ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない
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早いところでは昨日からGWが幕を開けた休日だという認識はあったのだが、カレンダを見ても、赤い日だなという印象だけで、何の感慨もなかったけれど、元「みどりの日」か。
「クロスゲーム」。第一話にして、悲劇的クライマックス。野球のパターンも様々だけれども、人の死も様々だ。もう、ベテランだから、その点であだち充は容赦がない。また、絢香の歌がいい味を出すし、悲しくて、涙が止まりません。
ついに日本でも新インフルエンザの疑いがある人が出てきた。まあ、WHOが世界規模の感染拡大防止に匙を投げているほどだから、水際作戦もいよいよ限界なのだろう。ともあれ、しかるべき手順で「Dear DoctorS」で書かれていたガイドラインどおりにことが運び、感激している。怖いのは、一旦収束した後で襲い掛かる第2波か。それでも、新インフルエンザといえどもインフルエンザ。要は飛沫感染である。手洗いとうがいを徹底すべし、外では目をこすらない、これは肝に銘じる価値がある。あと、日本人の風変わりな習慣であるマスクのルーツが分かる読み応えのある連載でもあった。
ところで、PCRという単語も普通にニュースで飛び交う。だが、PCRはインフルエンザ用に特化した技術でもないから、変な感じ。
小枝、小枝って美味しいよね。
子供のころの大好物が、大人になっても存在して、相変わらず好きでいられる。それって素晴らしいね。
でも、そろそろ小枝じゃなくて、枝、食べたくない?
そうした声を盛んに上げていたら、いつか枝が食べられるかも。そうなったら今度は調子に乗って、幹をお願いしようよ。
えー、以上のようなことを書くと、「あ、小枝、食べたんだ」と推測されがちだが、食べていないところが、今日のトリック。
(「シロアリさんのねがいごと」より)。
最終回を経て駆け抜けた「ハイパーレインボー」。すると、性懲りもなく語りたくなる。やはり総集編の存在価値は大きかった。あれがすべてを肯定してしまった。あの雪の中に倒れたときも、あり得たかもしれない悲しい未来も、そうして現在を通して過去にあり未来に続く幸福な日々も、この作品の出自であるゲーム的な性格すらも丸ごと包み込んだ。賞賛に値うる作品。こうして再び語ったわけだが、いよいよ最後だろう。
ラジオ自体は全てを聴くと長いので、ダイジェスト形式で突っ走ったのだが、全部を聴いても損をしない自信がある。
豚インフルエンザの警戒レベルが上がって新インフルエンザになった。あれだけ「SARSだ! 鳥インフルだ!」と警戒していたのに、何故、豚インフルを耳慣れない言葉というのだろう。過去の大流感も鳥から豚を経由してきたというのに、その知識、いずこへ置いてきた?
しかし、感染が拡大したので警戒レベルを上げるのも後手に回った印象を受ける。本来、世界に感染が拡がる前に、発生源であるメキシコで感染が落ち着くまで渡航制限を早急に実施することなのではないか。そうしたWHOの腰の重さに首を傾げていたが、対策を採らないない理由が夜に発表されて呆れた。まったくもって愚にもつかない理由。
要するに、これを賢く判断すると、組織では動きませんから、各個人で自主避難してください、ということだろう。あくまで自己責任の放任主義である。何はともあれ、メキシコ直行便が平常通り運行している現状は非常にまずいだろうと危機感を覚える。
話変わって、「神業」と呼ばれる人間業を扱う「スーパ・ドクタ」の番組を好んでよく見ているのだが、『からだを読む』効果覿面で、中の様子が良くわかる。肝臓の手術の映像を見て、門脈その他諸々が把握できたのは感動的でさえあった。
あと、加速器好きとしては、陽子線治療で小型加速器が癌に対抗する様子に、喜びで打ち震えた。
久しぶりにシャーペンを使うことがあったのだが、芯が折れる折れる。どうやら使い方を忘れてしまったらしい。
スタッフを一新したFAでの試金石となる、人語を解するキメラの回。この話は、どう料理しても強烈だという一点においても感慨深い。水島精二の強烈なバイアスから解放されて、どうなるものかと見守ってもいたが、そもそも原作が強力なので、そちらの重力には抗えるものでもないようだ。でも、各々が各々の物語を翻案してゆく様子も愉快、愉快。
それにしても、万一再びアニメ化があるときには原作が終了した時点だとばかり思っていたので、はてさて、どこまでいくのやら。とにかく、初回の様子からもシンが絡むのは確実な情勢。期待、期待。
番組が始まった当初からの懸念、小林ゆう回。いかん。あまりにはらはらして直視できず。もっとも、おばあちゃんが憑依することも、ロック歌手になることもなかったので、無事に終わったのだろう。いやにばっさりとカットされている編集が目についたので、真実、どうなっていたかとは知るよしにないが、司会者がたじたじとなっていた程度で事故は回避できた……、と思いたい。流石に「絶望先生」はNHKでは扱われないかと大人しく見ていたら、もっとも濃ゆいエッセンスが特別枠扱いであった。
それにしても画伯の絵はアーティスティックぶりは不変。誰かの絵を真似てひどいコピーをしているわけではないので、ひいては下手ではなくなるロジック。
知らないことがある。人間ドックを控えている人が読むと一助となるかもしれないし、安穏を妨げる余計な知恵かもしれない。養老孟司著『からだを読む』読了。胃の辺りから、急に難しく感じるのは実際に見たことがなく、手応えがないからだろう。故に最後になると再び手応えを得る。惜しむらくは、これが消化管のみで終わってしまったこと。せめて五臓六腑は押さえて欲しかった。
科学者らしからぬ言葉へのこだわりはどこから湧いているのかと偏見と不思議とに満ちていたのだが、むしろ解剖学者の職業的特性でもあるのか。
たくさんの情報を脳に入れて、必要なものだけを濾過して残す。それが勉強である。にもかかわらず、なんでも全部、覚えたがる人がいて、しばしば自分の頭を壊す。
あ、壊れたかも。
勉強するほうは、一つのことを理解し覚えこむので精一杯だから、説明が単一であることを望み、あるいは一つの説明を知ると、万事をそれで説明しようとする。それを昔から、馬鹿の一つ覚え、という。
あ、馬鹿だ。
お、終わった。「増田オンチュー」。ま、また唐突だったなあ。1年ぐらい前かな、夜中にたまたま見る機会が間々あって、「sakusaku」譲りのゆるさで、夜見るにはお手ごろ、と目をきらきらさせたが、たまたま見ているので、いつ放送しているのかとは露知らず、今年になってからようやく「金曜の1時ね」と把握したのに、「ああ、最終回」。残念なこってす。
先日からWEBでの配信が始まったりと、スタッフは続ける気満々であったにもかかわらず、政治的に押し潰された感がひしひしと伝わるこの結末。これも不況の影響? 視聴者は少数でも、それなりに評判は良かったと思う。少なくとも満足できる番組にはなっている。ひょいと復活しないかなあ。
椎名法子がリラックスしているというか、カメラ前なのにあまりに無防備。あくびしているのは、まあ、いいけど(本当に?)、たびたびブラの位置を直しているスリリングな番組であった。周りは注意しないのか、注意してもあれなのかは定かではないけれど、個人的には胸よりは太ももなのでテロップが……。
酔っ払いの言動を延々、素面の人間がマジメに取り上げているのが馬鹿馬鹿しい。
SMAP草g、公然猥褻で逮捕。酒を飲み裸になって酔っ払いらしく駄々をこねたらしいけれど、ある程度の醜態は「ぷっすま」でファンは見慣れている。しばらく謹慎処分が下るだろうが、こんなことで「ぷっすま」が終わってもらっちゃ困る。最近でこそ、視聴はめっきり減ったが、大好きな番組なので、なんとかこの危機を遣り繰りして凌いで欲しい。ともあれ、家宅捜査までやる必要があったのか。ただ捜査員が御宅訪問したかった公私混同ではないのか。また、ここに意味があると推測すると余計な誤解を招く。事実、家族のうちでは誤報とも呼べぬ嘘が飛び交った。
ところで、報道ぐらい漢字で名前で書こうよとは言いたい。あれだけの知名度を誇る人物の苗字を、表現方法に縛られて漢字で表示できないことのほうが異常だ。
しかし、喫煙者の生息域は減じているが、酔っ払いの生息域も消えている。個人的には酔っ払いが大っ嫌いなのだが、喫煙者と同じで、まあ、迷惑さえ掛けなければ存在は許される、と考える。そうしたものを完全に統御し、排除した世界のほうが気持悪く、病的なまでに潔癖でなくても、そこそこ猥雑になればいいと思う。自分にできないことは、他人に委ねる手法もありだ。
さて、こちらは一夜の大暴れではなく、酒で命の危機に瀕した人、吾妻ひでおの『うつうつひでお日記』読了。寝ながら描かれたものを寝ながら読む。驚愕の読書ペースにお笑いネタ番組を見ないだけで、嗜好は重なるかも。おまけに簡便に済ませる際の食事のメニューまで酷似。『失踪日記』との最大の差異は、あちこちに女の子の絵が差し込んであるところ。でも面白いのは、後半になるにつれて、その女の子たちの絵が可愛く移り変わることで、途中から商業誌に移った効果もあるのだろうが、それだけではないだろうところがおかしい。
帯に堂々「何もしてません。」
と書かれているぐらいだから一見、何もしていないのだが、何もしないをし続けるって、それはそれで大変。そもそも、これ以上、何かをやれば「死んじゃうのではないか」とむしろ不安になるし、この期間に『失踪日記』を書き上げているので、真実、何もしていないわけではない。しかし、『失踪日記』の時にも思ったけれど、売れなくなった漫画家ってどうなってしまうのだろう。売れない漫画家より心配だ。かつて笑わせてもらった人たちが悲惨な状況に落ちているとすれば心苦しい。しかし、日記という形式なら、無事に続けば、年一冊は維持できる。近年ではさっぱり見かけなくなった可愛い絵が描ける貴重な人なので、期待。
何はさておき、コアマガジンが逃した魚は大きかった。だが、大魚を見ても過去の情報に左右され、正確に目の前の魚の大きさを測りかねて、みすみす獲り逃してしまう業界は、望遠鏡で何億光年も離れた恒星を観測しているわけではないのだし、プロとしてその審美眼はありなのか。体制的な問題で至急根治せねばならない構造的欠陥なのではないか。ともあれ、捨てる神あれば拾う神あり。また数千年の時の試練にさえ打ち勝てば、更級日記級?
ああ、『BH85』は吾妻画だったか。ちょうど本書執筆中に読んでるなあ。当時、まったく吾妻を意識することはなかったが、絵はよく覚えているというか、絵に惹かれて手を伸ばしているから、思い出深い出会いだ。
超能力の絵的な表現を考えると薫が主人公になっている方が動かしやすいのだが、私の中では、あくまで紫がメインと考えている。世界中の人の心は読めても、誰も私の心は読めない。けれど、理解してくる人たちはいる……、と。でも、それも中学生まで。それ以上大人になるというか、髪の毛が伸びると、どうもなあ。枠を飛び出し、ボール。
ともあれ、『GS』読者としては外せない作品。この時間のアニメは相変わらずのペースではあるが、鶴様登場が嬉しい限り。結局、横島君の登場がなかったことが口惜しい。
植物を見くびるもんじゃない。葉っぱを日に向けて立ち上がった。
上空でカラスが揉まれ転ぶほどの強風に煽られながら図書館へ。養老孟司著『からだを読む』(ちくま新書)とリチャード・ドーキンス著『虹の解体』(早川書房)を借りた。
今月3回目の登場となる養老先生。分かり易く言えば、はまっている。念のため、飽きないようアプローチ角度を調整している。この「飽きる」ということを傍から見れば滑稽なほど異常なまでに警戒しているのだが、その源泉がどこにあったのか突き詰めると、どっかり「トトロ」が佇む。その昔、超がつくほどはまって、馬鹿の一つ覚えで見すぎて飽きた。あれ以来「トトロ」はしょっぱい。そうした苦い経験が消えず、永久機関とばかりあくせくと働く。働くかぎり傷は癒されない。もう一つは訳者が福岡伸一なのがミソ。ミ、ミソ?
『サンデー』のCMを見た。おやおや、めずらしい。どうしたことだろうと思えば、メインは高橋留美子の新連載のお知らせだった。流石にここまでの大御所となると、太っ腹だ。
昨晩から大風。花に風にはやや遅く、すっかり葉桜。層積雲の隙間からは青空と高層の巻雲が見え、中間には積雲が漂う。とにかく、どいつもこいつも足が速い。風は一息に吹き散らして昼さがって晴れた。(昨日より15増えて96。1減って95)。
J・デニス著『カエルや魚が降ってくる!』読了。四季にしたがって四部に分かれているので、春に春を読み、夏に夏を読むという建前から「春」以後、1ページも読まれることなく離れていた作品。今回、改めて読み返し、意外と文学的表現が多々ある作品であったことが案外で、離れた本当の理由とはそれではないのかしらと睨む。まず、のっけからジョン・キーツの名前が挙がった。6年前ならば、「誰、こいつ?」と首をかしげたことだろうが、今や「誰も」なにもHPのてっぺんに引用している。この他、道半ばにして峠の茶屋で一服しているものたちについても、決して諦めているわけではない。ただ、いつになるのか本人にも作品にも不明なだけ。
アリストテレスの観察力に恐れ入る。2000年以上の時の経過も歯が立つに及ばず。対照的にプリニウスの説明はめちゃくちゃでありながらも、筋だけは通り、説得力があって、物語としては魅力的。是非とも『博物誌』を読んでみたい気持に駆られる。それにこれだって、2000年経てば『博物誌』を読んでいるも同然だろう。ただ、これが2000年前に落ちていれば、聖書になる。
微生物や微粒子で溢れるイオリア帯。まるで海の中の情景。そして高層はほぼ真空となり、むしろ真空の中に分子が漂う。これはどういうことだろう。私たちはどこに生息しているのだろうか。
40分で10万個の流れた星。私が観測したものは、雲や光害がなく好条件が整い、目測できなかったものを加え、できるかぎり多くを見積もっても、おそらく1時間で1000個であった。2桁の違いは、おそらく夜が昼になる。多分、空が剥がれた。
翻訳がいまいちなのが辛い。もっと物語にして良かったのに。つなぎに不手際が目立ち読んでいて引っかかることが間々ある。それとも、これが原書の味わいそのままだろうか。
さて、本日の空模様は一面の層雲。つまるところの曇り空。
至って前向きに、蹴りをつけるため、把握できていない「ほぼ日」未読コンテンツの整理を図る。手当たり次第にざっとブックマークに列挙していけば、既に溜め込んでいたもの、新たに読みたくなったもの、再び読み返したいものとが混ざり、みるみる膨れ上がた挙句にのべ81。毎日1つ消化して81日は掛かる皆目現実的ではない数字をはじき出す。そもそも、それほどご熱心でもないからこんな数字なったというのに。これに更に新しいコンテンツが加わり、まだ見逃しているものも加えると、とてもピリオドを打てる日は遠く、何より読み返したくなったものの始末の悪さが誤算だ。こんないい加減なことではいけない。
ただ、晴れた、曇った、雨だったと綴っても芸がないので、実地に雲の解説でも入れようと予定していたのだが、窓を開けたら雲もない快晴。いや、高度で何かぼんやりしてる。高層雲? さにあらず、黄砂による春霞かもしれない。夕焼けは、案の定、不純物も少なくあっさりとしたもの。雲読み。
ひさしぶりに「ダーウィン」。オオタカがカラスを水中に沈め仕留めていた。初めて見るそれにも感激したけれど、オオタカVSカラスの集団の空中戦が面白かった。連続するターンに、フラップと『スカイ・クロラ』の影響で、つい空力というものを考えてしまう。鳥は羽ばたいて推進力を得ているのかと改めて考え込み、気分は土手で寝転ぶティーチャ。風読み。
「クラナド」の後日談も終わり、まさか今になってホームドラマをアニメで見るとは思わなかった。基本は前作に引き続いてのアドベンチャゲームを意識したアットホームでありながらもコミカルな学園ものだとばかり想定していたので、一転してのドラマ的な進行に加え、学校を卒業してからは若干距離を置く。しかし、大変な事態をきっかけにして戻り、釘を打ち込まれた。そして、そのまま3週間ほどはぽろぽろと泣いて過ごす。ところで、いかがなものでしょう。額面どおりのハッピィ・エンドに見えましたか? 私には分岐点の闇が怖くて、まったくハッピィに感じられないエンディングを感じ取っています。でも、総集編で回収してきたから……、納得かな。総集編がなかったら、救われていません。嘆いても詮無いことをこの場で嘆けば、杏を描かせれば、ピカ一のアニメータがで抜けていたのがとても残念でした。
ところで、あの街から空へ登って行ったエネルギィ体の正体はなんなのでしょう。気持ちとか優しさとか想いとかを無視して野暮なことを考えると、「復帰放電」が怪しいと睨めますが、間違いなく野暮なこってす。
ゲストによるジャックがあれば、聴こうと備えていたら、3人体制になってからは1度も聴かないままになってしまったラジオも唯我独尊で良かった。「蔵納戸」のコーナはシュールだったなあ。命題:シュールな番組のシュールなコーナは普通になるのか? 裏の裏が表とも、マイナス×マイナスがプラスになるとも限らないと痛切に思い知らされた。
玄関先においてある鉢植えの花が光差し込む玄関に向けて笑顔を振りまいているが、本来、花ではなく葉っぱが向いて栄養を補給するべきだろう。まあ、茎にも葉緑素はあるけれど、「そっちなの?」と葉ではなく首をかしげる。それとも、人間には感じ取れないが、虫を誘き寄せるには太陽に向かっているほうが効果覿面なのか。
「名探偵コナン 戦慄の楽譜」後半のみ。演奏会への乱入。それが唐突であったから、いきなりアーティストのエゴのぶつかり合いを見た気がして、笑った。後半を見たかぎり、アクションに派手なものはなかったけれど、動機や動機の逆転と中味は良かった。勿論、アクションとストーリィの両立が望ましいが、アクションにだけ偏るよりは推理ものとして好ましい展開だと思う。
それにしても、何故か、去年ではなく、一昨年の作品の認識でいた。まあ、今年は、つまり来年は黒の組織が絡むので楽しみかな。
直前に、世界最高峰と睨む鼎談を読んだばかりなので、小粒感が否めないのが不仕合せ。橋本治×内田樹共著『橋本治と内田樹』読了。
明治、大正、昭和、平成を貫いた日本史観から、いきなり個人へとスポットが当たれば落差はあるし、おまけに本人を知らないのだから、「橋本治」がテーマでは反応のしようがない。以前、「ほぼ日」で対談を読んだのが唯一自覚する接点だろう。故に、個人への関心が皆無なので、前半は読み辛かったが、後半で個人から若干離れ、共同体への参加方法の話とか、不幸が減り普通が増え幸福が消えた話とか、自分を消してこそのお洒落上手の話になってから、ようやく興味を覚えた次第。そして鼎談と同じ人物の話が出てつながるとサイドリーダ的に愉しいが、やはりメインには昇華しない。
二人の話の中で、字を覚えていくことの記憶が鮮明なのが不思議だった。何となれば、私が字を覚え始めた頃の記憶が一切ない。小学校に上がればドリルによる筆記の練習はしたし、同じ頃に、英語を読んだことも覚えているけれど、日本語を読み始めた記憶がない。国語に対する関心の低さだろうか。打って変わって算数については、どの学年でどこを勉強していたのか、明確にマーキングされている。まあ、一般の例に照らせば小学校に上がる頃にはひらがなは読めているはずだ。
養老×阿川対談でも言及されたけれど、公がなくなったのだろうなあ。防御壁なのに取っ払うからむざむざ自分が傷つく。できる人とできない人との両極端になり、人間のプロが不在でアマが大量生産されている。これを「拙い人間」と歓迎できるほどの格もなし。
何はともあれ、装丁のコントラスト比はうっとりするほど美しい。これは眺めているだけで、幸福になれる。
太平洋ポチャしたロケットが、飛躍的に距離を伸ばして西海岸のバンカに埋まれば、苦情では済まない。だから、あれが「ナイス・ショット!」なのだろう。ショートホールでロングドライブを記録しても、それは、とどのつまりOB。
夜に「相棒」がやっていたので、最後まで見たら面白かった。ネット犯罪という一点で興味を持ち得たのだろう。嫌な後味を残した落ちにも高評価。ただ次回がラストらしい。相棒の交代があってからはじめて見たというのに……。とはいえ、地上、BS、再放送と、手を替え品を替え放送しているので、どこがシーズンの区切りか分かっていないだけ。
好天一転。動きが停止してしまった。まるで爬虫類。
世の中では、草食系男子と呼ばれるものが出てきているが、これは自分は悪くないという女子からの理由付けだろうか。本当は、美味そうな肉がないから、仕方なしに草食べてるんじゃなくて? 真実、肉汁が滴っているのであれば、放って置かないだろう。
眠りに就く頃、雨が降り、土が濡れ、混ざり合う。
ああ、いい匂いだ。久しぶりに嗅いだ。この薫には、植物のオイルが混じっているだ、というのを、随分前に次に読む本で憶えたのであった。心配せずとも、ちゃんと記憶に刻まれている。恐れることはない。
アマゾンの画像処理の不具合について要所を掴む。何だ、こんな些細なことだったのかと肩を落とす展開だが、省略したアドレスが引っかかっていた。なので、省略を始めた2008年分まで修正して作業終了。
ともあれ、案外、長く綴ってしまった日記を、こうしてまとめて読み返すのも初。作業の中で、密かに見つけた愉しみとは、自分が書いたのだろうし、書いた憶えもある言葉が並んでいるくせして、いま書けと命令されても同じものは書けないことの発見。もっとも、2008年を2009年に振り返って変化が見えにくいのも致し方なしか。ただし、ノリのあるなしは目に見えて酷い。調子がいいときは、語尾にリズムが出ているし、偶然奏でたユーフォニーに「へぇ」と感心することもあるけれど、調子が悪いときは、仕上げまでの苦しさが文面にまで表れていて切ない。まあ、どちらにせよ手前味噌であり、自分は爽快かもしれないが、他人が耳にすれば、げっぷのようなもので気分を害する類だろう。やはりおくびは出さないに限る。現時点を評価するのが灯台下暗しで一番難しいようにも思えるが、ちょっとばたばたとしたところがあるので、あまり芳しくはなさそうだ。
メモ代わりのでもある引用は、引用するだけはあって「ナイス、アシスト!」と気が利いてるとも思えるけれど、忘れてはならないのは、都合良く加工し、書かないこともあったということ。これを書いたら取り返しがつかない、あるいは取り返えす苦労を厭い排除した箇所がある。それは例えば根源的なこと、間違いなく大切にしている部分、書くまでもない事実。ただし、綴った当時はありありと意識に捉え、今ほど漠然とはしてなくて、克明に透明な文章を読み取っていたはず。ある程度、見失いようやく「一般の通りすがりになれた」という感慨を得た。その上で、仕掛けが機能している or していない、の評価もできよう。うまく機能している箇所を発見すれば、してやったり、と、一人ほくそ笑む。
リンク切れに出会うと悲しくなる。まあ、1年どころか、1週間後にはページが削除されるところへ最後のリンクを張っているので、仕方のない成り行きだが、切ない。今後はリンクを張るにも寿命を考慮しよう。
瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、鶴見俊輔共著『同時代を生きて』読了。大変によろしい。
「夏目漱石先生」といって、その実物をエリセーエフは知ってるんです。私は知らない。夏目漱石全集を通して知った。やはり、その違いです。驚いたね。
正にその状態で、驚きっぱなしの一冊。知らない名前も知った名前もひょいと口から飛び出す。私から見れば、両者とも当たり前に亡くなっている人たちばかりなので、その人たちと知り合いだという時点で恐れ入る。しみじみ痛感したのは、断絶という観念。生前から終戦までの戦後に対しては、「欠けている」という意識がある。それは勉強すれば、「埋められる」とまだ手が届きそうな「線路は続くよ、どこまでも」のレールのように地続きの感触があった。その先の戦中もすれすれだろう。ただ、戦前となると戦後とは異質で幾ら山を切り崩して谷間を埋めようと足掻いても埋められず、いっぱしの勉強ではまるで歯が立たない。明らかに深い溝があり空気の組成率からして違う。感覚的には江戸より遥か彼方。そこに、何の準備もなしに繋がれる人たちには自然と頭が下がる。
明治以降の日本の知識人というのを考えると、知識人というの一つの特権なんですよ。これは珍しいと思います。アメリカ、ヨーロッパにはない近代だよね。
以上、五里霧中の明治という悲惨な状況下で、明治のエリート教育に白樺派の対立軸というのも初耳で興味深く、かつ人間ドラマとして捉えるとよく見える。そうした時代を経ての非常にまずい今があるんだという発見。これまで無関心と言っていいような明治大帝の話題も多かったが、小田実の話題も多かった。ただ、小田実の先に亡くなるとは残念なことだろう。明治天皇については本当に盲点だったなあと思う。明治維新に登場するぐらいで考えたことがなかった。でも、偉い人だという。それは面白いじゃないか。是非、自分の目で真偽を確かめねば。
私は、ニューヨークにあるコロンビア大学で勉強しましたが、入学するちょっと前に、アメリカの教育に一つの変革がありました。それは、古典を読むことを教育の根本にするということでした。あらゆる古典です。
古典か。いや、わかってはいた。いずれは読むべき時が来るだろう、と避けられないものを予測しながら、見て見ぬ振りを続けている。それとも、ひょっとすると読むタイミングとはいまなのかしら。休憩中の与謝野源氏も諦めたわけではない。ただ、「あらゆる古典」
がOKだということで、洋の東西を問われないのは助かる。しかし、大正生まれの人の古典とは、また格別古典だろうなあ。上海の状況には、心胆寒からしめる。
だけど、旅順虐殺のことは知りませんでした。あれがはしりですね。先駆的なもので、日本人には、日本人仲間でないものを虐殺するという一種の衝動があって、それが沖縄・石垣島での虐殺や、北海道でのコシャマインの乱を繰り返し起こしていて、それが中国人に対して出るんですね。
日本語には、日本と外国という不思議な区分があるでしょう? 外国人という言葉も残ってますね。これは不思議なんですよ。英語だと、外国人に foreigners だといえないんですよね。
知識がある人たちは、開戦前に戦争で負けることを認識しているし、馬鹿げた行いだと身にしみていた。しかし、そうだとしても、膨れ上がった大河の流れを堰き止めるには個人ではあまりにも無力であったということは胸に刻むべし。
土地を寝かせておいて値上がりでもって金を儲ける、これが資本主義化か? 資本主義のキャピタルというのは、何かものを造って行く元手でしょう。ぜんぜん違うというわけ。だから、日本に対する絶望をもっていた。
あれ、もしかしてこれは、あれも、これも、資本主義じゃないってこと? そうすると、本来の資本主義を経験したことがあるのかということになる。まあ、誰もが絶望を感じている。ただ、歴史に残る偉人は、それを上回る希望も同時に描く。
今日は鶴見俊輔の特集がNHKで放送していたけれど、あの時間の視聴は再三愚痴を述べているが無理。後半は「汗まみれ」と被っているし、再放送が早く決まらないかなあ。
「マン研」最終回。「えっ」と脊髄反射的にカレンダを確認したが、4月馬鹿でもなく、まじですか! はっちゃけていて、愉快で、地上波だから、皆目終わるだなんて事態が脳裏を掠めなかった。普段なら、終わりの気配を敏感に嗅ぎ取っても良さそうなものなのに、これだけ無警戒で不意を衝かれたことは記憶にない。それだけ番組が充実していて好きでいたから、盲目的にも終わりを予想していなかった証拠でもある。反省点。不況だから、幾ら調子が良くても、これまで以上に唐突に終わることを考慮に入れないといけない。けだし放送業界への不況の大波はこれからだ。
かたや放送禁止用語連発で、かたや酔っ払ってなに喋ってるのかわからない凄い回もあった……、まあ、最終回もそう変わらないけれど。立派に事故ってた。氷やバイブをぎゅっと抱きしめていた回もあったし、イソメパニックが怒号を飛ばした回もあった。こうして簡単に振り返っても、「ひでぇ」番組だと言える。後々、伝説にまで昇り詰めれそうな勢いなのに約半年で打ち止めになってしまったのが心残りだ。しかし、いつから生天目仁美の泥酔は解禁になったのだろう。ネットで聴くとそうでもないけれど、深夜の地上波で聴くと結構エロ番組になるのが不思議で、やはり夜とは危険地帯、人を野性に戻す。
ぐだぐだに終わることも、ありきたりな漫画とのコラボレーションは珍しく上々の滑り出しを見せていた。漫画単体での今後の展開も気になるのになあ。残念だなあ。
センス・オブ・ワンダを無くしてしまったら、その人はどうなるだろう。きっと無意識にその掛け替えのない感性が抜けたことで生じた巨大な虚を埋めようと努める。そして刺激を求めた。豊潤な五感を文字に換言すると、おそらくDoS攻撃の比ではなく莫大な情報量を浴びせられてマシンはフリーズしてしまう。そうしたものを補え切れる人工的快楽などないに等しく、空虚な気持から、より過剰で殺伐とした刺激を求めた。日常、至るところに流れ遭遇するBGM、より過激にメタル、甘い小麦、脂の乗った肉、浴びる酒、飲む煙、入れる青、穴あける金属、飛ぶ薬、次々手を替え品を替え染まるが、掛け替えのない豊潤な感覚は掛け替えることができない。いわんや人を殺しても何も得られず、むしろ決別である。
ガクガクブルブル。S&Mシリーズが書架から姿を消している。少し前から、ハイペースで産み落とされた作品群が犇き、棚が「所狭し」と悲鳴を上げていたので、ひょっとしたらとの胸騒ぎから警戒はしていたのだが、これが借りられていなければ閉架になった。もし、『F』に出会っていなければ、という充分に、あり得た過去未来を思うと、恐ろしい。また恐ろしいというか、既にしくじっているのは、京極夏彦でまるで追いつけない。追いつこうと思っても、1冊読むと充電が完了して、またしばらく離脱してしまう。このタッチ&ゴーをやめない限り進展は望むべくもない。しかし、こうして書棚をながめていると、対談ものって結構な数がある。みんな読むものなんだという感懐。読む物好きは私だけではなかった。
レイチェル・カーソン著『センス・オブ・ワンダー』(佑学社)、瀬戸内寂聴×ドナルド・キーン×鶴見俊輔共著『同時代を生きて』(岩波書店)、橋本治×内田樹共著『橋本治と内田樹』(筑摩書房)、J・デニス著『カエルや魚が降ってくる!』(新潮社)を借りた。ひとつ懐かしき顔がちらと覗く。
早速、『センス・オブ・ワンダー』読了。ま、こんなこともある。それにしても、奇遇というのか、ま、こういうこともある。ふと思い出したかのように、おもむろに頭をもたげ、耳に意識を傾ければ、スズメがピーチクパーチク。匂いや音も忘れてはいけないけれど、触感も忘れてはならない。特に風の指圧は気持いい。全身で受け止める波動って大事だと思う。課題図書となっているが、これは立派な養育所であり、何よりも大人に必要だろう。対象となっている子供たちはまだ忘れていない感性だと思いたいが……。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
(中略)
わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
いつまでも喜べる感覚、カメラのシャッタを押せる瞬間。
もし、八月の朝、海辺に渡ってきたイソシギを見た子どもが、鳥の渡りについてすこしでも不思議に思ってわたしになにか質問をしてきたとしたら、その子が単に、イソシギとチドリの区別ができるということより、わたしにとってどれほどうれしいことかわかりません。
「不思議だなあ」「知りたいなあ」という感動の過程で名前を覚えるのであって、覚えたいから名前を知るのでは、ずれてしまうし、もったいない。それにしても奇遇だなあ、先日、その命題に頭を占められたばかり。そうか、その名は「センス・オブ・ワンダ」。
ベテランの例に洩れず、すっかりコントから離れてしまい過去形になるけれど、とんねるずは面白かったんだよ。過去のVTRを流すだけで腹を抱えて笑い転げた。あれだけ笑えるものには久しく出会えてない。ともあれ笑いの仕掛けが大きいなあ。
ところで、野猿が口ずさめたことに驚いた。当時は、まだヒットチャートへの熱が冷めていなかったのか、それともTVを熱心に見ていたせいか。どちらにせよ、この数年の日常生活ではよみがえることもなかった野猿なのに、歌詞をメモリが覚えていたことでびっくりした。今日は久しぶりに当時のスタッフであるメンバが揃い、うろ覚えなダンス披露と醜態を晒していたが、一番動向が気になるCAは不在。入社して数年の一スタッフがいきなり数万人の前に立たたされる。あの頃は面白おかしく笑うだけであったのだが、改めて振り返ると、非常識な人生への乱入に同情を禁じ得ない。だって、久しぶりに見たCAの顔が記憶より幼かったんだもの。
いつだったか、以前に放送していて、そのときは後半部分をかじり、今回は前半をかじった。
手塚治虫を因数分解すると、怖いものが見えてくる。ああ、そして胸を打つ。未完の作品の存在が大きすぎて、ついそちらに目を奪われがちだが、きっとこの天才は、死ぬまで漫画を描いていたと思う。実際、その通りだった。だから、いつの時点でも未完の作品が作者の死と同時に生まれたのではなかろうか。
それにしても、森羅万象を開闢した、そのおこぼれを今も頂戴している。いまの漫画を書こうとする人たちは、絵は格段に上手くなっているのに物語が平凡でつまらないとはよく耳にする評。ともすると、昔の漫画家の絵が下手であったかのようにも聞こえてしまうけれど、手塚治虫は上手いなあと改めて今回の番組を通して痛感した次第。また、あの時代の漫画のベタにはある種の雰囲気があって良かったのだが、今はすっかり消滅した。あのおどろおどろしい気配に湿気と闇が潜む。トーンでの、ごまかしがないから、想像力が補い見せたのだろう。
手塚治虫を扱うと『アトム』『火の鳥』『ブラックジャック』の功績が大きいから、それで終始してしまう残念な形が多い中で、作者の絶望感が垣間見えるほど接近した素晴らしい番組であった。やはり、高橋源一郎と萩尾望都の存在が大きく、「はじめて」良かったと思えた。
京極夏彦を主人に魑魅魍魎を賓客を迎えた『対談集 妖怪大談義』読了。対談が3冊続き、図らずもローマ、オスメス、妖怪を通して日本を望む形になった。そのせいか、扱う話題が離れているようで近く、眺める視軸が異なるだけで、結構似ていたと思う。
対談とは、人に話し伝える必要のある言葉で成り立ち、孤高に純粋培養する形のものとは一線を画す。つまり、対談相手にその場で理解が生まれるのが望ましいけれども、仕事仲間や学友ならともかく、違う立場の人間との間に理解を育むのは、大変面倒かもしれないが前提を噛み砕き意思の疎通を図らなければならない。すると、言葉が優しくなる。それが相手ひいては読者にとって都合が良い。山も登りはしんどいけれど、下山は楽だ。仙人には降りて来てもらいましょう、事実、親鸞は降りてきた。ただ、通同士が話をした場合、余計に濃ゆい結晶となることもあって、その場合はお手上げなのだが、たとえ岸壁であろうが登らねばなるまい。かてて加えて、一冊で最低二人分の思索をたどれる。どういう人間かを知るには合理的で、整形し練り固めた言葉ではなく、発言するつもりも考えたこともなかった加工前の生臭い言葉が口を衝くこともあるので、そうしたハプニングも実によろしい。
歴史学としての怪異。どちらかといえば、これまでの怪異の説明とは、民俗学的範疇であった。よって歴史学的な怪異の話を読むに、目新しくて面白い。国家の危機としての怪異現象が、今でいうところのきな臭さに当たったり、ふざけているようで、かなりまじめに取り組んでいるのだが、その誠意が伝わらない。昔の人がどれほどの怪異現象にリアリティを感じていたのか、それとも実用主義であったのか、昔と比較して今の世がどれほど怪異に溢れているのか、興味は尽きない。民俗学と歴史学の融合で見えるものがあるとすれば、数学と物理学が交わるようなもので、拡がるかも。
子供時分は、今よりは、かろうじて約束が命脈を繋ぐマージナルな世界に身を置いていたように思う。ただ、妖怪より怪獣よりロボットの時代の色が濃かった。
もはや3月の更新報告はいらない気もするが、ようやくUPできたので念のため。2月で文字数が落ち着いたかという気配も幾分あったが、案の定3日増えてぶり返した。また、精神的に猫の手というか、拍車を掛けたのが、映画「ペーパーチェイス」。2月の終わりに視聴。完全に見たわけではなくところどころの視聴であったから、日記に書くこともスルーにしていたけれど、ちょくちょくと秀才の努力するシーンを回想しては、柄になくやる気が出てしまった。人の頑張っている姿というのは、励みになるもので、夜更けのヒルズの消えない明かりに対しても思いを馳せる人もいるだろう。加えて、2月のラジオの影響もある。
しかし、本の冊数で文字数が変化することもわかってはいるが、もはや上限が近い。右手の人差し指の付け根が腱鞘炎なのか痛む。多読する人が本の評価を星の数で済ませてしまう意味がわかった。これ以上の手間は生活に差し障り億劫となるのだろう。とはいえ、そもそも感想を乗じた日記なので、純粋な感想でも高尚な批評でもないから、何かしら書くとは思うけれど。ペースに反比例して、限りなく一言に近づくかもしれない。
ところで、この不況下で過去最高益を出している企業の特徴として、「巣ごもり系(任天堂など)」「低価格(マクドナルドなど)」「内需系」「独占系」などが上げられるようですが・・・・「漫画」って、本来これらに全て当てはまっているような気がするんですが。(^^;) やっぱ駄目ですかね?
――では、小説の文庫も売れるはず……。しかし売れるはずもなく。『ネギま!』は、情報量の多い漫画の典型と見なしているが、溢れんばかりに増えた情報量を文字で補っているとすれば、それは小説に近づいているということではないのか知ら。大量の台詞がコマを埋めている『デスノート』を読んでいるときには、小説みたいだと確かに思ったもの。そうであるなら、売れない形に近づいているわけで……、売れはしないよなあ。
そういえば、漫画を読むことに、やけに時間を食うようになった。もっと気楽に読んでいたはずなのに、かつての倍は時間を掛けているのではないのか。小説に対しては、この数年で、短縮されたのに、漫画相手に格闘する時間は延びた。ちょっと前に、『のだめ』を読んでいたとき、楽譜を読んだというか、リズムを指で刻んでいて、ふと我に返り、さすがに「こいつ馬鹿だな」とは思ったけれど。明文化することで、確かに見逃すことなく伝わるようにはなった。ただし、それは漫画だろうか。優しくはあるけれど、イコノグラフィで伝えられないというか、読解力なく読み取れないことが問題だろう。
病弱キャラだからって、徹底して肺結核にならなくても。過去形ではない大変な病気なので笑っちゃ悪いけれど、NHKのニュースで取り上げられているのを見てね、つい……。まあ、ハリセンボンは世間のお笑いブームにのれていない私でも、例外的に好きなので、また笑い話のネタになるぐらいには回復する日が早く来ることを祈ります。
芸能人という目立つ存在なので、彼女が主犯のように扱われているが、彼女にしてもうつされた可能性は大いにあるので、周囲は検査をするに越したことはない。感染しているけれども、発病していない、というのはあり得る。
さまざまなものから自分が与えられたことをなんとか共通の言語に戻すっていう作業がまさに創造で、それをやるのが文学だから、文学は創造的な仕事だったんですよ。でも、今の文学は極端にいうとインターネットの打ち出しを適当に編集することになってるんです。
養老孟司、阿川佐和子共著『男女の怪』読了。科学者の言には論拠があるから、信じやすい。文学者の希望や絶望とはまた一味言葉の重みが違う点はそれ。通俗的なイメージとは引っくり返るけれど、文学者より科学者がよほど感覚的な世界に身を置いている。でも、よくよくおもんぱかれば、厳然たる自然と膝を突き合わせる必要のある科学者と、抽象をいじりこねくりして物語を構築する文学者では、通俗のイメージとは引っくり返った方が理に適う。
そういえば、確かにその一言でもって物事を言えてしまう使い勝手の良い、便利な言葉がある。例えば「すごい」。例えば「とても」。例えば「面白い」。例えば「思った」。それを多用している事実を、この日記を書くようになってから気づき、いまだ撲滅叶わず、のさばり闊歩するそれの対応に苦慮している。言葉の貧しさは単純を産み落とし、思考の貧しさに結び付く。
阿川さんは、極めてインテレクチュアルな人だから(笑)、人の話を聞いて、自分で順繰りに理解すると思っているでしょ? ところが、ひょっとすると言葉っていうのはいきなり脳に伝わっている可能性がある。
しみじみ悲嘆に暮れるのは、なんて自分は読解力に乏しいのだろうと落胆することで、読解力だけならまだしも、強迫性的なものが絡んできてややこしくなっている。もし、上の言葉が本当なら、もっとその兆候が表面に出てこないかと願うわけ。日本語を翻訳していたら駄目で、九九を憶えるようにシンプルに憶える必要があったと痛感している。
もっと大事なことは、体験っていうのは感覚から入る。感覚って全部違うんです。コップが四つあれば全部違うコップなんです。だけど、「コップ」という言葉にした途端に全部同じになるんですよ。つまり体験の世界は全部違うのに、都会の人間は「同じ」っていう世界に住んじゃっている。その「同じ」という能力が強くなるのが人間の特徴なの。
さる人に「言葉にすることで失われることが沢山ある」「名前を覚えることで、それを理解したつもりになってはいけない」と、口が酸っぱくなるまで言われ続けてきた。だから、こうして記憶に留めていて、当時も、ふんふん、と縦に頭を振っていたけれど、上の言葉に裏打ちされた。そういう意味か。
昨日、植物状態の人が、寝たきりでは味わえない全身の感覚をリハビリの一環として体感することにより、感覚を少しずつではあるが取り戻していく様子の番組を見た。それは、垂直に頭を支える首の感覚であったりするわけだが、そうしたことで、甦るということが驚きだった。やはり脳というか視覚ばかりに頼るのではなく、全身にある入力器官を開いて有効活用したほうがいい。それと、こちらは外国のケースで、睡眠導入剤で覚醒していく様子には愕然とした。眠らせるのに目覚める構造の不思議。
だから、男女関係とか親子関係は頭のほうが邪魔をすると考えるのが普通でしょう。脳味噌のほうがはるかに後発なんだから、頭で考えたらだいたいロクなことがない。子育ての問題も、頭で考えるからヘンなことになるんです。
後発というのが面白いところで、なるほど躰だけで命脈繋いだ時代があった。それに従えば、生きていける。より良く生きようと小賢しくも考えるから、厄介を抱え込んで悩み苦しむ。
都市化すると、子供みたいな自然のものを扱うのが下手くそになる。しかも、扱うことに価値がなくなるんですよ。都会の人には自然を尊ぶという態度はありませんからね。自然は利用するものだから。
大人の身勝手な優しさで死が覆われ排除された世界。限りなくユートピアに近いと思う。大元のユートピアの概念が間違ってさえいなければ、それで万々歳であったのだろう。
かつて子供は神に近しい存在であった。7歳までに亡くなった子には供養葬式も行わずに済ました。そうしたことからも江戸までは、子供をきちんと自然現象だと捉えている。そうして7歳を過ぎ人間になると「男女7歳にして席を同じうせず」となるのだ。
僕、いつも皮肉で言うんですけど、放っておいたら女の子は元気で活発なお嬢ちゃんに、男の子はおとなしくてよく言うことを聞くいい子ちゃんになっちゃう。だから、教育で男は男らしくってケツを叩いて、女の子はおしとやかに、おしとやかにって頭を押さえてるんでしょ? って。そうじゃなきゃ、教育の意味がないでしょう。
これが傑作だった。かつ狂いなくツボを突いている。これは面白いなあ。
人間って非常に悪い癖があって、考えたものをつくろうとするんですね。考えるだけじゃ満足できない。
なるほど、果ては神様まで作ってしまうのか。確かに、人間は作ろうとするし、アトムプロジェクトはある。男いらねえなあ。大人しく飯食ってればいいんだよ。「空を飛びたい」と願ったときに、それに邁進して飛行機を作るのが男なら、「なに、馬鹿なこと言ってんのよ」と現実的に戒めてくれるのが、女。結果としては面白くはなっているが、裁決できる立場には女性が多くいたほうがいいのではないか。明らかに突飛すぎてバランスが悪い。その上でも、ピカソはモネより神に一歩近づいているし、動画を肴に酒を飲むギークな子も一歩近づいている。
人間には脳味噌ができた。だから、脳味噌が遺伝子の代わりをするんです。文化とか伝統とか、みんなそうですよ。ずーっと伝えていくでしょう
ああ。遺伝子はただの情報。計算機が作られた時点で計算することを放棄した人類は、当の昔に外部メモリに情報を委ねていた、と。
あと、平均顔が美人なんだという話があって、それなら平安の美人と現代の美人の定義がかけ離れていることにも、納得がいくし、国によって美人が異なるのも、その国の平均が違うんだと冷静になれて腑に落ちた。アブノーマルは危険です。
「ショーシャンクの空に」を観た。いい映画とは、ある種のオーラに包まれているものだが。この作品も優しく包まれている。意外性はないけれど、そつなく非常に良く纏め上げている印象。そして、塀の中の物語につきものの感慨でもって、けつを叩き叱咤する。
必ずしも、塀の中に入っているものばかりではない牢獄ものも世の中にはあって、『人間失格』もそうだし、アゴタもそうだろう。どれも絶望感に閉じ込められている。そこで分岐になるのは、「生に賭けるか、死に賭けるか」
。
あそこでニヤリ。
五木寛之×塩野七生共著『おとな二人の午後』読了。主題が一本の小説とは違い、話題が多岐にわたる対談から、一体何が残るだろう。実用的なものが残されて、おしゃれや無駄は知識として堆積する類か。なら、折に触れて都合よく思い出せれば幸い。記憶の上澄みにあり、即効性が期待できるものを挙げると、低気圧によって体調が変わるというのは、興味深い。月の満ち欠けよりも影響があるような気がする。しばらく、天気図と体調の相関関係を考えよう。上澄みより下で、ちょっと掘ったところにあるのが、「古代のローマ人は菜食だった」
という目から鱗の感動的な知識。あとは、適時、掘り起こして釣り上げられれば良い。
一応、本という形式だから、ここにこうして記録されるわけだが、TVや新聞、WEBなら流されている。その場合、「誰が」何を語ったか、と主語を忘れる事態がまま起きる。出典が思い出せないから、あとで探し出せないという苦境に立つ――故に便利な検索機能。それでも、要は押さえているので大きな問題には発展しない。忘れることとは、脳味噌が必要なしとリストラした結果だろうから。問題は、誰が「何を」語ったか、と動詞や目的語を忘れてしまった場合で、「あの人、なんて言ってたかな」と頭を抱えるはめになる。ただ、これも自然選択であるとすれば問題のないこととなってしまう。それは残念だ。何とか意識改革したい。
足を靴に入れるときに、シューッと空気の抜ける音がして、その靴を脱ぐ時にスポンと音がしたと。
何ともうっとり、とさせるセクシーなイタリーの靴の話。これを読んで、日本の箪笥には上記のようなセクシーな快楽が開け閉めにあるなあと思い出していた。一つの引き出しシューッとを閉めると、別の引き出しがすーっと押し出されるとか……。
大江健三郎さんに言わせれば、文学は若者の文学と老年の文学しかないと。中年の文学というのはないと。それで若者の文学とはなにかと言えば、言いたいことを書く。それで老年の文学はつくると。
そういえば、デビューにして完成されていると言われた作家は、言いたいことなんてなく、メモも取らずに、その時その時に創作しているから、デビューにして老年になっていた。完成していたとはそういうことか。
WBCで盛り上がった野球がいよいよ開幕する。注目カードは、ダルビッシュと岩隈との投げ合いだろうと誰しもが睨んでいるのに、TV中継がない。馬鹿じゃないのとは言わないけれど、もったいない。
金曜ロードショーのOPが変更された。あのフィルムを回すおじさんが良かったんだけどなあ。今は亡き近藤喜文が関わっていることもあり、何らかの形で残してほしかった。
「東京ガールズコレクション」。注目が集まるものには、得てして批判も集まるが、地産地消でよろしいではないか、と好意的に受け止めている。それに、10代の子ではブランド物を心の赴くままに買える余裕もないし、買えることと似合うこととはまた別だ。
観ても観なくてもどちらでも構わないスタンスでいた「マリみて」も、ラジオでの付き合いがそれとなく長くなり、記念として見納めよう……、みたいな。
物語も絵も綺麗な作品である。なのに、線が汚い。さすがにクライマックスにもなると、修正されていたけれど、それまでは荒が目についた。と、書くぐらいだから、そちらを意識していたのだろう。なんとなれば、やはりラジオとの付き合いが長いからである。もっとも、この作品に限らずラジオドラマは好きだ。特に小説原作の作品ではその思いを募らせる。何故か? どうやら説明台詞が好きみたい。要するに、アニメ等の映像作品ではカットされる地の文が好きなのである。よって、アクションや、音が目的でないなら、絵が唯一の目的となる。なのに荒が目立った。残念。それに「マリア様がみてる」は語りが合っていると思うし、決着まで1クール待つまでもないところがクール。
「花の雨」と名前が用意されているぐらいだから、この時季には雨が降るものだ。いや、5月は五月雨だし、6月7月は梅雨だ。そして8月のゲリラ豪雨に9月は秋雨となる。雨には名前がつくものか。風にも名前があるだろう。日々是好日。