ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

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# Diary

2009年3月31日(火)

GLAD!

先週は雪の予報に怯えていたが、今週は信じられないほど暖かい。もう4月の雪だなんて馬鹿なことはないようである。犬にしても、窮屈に丸々ばかりでなく、足を伸ばして寝ている。犬に暦はないけれど、春は嬉しいだろう。そう、変わるというのは嬉しいことだ。

今日をもち、MLAの公開が終了する。今後はFCへ移されるのだろうか。もっとも、移行が完了したところで、FCへ入会する気のない私には無縁の世界。HDへの完コピも検討したが、必要ないと判断を下した。これも変わること、嬉しいことだ。1月に更新が終了して、しばらく。ふと思い出しては検索をかけ、読み返した。こういうときには検索機能が非常に物をいう。すると、自分のHPにも入用だとまでは考えが至るものの、作成はともかく、今も供給過剰なので却下。面白いのは、自分の書いたものは、思い出せない癖して、他人の文章は思い出せること。インプットとアウトプットの差であろう。読めば思い出すものと、思い出さないものの差でもある。ただ瞬間移動の前にはその地点のイメージが必要なように闇雲には飛べない。

「ソウルイーター」が終わった。まるっと1年高い質を維持してくれたことがありがたく、視聴者冥利に尽きた。尾ひれなく火曜日の支柱となっていた作品。素晴らしいパフォーマンスに、今どき、こんな作品を年間を通して作ることが許されたんだ、といった感慨がある。評価の点はすんばらしい絵に限らず、いつも途中下車してそうな死神様が24時間戦っている捜査官への早変わりや、デビューでありながら、主役の大任を果たした小見川千明。最終回での絶叫も迫真の演技で、反射的にボリュームを落とした。マカのイメージが強い彼女であるが、素の声が耳朶を打てば、ものの見事に1年間築いてきたイメージが瓦解し、その上で、あの演技かと重ねて感心できる。

そうそう、「ライドバック」も終わった。久しぶりに頭ではなく胴で操るメカに感動している。ただし、メカに心を踊らしていたので、ストーリィが目の上のたんこぶで余分だった。作品自体は、つまるところ、いまどき珍しいバイクもの。自動車への憧れが翳るなかで少年少女の心を掴めず苦戦するジャンルなのだが、アニメは動いてなんぼだ。にも拘らず、動かない作品が多い。よって、疾走感を与えるギミックは漫画とは違い重宝するはず。アニメと漫画は違うのだ。世界のスピードが変わらない。絶えず同じスピードで生きていては世界が窮屈だ。

ついでに壁紙を変えた。緊急回避画面としてデスクトップの責務を充分果たす。これも嬉しくある。

2009年3月30日(月)

タレント議員

千葉の新知事が俳優をやっていた時代を知らない。気がつけば、既に政治家であった。それなのに相も変わらず当選すればタレント議員と称される。歳月を重ねても、一度貼りついたレッテルが剥がれない。対照的に、宮崎の知事は、数年前までタレントとして活動していた事実を忘れそうになる。違いは、政治家としての活動の伝播率。

相変わらずの扱いに、ちょっと可哀想で同情したが、万歳三唱を映像を見て、なんと不自然な演技なのだろうと訝る。人間、ああも顔が歪むものか。

生きた感覚

『だつた考』を常に意識していたが、真実、一度たりとも「だった」の登場がなかった。内田百闥『東海道刈谷驛』読了。

ノラがいなくなったという。ノラというのは飼い猫のことで、ノラと名付けたほどだから出自は野良猫だったのだろう。それが1年以上帰ってこない。ああ、悲しい。とはいえ、それは50年以上昔の話。野良に帰り、いわんや、どこぞで保護されて可愛がられていたとしても既に亡くなっているはずだし、飼い主さえ、とうにこの世から旅立っている。もし今もこの世に留まっているとすれば、立派な化け猫である。しかし、百閧フ悲しみを通して、50年の歳月を経ても、帰ってこない猫のことを思うと切なくなる。亡くなっていると常識的にわかっていても胸が痛い。

表題作である『東海道刈谷驛』で、死神に手を引っ張られたシーンが凄かった。汽車の轟音と風のうなりが耳を聾する中に刹那、時が止まり、間髪容れず轟音とうなりが再生される。その時が止まった刹那のカットが、とても綺麗。ただし、殆どが脳内再現だから、イメージの共有は至難かも。死神だからって絵は、小畑健ではなく、柔らかい羽海野チカのイメージ。下からのあおりが美しい。または、ドアの外から手を引く死神だけの姿。

ここまで、悲しい話を二つ挙げたのだが、そうしたものばかりではなく、早朝のお宮の太鼓に、「一体敲き始めた時が五時なのか、敲き終わった時が五時なのか、いつもそれが気に掛かる」とあるのが、微笑ましくて可愛い。そうした部分も含め、川上弘美を連想したのは偶然ではないのだろう。

正字が読めない。初見こそ読めなくとも、前後の文脈を読めばわかるものもある。しかし、わからぬものはわからない。なんだか、パズルを解いているようであった。ともあれ、略字になれば、どれもなんてことないものである。故に2度美味しく頂戴する。

煮え切らない

「屍姫」。観賞できるだろうか、ともがいていたが、打開できぬままに終了。これはもう個人の趣向としか言いようがないけれど、病的なところが、趣味ではなかった。猟奇、ホラー、グロテスクなどの凄惨な映像も平気なのに、作品として病質的なところが、皆目受けつけなかった。先が見えず、お先真っ暗なのも、煮え切らない。

2009年3月29日(日)

カンタービレ

なんと脳たりんであったのだろう。アマゾンの画像処理にやっと良い対応をひらめいた。見栄えのみ追求し、形だけ取り繕っても駄目なのだ。しかしこれから対応させるにも面倒なことである。この手間を省く良い知恵はまだ絞れない。仕方がないので、一月ずつ直してしていくが、雨乞いの様に知恵が降りてくるまで歌い続けるのさ〜。ひらめけ〜、ひらめいて〜、ひらり、ひらひら〜♪

The End of OO

テロリストとしての正義感を発揮するガンダム乗りの限界。挽回しようのないシナリオで、誠に勝手ながら、これはどう鞘に収めたら納得の結果を生むのだろうとここ数回にわたり考えあぐねていたが、前回の放送で兆しが見えた気がした。

その待望の兆しとはバッドエンディング。勿論、根底には武力介入が成功したら不味いだろうとの思いがある。実際、1期のラストはそうした形に近かった憶えもあるが、いかんせん当時から印象が薄く記憶は朧げ。ただ、その展開が許されずカタルシスを得られないのが、この作品が何よりもガンダムである鋼のような軛。「仮面ライダー」が平成ライダーとして、その軛から放たれ、数段自由に振舞っているのを見ると、悲しきかな不自由さを感じずにはいられない。

ともあれ、強大な武力を大義を見失ったどっちつかずの人間が保持することほど厄介なこともなく、畢竟、武力介入をもって力業で道を打開することへの違和感が、理詰めでも屁理屈でも構わないから制してもらえないことに由来する鬱屈から脱せず。エネルギィ問題などの導入部分に持ち込んだ要素をどう解決していったのか。メインでないから仕方がないのか、1期2期ともスタートは軽快なのに、後半になると印象が薄くなるのが口惜しい。

あと、ガンダムに限らず、日本のコンテンツの限界というか、新しい世界を築いていこうと道筋を作るところまでの、あたかも打ち切りのような結末の作品は多々腐るほどあるにも拘らず、どれもこれも、その先の世界をきっちり描いてくれていない。何故、見せてくれないのか。血も流れない平和な時代では物語が単調で面白味がないこともあるだろが、何よりも、この未成熟な現代社会が、そうした新しい世界のヴィジョンが描けず、圧倒的なリアリティのなさが絵空事であろうとも描くことを禁じているようにすら思われる。ために、どうしても打ち切りのような半端さが残る。そこを先駆的に打ち破る可能性もフィクションが保持しているというのに、活用できていない。

「trust you」の入りが素晴らしかったと褒め称えようとしたら、最終回、出番がなかった。おい! ――まあ、木星も含めて、太陽系規模の怒声。

ガンダモーの裏でやっていたF1。本来ホンダがワンツーを獲っていたかと思うとブラウンGPの頑張りに胸中複雑。何のために来期を見据えて昨年のシーズンを棒に振ったのだろう。判断が悪いから、後味がほろ苦い。

2009年3月28日(土)

\12,000

定額給付金ゲット。

凌駕したもの

BSフジというTV界の辺境で放送していた「ジュテーム」が終わった。日本のドラマをすっかり見なくなったと思っていたところ、飛び飛びではあったものの、とんでもないものを観ている。

コールガールを主人公に据えて描いた作品だが、ベッドシーンはあるけれど、事務所NGなのか、胸の露出すらなく、期待を裏切りエロくない。何を隠そう、それが功を奏した。AV女優を持ってきて、表現することも可能であっただろうが、中途半端にやるのであれば、ばっさり切ってしまったほうがいい。その方が、より心に近寄れる。人間の烈しさと嫌味。そうした清々しさと汚らわしさの両輪でもって、制作費の安さに由来する映像の不味さを打ち消した土台としての脚本が精彩を放つ。見事だ、と感心しきりなのだが、誰も見ないのであれば評価は低いままだろう。

好きなシーンは毎回のラストである自転車のシーン。台詞も皆無で、音楽背景に、淡々と自転車をこぐだけだが、それが素晴らしく映える。

そうそう、日本のドラマで今日は「ごくせん」が帰ってきていたが、やんくみ殴り込み場面をチラ見していたら、鉄筋コンクリートの天井を突き破っての登場。お前はバーディーか!

2009年3月27日(金)

陋劣の果て

WBCの頃は埋もれていたが、快哉も晴れ、日に日にミサイルへの報道が大きくなる。ピストルの弾にピストルの弾をぶつけるほどの難易度でも自分の頭の上に落ちてくるのなら迎撃せねばなるまい。しかし、今回のことは、テポドンが失敗して日本に落下してくる場合に迎撃ミサイルが発射されるのだから、失敗しなければ、出番はないわけだ。とはいえ、テポドンの成功を祈るのも致しかねる。

しかし、弾道ミサイルではなく人工衛星と主張する。万一有人飛行でも撃ち落せるのか。嫌なことを思いつくものだ。しかし、それがミサイルをも生んだ紛れもない人間の悪意。人間を爆弾として突っ込ませた例なら幾らでもあるし、今の自爆テロはその系譜に連なるもの。それに有人でなくても、犬や猿を積み込むとした代替手段もある。

ルパンVSコナン

奇想天外な組み合わせ。どう交わるのか、と近年のルパンシリーズで最も注目度が高まった。畢竟どのような形になろうとも寛容に楽しめる自信がある。「コナン」の中に怪盗キッドが活躍する話があるので、そのポジションにルパンが入ってくるのだろうとは予想していたが、上手くはまった。途中で席を立ち、しばらくして戻ってきたのだが、残らず見ても良かったのかもしれない。またコラボ企画が立ち上がらないだろうか。

しかし、作品が違うということは、絵が違う。製作現場を想像するとおかしい。手始めにどちらの世界観に合わせて進行するのかと考慮するだろう。今回はコナンが土台であったが、よくよくおもんぱかれば当然の帰結。何となれば、ルパンは絵柄が毎度違うので、それにファンは慣れているけれど、コナンの絵が異とすれば、非難轟々で燃え上がる炎を収める術がない。コナンの世界にやけにリアルなメカが入っているのが、ルパン臭くて不気味ににやついた。絵も異にすれば、音楽も異にする。アフレコ現場の様子からなにやら、表に現れている部分よりも裏側を想像すると、しばし堪能できる。

しかし、途中でコナンが匙投げたように傍若無人なルパン一家には太刀打ちできないが、サービスシーンは嬉しかった。いや、シャワシーンだけではなく、ルパンにおけるお約束の数々が良かったという意味。もっとも、広義では同義だ。とはいえ、ルパンのやることなら仕方ないと、あたかも自然にお色気シーンを挿入可能であることは目から鱗が落ちた。

席を立っている間、すなわち浴槽の中で湯に浸かりながら、はてさて、一体何を盗む、と思案に暮れた。折角のコラボで狙いが絵に描いた宝石では味気ない。過去には心を盗み、ルパンを盗んだ。ならば今回はメタ的に番組を盗むのが綺麗ではないか、と予想を立てる。よって予想は外れたものの、いい落ちだった。ルパンが中だるみするのは自然な形でもあるから、落ちさえ良ければいい。近年、ルパンという作品に元気がなくて、それをコナンが持ち込み、よみがえった。

3ピース

「鉄腕バーディー02 DECODE」最終回。継続して見ているアニメ作品では3本の指に入る。加えて音楽も傑出していた。バーディーのビルとビルの間を飛ぶ重力と流体を感じさせるジャンプシーンが大好きで、その点では1期よりも、シーン自体が少なかったことが心残りではあるものの、良い出来であった。

最近、絵が上手いとは、どういうことだろうと考えることがある。まあ、上手いというよりは自分の好みが大概なのだが、アングルは最重要だ。思わぬ角度から端を発してキャラクタをなめる。そのなめる動作には、カメラの回転、もしくはキャラクタの軸の回転が必要で、そこに好む動きが生まれる。漫画はコマが小さく、キャラクタの判別には顔のアップが必要でなめる動作は難しいけれど、TVは画面が数段大きいし、近年の大型化でつらの大きさが気になるものが出てきた。もっと引きでいいし、映画のように大胆な空白があっても良くて、今後は行間を読ませるべきだろう。

さて、バーディーに話を戻し、本当に脚本からして練られているなあと脱帽するのは、1期に引き続き物語の中核を占めるオリジナルキャラの活躍で表せる。3期は未定なのだが、これが戻ってこなければ嘘だ。

2009年3月26日(木)

羨望

「本が読めない」とは先日嘆いたばかりだし、「読みたい本すら読めない」ともかつて書いた。「魔法が使えたら……」幾らなんでも、これは書けない。

深閑ありうべき場所で子供の笑い声が断続的に耳に届く。いささか気分を害し、震源地であるAVコーナに首を伸ばすと映画「マスク」を観て爆笑していたので、致し方なしと引き下がった。まったく、これ以上なく羨ましい。もうあの映画は私を無邪気に笑わしてはくれない。それに比べて、この子たちには箸が転んでもおかしい映画が山ほど待ち構えている。前途洋々な未来に乾杯。同様に、この空間に認識できる以上の数の本が私を待っていてくれているだろう。

そんなこんなで、愉しき、内田百闥『東海道刈谷驛』(旺文社文庫)、深き、五木寛之×塩野七生共著『おとな二人の午後』(世界文化社)、騒がしき、養老孟司×阿川佐和子共著『男女の怪』(大和書房)、怪しき、京極夏彦著『対談集 妖怪大談義』(角川書店)を借りた。

ビートたけし×所ジョージ×とんねるず

ただ4人が集い食って喋っているだけ。誰かが特別ネタを見せて興をさかしたわけでもない。「世田谷ベース」に、たけしと所が揃っていたのを見ても緊張とは無縁であったのに、今夜の「食わず嫌い王」には正体不明の胸の高鳴りに牛耳られた。TVって凄いなあ、やればできんじゃん、と手放しで喜び、認識を良い方向に改める。元々、ネタ番組も見ずに、喋る番組ばかり好んでいる。これは求めるエンタテインメントとしても最高峰だったかしら。

声優人口

おやおや、あの映像は……、と目敏く反応すれば、案の定声優アワードだ。何故に「今」と首をかしげていたら、明日の「ルパンVSコナン」の告知もかねていた。

ところで、そのニュースに興味深い話題があった。声優人口が10年で倍の4000人になったらしい。4000人という具体的な数字にも、へえ、と思ったけれど、倍になったという点がなにより興味深い。倍増の理由として、吹き替え需要があるらしい。なるほど、海外ドラマか、と思ったら、映画でのCG多用によるカット数の増加にあるようで、次々切り替わる場面と字幕の両方を追いかけるのは敬遠されるようだ。これも、なるほど一理ある、と納得できるものであった。

しかし、ベテランは減りはすれど、増えはしない。増えるのは新人である。つまり、新人がこの10年で2000人増えたのである。毎年、多々ある声優学校から産出されていれば、おのずと、それぐらいには達するか。声優の数ほど役があるものではなく、役の数だけ声優が必要なのだ。人気商売は大変だ。

相も変わらずアニメは盛り上がっているとニュースでは伝えられてはいた。空気が薄くなった感があるので、世間は遅いなあ、と哀れに思う。来年にもなれば、苦境の情報が伝わるのではないか。そうしたときに、衰退の報道が予想されてまた哀し。

2009年3月25日(水)

曲者

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四苦八苦十日。舞城王太郎著『ディスコ探偵水曜日』頭痛も疲労も吹き飛ばして涼やかに読了。

「曲がり者」と書いて「曲者」である。どれほど曲がっているかと言えば、明朝体の活字が丸文字に見えたほど意思が世界が捻じ曲げてしまっている。読後、もう一度読み直したら、ありふれた明朝体であったので、遅れて感覚が世界に順応したのだろう。これら万事ひっくるめてメフィスト賞っぽい。いかんせん思考の赴くままに綴られた文書なので、うるさい。これを削り、整えれば、読みやすくはなるし、作品としての評価は高まるはずだが、今度は売れなくなるのだろう。ちなみに、メフィスト賞の走りが、その後に続くメフィスト受賞者ともっともかけ離れている気がするのは、皮肉である。

タイトルに「探偵」の文字が含まれている。てっきりミステリィだと構えていたから中核がSFで驚いた。そうえいば、SF読みからの評価が高く推されていたっけ。しかしながら、どうしようこうしようにもSF弱者。慣らしもしてないエンジンの非力な馬力と高燃費で大陸横断するようなものであった。かといってGSも夜には閉まるので、徹夜もできないし、横に押せばごろんと横転する始末。推理小説を読めば、間違った推理をいくつもしているものだが、今回は難解なタイムパラドックスという幾重にも縺れた糸を解きほぐそうと試みていたようで、頭が湯気を発しているように感じられた原因はこれだろう。よって読めるのか、云々よりも、付いていけるのか、という壁が立ちはだかるように思われる。しかし、愚直のみが取り柄であるからして、その点では心配いらず。加えて脳内にこだまする、黙読の声で頭痛を引き起こす。下巻を過ぎた辺りで、これは目のみで追うのが無難、と遅まきながら察し、なるたけミュートを努めた。

しかし、本書を徹夜で読む人たちがいることが信じられない。読み自体、誇れるほど遅いのだが、空間を捻じ曲げることに、特に2次元と3次元の景色の違いを解きほぐすのに時間が掛かった。SF読みの皆様恐るべし。ともあれ、SF世界に登場する海が好きで、海でなくても絶景が好きなのだろうけれど、今回も気持のいい海が見れて嬉しい。

上下巻の作品を読む前の心構えとして、大団円でないと承知しない、心構えがあって、百歩譲ってハッピィではないとしても、せめて致し方なし、と了解できる形に収めて欲しいもの。しかし、本書の終わりはどうだろう。そこと戦ってきたんだろう? その運命を受け入れたのか? と著者に問い質したい。それともまだ見誤っているのか。ともあれ、よく読むということを裏返すと、納得するまで噛み砕き、しゃぶり尽くすことだ。よって読了後は当然否応なしに納得はしている。「嘘は大きいほど信じやすいってのは本当だ」、御意。最後は肯綮に当たったと胸をつかれた台詞。

「そんでお前、また人の推理聞いているだけかよ」

ところで、パフュームの新曲が「ディスコ、ディスコ」と繰り返すものだから、応援ソングみたいで耳にするたびに思わず綻び、梢に花咲く。

2009年3月24日(火)

48人目のカウボーイ

爆問のスペシャルを見ている自分が、それぞれの意見に、膝を打つものなら節操なく受け入れていて、これこそが日本人の正体ではないのか、と自己観察。

つまり、日本人は日本人の影響を受けている。しかし、それは森の中で木が一本増えたようなもので、樵や管理人でも、ひょっとしたら気づけない。だが、森の中に自由の女神が建っていたら、誰しもがその異質な存在に目を奪われる。だからこそ、近い国としてのアメリカが目立つわけだし、文化としても欧米化として区別可能なのだ。

ところで、最後のボケは時勢にはまり過ぎだ。

限られた美

さて、その時勢にはまったボケであるWBCという名の贅沢なオープン戦が終わった。現時点での選手の状態は8割ぐらいだろうか。いよいよ、これからより質の高く長丁場の戦いが端を発するはずなのに、これだけ盛り上がれば、ペナントレースがアンチクライマックスになるのかもしれない、と悪い予感がひしひし騒ぐ。

TVでは観戦しなかったが、随時ネットでテキスト中継をチェックしているぐらいなら、素直に見れば良かったのに、と突っ込みも飛ぶけれど、はらはらしているのに、それは悪質な冗談というものだ。3時間に及ぶ戦いを正視に耐え得る自信がない。だからこそ、他の事で気を紛らわす。結果など後にスポーツニュースで確認を取ればいい。

しかし、夜が更けるほど家族愛やら支えといった、純然とした野球以外のものがねばねばとくっついてきて汚れにまみれていく経過が非常に残念だった。今日は勝ったまでのこと、明日以降でWBCを引きずるものほど唾棄したいものもない。

結果だけを見ても、東アジアだけが準備万端で異常に盛り上がっていたとだけは言える。オリンピックでも、社会主義国が図抜けた強さを維持している競技があるけれど、あれに近似した戦う姿勢だった。一所懸命やるのはいいことだけれど、そういうのは、ちょっと気持悪いかな。あと、何でもかんでもサムライで包んで欲しくはない。

2009年3月23日(月)

三つ子の魂百まで

今日の「アルフ」をびっくりするほど記憶していて、当時から宇宙のことが好きだったんだな、と思い知った。むしろ、好きもなにも、ここから始まっている気もする。そもそも、今日の「アルフ」を見ようとしたのも、ラテ欄でタイトル(「ぼくは宇宙の科学者〜誰も知らない太陽系の惑星!?」)を読んだからで、惹かれるものすら変わらない。

2009年3月22日(日)

終わったぁ

「一騎当千GGR」終了。DDRの頃から足し算すると、2年4ヶ月。アニメは一足どころか、とうに終了していて、単独で継続しているのが不思議な番組だった。特にDDとGGの間は不思議を通り越して疑問が募った。もちろん、3期が始まえば、リリーフとしての役割と腑には落ちたものの、どちらにせよアニメが終了してからが長い番組ではある。そうしてリスナが終わりを受け入れる態勢が整っているからこそ、「よくぞ、まあ続いた」と賞賛の言葉も洩れる。ところで、本編は見ていただろうか。とりあえずチェックはしていたようには思うが、それもラジオのためだった……? 音楽製作の高梨康治が2回登場したことが珍しく、ここに貴重さがある。

しかし、このパーソナリティコンビとは相性がいい。この二人の番組なら、アニメがどれでも構わない。特にますみんと上手くからめる人は面白い。単独では、避けるけれど、からんで美味しくなるのなら結構だ。

はたして、Xから始まる3作目のゲームは出るのだろうか。ここだけを気に留めてのさよならだ。

蜜柑の故意

この間から、優にみかんの数倍はあって、夏みかんよりは大きい、小振りのメロン並みの柑橘類をどこぞから頂くのだが、テーブルの上に置いてあるものはまだしも、これが一本の樹にいくつも実っているのか、と途方に暮れる。

メロンが樹になっていると本気で思い込んでいる人がいると失笑してしまうのだが、メロン並みの果実がたわわに実る樹というものが上手く想像できないというか、妨げられる。打ちどころ悪く頭の上に落下したら、人死ぬよな。当然、果実は落ちるためにあるのだし……。

作曲するように

譜面にさらさらと音符を書き込み作曲する人がいる。有名どころでは、ベトベンが晩年に聴力を失っても作曲をしていた話がある。けれど、そこまでの大作曲家の逸話とは言わず、できる人は割と世の中に溢れている。

音の確認もなく作曲とは、できない人間から見れば、超人的で凄まじき能力、とこれまで一歩引いて感慨に浸っていた。しかし、心の声を言葉に置き換えて文章を綴る行為は、作曲と非常に近い位置にある行為なのかもしれないと思い当たる。たとえば、この日記でさえも一つ一つの言葉を声に出さず、音の確認せずに打ち込んでいる。その点で音符と日本語と表現する言語が違うだけで同じ能力かも。すると、オペラは長編小説で、さしずめピアノ小品集はエッセィ集か。

2009年3月21日(土)

当然

キム・ヨナの直前練習で妨害にあったという発言が、大きくなるかもしれないし、これがアップされている頃には落着しているかもしれないが、一言で片付けてしまうと、当然だろ。しかし、これだけでは余計な誤解を生むだけだし、解説したところで誤解は解けやしないだろうという諦め半分。

あのリンクで6人も一斉に練習すれば、おのずとコースは重なる。自分の練習をするということは他人の練習の妨害をしているということに直結する。だからとって、譲り合いのスポーツマン精神を発揮するのはプロフェッショナルかどうかということである。この小さな記事を読んで脳裏をかすめたのは、10年以上前の伊達とグラフの試合直前のウォーミングアップだった。交互に打ち合うのに伊達には気持のいい返球をしないグラフ。あれを見て、グラフを批判するよりも、グラフの試合巧者ぶりに感嘆したものだ。直前練習といいながらも既に試合は始まっていて、その時点から雰囲気作りが上手い選手が生き残る。あの場では優しくては駄目なのだ、強引ぐらいが丁度いい。それを踏まえて、キム・ヨナも「対策を練らねば」と発言している。

結論としては、図らずも妨害はしているけれど、決して非難される覚えはない。

未来の車はプリウスだった

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エルビス狂でもないから、映画「ラスベガス万歳」にも興味はなかったのだが、たまたまレースをしている最後のほうを見て、たまげた。あれだけ、ミニカーでしか眺めることのない錚々たるメカが長々と縦列して駆け抜ける様は壮観。それが、土埃を巻き上げるホイルスピン、べた踏みのフルスロットル、単独スピン、コーナではコースアウトしたまま斜面のバンクを利用して曲がりコース復帰、縦にロールしてクラッシュして大破し身動きが取れない無残な姿になったところへの後方からへの追突、と今見ると、もったいないと悲鳴が上がる贅沢な使いよう。ほんの数台なら、オールドスポーツカーという祭典に感じていただろうが、あれだけの数である。まるでおもちゃの国だ。そう、そのおもちゃという認識が壊れやすいものとしてあるから、砂漠を疾走している車を見るだけで、はらはらとしてスリルが味わえる。未来の景色はああしたイケてる車が道を行きかうものだと夢描いていたのに、未来に公道を走っているのは、プリウスで、おもちゃたちが過去なのが皮肉だ。

ちなみに、インサイトが好調なのは、値段の安さのみならず、あの顔の良さに一理あると思うに一票。

TVを見ない?

新聞が読まれない、雑誌が売れない、漫画も売れない、TVも見られない。「こりゃ、大変だ!」と浮き足だつ方は、大袈裟と一太刀。斜に構えているが、TVに限っては、ちょっと訳が違う気がする。他のものは、発行部数や売り上げとして実数が弾かれるのに対して、TVだけは視聴率なのである。つまり、怪しい。

第一に、ビデオやDVD、HDに録画されたものを見ても、視聴率にはカウントされない。またケーブルやレンタルもこちらの事象に類するだろう。そして見ているのに見ていない状態がここに現れる。

第二に、私は毎日1時間以上TVを視聴している、と胸を張って言えるけれど、同じ量を見ても、それを見ていると感じる人と見ていないと捉える人で分かれる。

でも、見ない人は増えている、とした意見に疑いの余地はない。TVの情報源が新聞なら、その新聞がぺらっぺらな記事を連発して自らの首を絞めているのに、相も変わらず追従してTVが弱るのは道理。TVはタダではない。NHKの受信料を払ってます、という意味ではなくて、1時間番組を見るなら、1時間自分の人生を対価として払っている。それが、釣り合うのかという疑問が生まれてしまえば、まあ、若い人ほど離れて自分に使う時間に投資しようとするだろう。私もTVとは、老人ホームのベッドの上で見るものだという考え方が脳裏にあって、だから、深夜の動きたくない考えたくない時間以外に見るのは辛くなった。

しかし、面白くないものを作っておきながら、見ろと強いるのも無理がある。大事なことは、作る側が面白くないものを面白くないと認識することで、それをいつまでも手前味噌に誤解を犯していれば、永遠に離れたままだ。あと、好きでTVを見ない人は見なくてもちっとも困っていない。その認識も必要である。と、まあ、ラテ欄の記事からここまで思索して、番組は見ないのだ。どうせ、言い合うばかりで結論は望めない。女々しい陰口ではないのだから、その点も改良して欲しいなあ。

2009年3月20日(金)

認知言語

カタカナは表音文字か、あるいは表意文字か。

質す必要もなく、表音文字のはずだし、はずだった。ところが、カタカナではどうも、憶えにくし、繋がりにくし、言葉がある。その煩わしさは横文字は苦手という概念でしばしば世間にも顔を覗かせる。

たとえば、拘束具としての「ボンデージ」を表音文字として認知するには辛く、ならば、生粋の表音文字であるアルファベットで「bondage」と表記してもらったほうが認知が容易であった。あくまで個人的事柄なれど、これは他の横文字においても適応するはずなのだが……。

それは本当に懐かしいの?

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夜更けに「ブレードランナー」がやっていたので懐かしいなあ、と思って観たのだが、あれ? もちろん過去に見ているはずなのに、そういう記憶というか、認識があるだけで、まるで内容に憶えがない。オチも読めたのに、オチが違うというありえないミスディレクション。まさか……、移植?

ともあれ、SF映画として未来の設定が色褪せてない様が驚異で、まだ明日に感じられる世界観が新鮮だった。たいてい20年前の作品ともなれば、古ぼける。過去の人間は、こんな野放図な未来を夢描いて能天気に喜んでたんだな、と憐れみや同情といった悲喜こもごもの感情が混じるものなのに、いまだに明日を描き続けている。まあ、今も追いかけている人たちはいるし、加えて内容を憶えていないのだから、新鮮も何もない。人間で込み合う世界で、肌が緑色だったり、耳の先がとんがっていたり、おっぱいが3つあるなどの見るからに宇宙人がいなかったのも抗エントロピィとしてリアリティ喪失に力を貸さなかったのかもしれない。

2009年3月19日(木)

うだる

夜に雨が降った。これで少しは気温が下がってくれるかと期待するほど暑い日だった。

1年前の認識のものが、実際は2年前だったりする。まあ、まだきっちり2年は経っていないし、年度で言えば、去年だ。

2009年3月18日(水)

ねとすた増刊号

金曜日でもなく、0時スタートでもない。見逃してくれといわんばかり。

2009年3月17日(火)

ワケ・ワカラン

一月前になりますが、時計の電池が切れたと書いた憶えがあります。ようやくにして、それの交換に至りました。そして液晶画面に表示された極めて鮮やかに黒々と発色している4つの数字とセミコロンには迂闊にも息を呑み、アイデンティファイが鈍るほどです。さらに追い討ちをかけるように、もう何年も何年も前に壊れたものとして久しく扱っていたバックライトが何事もなく機能したことには不肖、私の度肝を抜かれる思いでした。壊れたものとして納得していた理由の一つに、これの出自が関係致します。目覚まし時計として購入したものですから、毎日繰り出されよう「えいっ」という張り手でいずれ壊れると高を括っておりました。ですから、とにかく、目につく大きな液晶とアラーム音、バックライト機能に偏重して、メーカや品質を無視し、お手ごろ価格商品を基準に購入に至った訳です。故に、壊れるのも必定致し方なしと思い込んでいた節がありました。ところがどっこい、液晶時計ですから、省エネで御座います。他で使用していて具合の悪くなった厄介者の電池でも、ここでは充分働きました。定年退職した技術者のアジアでの受け入れ先や排出される核燃料廃棄物のプルサーマルよろしく家庭での乾電池最終処理処分場はこの液晶時計に相成りました。でも、無事では済まなかったのです。バックライトを光らせるには、体力も気力も不足していたのです。バックライトをむざむざと犠牲にしていたのでした。それに長い間、気づいてやれませんでした。「お前、こんな表情した時計だったんだな」。

好き・嫌い

現代アートの発端の便器がどうも好きとは認められず、いずれ好きになるとも現時点では思えない。セザンヌのリンゴと等しく、可能性を切り開いたという社会芸術論的な価値は認められるけれど、それのみで、あの便器にサインを書き殴ったものを好きにはなれない。要するに、もっと様になる粋な便器であれば、それ自体のスタイルの良し悪しとして評価の対象になり得たが、あの醜い便器の形はどうだろう、受け入れ難し。

ちなみに、ダヴィデ像、ブリロ・ボックスは好き。そして、モナリザ、泉は嫌い、である。つまり、一緒くたに現代アートが嫌いというわけでもなく、単純に私の美意識からは外れ、感情的に嫌いという意味ではモナリザが同列だった。それでも、ウォーホルは別格で、これに比べられると他の作品は立つ瀬がない。人格形成の段階において、あのセンスは刷り込まれている気がする。

顔がピリピリ刺激的。花粉か、黄砂か、本当に? 時計が息を吹き返し、ACも用済み。したがって、ACのリモコンとしての機能も時計も不要となり、電池を抜いて片付けた。

2009年3月16日(月)

代表チームの力

またしても韓国とボールを投げあう羽目になったみたいだ。WBCが企画された当初から、日本はアメリカと泥にまみれたいという願望があるのに、一向に叶わない。敗者復活の望みはあるものの、あちらはあちらでこけてしまっていて、それすら儚い夢のまた夢。ともあれ、これほど同じ地区のもの同士が衝突するのもいかがなものか。再考の余地がある。それだけ、世界での競技数が少ない局部的なスポーツだったのだ、とオリンピック種目から外れたわけも、腑に落ちた次第。

しかし、サッカーもそうなのだが、クラブチームが強いと代表チームが弱い法則が野球にも当てはまる。それは自国の選手が優秀な助っ人外国人に弾かれてしまい、クラブチームで切磋琢磨できる機会が奪われてしまうことに由来するのだが、サッカーのアジアレベルでは強国の日本も今シーズンからはさらにアジア枠を一つ増やす。既に、この法則に絡め獲られつつあるのかもしれない。

漫画が売れなくなった……

あえて指摘されずとも、どちらかと言えば、言葉ではなく肌で感じている立場なのだが、痛みはないから無関心か。しかし、これは漫画に限らない。ピークから数えて売り上げが落ちたとか、半減した、という話を目にすることも耳にすることもあるけれど、欲に目を眩ませて、ピークを言葉どおりピーキィと正しく認識できず平均だと誤解するから、痛い目にもあうし、バブルが弾けて首をくくった人物は何人もいる。

しいて理由を挙げてみると、面白くなくなったのだろう、となるが、これでは角が立つし、いかにも視野が狭い。故に言い換えれば、他に面白い代用品を見つけたのだろう、となる。また、同じ作品を見ても、「面白い」「詰まらない」と意見が極端に振れるようになっていて、全体を掴めなくはなっている節は否めない。

2009年3月15日(日)

それがすべて

「月探査衛星かぐや」からの映像を何度見ても、CGとしか反応できない自分が可哀想になる。一方で、現代のCGの完成度は高い、と評価している。

アポロ13の事故の様子は、映画で何度も繰り返し見たので、ほとんど、そらで解説できる。もっとも、知ってはいるけれど、映画の内容が上限だ。

一体何の話か、といえば、それら宇宙を扱うTV番組があって、そこで毛利衛宇宙飛行士を見た。日本人として2人目の宇宙飛行士である。アポロ11号の冒険をリアルタイムで釘付けにされた人たちには、それがすべてであり、そこで時は止まっているのだろうが、経験のない私にはエンデバに勝る印象を残せるものがない。何故か大人は、やっとこさ地球を脱出しても、相変わらず地球を見ていたが、私はそれでも地球とエンデバの隙間に覗く宇宙を見ていた、と、のちに視線の違いを知った。そのヒーロも年を重ね、後進に道を譲り、もはや自分では宇宙には上がらないのかもしれない。

私は眠る

このまま起きていれば、朝のWBCは見られるが、私は眠る。何となれば、頑張りすぎるのは躰に悪い、と先日痛感したからである。不肖、夜型と自認しているが、それは1日が終わる間際、蝋燭が燃え尽きる寸前に息を吹き返す炎に等しく、単にエンジンの掛かりが遅い故のなりゆきの夜型なので、そこから頑張ると貴重な睡眠時間を奪ってしまう。推測でしかないが、昼間の集中力がない状態とは、集中力があちこちに散乱していて持続せず、夜になるとアンテナを拡げるのにも疲れ果て、一方向にしか集中が向かない故に集中力が増す形になるのだろう。

まあ、生中継を見逃しても、うるさいほどスポーツニュースで試合結果は知ることはできるだろう、という読みは外せないけれど。

2009年3月14日(土)

イケてない中学生

え、ギャラクシー賞ってこんな賞だったの?

良い絵

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小川洋子著『寡黙な死骸 みだらな弔い』読了。まだまだ面白い本に出合えてないだけだよなあと甚く痛感した。魅惑的で断続的な物語に引っ張られてすらすら。とても読みやすい。2話目を経て全体のパターンを知り、以後、どのようにして世界が繋がるのか、とちょっとした想像を働かすのも一興ではあるし、無理に考えずとも、繋がっていくさまは痛快。そして物語は世界に形を変えて、どこまでも続いていける気がしていた。間違い電話もきっと橋渡しにもなるものと予想していたので、願いが叶わなかったことは唯一の心残り。

一つの物語に一つの死がある。案外にホラーチックだ。とはいえ、それは表紙の絵を見れば見当もつきそうなことであった。解剖的で性的な表紙に惹かれていたくせに、そこのところが妙に無関心で、杜撰としか言えぬ。その絵は、小川洋子を読もうとして、いくつか選択肢があった中から、「これだ」と決め手になった濃厚で生き物として強烈な臭いを放つ絵。すべての話に挿絵としてはさまれていなかったことが、残念の極みである。

むしろうるさい静謐

「24」の6作目だったかを見終えた。1時間の予想もできないのに、24時間後の予想など立たない。過去に核爆発は起こしているので、1発では物足りず、5発の恐怖。そうしたインフレを引き起こしながらも、いつになく静かな終わり方で驚いた。いつも、とんでもない終わりをして引っ張るイメージがこの作品に限らず、海外ドラマにはあるので、静的なエンディングがむしろ作品としての自信と優位性において際立つ。そして、この後で逮捕勾留されたわけか。

2009年3月13日(金)

連続

13日の金曜日が2ヶ月連続で続いた。珍しいようだが、少なくとも2月と3月で6年に1度は回ってくる。もっとも、明日も明後日も昨日も実はそうなのではあるけれど……。

そもそも、この日は何が違うのかといえば、宗教的な反応よりも、映画の影響が多大である。しかし、その反応も、もはや年寄りのものなのか。若い人と一部マニア以外には騒がないように思う、と毎年一度はいらぬお節介を焼いている気もするが。それとも学校という限定的な空間では今も花子さん並みにジェイソンは健在なのかも。ちなみに、映画はまったくと言っていいほど怖がることなく楽しく見ていた。やはり、育ちは人格に影響するらしい。

2009年3月12日(木)

理科っぽい話

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何だ、この既知感。池澤夏樹著『スティル・ライフ』読了。現実の体験に加えて心象風景の酷似。ピペットで試験体を吸い取るように、おしゃれに包んで押し出せばこんな風になるのかな。まさか読んではいないだろう。あんな印象的な冒頭を、読めば忘れないはず。もっとも、どこまで自分を信じられるものか。まるで信頼を寄せられないものとは確信を持てる。

本書には二つの作品が収められている。表題作の『スティル・ライフ』もいいけれど、『ヤー・チャイカ』がたまらない。この二つの作品をスライドを重ねるように交差させれば、ほとんどはぼけてしまう中でも、くっきり色濃く映るもの見えてくる。無人探査機と娘を当てたことには感嘆したし、恐龍との距離は反対側の視線かな……、と、こちらは当てもない想像。

しかし、ここまで涼やかで心地良い作品が並んでいるのも貴重で絶品だ。清らかさ、この感覚は理科の教科書を眺めているときにも感じたものだ。そして、本当に好きだった。

父と娘の関係が、リアルな関係を連想させるが、あまり憶測は巡らしてはストーカになるので、適度なところで止めておこう。

「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味のない単なる形だから、ぼくはこういう写真を見るんだ。意味ではなく、形だけ」

本を開いた時の第一印象は「懐かしい」であった。感情の源泉は明確には意識できずとも、それでもはっきりと感じられる文字の滲みだろうか、あるいはフォントの形か。何せ20年前の本なので印刷技術も相応に古いのだ。圧力をかけて印刷されていると見えて、裏ページには文字の稜線が連なる。近年の印刷は紙の表面にインクが乗るように転写されているので、裏も表もつるつるとして、文字の手触りは味わえない。こうした触れ合いを経て、はじめて、いつの間にかこうしたものが消えていたのだと気づく。ちなみに画像は文庫版であるが、読んだものは単行本で、本の上部には空白が贅沢に取られている。

2009年3月10日(火)

燃え尽きた?

うららかな春の陽射しに燃やされて、常にだらだら、故に気塞ぎ。

燃え尽き症候群か、風邪の一歩手前、あるいは不摂生。この5日が普段以上の力を発揮したので、これからの5日が反発して普段以下の日々になるのか。しかしながら、弱火どころか下火に炙られた感じがする。

2009年3月9日(月)

本が読めない

1年間に読める本の数は高が知れる。読みたいとする本の数が読める本の数を常に上回る。したがって幾ら読んでも本が読めない状態に陥る。そうした、いわば原罪に懊悩する日々の営みだが、しかし、それでいいのかも知れない。これは本を読み切ることが目的なのではなく、本を読む行為が目的なのだから。また寝てもさめても考えているのだから、素晴らしいことのような気もする。今はどうにかして無駄に考えないよう注意をそらそうと足掻くほどだ。それが上手く機能しないのは、逸らせる代償がないのだろう。

池澤夏樹著『スティル・ライフ』(中央公論社)、小川洋子著『寡黙な死骸 みだらな弔い』(実業之日本社)、舞城王太郎著『ディスコ探偵水曜日』(新潮社)を借りた。

下種

死ねばプライバシィは消えてしまうのか。むしろ死人に口なしで反論も叶わないのであれば、なおさら守らねばならないと思う。監視カメラに映るものは偶然だが、視聴者提供として一般の人が自殺現場を写真に収めている執念は気持ち悪いし、また現場の様子を克明聞きだそうとして、語らせているマスコミも最悪。事実は伝えればいいけれど、詳細に伝える必要はない。警察でもない他人が知ってもどうにもならないだろう情報で意味を持たない。まったく余計なものを見てしまった。

怪獣アマノジャキラ

見るものかWBC!

2009年3月8日(日)

呵呵大笑

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100Mを9秒で走れないのなら、20秒で走りきるまで。森博嗣著『臨機応答・変問自在』読了。これが噂の質問か。いや、噂なのは質問内容ではなく、質疑応答の形。しかし、この問答には金が発生しているから笑える。大枚をはたいてこの有様かと。でも、これこそ金を払わなければ到底成立しないものやも知れない。しかし、これは5%のうちだ。まともな95%の存在を忘れて、5%の一部を講義のすべてだと見ると、勘違いもはなはだしい。

ともあれ、これだけの数を次々に繰り返し相手しなければならないので、返答がいささか突っ慳貪にもなるのも道理だし、面白い。こうして、あの対人距離が培われ、増長したのだなと納得。学生に対しては、何故、貴重な機会を使用してこんな質問しちゃったのと、また、稀に深刻で哲学的な人生相談が混じっているのが余計に笑える。

そして、学生より先生が賢くなる道理。この人が勉強したっていう勉強量が想像を絶していて怖い。

勝手に傾倒して、勝手に私淑して、勝手に盗んで、勝手に学んでいる。これは充分相談しているよなあ。相変わらず好きで、切れない。

2009年3月7日(土)

早くもサマータイム?

1時間早く目覚めた、これが3時間惰眠効果か。

3人目の癇癪持ち

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日本人がこの作品を好意的に受け継いできていることが嬉しい。しかし、作品の系統は置いてけぼりか。それとも出会えていないだけか。夏目漱石著『坊っちゃん』読了。

美しい日本語というよく本体がよく見えない概念がのさばっているが、古い日本語なら美しいという狂信と一体文語と口語の違いがあって、極端に変化が著しいのは話し言葉だろう。それを一緒くたに書き言葉にまで適応させるからややこしくなる。本書に限れば、美しいというよりノリの良さが光る。どだい「べらんめえ口調」が端麗な日本語に該当するとは思えぬ。ちょっと風格があるかと思った箇所では、その坊ちゃんが、「漢語をのべつに陳列するぎりでわけが分からない。分かったのは徹頭徹尾賛成いたしますという言葉だけだ。」と言って笑わしてくれる。何が腹をくすぐるって、私の理解力がまるで坊ちゃんだからだ。まあ、だいたいの日本人も、もう分かるまい。

小説の形としても読者に坊ちゃん自身はまさかと信じて疑わない、匂わせる伏線が的中するのだから愉快千万。しかし、これは痛快な顛末ではあるが大丈夫な展開なのか。まあ、私ならただじゃ済ませない。3年で辞めるどころではない。癇癪持ちがもう一人ここにいた。

ところで、夏目漱石の誕生日が2月9日なんだとさ、あらら、突然親近感が湧いた。あと、解説者が上役の教授に水をぶっ掛けた顛末を詳しく知りたい。

声優アワード

3回目ともなれば、いささか影も薄くなってきたような気もするのだが。まあ、1年目はNHKのニュースになったからなあ。それに味を占めて毎年チェックしているけれど、今年はWBCと政治家の汚職で形勢悪し。2008年の作品の影響から考慮すると「コードギアス」と「マクロス」がはばかりそうだが、はてさてどうなったものやら。

世間の評価はともあれ、もっとも気にしているベストパーソナリティ賞は神谷浩史。順当順当。最優秀の二人は、あれ? また……。そしてこの組み合わせは去年の繰り上がり……。

おまけ。深夜のパチンコ番組で、「エヴァ」コスプレで御馴染みのお笑いさんがエヴァのパチンコで大当たりを出していた映像がシュールだなあと感心していた。

「わたし、いっしょうエヴァ好きやわぁ」

2009年3月6日(金)

眠れる日々

安易に30分寝るつもりが3時間の眠りを招いた。眠りに眠ったそれはまだうたた寝と呼べるだろうか。頭は重いし、胃はむかつく、まるで徹夜明けのメランコリックな容器。おまけに3時間ほど時を浪費した罪悪感、これが、はなはだ悪質。まあ、こちらは睡眠分割方式にして解決を試みよう。つまり、もう3時間分寝溜めしたのでそれだけ起きていられると……。

しかし、運命は定刻どおりに眠りへといざなう。

2009年3月5日(木)

そしてわたしは

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難解そうだと敬遠していたが、いざバッタボックスに立ち、放られたボールはズバリ、どまんなか。ノーベル賞作家とは凄いものだなあといった感慨と身近な実感。大江健三郎著『遅れてきた青年 』読了。

アゴタ・クリストフ一連の作品を思い出す。戦争を舞台にした作品に惹きつけられている私が、追い求めるあまり図らずもハンガリィにまで行き着いたこともあったけれど、日本の四国で事足りたんだ。もっとも、ハンガリィにしろ、四国にしろ、どちらも距離にして10分。戦争に惹きつけられる理由をおもんぱかると、戦争が性も死も暴力も赤裸々に現実に包んでいたから。包みの外側には対照的に日常があって、隙間から洩れる光芒に一縷の希望を見てとる。今は逆にコンビニの明かりに煌々と照らされた世界で、外に捨て置かれたそれを中味も知らずに視界に隅に捉えている風。

作家自身の10年後の解説に「ファシスト的に取られて困った」と述懐している箇所があるので、発刊当時はそうした問題作であったのだろう。面白いとは感心したけれど、特別右翼でもないし、過激に左翼でもない。右の翼も左の翼も持ち自由に飛べるが、ひっくり返って時代を見ているから蝙蝠といったところか。コミュニケーションは超音波なのが、いかにもで相応しい。

第一部と第二部で、がらりと人が変わる。勝ち負けの違いではなく、代償に強さと弱さがひっくり返った。一概に少年は重大事件なぞ起きずとも、いらだつ。そうした、いらだつ時期にあの日が重なった。したがって、そのいらだちに共通体験として共感を覚える。だから繰り返しになるが右翼的に惹かれたわけではない。危険だと警戒はするので、むしろ方向性は正反対になる。どちらかといえば、なんだそれ! である。今まで皆で嘘偽りなく本気で信じてきたじゃないか。それをすんなり恬然と受け入れて、もののみごとに転覆する。だからこそ、これまでの偽善、これからの偽善に、なんだそれ! と呻き、いらだつ。

ところで、戦いに遅れてきたといえば正宗を連想するのだが。こちらへの非難はついぞ耳にしたことがない。関が原の合戦のような古戦と第二次世界大戦のような近代の戦争では、そんなに違うものか。遅れてきたとは戦争についてなのだが、西暦が2000年過ぎた今も戦後で遅れているのだろうか。最後まで読んでみると、終始時代に追いつけなかったなあという感慨が残る。いわば、常に遅れている。

手を握って、どこまで連れて行ってくれるのか、フリースタイルの凄みを年明けに経験した。再びそれを堪能する。充分一部だけでも満足に連れ去られており、それ以上先が結末としてどこまでいくのか予測できない。ただ、これだけのことが重なっても自殺を向かわないことが不思議なぐらいだった。もっとも、より正確には、そちらにも行けなかったのだろう。

それにしても、おれが画家か小説家に、芸術家になって上昇の階梯を歩むのなら、おれは子供のときに精神のいちばん熱く能動的な部分をささげつくして描いたこの眼を、一生のあいだ深めつづけてゆくことで名誉と資産をえることができるんだがなあ。芸術家なら、この教護院で暗い憤怒の日々をおくった自分を裏切り葬らねばならないどころか、その過去の不幸な暗がりの自分の幼い分身の情熱を掘りおこすことで、その芸術家としての職業をはじめることができるんだがなあ! しかしとにかく、おれがそれになりたいと望む政治家とは、芸術家の逆をおこなう者の名だ

これが作者にとっての核なのではないかと読み取ったのだが、誤解でも一向に構わない。ただ、いまの政治が極度の混乱に陥っているから、もう少しこうした人々が政治を目指しても良かったのではないかと思った次第。あまりに切り離しすぎている感じで、かけ離れた。ただ、そうなっていたら大江健三郎はいなかっただろうね。まあ、平和な時代には政治家は必要なかったし、必要な政治家は生まれない。

「自分たちのことを最もしらない他人の無責任な喝采だけをエネルギー源にして、また無責任な喝采をもとめて走る運動です」

こちらは「あなたは現代の学生運動をどう思いますか?」という問いに対する本文中の返答であるが、これはネットの世界ついて問われた際にでも、転用できそう。ただし、肉体的接触もないわけだから、学生運動のような連帯感もなく、個々の活動である。はなから猜疑心に囲まれていては信用なんて毛頭生まれないのではないか、だからこそ、ネットでトラブル人たちを見ると温度差を感じて不思議にすら思う。ところで学生運動とはどこへ消えたのだろう。人が相変わらず絶えずに生きているのだから、不満あるだろうに。まあ、ブームとはそうしたものか。平和的な流行で癒されているのなら、文句はない。ケチもつけない。ただの疑問でした。オチもなく終わります。

2009年3月4日(水)

チャンバラ少年の悲劇

「土左衛門」をユーザ登録しなければ変換できないことに愕然。これは標準語だろう? まあ、吉本隆明の少年時代とは異なり、普通には河に流れていないから使う機会はないけれど、普通には耳朶を打つだろう。それとも、時代劇を見すぎたか。

2009年3月3日(火)

2月の日々

最大3日少ない日数も幸いして、先々月に続き文字数は抑えられた。引き続きの傾向は、ようやく折り返した感を示す気配が漂う。それでもまだ削れる予感。無駄が多すぎる。これは難癖をつけているのではない、昔に戻るだけだ。土左衛門のようにぶくぶく膨れ上がったそれは、肥大するほど原型から掛け離れ、美しさには遠く及ばない。

カロリィ=熱量

暖房に接するほど目の前に陣取っていたのに躰が冷える。どうにもこうにも読書すらままならん。そういえば朝にうどんを食べたきりだったなあ。それで小腹は減っても強烈な空腹を感じていないので、食欲も湧かず、今日はこのまま何も食べなくてもいいやと安逸に考えていたのだが、あまりの冷えに一杯の飯を海苔でささと食らう。なるほどカロリィを熱量とは言い得て妙。躰が芯から暖まった。つまるところ栄養失調で凍えていたのか!

A級

かろうじて駒の動かし方が分かる程度では、盤面も大盤解説もちんぷんかんぷんなのだが、23時台の解説のやり取りが絶妙だった。

「これなんかどうでしょう?」「いいですねえ」「これがこうきてこうなるとこうくると……」「じゃあ、これはどうでしょう」「爽やかですねえ」

ああ、残念無念。専門用語の入り乱れた乙なラリィが続いていたのに、聞き惚れていたばかりで、理解が及ばなかったから、その解説の再現すらままならない(苦笑)。何が爽やかで、何が並みなのか、そして筋なのか、やはりさっぱりなのだけれど、画面越しに伝わる熱気はよかった。ああいうやり取りは中味ではなくて雰囲気を味わえる。そのうち「ぼくら、なんとなくばっかりですね」といった名言まで飛び出す始末。TV解説なんて形式ばったものは活気の欠けたものばかりなので、楽しんで検討している様子がもの珍しかった。その後、解説者が一人交代したら、これが皆目口を開かず、やはりもの珍しいものを見たと味を占める。

2009年3月2日(月)

独りぼっち

エンドルフィンが分泌されているときには誰しも自分の症状には気づかないものだと言い訳していたが、どうやら独り呼吸器をやられている。

たしかに恥ずかしくも暖かさを感じるほどには近づいた。それは子供のころからの一種の癖で、それに関しては頭のねじが一本どころか多数抜けているのだ。充分警戒しているつもりでも、ぐんぐん吸い寄せられていしまう。気づけば、プロの真後ろにいたりもした。

神から盗んだとき、嬉々として近づき生活に取り入れたものと、怯懦にも森へ隠れてしまったものがいたとすれば、私は前者だろう。反対に、高所は駄目でこれも一種の癖だ。階段の手すりから下をのぞいただけで、100%の安全は保障されているというのに、お節介にも高度な頭が働いて余計な結果を示す。石橋は叩いても渡らない。わたしは河の浅瀬を歩く。

2009年3月1日(日)

圧倒的な暴挙陵辱

月が名前を変えて、花粉が踊りはじめた平凡な一日だったはずだ。

他人事が他人事ではなくなった瞬間。

布団に包まれた夜更けの静寂から喧々囂々の現実へ引き剥がした。

無力さに怯え、硬直したトルソとは裏腹に膝は哂う。

持ち帰ったのはいがらっぽい喉と現場の臭い、眼を閉じれば再生される幻聴、花すら買えない悔しさ。

現実逃避には変わりないけれど、いま読み進めている本がエンタメではなかったことは幸いだった。とてもそんな気分にはなれない。

帰ってきてから、躰を暖めるためにストーブに点火したことが、とても不思議な感覚だった。


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