよう。死んじゃ駄目だ。
こちらもようやく気づいたけれど、至って前向きに頑張ろうとすると、寝る間を惜しんで頑張ろうとする癖がある。その姿勢、実に立派なもんじゃないかと思いがちだが、寝る間を惜しんでいるだけで、寝る間じゃなくても頑張ろうよというか、概ね日々の睡眠時間が6時間なので、残りの18時間をフル活用できれば、それ相応に素晴らしいことがなせるはずだが、何を思い違いしているのか、日常生活を普通にこなした上で、反対の6時間で頑張ろうとするから、案の定、頑張り切れなくて、反省を繰り返す車輪の日々。
4月分更新。順調で楽ちんだった印象だが、文字数だけを見ると特別楽観的な状況を確認できない。ただ、下旬になって文字数が減り、一気に更新できたので、時間的余裕があった。
小川洋子著『科学の扉をノックする』(集英社)、アンドルー・クルミィ著『ミスター・ミー』(東京創元社)、ジム・クレイス著『食糧棚』(白水社)、ローリー・リン・ドラモンド著『あなたに不利な証拠として』(ハヤカワ・ミステリ)を借りた。
「こむちゃ」のMCが交代している。中途半端に5月から交代という謂いはないだろうから、4月から交代していたのだろう。しかし、ジングル等で聞こえないあみすけの声が馴染んでいて、妙な具合。
ちなみに、意識していなかっただけで初代様の声も知っているはずなんだ。
忌野清志郎が死んだ。一報が流れた裏では「ロックの学園」放送中。いや、好きだったよなぁ。あれだけ、格好良くて、泥臭くて、メッセージが伝わる歌を歌える人は稀有。生きてる人は皆死ぬけれど、年長者は先に往くものだし、それは諦めるように覚悟しているけれども、訃報でこちらがダメージを受けたことは久しくなかった。はやりの音楽に物足りなさを感じている正体があるとすれば、清志郎を求めている節はある。
あと少しで読み終わるという佳境に、「木村拓哉の全力坂 完全版」に捕まる。港区にある50の坂を全力で駆け上がるだけのしょうもなさだけれど、しょうもない面白みがある。厄介なことに、そのしょうもなさの度合いが揺るぎないものであればあるほど、再放送する力もなく2度と見れないのではないかと限られた時間のうちで真剣に見てしまう。
そうした坂の魅惑的フェロモンをなんとか振り切り、リチャード・ドーキンス著『虹の解体』読了。大当たりだった。こうした傑物に触れると、科学本も病み付きになりそうで、小説やエッセィ以外にも――本書は極めて、エッセィ的ではあったとも思うけれど――楽しく読めるものがあるのだと世界が広がる。まあ、一般大衆までもが理系か文系かと些細なことで大仰に分裂しなくてもと思うので、2つの文化の中で美味く立ち回り、美味しいとこ取りをしてゆきたいものだ。
ラスヴェガスのスロットマシーンは人間のためのスキナーボックス以外の何物でもない。
鳩の迷信に至る行動解説から透けて見えた人間社会の構造もずばり正鵠を射ており衝撃的なのだが、本書においては(も)、なにより非科学的なものを批判し徹底排除してゆくドーキンスのキャラクタが強烈で、それは向こうの科学の歴史的な艱難辛苦を物語っているのだろう。むしろ、ここまで振り切らないと立てなかったのではないかという見方をしている。敵が多すぎるのだ。最大規模の威力と勢力を誇る宗教、合理主義的実用性をひたすらに求める人々、科学に背を向ける無関心な大衆、非科学的で胡散臭いものを生業とする者たち、そして同業者ながら主張が対立する科学者。しかし、批判自体は決して悪いものとも限らない。検証という形をとって批判が成長させてきたものは枚挙に暇がない。けれど、耳を塞ぎ口だけ開いてがなりたてる一方では、右翼の街宣カーと何ら変わるまい。
大事なポイントは、いつの日も科学はすべてのことに答えられるわけではなく、やがてその理論は古くなってしまうものだ、ということである。
よって、批判一辺倒ではなく、平仄が合えば受け入れる土壌を開いていることも重要で、古くなってしまうと無知を覚悟していれば、自然と開くのだろう。ただ、脳の働きバーチャル・リアリティの説明で、そうした徹底批判してきたドーキンスと京極の見解がたぶり、まさかそこにたどり着く京極の凄さにひれ伏した。
ただし、非科学的が無害であるならともかく、変に助長され、「差別的ステレオタイプ――人々を個人として扱うのと反対の態度」
の原則が現れた場合が厄介だ。事実、B型の子がいじめられたケースが近場では上げられよう。ドーキンスの批判の矛先が血液型に向かわなかったのは、世界の辺境で、こんな馬鹿げたことがまことしやかにはびこり、かつ信じられている、とは努々思わず想像を絶するに違いない。こうした面からも日本はどうも卑弥呼から離れられない呪的国家の印象を得る。独り大槻教授が張り切っているが、あの人はTVにでてキャラクタが崩壊している。
科学はとても楽しく面白いもので全然難しくなんかない、といういい方で科学を啓蒙すると結局、将来、どこかで失敗が起こるのではないかという気がする。本当の科学は必然的に難しいものであり、それゆえに積極的な意味でチャレンジングなものとなりうるのだ。それでこそ、古典文学やバイオリンの演奏と同様に修練のしがいがあるというものである。
難しさが伝わらず、わからなさが伝わる。難しさが伝われば、おのずと尊敬も生まれよう。ピアニストへの尊敬は難しさを習得していることとそこから生まれる美しい旋律に尽きる。そうした形を科学が持ち得るようになれば、もっと立場は揺るぎないものになるのではなかろうか。それにしても、理科離れは世界的な潮流か。苦労はどこも同じ。ただ、日本では専門化さえも育たず少ない気もする。
宇宙全体の中で、物質として存在するものは、三二キロの奥行きと幅と高さをもった空っぽの部屋に置かれた、一粒の砂ほどでしかない。しかもその砂粒は粉々に打ち砕かれて一〇の一五乗もの数の破片になっている、と言うのだ(一〇の一五乗という数は、宇宙に存在する星の数にほぼ等しい)。天文学が明らかにしたこのような事実を見ると、目が覚めるようだ。美しいとすら感じられよう。
虹色の大伽藍が破壊され、跡地に何かを建てるわけでもなく、荒地になるばかりなら、必然的に恨まれるだろう。とはいえ、元々私の場合は更地に近い状態であったので、破壊せずとも建設してくれるだけで、理解できたはずなのだが、それでも打ちのめされている感があるのは、それだけ、たとえ中が空洞でも伽藍の塔を偶像崇拝していたからだろう。そこへ加えられる打撃は、さしずめ砂漠においての新型兵器実験。立ち昇るきのこ雲があでやか見えるのであれば幸いなのだが、嘘で固めたそれぞれが白々しく見えるのが辛い。これまで楽しんできたものが否定ばかりでは楽しめなくなる。故に冒頭、ドーキンスの過去の著作にショックを受けていた女生徒に先生が他の子には読ませないように伝えた逸話がここへきて胸に響く。囲まれている世界に疑念を持たなかった子ほど受ける衝撃は大きいのだ。だから、作者も書いていたけれど、フィクションとの事前了解があれば、明々白々な嘘でも許されるのだろうかとは思うところではある。ために、そんなバカなアニメが危ない。
容疑者Aと真犯人が、もし同じ小集団に属していたとすると、全人口を母集団と考えて見積もった場合に比べて、冤罪の確率は劇的に大きくなる。この場合に重要なことは、全人口を母集団としてパターンPの割合を見積もっても、もはや適切とは言えない、ということである。容疑者が属する小集団においての、パターンPの割合を知る必要があるのだ。
先日、司法が科学を無視した結果、DNA再調査で否定された容疑者がいたので、この話題も興味深いものになった。また日本の陪審員制度は弁護士によって排除されることはあるのか? 明らかに信条が原告や被告に不利に働くようなら、外されそうなものだが、その説明、耳にしたことがない。
偽陰性を犯すのは、近寄って見ずに、芋虫のそばを通り過ぎる鳥である。偽陽性を犯すのは、芋虫の疑いをかけたものに接近し、本当は小枝だと知る鳥である。偽陽性を犯した罰は、よく調べてみようと接近したことに要した時間と労力である。個々にはたいしたことはなくとも、積み重なれば致命的になろう。偽陰性を犯した罰は、餌を逃すことである。
p値(確からしさ)を狙って「タイプ1の誤り」と「タイプ2の誤り」の舵取り。そしてどっちつかずの「タイプ3の誤謬」に陥らないようにしたいのもやまやまだが、身近なところでは、読書でタイプ2につまづいている。もっとも、去年から若干タイプ1寄りになれて、いい感じにいい加減になりつつある気もするが。
ユレシュ効果ってなんだ? と思ったら、砂漠画像から立体を見るというあれだ。ただ、どうも苦手で、一度も見れた試しがない。少し見えているだけで、背筋がもぞもぞとして気持悪くなるし、多分、才能がない。そうした錯視だろうか。ちゃんと取捨選択が作動しているのか、ジップの法則が機能しているのかどうか不安になる。もっとも、そうしたあたかも存在するかのような関連性ばかりに気をとられているのもペトワック(本来偶然に過ぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合)の範疇であり間違いなのだろうが。しかし、冗長性を捨てる機能からは、風景画の課題を出されて、この眼前に広がる樹木を成り立たせている葉っぱ一枚一枚をどうキャンバスに表現したら良いのか山中で途方に暮れたことを思い出した。そうした意味での読書も通ずるなあ。ペトワック、ペトワック……。
しかし自然淘汰が長期的な未来を見抜いているはずがない。自然淘汰は何も見抜いていない。進歩が起こるのは将来の見通しをつうじてではない。遺伝子プールでライバルに数でまさるようになった遺伝子によって、進歩は起こるのだ。(中略)これはたとえ、その利己性のために、細菌(に限らないが)の総数が減ったとしても続いていく。絶滅という地点までも続いていくことだろう。どうして続かないことがあろうか? そこには見通しなどないのだ。
結果的に残らないだけであって、そもそも、遺伝子を残すのが本能という考え方も誤りがある。その伝え遺す本能の考え方にがんじがらめにならず逃れる援用として功罪は非常に大きい言葉。自分本位に利己的に消えてしまうことすら本能。これに限らず行動の根拠を改めてどころか初めて知る手がかりになった。他にも、星が好きなのに、「フラウンホーファー線」を理解せずにいたとか、音の成り立ち「ハーモニクス」や「二六〇〇万年周期の生物の大規模絶滅」等など、見えていなかったものを見た。
未来においては、ドーキンスとグールドのどちらが正しいのだろう。もっとも、どちらも過去の遺物になっていることも充分考慮の範疇だが。過去の遺伝子単位から現在は個体単位とすれば、折衷案でもなくグールドになるのか。ともかく、あちらさんの意見も読まなければ、判断不能。もっと読みたい。だって面白いから。
そういえば、邦訳引用文献で、都合カットされているキーツの詩が、てっぺんで引用している詩であった(笑)。類感のキーツ詩。