ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない

NOTHING TO HIDE

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# Diary

2009年2月28日(土)

話してはじめて通じることもある

長らく花粉症と思って付き合っていた人が、花粉症ではなかった。何だと、コンチクショーの亀裂。

2009年2月27日(金)

何も書けない日

何も起きなければ、得てして日記は空白になる。もっとも、ウェブ上では空白すらなく、間は詰められ、空は埋められる。ただし、経験的には、何も書かなかった日のほうが、まるで醜い嘘を覆い隠すために饒舌に語りつくした日々よりも、しみじみと何かあったと言い切れる。それは書くまでには至らなくても、始まりであったり……、確信のある予感であったり……、書くのを忘れるほど没頭していたり……、掛けがえのない出会いを果たしたり……、意識下の確認もできないような小さな波紋であったり……。何も書けない日であっても、何もなかった日とは一味異なる。もちろん、何もなかった日もある。さて、今日は?

2009年2月26日(木)

あるいは玉ねぎ

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関心事がそれぞれの人間の腕や背中に纏いしがらみ河に集まる。遠藤周作著『深い河(ディープ・リバー)』読了。いいことなんてあるの? ややもすれば馬鹿だよと泣きが入る。ともあれ、すべての人の魂に神を見つけるような野暮な真似はしなかった。しかし、皆に何かを残すようには工夫はされている。それぞれの愛の具現、さもなくば価値、あるいは玉ねぎ、そして憎しみ、打ち出されるミサイル……。世界は助けてくれない、ただ残酷なまでに冷徹に認めてはくれる。

手段と目的の違い。これは去年識った知恵。以下も例に洩れなかった違いの一つ。

だが、一人ぽっちになった今、磯辺は生活と人生とが根本的に違うことがやっとわかってきた。そして自分には生活のために交わった他人は多かったが、人生のなかで本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかったことを認めざるをえなかった。

「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれの異なった道をたどろうとかまわないではないか」

これはガンジーの言葉なのだが、随分、柔軟なところに落ち着いたな。その道程をちょっと離れて客観的になれたものからは河に見える。遠藤周作にはいっときエッセィでのめり込んだから、本書には著者が投影されている部分をつい発見してしまう。よく憶えているのは、安らかな死を求めていたこと。何せ出会いは挽歌だった。とにかく、楽にぽっくりと逝きたがっていた。風呂の中での気持ちよさげの溜息をつく中で……、が憧れの形であったはず。現実は厳しそうだったけれど。

インドには興味を寄せたほうだと思うので、うだるインドの描写に度肝は抜かれないものの、それでも濃密な人の臭いに当てられたかも。また、西洋人の目とは違うものがたしかに見えたはず。未体験でも懐かしくあるのは、郷愁と呼べるのだろうか。エトスという外部記憶を通じて繋がる。すべての習俗がインドを故郷にしているとは思わないが、同じ考え方をしていた時代があったとは思うし、今なお残しているのだろう。聖と死。聖と俗の交わり。しかし、「あれはあれで完成しているのだ」という考えもあって、善悪ではなく是。気をつけねばならないのは、啓蒙主義からの偏見に陥りやすいこと。また、古いものは悪との認識で過去との繋がりを断ち切ることは近代主義の罠だ。かつて見た、さるドキュメンタリィで、「あなたたちの宗教は死んでから裁かれるのですね」とアフリカ人男性に指摘された言葉が忘れられない。

コンプレックス

この3日間の最大の特徴は女性オタクの存在だろう。今までにもたしかにいたが、首を傾げるほどメディアには抹殺されていた。それが、若い女性アイドルという形を伴って晒されるようになった。飾り花ではなく、きちんと話についてきて、可愛いくせに濃いという複合体。

作品というかその回の脚本に駄目出しをしたら、当の脚本家は佐藤大。本人がいなくてもまたしても弄られる……。もはや犬猿の仲というか相性の悪さか。しかし、最終的にはどれも詰め込みすぎと指摘する駄目出しなので、岡田斗司夫の好き嫌いだとも思う。

2009年2月25日(水)

身近な共振現象

一歩、また一歩と歩を進めるたびにコーヒーカップ内の液体が揺れる揺れる。

お眼が高い

今回の夜話は挑戦的だ。いきなりの熱唱で腹を抱えて爆笑。しかし、語れば、皆を沈黙させる説得力。呆然と受信しているだけのものには得られない、解説者、批評家としての眼。もっとも、昨日の「ジャイアントロボ」、今日の「トリトン」と得意分野であったろう。これまでにも各地で随分論じてきたことだろうし、だからこそ言葉もシェイクアップされ、よく纏まり、よく切れる。さて、明日はどうなる?

2009年2月24日(火)

そして、これが書くこと……

贅沢やなあ。30分の半生ライブ。あの春から夏にかけての「ネギま」攻勢の年をちょっと思い出した。個人的にはドロップの曲がお気に入りだったか……。単純に一番懐かしかったのかもしれない。

間隔のあるラジオだったから、終わった気はさらさらしない。また不意に戻ってきそう。まあ、戻るだろう。

「ネギら部(仮)」

横溢する愛の形

「監督とプロデューサにまず謝って欲しい」

愛に満ち溢れんばかりの言葉から口火が切られたアニメ夜話「ジャイアントロボ」回。岡田斗司夫の食いつきのよさそうなアニメではあるが、普段はもっと遠慮した物言いというか、褒め殺しているので、ここまで批判的になれたのも「マンガ夜話」ならともかくこちらでは稀だった。もっとも、持ち上げなくても誰かが担ぎ上げるだろうという腹づもりだろう。一方で、もっと馬鹿なアニメをと願い。一方で、その小賢しさに身を震わす。一体、どちらが大馬鹿か。

正太郎少年がいるので、どうしてもショタに話が及ばざるを得ない。NHKとしては、半ズボンの魅力を語っている部分はぎりぎりであったろう。見ているだけなのに、いけない緊張が走った。

個人的には、あの時代のアニメ特有である線の細さやラインの美しさは、ごく繊細で好みなのだが、それがなかなか現在では見られないのは流行り廃りではなく、セル画だったからだろうか。キャラ、小道具、背景とあるものすべてが線で描かれているわけで、たった一本の線が美しくあることは、畢竟、森羅万象の美しさとなる。

「増量、増量、またまた増量」は、景気もリズムも良く、心のピースにピタリとはまった。しかし、これで序章か、一挙手一投足が大見得切っていて好きなのだがなあ……。

2009年2月23日(月)

書かないこと

日記といっても、書くもの書かないものとは明確な区切りこそないものの、あらかじめ決めてある。平たく言えば日課について、その都度書き込むのは、他人が代筆してくれないかぎり七面倒なので書かない。また他人が書いてくれようものなら書く必要すらない。したがって、ウェブコンテンツの感想はめったにない。ただ、何事にも例外はある。これは書かねばと、トリガが引かれる場合もある。

連載の古いものは2002年で、2002年に読めば「そうか」と納得しただろうことが、今では「そうだよね」と感想も変わったはず。肝心なことは読むことだから、どちらにしろ幸いなことだろう。

かつて藤田元司という巨人軍監督がいた。印象とは残酷で、地味な人といった残念なもの以外消えていた。記憶の中に残り続けた不景気な顔は、人気チームで負け続けた苦痛が刻んだ形だろうと思い込んでいたのに、実際の成績は決して非難されるものではなかった。監督の印象とは裏腹に当時の選手の活躍は記憶に留めているから、選手の活躍と実際のチームの成績には筋が通り、必然的に心象は覆る。加えて監督自身が、なんと魅力的な人物だったのだ。ただ、テレビに映っていた人がこんなに面白い好人物だったなんて、ああ、これは記録せねばなるまい。

長島☆自演乙☆雄一郎

萌えた。萌えたなあ。2009年のオープニングを飾る試合、かませ犬かと思っていたら、逆にかみついた。衣装ほどケチのつけようのない沈黙をプレゼントするKOで第2戦へ。そこでは、強さを裏付ける解説がなされた。

「実は彼は拳法をやってまして……、ちょっと間合いのあるところから飛び込んでのパンチ……、縦拳ですけれど、相手はキックかと思いますね……、モーションのない右ですから見えないんでしょうね……、昔、日本のボクサで拳法あがりの選手がいましたけど、具志堅とか……、ああ、すべて当たっています……、いや、意外に打たれ強いですよ……」

何だ、この既知感のある展開は。――格闘トーナメントで、かつての宿敵は、ぽっと出の見た目からは微塵も血の臭いを漂わせない飄々として掴みどころのない新キャラに瞬殺される、まるで漫画の1ページじゃないか。

もっとも、現実は2回戦で残念ながらの敗退。しかしながら、傷が開いてのドクタストップなので、人気には傷がつかないのは幸いした。躰がまだK-1選手としては細身なので、今後、大きくなれば、パンチは当たるのだから、もっと勝てるかも。今は律儀にパンチの後は、右へ回り込んで相手の眼前から姿を消しているが、その動きを封じられ、正面に残ったときが一気呵成に詰められそうで怖い。

面白かったのが、入場行進の後のレフリィコールの時点で会場が水を打ったように静まり返っていたこと。その後、ニュース23で仮装行列の様子が流れて、会場全体のドン引きにも納得。まあ、キャラは濃いし、普通にしていればイケメンだ。そしてここが肝心要なのだが強い。人気が出るかも。あと、会場にいるファンが判別できるのも珍しい。

ひいき目に見てしまったから、相手の選手が「そのパンチ、効いてねえよ」というアピールに腹が立って仕方なかった。だが、格闘家として男の世界に生きてきた人間が、女装のあれに負けると死にたくなるだろうから、勝ったからって傷に塩を塗りこむような真似はせずに、一段と優しく振舞おう。しかしながら、コスプレはまだ分かるけれど、何故女装なんだ?

実況が「長島☆自演乙☆雄一郎」から「長島☆自演乙」になり、魔裟斗が「自演乙」と呼び出した頃には「やった!」と小さくガッツポーズ。そういえば、アカデミィ賞で見事に日本作品が2作品受賞したけれど、ああいう海外向けのコメントは即興では難しいなあ。でも、日本人なら諸手を挙げて「YATTAAAAA!」と叫んでおけば良かったのでは……。

2009年2月22日(日)

予定通り+1

遠藤周作著『深い河(ディープ・リバー)』(講談社)、大江健三郎著『遅れてきた青年』(新潮文庫)、夏目漱石著『坊っちゃん』(岩波少年文庫)、森博嗣著『臨機応答・変問自在 森助教授VS理系大学生』(集英社新書)を借りた。予定通りの3冊におまけがついた形。こうした+1が、のちにどれほど響くことか。

半ば諦め、半ばないと信じて疑わなかったものを見つけたので、狂喜して、反射的に手が伸びた。もう「あっ」ではなく、「ああ!」とエクスクラメーションの出会い。しかし、案外なことに最近なって収蔵されたものでもなかった。貼られているシールに印刷されている番号によると区分は「小説」でも「エッセィ」でも「科学」でもない。では、どこに置いてあるものなのだと番号を頼りに書架の間をうろうろしていたら、「ユーモア」。

気のせいか、所蔵作品が私好みに変貌を遂げつつあるような気がするが、まったくの気の迷いだろう。問題は、あまねく平等には手が出せないところか。読みたいものを失えば、嫌だなと敬遠しているものさえも読まざるを得ないが、それは自分の限界を超えた埒外の喜びに出会える可能性でもあるわけで、むろん、良しにつけ悪しにつけと、どちらに転ぶかさえ判然としないながらも、ある程度制限されている不自由な中でこそ光る得る長所だから、不利な状況を反転させて輝かせたいとは思う。しかし、1年の計のことも決して忘れてはいない。むしろ思い続けている。ただ、ちょっと気が緩むとき、その絶妙なタイミングで頻繁に図書館に足を運ぶものだから、これも読みたいと思っていたと、同窓会で久しぶりの再開に思わず言葉軽く過ぎ去った片思いを告白するように、焼けぼっくいに火がついたり、若さゆえの無鉄砲な一目惚れによる感激に胸を打たれて、家にお持ち帰りになるのは別の本だったりするわけだ。畢竟、恋焦がれている状態が良くないのかなと最近になって明らかになりつつある。

そういえば、隣に座った女の子が、白いヘッドフォンをしていた。黒髪のショートカットに7分丈のトレーナ、ミニスカートではなかったが、代わりに短パンに縞のハイソックス。全体的にはパステル基調でまとめている。膝の上で待機している『ひぐらし』が警報を鳴らすものの、おもむろに駆け出してジャンプしてくれないかなあ。そして地球を一周して帰ってくるとか……。

ところで、トイレに向かえば、「盗難に注意してください」という物騒張り紙を見つけた。注意を惹かれつつ、トイレに入れば「トイレットペーパーが盗まれることがあります」という張り紙が。おい、盗難ってこれのことか。てっきり、置き引きでも起きていたり、怖い人が潜んでいるのかと想像していた。しかし、前者はともかく後者は盗難ではなく、強盗の区分だな。

人喰種

無事に選挙もなく2。免疫があるから、平然とした風を装えるが、やっぱり、どうしても、まず間違いなく、確実に、驚く。しかし、こう言っちゃ悪いけれど、人を食っているというか、信じてない。まあ、そのことは先月にも書いたので割愛したいが、別解釈というものがあって、たとえば、メモを取らないこと。これはメモを書く代わりに思い立ったが吉日と実行してしまうのだ。そもそも、メモは実行の代償行為だろう。実現できる環境にいてわざわざメモを取り回り道を経ることもない。「過小と過大の開きは最大である」などと、傲然と中毒者がのたまうのです。

改めて残り15冊について。出版と疎遠に暮らしている人が15冊を書こうと思えば、無理だと弱音が洩れる数である。森博嗣だから、3年で果たしてしまうのではという懸念こそあれ、寡作な作家であれば、1年に1冊でも15年である。そもそも、生涯に15冊の本を出版する人間のほうが限られる。これまでのペースで考えれば落胆してしまうのだが、実に長い数字で、控えめではない。

誠実さには賛同。好きなことしかできなくなる病にも注意。ああ、賢を見ては斉しなからんことを思う。

2009年2月21日(土)

新参者

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小説に限らず言葉に目を慣らせば、物語を上手に紡ぐ人、言葉巧みな人がいることに自ずと気づくが、両者揃っていれば文句なし。マイクル・Z・リューイン著『探偵学入門』読了。掌編並みの短編推理小説集なので、推理を挟む間もなくひとつひとつは読み終わる。その結果「あれ? しまった、勿体なかった」と反省をしたりしなかったり……、と速読が達者な人たちは、日々、こうした具合に本を読みこなしているのかもと憶測を巡らす。まあ、幼稚園児のようにわいわい推理する楽しみはなかったけれど、邪推なく物語にどっぷりと浸かれるので決して悪くはない。本書のように物語が輝いていればなお良し。

『まちがい電話』という作品がある。この作品はどこかで読んだことがあると錯覚を起こすほど――間違い電話から端を発する――ありふれた設定なのだが、記憶とは結末が異なるので別作品なのだろう。しかし、どの、いや誰の作品であったのやら……。そもそも本で読んだのかどうかすら怪しいかぎり。記憶は映像として残り、ドラマで見たのか、ラジオで聴いたのか、本で読んだのか、判然としない。なんとなく、ページ自体が目に浮かぶので、海外短編小説だったという気もしないではないけれど。しかし、こうした後味のいいミステリィは好きだ。後味だから、決して善悪の結末ではない。『探偵をやってみたら』や『ヒット』も痛快でVサイン。副大統領ダニーの事件に巻き込まれていることも推理していることも解決していることも張本人が察知していない、おとぼけさん振りもよろしい。パウダー警部補の推理の仕方も構えてなくて素晴らしい。まえがきによると、どの小説も細部とも呼べる物語の核から構築されるらしく、錯覚かもしれないが、どのシーンをまざまざと見て描きたかったのかがわかる。それは、ほんのちょっとしたことで、別にトリック限定というわけでもなく、頭をぶつけたとかそうした些事。

7、8年ぶりともなれば、もはや新参者。しかし、感想第1号なので、振り返るのは恐ろしいが、観測点として思いはひとしお。――ちなみに、犬はそれだけ老いたが健在だ。残念なことに、私の頭は内容を記憶していないけれど、『ローヴァー』の挿絵の記憶はある。それでも、ローヴァーなら、こうするよなという抽象的なイメージはあるから、先が読めたことはそれだけ残っているのだろう。ここからしばらく、そう4年ぐらいはミステリィに触れても今ほど注意を払っていなかった。今の研がれた感覚はちょっとわざとらしいぐらいで、当時はもっと物語としての核を共感として求めていた。ために、当時、本格に触れる機会があったとしてもぼーっとしていたやも。実際、ミステリィを読んでミステリィが二の次だったのだから笑える。

7、8年でのこちらの変化としてとみに目覚しいのは、本を1度しか読まなくなったこと。以前は、2度目も言葉への関心から鑑賞に堪えられた。しかし、読めない今は言葉への関心が貪欲ではなくなり、低下したのかもしれない。代わりに物語への関心が高まり、2度目より1度目への好奇心が強い。ゆえに、2度目が厳しい。携わる時間も変化して、かつては3週間で1冊もあり得た。それだけ優先順位が低くて、悠長にやれた環境であったのだろうし、現状がやや切迫している。どちらにしろ読解力の向上は変化を説明するのに外せない。字引を引き引き、それこそ翻訳するかのごとく母国語を飲み下していたが、言葉を言葉として抽象レベルで理解可能となった。たとえば、悪戦苦闘していた「ろ」の最後の項目を引かなくなるまでに約3年。幾ら読んでも憶えられず――それは字引の言葉ではまるで納得していなかった証拠。幾ら読んでも変化なき字引の言葉を納得するまで3年見つめていた。まあ、こうしてなるようになる。続けて望めば、もっとスピードを上げるだろう。

不満はない。なるほどなあ。

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「スター・ウォーズ エピソード3」。長かったけれど、ようやくにして区切りがついた。誰もが知っている結末にして始まり。それをどう見せるのかと手腕が問われたわけだが、予想以上に壮絶な結末の描写だった。

しかしながら、青年の主張はいただけない。青臭いというか、バタ臭い。公平さと権利を主張するようになったら、アメリカだなあと思い出させるし、せめて直物性のマーガリンだ。あと、声が浪川大輔なんだよなあ……、全然悪くないのに悔やまれるのは何故だ!

神経質に気になったのは、メカの汚れ具合。もっと綺麗に掃除してあってもよさそうなのに。ことごとく汚してある。砂漠の町の民間機なら汚れも腑に落ちるけれど、銀河帝国はピカピカしているぐらいが軍隊ぽくてお似合いだろう。

ともあれ、エピソード1の少年時代は格別だった。ああしたものの素敵さ、それが特別と身にしみているからこそ、日本の漫画は大人にならないのか。失われた少年性はR2に受け継がれている。だからこそ、R2のピンチには悲鳴も上がった。どうして大人にしてしまうのだ。「スターウォーズ」も「ハリー・ポッター」も永遠に学園祭を続けて、美しき夢を見続けていればいいのに……。

2009年2月20日(金)

右手ピザに左手コーラ

でっかく育つには最良のメニュー。朝からカレーライスより効果覿面かも。そうして手と口は食に忙殺されている中で、目が追っていたのは、拒食症のドキュメンタリィときたものだから、ちぐはぐである。ただし、海外制作のドキュメンタリィであったので、この人たちには食の欧米化という概念はないのだろうなと的外れでデリカシィに欠けたことをぼんやりと思い浮かべながら顎を動かしていた。「太ることが嫌なら、食べても太らないものを食べればいいのだよ」とした論法で説き伏せられる? いや、「水でも太る」と意固地になって頑迷に拒否している連中には詰めが甘い。

ふと、思いついたのだが、ダイエット本は古いものを買ったほうがいい。つまり、刊行から3年ぐらい経っていれば、著者がリバウンドしているかどうかの確認が取れて、そのダイエットが単に躰をいじめ抜いたもので、短期的には効果が現れても、長期にわたって効果を維持できるものかどうかと見定められる。さすればレコーディング・ダイエットがそろそろ3年経つのではなかろうか。せめて行動を起こすなら効き目のあるものにしたいだろう。

わたしはなにをしているのか?

「へぇー」というのが第一印象だった。せっかちな現代人はPCを起動させる1分の待機時間にもいらいらするらしい。昨日、ネットでそのような記事を読み、待ち時間はないわけでもないので、その時間、私はなにをして潰しているのか、よもや明鏡止水と心穏やかに過ごしているわけもないので、今日は実際に確認とともに特別感情面を観察していた。

結果報告。歯ブラシをくわえていることもあるし、軽く掃除することもあるけれど、もっとも頻繁に実行していたこととは、これからしばらく座り続けるわけだから、そのまえに体を動かしておこうとストレッチをして躰を伸ばしをしていた。

よくよくこの状況をおもんぱかれば、すでに待機時間を甘んずるでもなく、他のことをする時間に当てている。むしろなければ困ることになる。つまり、苛立ちはしないものの、負けず劣らずのせっかちではある。

蠢くオケ

まるでSオケ。頭を振り、笑みがこぼれ、バイオリンが立ち、チェロが回る。鉢巻をつけ、ラッパを被り、立ち、座り、踊る。すでにアンコールの部分であったが、アンコールであったからこそ、オケの映像が活性していた。やはり、生きているものは妙な動きをする。それは多分、思わぬ動きなのだろう。揃っているようで揃っていないし、極端な話、躰はともあれ、音だけ揃えばいいはずなのに、CGに統一されると、つまらない。

チャンバラのダサいチャンバラ映画が退屈であることと同様に、オケに魅力のない「のだめ」は鼻持ちならない。せめて映画では苛立つことのなきよう改善することを祈る。

ところで、私がにこにこしながら眺めていたせいもあるけれど、よく聴衆が真剣な面持ちで見ていられる。行儀は大変によろしいのだが、笑えよ、お前ら!

同じことを言う

ターシャのドキュメンタリィは好んで見ていたのだが、去年、そのターシャが亡くなり、それを新聞で知ったときにはショックを受けたものだ。今回のドキュメンタリィは、亡くなった後に制作されたもので、ターシャの過去のVTRと周りの人からの言葉で紡いだ物語。

「私が好きな人は同じことを言う」いや、違うな。「同じことを言っている人が好きなんだ」いや、これも正確とは言えぬ。「快い言葉を集めていたら同じような人が集まった」ああ、これが一番近い。どういう言葉かといえば「人の目は気にするな。好きなことをやれ」ということになる。まあ、人の目とは恥ずかしさだろうと納得していて、羞恥心を感じないようであればそれも良しだが、感じても、何もやめることはない。

2009年2月19日(木)

生々しい

衝撃映像! CDトレイが勝手に開くの怪。もちろんオカルトの類ではない。botの恐怖を伝えるために、わざわざCDトレイを開くなどというbotらしくもない無害なことをして見せたわけだ。これまでにもウィルスに感染した映像は見たことはあったけれど、それでも、ここまでの嫌悪感は生じなかった。とはいえ、何をされたかといえば、ただCDトレイを開けられただけのことである。それならば、個人情報が盗まれるとか、ホームページが改変されたとかのほうが、影響あるではないかと思われるし、事実、アクセスできなくなったHPの被害は大きかった模様。ただ、そのどれもが、ディスプレイの中にとどまっている、モニタを通じた出来事だった。物理的に作用して凪である空気に漣でも発生させたことに鳥肌が立った。未来はもう少し、機械化された都市というものを夢見ているので、これは厄介だと慄いたのである。

2009年2月18日(水)

井の中の蛙、もしくは半音上がる

蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ。

2009年2月17日(火)

The Adventure

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クイーン著『エラリー・クイーン』読了。同じニューヨークでも、時代が移れば、こうも探偵小説は姿を変えるものか。ライムシリーズを直前に読んでいる影響で、証拠をぞんざいに扱い、現場を汚染する探偵諸君にライムのお冠が目に見えて、ひやひやの連続にはらはらする。

しかしながら、お化け屋敷で慌てふためきころげ落ちるエラリィ(『暗黒の館殺人事件』)や、野球に夢中で探偵家業そっちのけのエラリィ(『人間が犬を噛む』)は、人間味がキュートに発揮されていて可愛かった。これは愛せずにはいられない母性をくすぐるタイプである。ところで、野球の試合はその後、どのような決着を見せたのかと、読者もミステリィそっちのけである。

突如割り込まれる読者への挑戦状のシーンでは、脳内で「ジャーン」と効果音が流れるのが我ながらおかしい。顔を上げた車内で、本を読んでる皆の頭の中で「ジャーン」と一斉に鳴り響いていたとら面白いなあ。

ちなみにこれが250作品目だった。half or quarter?

2009年2月16日(月)

くどくど……

去年と同じチョコ。いや、種類が違う。いや、両方食べた。

雪が降った。今が2月だということを意識すれば、通常だ。ただ、先日の春をすっ飛ばした夏の陽気はなんだった?

酒に酔っ払おうが、薬に酔っ払おうが、酩酊している意味では同じ。論点がまたしてもずれた。何故にメディアはこうも下らなくかき混ぜるのだろう。いつも空転している。世界には、村上春樹のような人間もいるというのに……。

2009年2月15日(日)

無事に選挙もなく(笑)

1度拝聴したきりなので、声のみでの確認は取れないのだが、文字で読んできた内容を音で聴けば、間違いなくしゃべっている人物は森博嗣だと確認できる。やはり声だけ聴くと若いなあ。

ものを記憶する方法として、その昔、テストになると実行していたのは、記憶したい内容を歌い続けていれば忘れないことだった。要するに、記憶力に物をいわせた丸暗記――いや、暗記以前の段階――だが、それはどだい一夜漬けである。歌わなくなれば、もって数日、歌詞を綺麗さっぱり忘れてしまう。そうした縦横無尽な詰め込み教育からしばらく、すっかりテストのことなぞ忘却のかなたへと足を突っ込んだと思しきタイミングで同じ内容を頭に叩き込むとこれが不思議と忘れない。しっかりと胸に刻み込められる。今回、そうした記憶する作業を媒体を跨いで図らずも味わい、おそらく、記憶された。

一方、インタビュアはまっさらな方がいい。知りすぎているといいリアクションが取れない。もっとも、既知の内容でも新鮮に驚ける技術があれば一役買えるかも。あるいは、知っていればこそのもっと踏み込んだ内容になれる。

それにしても自宅収録だったか。来週も楽しみだ。

「のだめカンタービレ」

アニメ終了。アニメも漫画もドラマも一切合財見ている貴重な作品だ。たとえば映画「20世紀少年」には食指が動かなかった。原作に忠実でよくできているという評判を聴くたびに、「漫画で読んだから……」と、どうでもよくなる。一方で『のだめ』は音の作品だから、映像化によって音の補完が利き何度見ても良い。それに、ドラマとリンクしていて、こちらが飛ばして作れば、むこうは詳細に作る、といった補完関係が出来上がっていて被らないように工夫が凝らされているのも良し。反面、マネーショットと見込んでいたシーンが削られていると切ないが、しゃあない。

オーケストラの動きがモーションキャプチャなのだが、あれ横にスケールダウンして、脇をしめれば、もっと綺麗になる。漫画のキャラクタだと線が細いので、脇や指の間がすかすかしていて不自然なのが惜しい。加えて、音に合わせて忠実に動きを再現するのは大変なのだろうけれど、見た目が不愉快。無味乾燥というか、演奏シーンがメインじゃないかと嘆きが入る。

2009年2月14日(土)

とある時計の死

昨日『ウォッチメイカー』を読み終えたから、液晶時計が何ら表示しなくなったわけではない。

1年、あるいは2年前から、ときおり、一部棒を消すという茶目っ気を見せていたが、ついに費えた。電池の使用期限を確認を獲れば、もはや当然と使用期限は過ぎておるが、5年過ぎていたので加えて液漏れを起こしていた。前もそうだったのだが、なかなか消費しない機械で使われる電池がことごとく漏らす。これは、そもそも8本パックで買ってきて、されどラジコンを動かそうという用途があるわけでもないから、一辺に使い切ることもない。ゆえに残りの2本を使う時には既に使用期限が迫っていたり――あるいは超えていることもあったかもしれない――加えて、電池自体が性能を上げて長生きするように改善したものだから、ボディの劣化時間よりも長持ちするようになっていることが原因である。

部屋には他に3つの時計があるので、時間を見失うことはあり得ないけれど、メインだったから困った。ちなみに、そのどれもがデジタル表示であることから、神経質ぶりが推理できるだろうか。でも、脳内で時間を計算するときには、アナログの針を連想するから不思議だ。

いいのか!?

昨夜の嵐が春をすっ飛ばして夏を連れてご帰還。服を着てると熱いし、脱ぐと寒い。

今年から「逆チョコ」という概念が一般に普及しそうな兆しを見せているバレンタインであるが、1/365日奥手の女性が男性に大っぴらに告白できる公認のチャンスをチョコと共にみすみす渡していいのか? また、逆チョコを渡さんがために、364/365日告白できる男性が、1/365日を待つのもじれったい。このような奇策を打ち出すとは、不況はバレンタインにまで影響しているのかしらん。

まあ、早い者勝ちだから、14日に渡すつもりで腹を決めているのであれば、前日に渡しても1週間前に渡しても、渡すと決めた瞬間に告白するのも、あると思います。

2009年2月13日(金)

春一番

雨をお供に横殴る。ちょっとした嵐。ほんと、神様、風邪でも引いてて、乙女がさまよってるんじゃないかと疑うほど景気がいい。

ライバル出現!?

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元首相の言葉ではないけれど、あきれて笑えてくる。ジェフリィ・ディーヴァ著『ウォッチメイカー』読了。読んでいる間は、何故これだけの傑物を1年も放置できたのだと訝るのだが、読み終わると、ひねりねじられツイストの利いた展開に、絞り滓のような私がぽつねんと残されていて、元通り回復し、本に手を伸ばすだけ精神が癒されるまでに1年かかったんだと頷いた。それはさておき、既に刊行が決定している短編ならば生き馬の目を抜いてでも読むだろう。

この世界で唯一追いかけている作家がジェフリィ・ディーヴァである。数のみで言えばもっと読んでいる人はいるけれど、その人の作品は、この世界とのつながりは希薄だ。今回ポイントとなったフレーズは「ビフォア・アンド・アフター」。突如としてハーデスのあぎとに食い破られた911をそう表現していた。ゆえに非常にデリケートな問題に手を突っ込みもした。これはアメリカ人として彼の生き方にも影響するし、もし舵取りを誤れば、いや正しくても、つまりイデオロギィ的に私と見解の相違があった場合、今後の付き合いとして非常に微妙なものになる恐れがあった。で、結果で言えば、非常にうまくやったなという印象。一方的にもならず、どちらの顔をも立てたのではなかろうか。

そういえば、シリーズ作品の面白さを教えてくれたのが、この「リンカーン・ライム」シリーズであった。そうして得た経験から、誰彼かまわず疑う癖が染み付いたのだが、そうした疑心暗鬼を逆に手玉に取られた本作である。しかし、予想外のクライマックスといえば正直、嘘になる。一瞬でも脳裏をよぎったのだ。下手な鉄砲も数打てば当たることがある。ただし、命中したかどうか確認していなかった。あと、とんでもないところとつながったのだが、そちらも鮮明に憶えていた。よくよく考えてみるとジェフリィ・ディーバの作品は忘れていない。それだけ、心躍らせて嬉々として読んでいるからだろう。まだ遊びなのだ。決して教科書などではない。

科学捜査第一の現場にキネシクスという尋問のエキスパート登場。物事の判断基準で内向的と外向的に分けていたのが、ベースラインと合わせて、どこかで活用できそうで面白かった。私は感情で判断を下すというよりも、高圧的な態度に出られると距離をとり、最悪だんまりを決め込むきらいがあるような気がするので、内向的かな。ただ、分裂型だから内心煮えたぎっている部分もあるので、要注意。でも、理詰めでこられても、静かに語られれば腑に落ちることもあるだろうし、答えるさ。だが、憤れば決してゲロしないしないだろうから、やはり内向的っぽい。まあ、血液型の4種類で分類されるより信頼を寄せられる。心地よいとする対人距離は遠い。

2009年2月12日(木)

冬から春へ

閉じていた換気扇を開いたら、Gが降ってきた。「たなぼた」と違い、あるいは同じで、この場合、どの点が幸運だったかと検討した結果、既に乾燥しきっていた点は幸運だったのではないかと評価できるとした。

ニュースというか天気予報というか花粉情報を見ていて、北海道にも花粉が飛んでいるらしいと知り、杉の乱暴な陵辱に汚されていない象徴的な土地と偶像化していただけに、ショックだった。

古典=共通言語

衛星衝突事故の報道を見て、じれったいのは「プラネテス」が共通言語になっていないこと。これさえ知っていれば、「まさに『プラネテス』ですね」と一言で片付くものをスペースデブリの説明からして遠回りだ。折角、参考になる優良作品があるのに、いかせない。古典への道は険しいなあ。

以後も衝突事故が多発すれば、本当に職業としての道が開けるかも。漂流する原子炉はまじでヤバイわ。なんとかかんとか、えんやこらさっさと月に落とそうよ。そういえば、太陽に飛んでいった非常にいい性格をしたリアクタとかいたなあ……。

2009年2月11日(水)

コーラ1缶=13本

炭酸飲料に多量の砂糖が溶け込んでいることは知っていたけれど、具体的にスティックシュガーの数で見てしまうと、コーヒー1杯に1本で、うじうじしていることが馬鹿みたい。

されど、何が悩まさせるのか? 瑣末な問題の根源的なものは、自分がことに介入しているかどうか。進んで加担しているかどうかだと思う。知らないで飲む13本と知っていて飲む1本が与えられる罪悪感の違いだ。

すとん

MLAが終了しても、毎日読む習慣を絶やさずに、読み物を一つずつ消化している日々を送っていたが、これが実にすっぽりと、綺麗さっぱりすとんと落ちた。まさに寝てもさめてもの精神だったMLAから一月。ついに離脱したか。

まだ禁断症状は現れない。だが、小腹はすいたかも。

2009年2月10日(火)

ニアミス

+10000日。

2009年2月9日(月)

柔軟に固定

昨日、「あっ」と思いついたことが滞りなく処理できた。いやあ、天才的だなあ。お、天才じゃないか。よ、天才!

アクロバティックでも、難解でもなく、簡単なことだったけれど、私にはひらめきが必要だった。なかなか、こうして堂々と褒めてやれる思いつきにも巡り合えない。今はただ、思う存分のぼせあがるぐらいは浮かれさせてやる。

水を差すとすれば、厳密には法に則っていないということ。

2009年2月8日(日)

過ごしやすい春の日和

陽射しが心地良い。風の吹く空気は肌寒くて、服装こそ冬のままで首を縮めるが、春めいた天気で快適に過ごせる。いや、本式の春には欠けてものがあって、空中に花粉が飛んでいないから本物の春以上に過ごしやすいし、窓も全開にできた。来週になれば、不承不承と駄々をこねても、飛散しているだろう。これほど大胆な空気の入れ替えも夏までお預けかなあ。

ジェフリィ・ディーヴァ著『ウォッチメイカー』(文藝春秋)、世界の名探偵コレクション10より、クイーン著『エラリー・クイーン』(集英社文庫)、マイクル・Z・リューイン著『探偵学入門』(ハヤカワ・ミステリ)を借りた。懐かしい名前がちらほら。去年のドイルもそうだけれど、7、8年かけて1周した。つまり、次はあの人か。

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羽海野チカ著『ハチミツとクローバー』の10巻、つまり最終巻を読んだ。不思議なものだ。とうに燃え尽きていたらしい。ために最終巻では、きちんと収まっていく物語をただ追っかけているだけになってしまった。この場所にたどり着くまでに、ラジオ、TV、ネット、漫画と実質3年かけた。それぞれからのびた色とりどりの糸が複雑に絡まりよじれている。ラストのカーテンコールでは5人揃って挨拶しているけれど、そういえば、5人の物語だったなあって、9巻で感じたズレをまたしみじみ思い出した。

ところで、作者の照れが混じるのかシリアスとコミカルがしばしば一転する。しかし、その場面転換がものの見事で、寄り道せずにまっすぐ書いたらこの人はどこまで行くんだろうかと末恐ろしい。でも、きっとまっすぐな物語でも喜びを生む作者の未来は信じられる。その場合、恥ずかしくて手を伸ばせない自分の未来も信じられる。

フィナーレには、「この6年間寝てもさめてもハチクロのみんなのことばかり考えていました」と綴られていた。6年間寝てもさめても考え続けられるのも凄いし、また、寝てもさめても考え続けて6年間持つものも凄い。たいてい、それだけ真摯に向き合えば、6年も経たずに問題は解決してしてしまうものだ。物語の深さは費やした時間が裏付けていたか。

おまけにSF短編がついていた。何故だか、子供のころはああいう物語をよく読んだ気がするが、大人に近づいた瞬間にぱったり途絶えた。はて、どこで読んでいたんだろう? もしくは、読んだのではなく聞かされていたのだろうか。そうした懐かしい気持ちがよみがえる優しい話だった。

ああ、やっぱり花粉飛んでるわ。ズズズ。

2009年2月7日(土)

一言で表せば「シャープ」

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ミーガン・アボット著『暗黒街の女』読了。なるほど「シャープ」だ。カリスマ放つ女性に師事して悪に染まる。最後に学習した見事なまでの潔さが、とどのつまり、とどのつまりかと予想したが、はてさて……。

いくらでも長編にできたろうに。たとえば家族の名前や地名、仕事の詳細など、あってもよかろうと思うもの、差し障りのないもの、そうしたディーテールのカットが目に付いた。それらすべて主人公の独白だと思えば、私的な回想は足がつくと警戒、危険を避けたと解釈も可能だけれども……。

ノワール小説をはじめて読んだ(?)。なるほど「格好」いい。ところで、これはミステリィなのか? ポケミスに収録されているからとはいえ、必ずしも収録作品がミステリィには限定されないのかもしれないし、もしミステリィだと主張する人がいるようなら、私の心がまだまだ見識知らずの狭量で凝り固まっているのだろう。そもそも、ノワールでミステリィはあり得るのだろうか? 実は犯罪者の告白でしたというある種トラウマにもなっている驚異の物語は読んだことがあるけれど、犯罪者が偽りなく犯罪者とすればどうすればものになるのか。反対の視線に慣れきっていて、ミステリィからノワール側の心が覗けても、ノワールからミステリィが結びつく形がマジックミラーの中の鏡像のように無法者の姿しか映してくれない。おもむろに立ち上がり、椅子の脚を堅く握り締め、渾身の一撃ブレイクスルー、とミラー叩きつけて道を切り開くべきか、跳ね返されるの運命か。

そのポケミスもはじめてだった。なるほど「嵌」る。これまで縦長のバランスの悪さと、天と地にのぞくどぎついまでの黄色が憎たらしくて避けていたが、手にとって、その印象の悪さが引っくり返るほど快適に手に馴染んで息を呑む。やはり長く続いている大きさには理由があった。それに柔らかい本っていい。文庫も薄さに伴う柔らかさは丁度いいけれど小さいから、小さすぎて手に馴染んでないってことが、判明した。短い箸では上手く力が伝わらなくて苦手なのだが、あれと感覚的に近い。畢竟、見てくれの悪いひねたきゅうりもまっすぐと変わらず美味しくいただける、外見で判断を下すと誤ることもあるということだ。

2009年2月6日(金)

いつになるかはわからないけれど

深夜に「ホテル・ニュー・ハンプシャー」の映画が放送していた。視聴の価値ありと誘惑されたけれど、本で味わいたくて、気合と根性のやせ我慢。しかし、誘惑には100%は打ち勝てず、それに、イメージの足しになるならば、世界観を知ることは悪くない。特別、外国ものは目立ちもせず逆に埋没しているような習俗が参考になる。だから、ほんのちょっとだけのぞいた。そうしたら、案外な人がいて面白いキャスト陣であった。

2009年2月5日(木)

HP事情

3ヶ月連続最多文字数更新とはいかなかったけれど、3ヶ月連続で約2万5千字を超えた。はからずものこの調子を維持していると、いつか弾けてしまうんじゃないかと一抹の不安を覚える。

世間では、ブログ炎上による逮捕で騒がしい。ついで、ご丁寧に「炎上」を解説しているところもあった。だが、首相が漢字を読み間違えて、メディアがこぞって取り上げているさまも充分炎上していたと思う。集団と個の違いはあるが、似たり寄ったりだろう。

出会いと別れ

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映画「ハリーとトント」。端的に書けば、大阪城攻略のように外堀からじわりじわりと埋められて、喪われつつある人生の終末という寂しい話なのだが、個人的には、いいなあと思ったし、猫も可愛い、車もしびれるぅ、行きずりの人々も個性的と、ちょっと憧れた。

耄碌しているならまだしも、矍鑠としているだけに、子供の世話になるままに収まることも許容できず、まだ無理も利く。したがって、ロード・ムーヴィーに旅立つわけだが、その年齢で自分探しかよ、と突っ込みも一発入りそうなものだ。もっと具体的に言えば、死に場所を求めていたけれど。これを老いにまつわる家族の話一辺倒にしてしまうと、なるほど世界に通用するテーマだが、辛気臭くなりがちだ。いい話かもしれないけれど、それだけでは見なかったかもしれない。ところが、ここからが並外れた部分であり、感心した部分だが、徹底的に主人公である老人のペースで語られるけれど、物語の展開は極めてスピーディ。このバランス感覚が絶妙だった。最近、最後まで映画というものに付き合えない。どうやら単調な一本道に倦み飽きているきらいがあるらしい。ただし、こうしてコース料理のように次々に場面転換があれば、たとえ少量ずつの味わいでも、じれる間もなくて、興味も尽きないらしい。この飽きさせないスピード感のある努力が、近年の傾向だと思ってうぬぼれていたので、30年前に既出していたことに心底驚き、目が覚めた。

脚本が一本道なのは退屈だけれど、横断道が果てしない一本道なのは素敵だ。そうした憧れの片棒を担いだ、東海岸から西海岸への背景は、くすんだ茶色と灰色から、赤茶け、最後は、輝かしい青と黄色の世界にたどりつく。日本国内に留まっていては不可能な世界観を一国でやり遂げてしまうところに羨ましさと乏しさを感じる。結局、映画がハリウッドに押されているのは、お金のみならず、そうした世界の雄大さではなかったか。わざわざ色をつけなくても、あたかも最果てのような眺望が外にある。もし日本でロード・ムーヴィーを撮るなら、どこに進路をとれば果たせるだろう? 日本って資源のない国だと思われているけれど、それは石油や鉱石がないのであって、意外や意外、緑豊かな国だから、どこもかしこも同じ緑色なんだよなあ。だから、車で走っても街の人口密度が変わるだけで面白くないのかも。したがって、自転車で縦断するのが狭い国土には手頃なサイズなのかもしれない。あと、オービスの気配すらないまっすぐな一本道では車ものびのびとリラックスしていて、やはり車に必要なのはカーナビではなく目的地だろうという思いを強くした。使用動機が通勤や買い物では味気ないし、SRVも欲求不満だて。お使いではなく、帰ってこない旅がいい。

2009年2月4日(水)

敏感体質

節分を過ぎた翌日から暁を覚えず。

「あの人に会いたい」のスペシャル

既に亡くなった人を過去のVTRから取り上げる番組の合作したスペシャルの形。遠藤周作と河合隼雄。

「神も仏もあるものか! と、否定することから宗教が始まる」

そういえば、先日読んだ『聖母の贈り物』にも、神に捧げた人生は、無駄だったのではないか、骨折り損だったのではないか、と信仰が揺らぐ場面が用意されていた。幻滅や夢から醒めたとする。そうした揺らぎの部分も含めての回帰、あるいは堕落。信仰の対象こそ違えど、形としては共通していたし、水の泡かどうかは普遍的なテーマになりえる。だから無宗教の状態も興味深い状態ではあるけれど、あれは0神教か。

二人が昭和60年に対談している貴重なVTRもあって、その中で傲慢になっていく21世の社会を見据えていたのだが、そうした確かなものを見せられてしまうと、様々なものがぽっと出てきたように見えても、昔からあったものが、今になってようやく意識されているのだと腑に落ちる。また提言はしていたが、過ぎ去った時代に届かなかったというか、動じる種類のものでもなかった。

もう、随分、遠藤周作も読んでない。いや、読んだものは、狐狸庵ばかりで一度として遠藤周作は読んでいないのか。河合隼雄も何とかしたい。そう思っているうちに次々に人はいなくなる。

2009年2月3日(火)

ぱらぱら

2月の3日で節分だったわけだが、鬼のことを思うと本当に気の毒で、居ても立ってもいられない心境で過ごした2月の3日であった。また、じゃなくて、に豆が当たっているよと中の人はしみじみ思うわけです。

断崖絶壁

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ウィリアム・トレヴァ著『聖母の贈り物』読了。はてしなく続く道中緩やかな上り坂道かと思いきや、登ってみれば、その道に先はなく、ただ絶壁の崖があった。ただし、なにか心の中がうるさい。というのも、その崖が自殺の名所だとしたら……。

まるで悲劇、皮肉れば喜劇。『トリッジ』のラストシーンの1コマには、萩尾望都を彷彿。シチュエーションが男子校だったからというわけでもなく、1コマで場面を説明もなく景色から変化させてしまうのが、漫画の凄さだと実感したことがあって、ラストシーンでその情景がよみがえったからだが、いや、男子校の影響は否定できない……?

どの作品もキリスト教とのかかわりは深く、結末にそれに由来する快感があり、溶け込むように世界ごと包まれる。別の言い方をすれば救いか。救わなければ、悲惨な結末を迎える。いや、悲惨と呼べるほど派手ではないか。いたって、平凡な生活に収まることで、何かが終わっている。

『聖母の贈り物』では、「アイルランド全土をくまなく歩き尽くす」といった習俗があったことを知った。献身的な姿に、お遍路さんや山伏のようで宗教性は飛び越えている共通項を感じた。裏を返せば、人としての想像力の限界、あるいはここが縁なのだ。

たいてい数ページ読めば、どんな作家か嫌でも気がつくものだが、言葉のバランスが飛びぬけていい。人の言葉を借用すれば、「抑制された語り口」。ただし、これは翻訳であるから、訳者の手柄が幾分入っているのだろう。しかし、過去を振り返っても、このくらい抑圧されたものこそ好む傾向があって、どこかしら他人事の風情があり、えてして人間性が感じられないと酷評されそうなものを適切な距離感として処理できるからだろう。たとえば、アゴタ・クリストフの絶望感から生じる冷めた見方。たとえば、森博嗣作品の人間関係。どちらも距離を保っているが、離れているつもりもなく、いたって自然体だけど、あえて近づこうともしない心理が存在する。

しかし、戦争づいているなあ。読書もそうだし、映画にしても3本連続でドイツがかかわっていた。

2009年2月2日(月)

ケーキと寿司のハッピィ・スパイラル

正月は気を張っていたけれど、正月もとうに明けた頃から、絶えず口の中が甘いもので満たされ、口内炎の沼を越えて、ついにお菓子の家が建設されたようだ。体重増加も道理だなあ。ていうか、毎年、晩秋から冬にかけて祝い事が重なりすぎだ。

2009年2月1日(日)

年下の村上春樹

万葉集を取り扱った番組をしっとり観賞。

「万葉集や四字熟語、故事成語を暗記したでしょ、今もするだろうけれど、昔ほど必須でもなく、覚えもしないよ」と話を切り出し、視線はTVに向けたまま一息置いて続けた。「鴎外も漱石も国語の教科書から外れて、代わりに村上春樹とかが入っているけれどね」

村上春樹は天才なの?

こちらから切り出したくせに、不意に質問を浴びせられて答えに詰まった。何となれば、凄い人なのだろうとの認識はあるけれど、私には天才の認識がなく、一介の作家を表現するのに「天才」とは脳をよぎったものの口に出すのは躊躇した。ために苦し紛れに吐き出した。

「日本人でノーベル賞を獲るとすれば村上春樹だ」

「それは知っている」苦し紛れの返答に、そっけない回答。加えて「年下だから凄いと思えない」とのこと。

藪をつついて蛇を出した甲斐性のなさに「むー」としか唸れないが、そりゃ、そうだ。天才や最強とうたわれていようと、権威ある賞を受けようとも、他人の評価が自分の心にぴたりとはまり、隙間を埋めるかは未知数。むしろ、本好きが選んだ作品ほど眉唾ものだと警戒している傾向が残っている私にはすんなり同情できた。これは、その時にはお返しできなかったけれど、のちにランボオを引き合いに出して武装すれば、上手く防御できる、あるいはかわせると思い至った。その年齢の自分は何をやらかしていたのかで照らし合わせると、どうにか攻略の見通しが立つ。たいていランボオに肩を並べたり上回る才人はいないが、のちのち保険として、モーツァルトの「きらきら星」は参照できそうだと倉庫入り。

いくつなの?

今年の花粉量は、去年の2、3倍。けれども、去年がどうだったか、まるで記憶にない。もはや毎年恒例のクレームなのだが、いい加減、絶対値にしてください! そろそろデータも集積できただろう。

たとえば、一昨年が10倍、去年が1/2倍、来年が1/6倍だとしたら、今年が一昨年の10倍より勝るわけで、実態が見た目からかけ離れ、何を扱っているのか掴みにくい。


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