ぼくのペンの息が長続きしないことを、星々に感謝してもいいかもしれない
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噂はあったが、サッカー専門番組にも先の試合の映像は流れなかった。こういうときにこそ、旧メディアとして平生、肩身の狭い思いをしのんでいる新聞が腕を見せる格好の機会であったはずだが、もはやそれすら機能しなかった。負け試合であったからか、結果ばかりで詳細がない。説明描写はごくわずか。どんな形で失点したのかすら文章からはイメージを掴みかねる。それとも、新聞記者といえどもTV観戦で記事を書いていて、何も書けないのだろうか。ならば、願っても土台無理なものを求めていたことになる。
音楽ランキングに一定のファンを囲う声優やアニメキャラの名前を見るとCD不況を実感するバロメータに密かにしていたが、今週のトップ100は幾ら堅い市場があるとはいえ、アニメ関係が多すぎた。そうか、そんなに売れていないのか。
「タモリ倶楽部」のSPって何をやってくれるんだろうかと興味津々……、も総集編だった。とはいえ、1200回を越える番組の総集編である。面白いというか、マニアックだ。加えて、時代外れの流浪の番組には古い企画はあっても古い内容がないので、今も視聴可能というか、過去も未来もおそらく永劫時代に適合しないから、遅れようがないのかな。当然、摘み食い程度では腹は満たされない。でも、この数年の「タモリ倶楽部」となると記憶に新しい。しかし、ついこの間見たぞと思い込んでいたものも、日付的には2年前だったりと、そこには恐怖が存在する。
一方、番組と共にあって印象が一つの司会者は不変とはいかず着実に変化していた。若く、老いて、ちょっと太ってコージーぽかったり(というかコージーの物まねがあの時代で停止しているのだろう、似せてはいるけれど、あまり似ていないなあという、いまいちな印象だったので、ある時代のタモリにそっくりでびっくり)、髪がぺたっとしたり、逆にもあっと盛り上がったり、あれでいてサングラスの形が数年で変わるから、いろんなタモさんがいた。けれど、40代ぐらいからはどのタモリにも見覚えがあった。
危うく「朝まで生テレビ」をずるずると朝まで見かけた。この番組は、たまに面白くなるのだが、そうなると朝までつき合わされるので危険なのだ。やはり今は手島龍一に注目。主張はエッセイとかぶる部分があるので目新しさこそなかったけれど、穏やかに語り出すと耳を傾けた。
裏を返せば、大声を出す人が苦手である。たとえば、演説で声を張り上げる目的は、大勢の人の元に声を届ける目的のための手段として、必然だろう。しかし、討論会で声を張り上げる声には相手の言葉をさえぎる目的しかない。要するに「黙れ!」と凶暴にある種の陶酔をもって叫んでいるとしか訳されず、支持者は燃焼できるだろうが、普通の視聴者としては1は1でしかなく、不愉快である。
好対照なのが、姜尚中の落語でも始まるかのような抑制された語り。あそこまで静まり返ったしゃべりは、TVのボリュームを上げないといけないから逆に迷惑なので、もうちょっと内容に比例して点火して欲しい。だが、消え入りそうな声でも、ゆめゆめ消えることなくきちんと届くボリュームで一定しているのは技か。
なんと、放送しなかった試合は負けたのか。楽観していたので、案外な結果である。とはいえ、勝ち試合を見逃したとすればいっそう鬱憤がたまっただろう。見ずにすんだことは幸いであったのか、負け試合でも寛容に楽しめる人間としては、放送がなくて不幸であったのか、判断がつけられない形になった。
リアルな壁にカレンダが掛かりしばらく。元に戻した壁紙にも飽きたので、そろそろデスクトップもいじってまいろうかと、漁っていたところ、ライドバックの壁紙を発見。唯一、ケチをつけるとするなら、ヘルメットを被っていないところか。せめて抱えるなり、脇に置くなりして構成して欲しかった。十人十色の人の趣味。たとえるならメイド服に猫耳、ミニスカにニーハイ、裸にエプロン、あったかご飯に海苔の佃煮、天才VS天才、油にスチーム、宇宙に船、ノベルにS、疑問形の質問に否定形の返しぐらいの理解不能でそそる組み合わせなのだが。
「鉄馬」と書いて「ライドバック」と読むとはじめて知った……。
とうとうアマゾンからMやLの画像サイズが消えた。マージンを加工された正方形の画像ではなく、長方形の画像が欲しくて、直接URLを入手していた人間には影響がある。いったい誰のことを指すのやら。
素直な物語には素直な感想を。ニコラウス・ピーパ著『フェリックスとお金の秘密』読了。お金の秘密一辺倒かと思いきや、探偵が登場したり、ドイツらしい秘密も明らかになったり、と幅のある読書体験。
さすがにこの年齢にもなると、本書で書かれていた経済にまつわるいくつかをどこぞで学び、知識として仕入れているのだが、どうせなら、こういう本で楽しく学びたかった。ただし、中世イタリアが舞台の商人の話で彷彿としたのが「狼と香辛料」なのが情けない。
主人公たちの景気がいいときは、ページも良く捲れるけれど、不景気になってページが捲るペースが鈍ると人間だなあと身に染みた。でも、どのようなことになっても、笑って済ましてくれる人たちに囲まれた物語だから嬉しい。
歴史と経済を切り離しがちなのだが、むしろそれを軸にして戦争が起きることもあったので、同時に財政状況も教えたほうが良かったのではないか。まあ、数学はこのまま数学を教えていればいいと思うけれど、歴史の授業にはもっと早い段階で組み込められるはず。日露戦争後のデモは、派遣村にだぶる。もっとも、差し伸ばされた公共事業の手が戦争であっては言語道断だ。それを思えばエコを掲げて山を切り開き、既に道があれば拡張させ、なければ新たに資材運搬用の道路を走らせては風車を設置する行為は偽善的だが、随分ましに思えてくるから不思議である。軍需で立て直しても、その後ぼろぼろになった過去は誰もが承知していることだし、儲けても長期化すれば、財政の首を絞めることは、現在の覇権国を見れば火を見るより明らかで、その経験則はローマ時代も同じだったようだ。だからこそ、戦争は短期決戦が鉄則なのに……。
「そうだね、お金って、はじめは約束のしるしだったんだから……」
その約束が1:1ではなく変動して富を生み、負を生むものだから、大変なんだ。読む前にあった唯一の不安要素が、原書の出版が98年と、いささか古いことであった。しかし、インターフェイスこそ電子化したけれど、たった10年で市場の仕組みが変わるわけはなく、今回の金融危機で、いっそう経済を毛嫌いする人たちが誕生しそうだけれども、そうは言っても、今も市場は回っている。これだけ散々な内容でも機能としては正常に稼動しているものに対し見ない振りを続けるのはいかがか。実際に株に手を出さなくても、世界の仕組みを知ることは損にはなるまい。
ところで、でかでかと書かれた帯の文句はちょっと気恥ずかしい。でも、その下に小さく書かれている「経済分野での『ソフィーの世界』!」
には魅かれた。しかし、縦書きの漢数字を暗算するのは、回路が違ったなあ。かよい慣れていない道を走るので、方向感覚を失ったようだ。まあ、しなくてもいい余計な計算にわざわざ取り組むので、道に迷い蛇とも遭遇したわけだが。
一部の地域に限らず、日本中でサッカーの放送がないのも珍しい。かつて、この一部の地域に引っかかったおりにはラジオで中継を聴きもした。そのときには、野球や相撲とは異なり、まだまだ日本ではプロスポーツとして歴史の浅い競技なので、選手のダイナミックな動きが言語化されておらず、折角の実況にもリスナが共通イメージを有せず、表現の未熟さを痛感、露呈した。そのラジオ中継すらない。事の裏には、どうやら金融危機も関係なくもないようなのだが、いくら吹っかけられたのだろう。まあ、放送しても日本は夜中で視聴率も限られる。アジアカップの予選ぐらい抑えておかなければ、今後に響くのだろう。
当のサッカーが試合中と思われる時間帯。TVをザッピングしていたら、聞き覚えのある声と歌が耳に飛び込む。まさか昌鹿野松方ホールでのイベントの様子が見られるなんて思いもしなかった。音声には慣れているけれど、ヴィジュアルには不慣れなもので、思わずした2度見。それでも、まだ小野坂昌也には慣れているが、鹿野優似は珍しかったなあ。やはり写真と動画では顔が変わる。
このところ顎の痛みに悩まされている。一応、小さく切った(1/16)サロンパスで対処はしているけれども、真実効果があるのかどうか定かではない。
一方、原因には見当がついていて、とにかく頬杖が良くないので、これをやめてしばらく放っておけば顎のだるみも治まるはず。歯も知らず知らずのうちに食いしばっていた時間が長かったかもしれないので、あたかも上の空とぽかんと開けているのも良いだろう。最終的な根治には、歯のかみ合わせの治療が必要か。
応援――朝青龍と白鵬を天秤にかけると朝青龍に傾く。
2008年のF1総集編をだらだらと視聴。2008年は応援するチームもなく、ためにほとぼりも冷め、熱心に見ていなかったはずなのに、各レースの映像を見ると見覚えがあるし、展開も思い出すから、それなりには視聴しているらしい。多分、生放送のブラジルとカナダ以外は見たのかな。まあ、ホンダが撤退するほどだから、プライベータのアグリが撤退するのも道理だ。
雪の予報なのに晴れ間ののぞく空、これは雷が降ると予想した。そしてピタリ。裏技でも超能力でもなく、100%も過言ではない気象条件であったが、不思議がる人もいるだろうか。子供に話せば魔法使いになれたかもしれないし、トモダチは増えたかも……。
屋上のフェンスに巻きついた包帯が風を孕んでゆれ、うねり、ひらり、はらり――映画のワンシーンが焼きついて頭から離れない。天童荒太著『包帯クラブ』読了。こちらはリアリティがあった。ただし、ある種の物足りなさというか、綴られる過去と現在の間になにがあったのだろう、と野次馬根性とスケベ心が想像をかきたてた上での空腹感が募る。
夜。国境なき医師団のCMを見て包帯クラブを連想した。この中にメンバがいても不思議じゃないなあ。
夜にナチスの映画がやっていて、こいつがシュペアかと確認。『XYZ』を機に改めて勉強したばかりなので、ブーツのてかり、SSの徽章、新古典主義の建築物などの背景に頷きを繰り返した。しかし、街の景色は見事に戦時中だった。あの質感が昔は知らないが、少なくとも、このところの邦画では見られない形。砲弾の雨により崩れくすぶる廃墟の実現は難しくても、道路には穴が開いていてもいいのに。それが叶わずとも、せめて俳優の風貌ぐらいは再現率を高めてもらいたい。そうでないと、あからさまな嘘が邪魔してその世界に入り込めない。
まるでオーボエが交通事故にでもあったかのような演奏が耳朶を打ち、反射的にうつむいて池を探した。しかし、ここは住宅地区。水辺はなく、鳴き声に素直に反応して顔を上げればコハクチョウの群れが空を東へ羽ばたく。ガンでもカモでもなく、ハクチョウの群れなのが嬉しいなあ。
流れ出る水が排水量を上回り、みるみるシンクの水位を上げた。蛇口を閉めなければと思い手を伸ばしても、蛇のようにつるんとした蛇口には掴みも突起もない。手をこまねいているうちに水はシンクの容積を超え、キッチンを浸す。勢い衰えず床を濡らした水は、じわじわと水位を上げて、テーブルの上へと避難した私ごと持ち上げ、やがて発生した小さな流れから大きな奔流を生み、新たな排水口に窓を選んで、ごく自然に放り出した。滝と化した流れとともに堕ちていく世界は水のドームに包まれ揺らめき、きらめいていた……。という白昼夢でも見たものかどうか。
天童荒太『包帯クラブ』(ちくまプリマー新書)、ニコラウス・ピーパ『フェリックスとお金の秘密』(徳間書店)、ウィリアム・トレヴァ『聖母の贈り物』(国書刊行会)、ミーガン・アボット『暗黒街の女』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を借りた。
最近、自分の読書ペースを見失っていて、いささか借りすぎた気もしたが、大は小をかねる。冬、真っ盛りだし、外は雪だ。長いものにぐるぐる巻き込まれて、ぬくぬくしていれば、いいか。
明日からまた冷え込むというのに、これでは躰がもたないかも……。胃の腑に煮えたぎるコーヒーでも流し込まなければ、立ってられない。
メールの「新着メッセージが届きました」という報せが、「新春メッセージ」に見えるのは、正月ボケなのか、ただのボケなのか……。
敵って誰? ――敵の敵は敵だ。成功者だが、勝者ではなく、被害者として、困難にぶつかっていく姿勢を求める。
「この偉大な国」という表現はなかったけれど、それに近い表現で偉大であることは表明していた大統領就任演説。この国の首相所信表明なぞ読んだこともないのに、新聞に掲載された5段組のそれに目を通していた。それだけ読み物としても興味深かった。
同時に新聞っていいなあという感慨。新聞は欠かさず読んでいるけれど、それは決してメディアが新聞ではなくても代用可能。たとえばコラムを愛読しているし、日々のニュースはTVやネットで事足りて、新聞報道は説明が多い程度なので、5段組のそれに新聞のニュースってこういうものだよなと久しぶりに身にしみた。ちなみにとして何度も書いているが、一番好きなTVニュースは毎時0分BSニュース。10分で充分なものを30分や1時間、まして2時間もやる必要はない。
山崎ナオコーラ著『人のセックスを笑うな』読了。共感を求めていることのそれが自分探しと定義すれば、こいつは他人だった。ために他人行儀なおつきあい。
まれに、性別の差を生理的に痛感することがある。他人の思考なんて上等なものは想像するしかないものだし、えてして自分の深層心理でさえも決意してダイブした末に81するしかない。そんな中、想像力で性別の差を越えた場合、あれ? 変だなと、妙に欠けたものを見てしまうことがある。最近では、打海文三の『裸者と裸者』の女性心理に違和感を覚えた以来の戸惑い。別に誰もが飛び越えられないジェンダなわけでもない。ただ、ここに書かれている人物像は偽者だと、どうしようもなくあからさまに見抜いてしまう。おそらく、欠けているがゆえに浮き彫りになっているのはリアリティ。ために他人となり、生きていないならマネキンとなる。それとも、身の回りからそうした人物を排除しただけで、ぞろぞろこうした人物が生きているのだろうか。
まあ、経済の理論であるイクイティを恋愛に持ち込んではいけないというか自然と引いた。8:2なら、3割増しの愛を誇ればいいし、2:8なら、3割余計に愛されていることを誇ればよい。タイトルは絶品。100年後に残るとすればタイトルだから、これはいい。
読書履歴は壮大なドラマからマジックリアリズムへ。このマジックリアリズムには小説そのものを指す典型的なイメージがある。「どうして?」にはきりがないけど、何でだろう? まったく本を読んでこなかった私にもイメージが付着するほど典型として刷り込まれている。
小田実著『XYZ』読了。内容はアシヤにいたのに、壁を越えて、アテナイへ。先日まで翻訳ものを読んでいたので、汚い日本語がいいなあ。生の声ならぬ、生の活字には端正な言葉にはない猥雑な響きがある。だからこそ、言葉の面白さに導かれ、2回は読めると勢い込んでいたのに、まったくもって意外なことに2回目は拒否された。ミステリィやSFやエッセィならば、まだ読めると自信をもって断言できるが、いや、今回も自信だけはあったのに小説は1度で沢山とおかわりが喉を通らなかった。もう、1度きりしか小説は読めないのか。沢山のものを読みたいと、この未来もどこかで望んだもの。2回から1回へ、楽しみが確実に半減した。
あんた、知っているかね、生きていても、この世の中で番号だけで呼ばれてくらしている人間をね。
人は殺せないから、番号を処分する。人が人を殺していたのではとても人は人の面を保てないから。処置する側の精神的負担を軽くするために。あくまで人道的に。そうか、囚人だけではなく、兵士も番号だったか。前半と後半で形こそ違えど、どちらも戦争を扱っていて、どちらが良いとは論外だが、まだ人が人を殺していたのが、近代以前の戦争の形。また「メトイコスの息子はメトイコスだ」
が、後半のテーマだったようにも思う。個の見解では、国とはそこに住む人たちのものだと思っているが。
2007年に著者も亡くなり、去年は病床の様子や過去のドキュメンタリィを見たりもした。これから15年も経つと図書館の書架からも消えてしまうのだろう。ドキュメンタリィの中で印象的だった言葉が、「戦争に正義はない」。これは去年、もっともガツンときた認識である。今も戦争で正義を綱引きすることがあるけれど、きっぱり下らないと結論に至った。その争いのしょうもなさ、人が人を殺して謝罪しない形がゆがんでいる。
まま、自分が右か左かを考える。どちらか一方に偏るには徹底的な経験が足りない。事実として、最大メジャの政党の姿勢すらあやふやな感じだ。結局、結論は先送りされるのだが、それでも左の正論に対し右は妥協しているとは思うから、左よりなのかな。本書の最後にも持ち上がったけれど、「相手が攻めてきたらどうするんだ」という可能性を示されたところで議論が止まる。攻めてきた場合、返り討ちにするぞという脅しで防衛することは、有効だった。その手段まで手放せない。ただし、世界に対してだんまりを決め込めば終章の題名よろしく「クソと泥・あるいは、消滅」
と化すのだろう。目を閉じればまぶたに焦土が浮かぶが、明日にも鼻につく匂いを嗅げるかもしれない。
溜まりにたまった更新プログラムをたんまりインストール。自動更新OFFなので、本来、まめに更新する必要があるのだが、危機感もなく悪い癖を発揮して溜め込んでしまう。でも、これだけの数を一瀉千里に片付けるとあたかも雑兵を薙ぎ払っているようで快感。
今日ぐらい、黒人大統領を話の種に盛り上がっても罰は当たるまい。明日からはどうだろう。
さて、歴史的な場面を衛星中継で見るのもよろしいかもとTVの前に陣取っていたけれど、神父さんの説法が始まり、神の国を痛感したところ挫けた。要するに、新大統領が演説する前に挫けた。
しかし、4年にわたる戦いの終点として見事な宴。日本の首相が交代したぐらいではあのどんちゃん騒ぎは生まれない。やはり国のリーダは交代ではなく誕生して、天地開闢する勢いがなければ駄目か。また参加してこそアメリカ人なのだろう。日本人は生まれてしまえば、それっきりだが、あちらは向かっていき純度を高めている雰囲気がある。よくアメリカ人には生まれるではなく、なるものだと言われているけれど、そうして、各々が求め描いている未来に賛同参画してなるのかもしれない。
国民性の違いは、お隣についても身にしみる経験が多くて、こちらは参加型ではあるけれど画一的だ。
降って湧いたように社会的格差、富の偏りが問題になっているが、100年前なら新大陸の大統領に肌の黒い人物が就任する道理がない不条理がまかり通っていたので、肌の色の違いで選別される運命からは多少なりとも外れた感はある。
その上で、富と権力の偏りが少しずつ分配されているとみるか、パイがそっくり移っただけで、偏り自体は解消されていないとみるのか、個人的には戦争に巻き込まれなければ少しずつでも、一歩一歩と社会は修正され改善していくはずとみているが、なんやかやと世界を受け立つ象徴的人物であることは間違いない。
当の黒人大統領は明日起つけれど、さる邪念が拭いきれない、超一流なのに、そんな国なんだよなあ。
まさか武器を持って立ち上がれとそそのかしているのではあるまい。怒りのみに駆られ左右された時代は(この国では)もう過ぎた。では、武器に代わるものとはなんだろう? 答えはスクリーンの中に!?
――あたかも宣伝、いったいこれはなんだ?
映画「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」。憶えているものだなあ。じつに懐かしい。特に、たっぷりとある原作の量感をいかにやり繰りし、2時間の映画に詰め込むのだろういった原作ファンとしての憂いと、反対にカットマンとしての監督の手際への関心は鮮やかなもので、実際の映画はハリーを中心に2時間ではなく3時間で活路を求めたが、もちろん収まるはずもなかった。もちろん、それは誰しも承知していたこと。完全再現など土台無理な相談なので、空気を読んで責めるやつもいないだろう。ただ、他の生徒の活躍の場面も見たかったし、ことごとく授業がカットされているのが口惜しいのだ。CGの出来栄えが素晴らしいからこそ、細部までというか細部を細部こそ見たいのに、あればそこには喜びしか存在しないというのに見られないのが口惜しいのだ。
そして、ディテールはカットして本筋を追う映画。その取捨選択、生殺与奪の権利は監督に握られているが、ラストの賞金のくだりはカットするかなあ。あそこで、ハリーが賞金を拒否して、ロンの兄弟の手に渡るシーンが月日を経た今も色褪せず胸に刻まれているほど好印象だったのに。真実のマネーショットをカット。あいつらハリーと読者のオアシスだぜ。特にこれからは殺伐とした世界で夢の魔法使いの形をした砂漠の一滴だろう。そういえば、「秘密の部屋」でも類似したことがあった。ああ、そうか、ロンの家族はディテールなんだ。だから、髪の色にもうるさく注文がつかないんだね。
あと、冥府からの失恋と袂を分けた孤独感も「炎のゴブレット」だったはず。それは次作へ回したのか。
ストーブの前に陣取っていても、一向に体の芯が温まらない。このまま未来の私は風邪を引くのだろうか。
2度あることは3度ある。ああ、もう名言の域!
身を切る寒さでおちおち眠ってもいられず、だからといって布団からも離れられず。
雪は残っているが、新たに積もるほど降りもしない。往来があるところは、雪が除かれているので助かる。冬至を過ぎて、日も伸びてきた。それでも冷え込む日々は続き冬将軍はこれからだ。
小田実著『XYZ』(講談社)、山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出書房新社)を借りた。ページ数で『また会う日まで』の上下どちらにも満たない『XYZ』の方が分厚く感じる錯覚の不思議。気配に威圧されているのか、重みがある……、って、あっ、正真正銘、重い!?
一年の計はどこへやら、それとも元旦に立てなかったのがまずかったのか。しかし、去年から流れではある。ともあれ、打ち立てた計の波とは、飽きるまで徹底的にたとえ沸き立つ地獄であろうと花咲く天国だろうと、また通俗な此岸であっても付き合ってやるとの一種の誓い。これまでは飽きないよう努めていた。この違いである。高嶺の花と憧れつづけ、手を伸ばさないことも飽きと離れ飢え得る術ではあるが、飽きてしまえば、それまでのことと潔く斬り捨てればよいのだろう。もちろん、読書とはいまだに学習で、いろんな文体と触れたい、ために、いろんな人たちの本に手を伸ばしたい、という思いは変わらない。
引き続き『源氏物語』。今日は『榊』に『花散里』。立場上、源氏の君も大人になってきた。源氏物語には、『榊』のような本編の流れに沿う充分な長さのある物語と『花散里』のように本編の脇に流れる短いSS的な物語があるけれど、私は短いほうを断然好む。話しの主賓となるガジェットは瀟洒で、引き際が良いからまとまりも良く、あとに残る余韻は艶っぽい。別れの物語だなあと思いを馳せたが、ふと考えてみればどの話も別れの物語だった。
雪が深いと眠りも深い。
ジャック・バーンズに負けじと日本の光源氏も稀代の女ったらし。目の疲労からお世辞にも回復したとも言えぬのに、空いた時間には何かしか読んでいないと間が持たない。活字中毒ではないけれど依存的ではある。ぼんやりを素直に味わえぬとは、時間に対して貧乏性になってきたやも知れない。
『源氏物語』を『葵』から遡るように再び読んでいたが、恋多きというより、いけない恋を病癖のようにするところが両者そっくりで、またよく泣き落ち込むので、僧侶ではなく、薬をくれる精神科医がこの時代にいたら助かっただろうなと現代の視線が入る。
手紙というか歌をもらえば、返事をせねば礼を失したことになると、歌を返すことは、メディアこそ変化したが、今の世のメールも年賀状も変わらない。変わったと痛感するのは、ひょっとしたら物怪が離れて死者がよみがえるやも知れぬと二日安置しているところ。まあ、生霊を見てしまうほどだから、仕方ないといえば仕方ない。それを諦めが悪いといえば、むしろ現代があまりに生死を数値化しすぎているのかもしれない。この頃は、人が死んだという事実を、病室で付き添う家族も心電図やらの計器で判断するらしい。人間らしさを求めるなら、呼吸や温もりが失われた時点ではなかろうか。
本を読みすぎたのか、目の疲労が尋常ではない。ただ、時間に比例してページを捲れる合理的な脳味噌を有しているわけでもないので、ただただ、字面と睨み合う時間は延びていただけなのかもしれない。ただただただ、余韻に浸る時間はたっぷりとっていると思う。引けを取らない部分があるとすればこの部分だろう。
しかしながらの記録的な眼精疲労。ここを見るのも限界。目も悪くなり多少はモニタ慣れしたとはいえ、元来、決してまぶしさに強いほうでもなく目が眩む。何故に自分のHPが自分の目に辛く厳しい色設定なんだとおもんぱかってみれば、実にくだらない理由を思い出した。自分では読み返さない想定であの色調にしたのだった。ちなみに背景が真っ白ではなく、黄色味を帯びていたのは、白い画面の反射はゲレンデの反射と同じで、多少は年老いてからの白内障を懸念してのことと、モニタに映る画面全体のバランスで、ひとつぐらい明るいページもありと考えるに至ったはず。
その上での緊急回避。ダメージ軽減を目的に色を落とすも、まあ極端。ついで、更新する予定の日記も思うがままに捗らず過去が堆積する一方なので、しばらく巡回を控えよう。こんな悩みが噴出するあたり、これでも昔よりは読み返すようにはなっているのか。昔はもっと読み返さなかったということか……。
色を落としたことでの、密やかな驚き。焦点が文字の白さに吸い寄せられる錯覚がある(寄り目がち)。すなわち背景の膨張色には注意が散漫となっていたのか。暗黒期に入ったわけではないけれど、照明を落としたぐらいと考えてもらえれば幸い。
眼精疲労の主犯。ジョン・アーヴィング著『また会う日まで』読了。リアクションタイムはすこぶる鈍かったと言わざるを得ない。読み始めて3日目、これは長いぞと感づく。1日100ページ読んだとしても、11日かかる。これをどれほど悠長に構えていたのかと窺わせる例として、正月にこれともう一冊読めるとのんきな夢を描いていたほどだ。借りなかった現実では直前に夢から醒め、一歩譲ったのにもかかわらず、けだし認識が甘くこの様。まったく感想を書くにもどこから手をつけようものかと腫れ物を触るかのごとく持てあまし気味だが、「あまり先のことを言いすぎない、よけいな挿入をしない、時間の順序を大事に……」
との教えを守り、順序良く書きましょう、か。――それにしても、自伝的物語とするならば、いったい誰にこの極意を教えてもらったんでしょうね……。ただ、基本は「フォレスト・ガンプ」のように大人になった主人公が、これまでの人生を振り返って突っ込みや注釈を挿む回想的な物語でありながらも、時折、その全体の流れに逆らう形で、小さく先が語られることがあった。おそらく、著者の胸のうちで極限まで膨張したイメージが時系列では抑圧できなかったのではないかと推察したが……。
あくまでドラマティック。どこもまでも翻訳もの。3日というのは、この本がなした形を辛うじて掴むに必要な日数でもあった。ああ、これは流せるドラマであり、読み返して現実に反芻する必要はないとの決心がついた。そして翻訳だから、徹底的に言葉を噛み締めたとて、著者の言葉を味わうわけではない虚しさが付きまとう。
ジョン・アーヴィングには、いったい、どういう支持層がついているんだと上巻の展開に戸惑う。それともジョン・アーヴィングといえどもこの程度で、小説とはこんなものかという失望。色んな小説に手を出せば、時折、あけすけなセックスにあふれた物語に出会うのだが、どう扱っていいものか、いまだ持て余し、現実にまた持て余した。その間、常に念頭にあったのは『人間失格』からの言葉。
美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でもないものを、主観によって美しく創造し、あるいは醜いものに嘔吐をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている
加えて、美しいものを美しく描いては吐き下すこともあるよなあ、と。
そうした、斜に構えた精神が覆った下巻。世界を照らす光の角度が変わり、死んだと見なした石が復活した。上巻は壮大な前フリで布石であったか。だが、いくらなんでも長い! それでも、この踊る饒舌がなければ、味わい得る感慨も喪失感もなかった。とはいえ、下巻に至らぬまま挫折、あるいは嫌気がさして離れた落伍者はいることだろう。事実、上巻は読まれた形跡があったけれど、下巻は読まれたどころか開かれてもいなかったらしく、ページが製本の糊でくっついたままだった。もっとも、流行から外れて好き勝手乱読しているので、はじめての人になるケースはままある。
しかし、驚いた。上巻が生の書ならば、下巻は死の書である。さすが自由奔放のフリースタイル、常軌を逸したゼロ・ミステリィ。なにがどうなるというよりも、なにがどこまで行くのかと、予断を禁じた。圧倒的ではないか。文字通り押し倒されたのは、そんじょそこらのミステリィに甘っちょろい僕、そして浅はかな私。胸のうちでこだまする「こいつぁ、てぇへんしくじった」の声。新年一発目からこんな化け物を相手にしたら、力量を痛感して挫けてしまう。本来、かませ犬を相手に少しずつ力を蓄え、自信を構築していくのがありうべき姿のはずったのに、まんまと逆にかませられた。去年の時点で読み切っていれば、文句なしにベストに輝いたやも知れぬ。ただ、なんの因果か今年に読んだので今年のベストに輝くかは明らかではない。
まず、ゼロ・ミステリィから。普通、犯人の逮捕とは無関係に、1)事件が起き、2)解決に至るのがミステリィの形である。それが、1)事件が起きずに、2)解決した。いや、事件は起きていたのに悟らせなかった。つまり、突如、0)から2)に達した。そしてどうなった? 開陳される事実過程に虚構の世界を闊歩していた意識は混乱を来たした。信じていた前提に裏切られる。誰もミステリィ小説とは呼ばれないかもしれないけれど、これは度肝を抜き抜いたミステリィ展開だ。
真骨頂を発揮するまでに上巻500ページも長かったが、結末までもはるか彼方。ピークにはとうに到達していて、「いつ終わってもいいよ」と読者である私が許可しているのにまだ終わる気配さえなく、始末が悪いことにいよいよ盛り上がる。否定的な書評では「くだくだしい」との意見も集中していたようだが、長いは事実で批判ではない。なんせ、「畢生の大長篇」
なのである。
まさに通常営業。活字では飽き足らず、なんとしても写真で見たい衝動が好奇心として抑えきれず、「ジェリコのバラ」を日本語と英語で検索してみたが、たいした図案は見当たらなかった。どれも質の劣る引っかき傷と出会ったのだろう。刺青とは縁遠く、メディアを通してでも目にする機会があるとすれば、入れるより消すときだ。ただし、刺青の最大の魅力であり長所とは、油性ボールペンと同じで容易には消せない部分だから、あとで消したくなるような図案を最初から彫ったら駄目だ。特に恋人の名前はよしなさい。刺青の失敗で脳裏をよぎるのは、さるドキュメンタリィで、韓国の少女が、あたかも耳なし芳一のように背中にびっしり漢字を彫っていて、それを悔やむ姿。あれは誤魔化せない、だからといって焼き消すにも一苦労だ。背中が焼き痕だらけになるから、残したほうが、賢明かもしれないけれど、残すにしても、なんとなく悪を気取った「悪」「乱」「罪」などという類の漢字を羅列しているだけで、詩にも散文にもならないものを彫っていたから、文字の意味を読めてしまうほうから見れば、加えて悲惨だった。ああいうしくじりはTシャツの図柄だけで充分だ。
テナガザルの群れ喧嘩は歌声勝負。そういえば、人間もジャングルの奥地や秘境と呼ばれるところでは狂喜しているのか、それとも威嚇なのか、出会いにそうした熱烈歓迎の様子を見ることがある。あれと一緒かな。一緒といえば、日本では旅館で仲居さんがずらっと並んで挨拶してくれるけれど、槍を持つ代わりに和服を着ているだけで、あの振る舞いも似たようなものだな。
――なんだか、マクロスみたいだった。1時間以上の熱戦だったが、実力行使もないので平和的である。
ノーチェクだったので、土壇場、直前のCMで放送すると知った「X-MEN ファイナルディシジョン」。3部作ならこれで最後となるのだが、そういう情報も知らない。バイクが様になるなあとうつつを抜かしていると、サイクロプスファンには無念という外ない展開であった。今後、映画を続けてゆくにはX-MEN側よりも敵の大義名分に問題がありそうだ。とにかく、アメコミは衣装がダサいことが汚点であったので、本当に脱いで良かった。これは毎回身にしみる。
しかし、あいかわらずCGの活かし方が上手い。実写として馴染ませる技術は頭抜けていると思う。特に壁抜けは今回もお気に入りのシーン。これらがあるからハリウッド版「ドラゴンボール」にもちょっとは期待を寄せているし、悲劇といわず、喜劇的に大量の亜流をも生んだ。
日本はどうしても、気というあやしげな東洋の神秘に向かうので、念力にしても、すべて体内エネルギィで説き伏せてしまいがち。他方、X-MENは西洋らしく作用範囲がむちゃはむちゃだが科学的な名残がある。ただ、女性が色香で男を惑わし、力を奪い取る様子は、山田風太郎のくノ一を彷彿とさせ、洋の東西を問わないないなあという印象。それこそ神話の域にまで到達して、物語りそうだ。一番人間らしいのだろう。
カレンダをそろそろかけかえないと過去の日付や曜日がわからなくなりそう。日付はまだしも、曜日感覚を失うと差し障りが出る。
そういえば、去年、壁にかけていたカレンダはトヨタのものだったと気づいたのは年末すれすれに来年のカレンダをせがんでいたときだった。1年間、身近に置いていたのに、気づきもしない。綺麗な道のカレンダだとは眺めていたけれど。道路だったり、家屋ばかりに注目して、下辺にあるトヨタのロゴをまったく無視していた。指摘されて初めて気づく。ともかく、デスクトップぐらいは対処しようと、ダウンロード(関東風和だし)。案外、これで十全!?
近所には屹立する立派な避雷針があるので、近くで鳴るよりちょっと遠くで鳴っているほうが、特に変電所の方角は停電の影響も受けやすいこともあり怖い。
あれ? 去年のCDの売り上げは、嵐がワンツー獲ったのではなかったっけと思ったら、見ていたのは、着メロランキングだった。なるほど、メディアが異なるとランキングも変わるんだ。しかし、1位は300万超えか。CDより大きい。
「ねとすた」。スタジオ(その言葉すら怪しきもの)が普段より狭くなったのだが、怪我の功名、いつも以上によかった。もともと、あのサイズのコタツに収まる番組なのだ。それにしても、4人体制でやっていたっけ? 1人足りない気もするし、いやいや、あの人数で当初からぶっちぎっていた記憶もあり、どんな錯覚だ?
――昨年の放送で、終わったなと自分の心に決着をつけていたのはここだけの話。
聖地巡礼。とても上手く描けている街の風景画に「写真みたいですね」と感想を述べること。綺麗な写真に「カレンダみたいですね」と感想を述べること。そうはなるまいと、陥りやすいニュースサイトにはならないよう気張り心掛ける日記。
押入れを整理していたら古い財布を発見。中になにか入っているようなので、ファスナを引いたら1円玉がたんまり。どうやら1円玉入れに使っていて、そのうちに存在すら忘れてしまったものらしい。今、使っている財布の中の硬貨を数えたら、998円あったので、1円足しておいた。
そういえば、この英和辞典はもう使わないから捨てようとぱらぱら捲っていたら、間に1万円札がはさんであってびっくりしたことがある。はさんだ人物は私以外に心当たりがないので、犯人は自分なのだろうが、すっかり忘れていた。というか、いまだにはさんだ頃の記憶はよみがえらない。結局、そういうこともあって、辞書を捨てるのを留まったけれど、1万円でも忘れるのだ。おちおち物を捨てられない。
2年4ヶ月続いたラジオ「彩雲国物語」も終了。ここまで続いているのが不思議なぐらいのテンションで、毎度しょうがねえから、聞いてやるかと寛容精神を発揮。
NHKの凄さか、関智一が下ネタを封印されているし、バックナンバが初回から残っているのもめずらしく、潤沢な資金力をうかがわせる。
昨日分解して、組み立てるときに、まあ、いいだろうと、メモリを逆にはめたのだが、それだけで見事にエラー。英文を読むかぎり、原因はメモリにあるだろうとは察しはついたものの、乱暴に扱ったいけない覚えもあるので、冷汗三斗。
しかし、工作の衝動は分解で、製作より破壊が生み出す創造だよなあ。
先月、先々月の日記がが過去最長の文字数と記したのに、あっさり一月で記録更新。むやみに長くなっていて、かつての優に2ヵ月分はある。2ヶ月連続というあたりのデータが常態を暗示しているようで不安が差す。
最近は、校長先生や骸骨でおなじみのチョーさん。すっかり逆になるのだが、あの頃から歌っていたんだな。チョーさん自体は記憶にないのに、あの歌と自転車のかごは記憶にある。でも、画面に映ったチョーさんは今も昔もそのままだった。まるで変わっていない。「ウエルベール」で地図書いたのが、はからずもの復習。
でも、ああいう番組って誰のためのものなのだろう。学校教育でたまにTVを見る機会が与えられるとはいえ、普段の小学3年生は黒板に向かっているし、夏休みなどの大型休暇以外で見る機会もない番組群なんだよなあ。
「冬休みだよ! ギャグマンガ日和」。夏休みも良かったが、早くも次の春休みが待ち遠しい。そのときは是非、かもさんの復帰を強く願う。
その「ギャグ日」の大地監督がお目見えしたのは、「アニメギガ」。1.5倍ギャグか。近年、考える暇を与えないスピード感のアニメの形について考える機会が多くて、小説の世界では、ジェットコースタなどと呼ばれていたりするのだが、ギャグアニメの世界では、15年近くも前に日の目を見ていたのだな。言われてみれば、ギャグアニメは前衛的だから、先どるも当然かもしれない。そういえば、漫才ブームと終わりと同時にテンポの早い漫才をダウンタウンがやってのけた。つまり20年も前には疾風怒濤の兆候は出ていたと。そして、それを少年時代から見て成長した。なるほど、熱々の湯で育てば、ぬるいと判断するものやむおえない場が増えるわけだ。
閑話休題。さすがギャグアニメ監督である。自らが出演する番組も笑わせてくれた。腹を抱えたのは殺陣の場面。軽く「やあ、やあ」やるんかなとなめきってたら、「剣客商売」なみの腕前を披露するものだから、笑いどおした。おまけに、かもさんが女性剣士として飛び入り刺客。いや、びっくりだ。不満というか「ギャグ日」の台本が漫画なんだという、度肝を抜く真相を全国の視聴者と共有したかったなあ。まあ、感受性が豊かなのがうかがえただけでも得した。ところで、司会の席順入れ替わってない? 気のせい?
ネット検索していたら、思いがけず、いまになって、アリーのジョン・ケージの名前の由来らしきものを知る。「4分33秒」などは「トリビア」で見ていたから、うまくピースがはまった。
ネットの世界に一度個人情報が流出すると回収できない。それはコピペのイタチごっこに陥って物理的(?)に不可能なことでもあるし、突き詰めれば、人の心にインプットされた個人情報は永久に消去不可能なのだ。だからこそ、慎重な取り扱いが求められる。それは個人情報でなくても、ブログの発言もしかり。そして、それらはネットの世界の話なのではなく、疑いもなく現実世界の話なのである。だから、政治家が失言して翌日には撤回すると発言して撤回するが、まあ、消えるものではないね。無事に消えるとすれば、そも叩く価値すらない取るに足りないものであったと忘れられている以前に、誰の心にも届いてすらいない。
5日に届く年賀状。ぎりぎり許容範囲。ま、届けばすれすれ。
手紙なんて、本当いつ出してもいいと思う。むしろ、年賀状の存在感が薄れた今だからこそ日常の私たちの手元に肉筆の手紙が舞い戻るかもしれない。
「旅をしなさい」との記事を新聞で読んだ。そうすれば、故郷がよく見えるらしい。登山家が山に登れば家に帰りたくなるのと同様だろうか(訂正、この例えは違った)。
とにかく若者の旅行離れが深刻で、これも車の販売不振と同じ構図だろう。特に珍しいものでもなくなったから、動機を失い、TVの影響は力をなくしたとはいえ外せない。いや、もっと厄介なことに力は消えたが、影響力だけが残った。迫力もなにも伝わらず、「ああ、こんなもの」と、所詮2次元の表現にすぎないTVを見て、失望のみ淡白に味わっているのだ。TVに対して本気でもっと見せ方を考えたほうがいいとは感じる。たとえばスポーツ中継。ゴルフとか野球とかサッカーは角度が悪すぎた。それでは、いくらハイビジョンになっても物足りない。職場とするアナウンサは感じ取っているのか、絵は変わらないのに、実況のみでどうにか盛り返そうとするから醜い悪循環を招く。
そういえば、海外どころか国内デパートにすら寄らず、コンビニやネット通販は好調のようだ。その情報を耳にしても、「そりゃ、そうだ」という納得いく次第。
アメリカの経済が見事につまづいて、それを叩く傾向が見受けられる。敗者は悪なのだ。いや、悪いことをしたから、負けたという論理展開か。ともあれクレジットカードで借金をして収入を超えた買い物をして払えなくなった。それを「馬鹿じゃないの」とは直截に言わないが、言っている。私には800兆円借金して、懲りずに道路を作り続ける国も等しいように見えるのだが。作った道路にしても維持費が大変なのになあ……。
個人消費が落ち込んだというけれど、むしろ収入を考慮に入れて、借金を回避しているわけだから、健全化している。
ニュースは不況一色。新春よ、いずこへ……。まあ、世界経済に正月休みがないのは、むしろ当然。されど、誰かが儲けてはいるのだろう。そういうゲームなのだ。皆が不幸になったわけではない。儲けた奴は闇に潜って口を閉ざすに限る。もし、どの国も儲けていないと主張するならば、儲けたのは国ではないのだろう。
昨夜、アメリカのニュースで、自動車会社に公的資金が投入されたと報道されていた。「公的資金」という言葉には馴染みが薄いけれど、なんのことはない「ローン」のことだった。この言葉には随分と馴染みが深い。それに比べて「公的資金」とはなんと伝播しにくいことか。その伝わらなさ、どこかで騙されている気がする。同じ意味を指していても、英語の「LOAN」は抽象的で嘘の入り込む余地がない。
MLAこと「MORI LOG ACADEMY」終了。この日を2年前から想像していたが、こんな日だったか。弱ったのは、明日からも代わりに読むものこそあれど、代わりになりえるものがないこと。もし代わりに読むものさえ失うようであれば英語サイトに進出かな、まるで目星がないわけでもない。振り返れば、ネットから離れる分水嶺になりえたやもしれぬ。
この最終回への文章を何度頭の中で組み立てては書き直したことか。始まりはいつだ。1年前か、半分に到達した日か。それとも1/3、あるいは終わりを告知された日だろうか。予想どおり最後の記事も特に盛り上げるわけでもなく装飾もなく普段のままとあっさりしたもの。こちらとて最後の記事を読んで、この文章を書くわけでもない。ややもすると、4年前から書かれていたものである。
夏前までは、滅入って落胆するしかなかった感情も、未来を考えた11月になると落ち着きを取り戻してきた。去年は意図的にピークを拵えMLA以外に10冊と2冊と1本と1回とガレージを味わったが、年5冊とペースを落とせば、まだ7年以上は読めることが計算できたからだ。悲しむには尚早という結論。ところで、MLAは書籍化すると13冊分である。今後読むかどうかとは、まさに神のみぞ知る(無神論者だから誰も知らない)。それはそうと、日課としていた楽しみが消えたのは揺るぎない事実。不安さえ曖昧な金融危機以上の痛手である。浮き草へと逆戻り。
ここを手本に日々文章の乱れを正していた。主に語尾、漢字の割合、接続詞、言い回しである語彙のチェックは欠かせない。サイトが違えば人格が変わったように語調も変わるので、ここが消滅するというのは、そうした意味でも大打撃。他で近いといえば、小説の形がもっとも近い。また、こちらは1週間遅れの不定期更新もざらなので、4日遅れの毎日更新が励みになっていたし、「前にも書いたが」と前置けば、くだを巻いても許されるものだと、自分が許したからこそ使えると実感したものだ。
もっとも私が私を好きな部分は、対峙したそれが真実だとしても、それから得た印象や認識に信頼を寄せていないところか。たとえば、森博嗣は小説は、あまり好きではないと時折打ち明ける。そして、私はと言えば、まあ、好きだ。さて、これら言葉の印象から、森博嗣は小説が嫌いで私は小説が好きだと結論付けるのは早計という外なく、むしろ真実は逆ではないかと疑っている。どこからその情報を読み取っているのかと言えば、好きではないと言いながらも、私よりは確実に小説を読んでいることがはっきりしているからだし、いくらビジネスでも嫌いじゃここまで作らないだろう。また、本を一度読めば内容を憶えているそうだが、これも自分の感覚からは隔たりがあるので信じられず、つまり、その不信を疑う。また同時に、私が思い描くほど一言一句ページ数と完璧には憶えていないのではないかと、あちらを疑う。これらはベクトルを思い出しますね。
鉄道関係には手を出すのだろうか。まるで現実味がないのだが、食指も微動だにせぬ飛行機関係よりは幾段可能性は覚える。けれど、毎日、産み落とされては、ごろごろと転がっている可能性の卵の孵化への期待値も飛行機への関心がないに等しく、判断をつきかねる。ちなみに、可能性とはZゲージ。鉄道に限らず、ミニチュアは好物で、トランクの中に作品を造ったアートがあるけれど、あれは素敵だ。作者の名前なぞ気にならないから名前はわからないけれど、作品には目を奪われた。作った人間の存在なぞ泡のように忘れてしまう魔力を秘める。本来、作品の姿とはこうあるべきだろう。銘なぞなとくとも、一目瞭然、良さなど見ればわかるし、わかりたい。レッテルで判断するのはいかがなものか。その点、小説は作者の名前の影響力が大きい。この世界に入り込んでいくほどに抜け出せなくなっていく底なし沼。しかし「森博嗣」は知らずに手を伸ばした。そしてMLAに至る。そもそも前身の日記には出会っているが、まるで関心を寄せず、興味の対象外であった。それを考慮に入れれば可能性は0でも100でも同列である。いずれ化けるかもしれない期待。MLAでもっとも面白かったのは、その妖怪大変化ばりの化けた部分であり、心境の変化だった。
妙な話、ファンとは公言できるのに、いや、ストーカを自認しても良いほどなのに、本人への興味はそれほどにない。変だろうか? 会いたいと切実に願う気持ちと同じぐらい普通だと捉えているのだが。まあ、「似ている」という地点が出発点だったので、正味、真摯に自らと語れば、そこで出会い語れるものとまだ希望的観測を捨てない。仮に一時間差し向かいで話したとて、本より得るものは少ない気もするし、どちらにしろ観察者に徹してしまうのだろうと察する。得てして読書とは自らと語りあう部分も多き作業。
――蛇足としてのストーカ自覚談。MLAの文章だけでは飽き足らず、そのうち、写真のファイル名で楽しめるようになり、ああ、ヤバイ道に染まりつつあると自覚。でも、写真の意図が伝わるタイトルもあるので、飽きず。まあ、書けるのはこれぐらい。この他は、自ら引くようなことがあって、そちらは反省したから書かない。ともあれ、一番接近した年ではあったろう。数年に一度、火星と金星と木星が接近して空に三角形を描くときがあるけれど、あんなものだろうか。本当はもの凄く離れているくせに、遠く(地球)から見ると近づいて見えるというやつで。本人たちはまっすぐ進んでいるつもりでも、ある程度まで進むと今度は離れていく。惑星同士ならまた会えるかもしれないし、2度と会えないかもしれない。そういうお近づきになれた出会いだった。今日も工作して、小説を書き、買い物して、工作する日々なんだろうな。
折角だから、記憶が鮮明なうちにざっと振り返っておく。次の機会は、すべてを読んだときかなといつのことやら……。文章化する前にちらりちらりと脳裏をよぎるものとして案外、付き合いが長いなあ。何度も書いたが、『すべてがFになる』を読んだときに、共感を得た。その前になると、今はなき「むくいぬ」経由からHPへ飛んだときだろう。その頃に3年11ヶ月ぶりに再開されるMLA以前の日記との出会いを果たし、その記憶もあるのだが、まるで関心を寄せずスルーした記憶もまざまざと残る。ひょっとすると既に日記が終了していたからよけい無関心に拍車がかかったかもしれないけれど、続いていたにせよスルーしていたことだろう。当時は今よりも目が良かったので、どのWEBコンテンツもモニタ上の文字を追うのが辛かった思い出ばかり。その前ともなると『すべてEになる』。書架に並ぶ黄色い『E』の装丁に花に誘われた虫のように何度か手にしたこともあるが、「日記」「厚い」「横書き」の内容に、飛び込む踏ん切りがつかずして、今に至る。MLAや『森博嗣のTOOLBOX』などのエッセィで、自分で作るより安上がりで、遥かに出来栄えの良いものが売られていると工作のふたつの動機の終焉を嘆く場面が書かれているが、「似ている」という感情を突き詰めれば、既製品に自ら考えるものより洗練された優れた問いが解答つきで書棚に並んでいたわけだ。安くて、出来がよくて、おまけに思考しなくても良いのである。この状況、誰に指摘されるまでもなく、人間としてまずいだろう。発した問いとは、普遍的な問いかもしれないし、下らない問いかもしれない。けれど、そんな問いも他にはなかった。これらを実際に読んだ時点で区切るAF、BFと分けて考えることは可能である。もし共通点があったとするならば、正体はものに対してのアプローチ角度だろう。異なるとすれば、打ったボールの飛距離の違いとティーグランドの数か。
これを機に、日記に一人称の「僕」をいただくのもありだし、クサナギが「僕」と名乗ったように、これまでどおり僕が「私」を名乗るのも面白いというか、まさに意図はそこにあったのだが……。ちなみに今、使っている「私」はスティーブン・キングの……、というより翻訳の一人称が「私」だったから。もし、これまでに「私」以外の「僕」や「俺」が出てきているとしたら、感情的な言葉ないし台詞だったはず。
ネットからTVへメディアを股にかけた経由。NHKでしゃべるというので拝見したら、いろいろと驚くことがあった。
まとめ。古代人と呼ばれる人々も現代人と呼ばれる人々も機能としては何ら進化していない。ゆえに根っこのところは、八十を過ぎた老人も二十歳をすぎた若人も感激するほど変わらないのだ。
昔はラジオでチームの情報を沿道で収集していたものだが、いまや情報源はワンセグか。無用の長物と思っていたら、入用なところでは役に立つではないか。
今年は、蕎麦も餅も一切口にしない穏やかな年末年始を送ったにも拘らず、それでも1キロも体重が増えた。まあ、梨はのべ3個は胃袋に通過しているし、噛み応えのあるスルメもよく食ってあごが筋肉痛になっているから、これを食ってないとすれば、ずうずうしい。
かつて、3キロ増えるだけ食べて死にそうになった正月の反省から、以後、食べすぎには年を通して気を遣っている。
偽装メール事件で踊らされた国会議員が自殺した。いや、随分前に辞職していたので元議員か。なにも死ぬことはなかったのに。悩んだだろうが、自殺に値するほどの罪を何一つ犯したとも思えぬ。ならば、なにが死に値するだろう。人殺しは自らの死を以って償えるだろうか。私は人が悪いので、死に誘われるときがあっても、生きていて欲しいと願う。
例年どおり、正月とてなにもしないのだが、それにしても、今年の正月は世間からも新春の熱気が伝わらない。あるいは、本ばかり読んでいて、TVを見ないからだろうか。そのちょっとしか見ないTVにしても、らしくない。通常営業のアニメには新年もなく実に変哲ない。
ハレが近所に鎮座ましましているので、季節で豹変する人の振る舞いに対しては、人格形成に影響しているとは思う所存。
年境の短いトンネルを抜けると、雪国であった。
ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートの様子が楽しい。華やかであり、上品な笑みである。でも、この時間から、ウクライナではガスが止まったのだ。オリンピックといい、正月といい、大きな傘に身を隠す芸能人がやるようなことを国家がやりおる。