
06/11/27 (Mon) 指揮者からのメッセージ 〜(55)
最初にオルガンまたはオーケストラによる前奏があり、ミサ通常文、そして解散の掛け声である、イテ・ミサ・エストまでが
作曲されています。終曲はオルガンのみ、または合唱つきの2つのバージョンが書かれています。
1.イントロイトゥス〜典礼において、キリエの前に置かれる部分だが、ここでは器楽で書かれている。音楽のモティーフは
キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)と共通している。またこのモティーフは、アニュス・デイの末尾につく
ドナ・ノービス・パーチェム(われらに平和を!)にもまた使われている。このミサの中心となるモティーフである。
2.キリエ〜前項で述べた、キリエ・エレイソンのモティーフのあと、クリステ・エレイソン(キリストよ、憐れみたまえ)の
跳躍するモティーフによる音楽、それからまたキリエのモティーフの音楽が置かれている。
3.グロリア〜天にいる神には栄光、地にいる善意の人には平和があるように・・と始まる、典礼の中で、最も歓喜に満ちた
部分である。そのため、死者のためのミサ等にはグロリアは含まれていない。ここでは音楽もまたやはり歓喜に満ちている。
中間部分のクイ・トリス・ペッカータ・ムンディ(世の罪を除く者よ)ミゼレレ・ノービス(われらを憐れみたまえ)だけが、
慈悲を求めるような音楽である。この部分の最初のモティーフは、後にアニュス・デイの中での同じミセレレ・ノービス
の部分に、後半使われるモティーフはアニュス・デイ(神の子羊)という言葉に少し変形されて使われている。
4・クレド〜典礼の中で中心的な箇所であり、言葉の内容も変化に富んでいる。それに従い音楽も様々な素材が使われ
やはり変化に富んでいる。信仰告白と呼ばれるこの典礼文は、超シンプルにいうと「父と子と精霊の三位一体なる神を信じ、
教会や洗礼を信用する」ということになる。その中で、この音楽では、様々な言葉や文に相応しい素材の音楽を充てている。
「(父なる神の造った)この世の物質や精神」と言う言葉や、「神の中の神、光の中の光」といった表現また「(イエスが)
天から降りる」などに充てられた素材を見ていただきたい。中間部分の神秘的な「神の子たるイエスが人として肉体を得る」
そして「十字架上で受難し、埋葬された」という箇所では「アニュス・デイ(神の子羊・・全人類のための犠牲)」と
同じモティーフも用いられる。「(イエスの)復活、昇天」といった喜びの箇所では一気に音楽が進み、「精霊への信仰」
「教会」「洗礼」といった概念には、クレドの曲頭の主題と同じ動機が使われ、歓喜のアーメンで終わる。
5.サンクトゥス〜英語でいうSaintである。漢字で表せば「聖」通常は「聖なるかな」という翻訳が充てられる。
「サンクトゥス」の動機は、新しいものだが、グロリア、クレドなどの主動機と関連がありそうだ。後半の「オザナ・
イン・エクシェルシス」はコダーイのミサに限らずだが、「サンクトゥス」の喜びを、更に大きく膨らませるような歓喜の表現
となっている。このモティーフの3度の動きは、「クリステ・エレイソン」の動機と同じ形をしている。
6.ベネディクトゥス〜英語ならBlessed、「祝福された(人)」という意味である。動機は3度の動きが「クリステ・エレイソン」
と同型、2度で上下する旋律線も特徴的だ。
後半の「オザナ」は、ミサ曲ではサンクトゥスと同じ音楽が繰り返されることが多い。
やはり歓喜を大きく膨らませることに変わりはないが、ここでは変形が施されている。リズムパターンは同じだが、
まず5度下降の「オザナ」で始まり、サンクトゥスを超える大きな膨張を伴い、3度の動機が何度も繰り返される。
7.アニュス・デイ〜「神の子羊」聖なる犠牲者と言い換えることができるか。動機の形を見ると、「アニュス・デイ」は
グロリアの中間部の「ミセレレ」と似ており、クレド中間部の、イエスが「肉体を得る」という神秘の場面の音型と
同じであり、「クイ・トリス・ペッカータ・ムンディ」はやはりグロリア中間部の同じ言葉の旋律とまったく同じである。
が、グロリアの中でも、慈悲を求める音楽だが、ここでは、十字架の痛みを感じさせるような音楽に変容している。
痛みを感じる中にも、音楽の頂点では、恩寵ともいうべき明るさを音楽は表し、「ドナ・ノービス・パーチェム」
(われらに平和を!)と語る。次に、音楽は場面を変え、この「われらに平和を!」の言葉が
「キリエ・エレイソン」そして「クリステ・エレイソン」と同じ音楽で歌われる。
「われらに平和を!」はこのミサ曲のもうひとつのテーマともいえるコンセプトである。
コダーイが、この曲をオーケストレーションしたのは、第2次大戦中の空爆に曝されるブダペストにおいてであったのだから。
8.イテ・ミサ・エスト〜「終わった、解散!」ということで、通常はミサ曲においては作曲されない。ここではこの掛け声を
一気に叫ぶようなフレーズで表現している。そのあと「神に感謝を!」「われらに平和を!」と続く。アニュス・デイの中
にも「われらに平和を!」が歌われていた。アニュス・デイでは、最初に、恩寵の明るさで歌われ、その後すぐに
「キリエ・エレイソン」と同じ動機を使い、慈悲を乞うかのような祈りとなっていた。
ここでは同じ「ドナ・ノービス・パーチェム」にグロリアの主題に似た喜びが感じられる。
最後の「アーメン」はこの「イテ・ミサ・エスト」の最初の主題を引き伸ばしたようなフレーズに造られ、全曲を締めている。
06/11/22 (Wed) 指揮者からのメッセージ 〜(54)
いよいよラストステージ、ハンガリーの作曲家で、教育者、また自国の民謡採集でも名高いコダーイ・ゾルタンによる
ミサ・ブレヴィスです。ハンガリーは、20世紀前半までは、現在のスロバキアや、ルーマニアの一部を含む広い領土を
持っていました。コダーイが自国の歌という認識を持って、ガーランタ舞曲等の素材に取り上げた歌の中には、そのような
地域のものもあります。また、教育論としては、ハンガリーの伝統的な地の歌を元に、ソルフェージュを体系的に行うという
ことなどが含まれます。いずれにしろ、強い民族意識の中で活動しており、その合唱曲も民族の歌といえるようなものが
多くなっています。
そういうコダーイにとって教会音楽とは何だったのでしょうか?ヨーロッパの国々のほとんどは
キリスト教文明圏に属していますから、教会音楽が存在しています。教会は偶像崇拝の排除ということと、並行するように、
祈りを歌にすることを行い、それは実に豊かな音楽の1ジャンルを生み出すこととなりました。
私たちは東洋の島国においても、その豊かさに目をみはり、違った伝統から生まれてきたものであるにも拘らず、
時には、その音楽にのめり込んでいったりもするのです。さて、教会音楽といっても、教会の歴史の複雑さから、様々な種類の
ものが生まれました。日本において最もポピュラーなものはカトリックの典礼音楽かもしれませんが、プロテスタント系の各
宗派に固有のものや、またカトリックもプロテスタント諸派も含めた西側の教会と、かつて袂を分った形になっている、いわゆる
正教(英語でオーソドックスと言います。ロシア正教、ギリシャ正教、グルジア正教、ブルガリア正教といった具合に国ごとに
名乗ることになっています。東ローマ帝国の宗教であることを起源とし、即ちギリシャや、ほかには主としてスラブ諸国に
広まっています)の音楽もまた固有のものを持ち、ロシア正教の音楽などはある程度ポピュラーになっています。
このような話になると、限りなく脱線し、コダーイなどはどこか遠くにいってしまいます。何故こんな話になっているかと
言いますと、ハンガリーとキリスト教の関係が気になっているからです。西暦1000年(ちょうど!)にイシュトバーンが
ハンガリー王として戴冠します。王様は世界中どこにもいますが、この戴冠という概念は、ローマ教皇が、「ハンガリー王は
お前である」と認める、ということですから、ハンガリーと西のキリスト教がはっきりと手をにぎったのがこの年だということに
なります。それ以前からキリスト教のハンガリー人はいたでしょうし、そうでない人たちもいたことでしょうが、この年を
もって、明確にハンガリー<西のキリスト教国ということを宣言したということになります。以降現在に至るまで、
カトリックの国というアイデンティティーは続いています。
ところで、ハンガリーの人たちは、よくフン族の末裔か?などの説もあるように、実際、元々ウラル山脈の麓に住んで
いたのが、西に向かって移動し、パンノニア(現在のハンガリー付近)まで行って、ヨーロッパ人たちと話をつけて、
そのあたりに住まうようになったのだと言われています。そんなことから、ハンガリー人は元々アジア系の民族というような
言われ方もします。名前の呼び方については、日本や中国と同じように、先に姓を言って、個人名を言います。したがって、
コダーイ(姓)ゾルタン(名)となるわけです。そのようなわけで、ヨーロッパの国々の中で、何か他とは違った
特殊な親近感のようなものを感じられるように思うのです。
確かにコダーイの書いた音楽には、特異な香りのようなものがあり、それは、世俗的な、というか普通の世の中のことを
題材にした歌でも、宗教を題材にした歌でもどちらにも感じられるものです。無論、日本の伝統音楽とはまったく違った匂いです。
しかしゲルマン系やラテン系にはなく、またボヘミアやポーランドなどスラブ系とも明らかに違った匂いを持っています。
それが、ハンガリーの土の匂いとでもいうものなのでしょうか。ハンガリーというとチャールダッシュのようなスパイシーな
音楽も特徴的なものではありますが、もっと、昔から持ってきたようなものというような、そんなコアなものではないかなと
想像することがあります。ひょっとすると、ウラル山脈の麓から・・・
ハンガリー人はキリスト教を受け入れる前は、どんなことを信じていたのでしょうか?やはり古代ギリシャや日本のように、
多神教なのでしょうか。どんな神様(精霊)がいたのでしょうか?音楽に漂う土の香りというものは、民族が固有にずっと前から、
長い時間を越えて持ってきているものなのでしょう。で、コダーイの教会音楽に香る、民族の香りを大事に扱いたいと思うのです。
教会はそういうものを飲み込んでいるはずだと思います。
典礼をテキストとした音楽として表現するときに、人間としての想像力を目一杯働かせていきたいと思うのです。
そうでないと必ず、信仰の壁にぶつかってしまいます。幅の広い、人間としての視野を生かして音楽に向かいあったとき、
巨大な思想体系・哲学が、世界観・人間観がそんな想像力を受け止めてくれるようにと願うのです。
06/11/14 (Tue) 指揮者からのメッセージ 〜(53)
そろそろ、実際に歌う曲のひとつひとつについて、見ていきたいと思います。主な3人の登場人物のほか、ひとり、
メグ・ジリーという女性がからんできます。どの曲もだいたいが対話、もしくは、独白になっています。
1.Think of me ドタキャンのプリマに代わって突然歌うチャンスの巡ってきたクリスティーヌが歌い始めるのが、
この歌です。まだ半分子供だったころに別れて以来、会っていない人(ラウル)への思いです。とわの愛なんか
誓ったわけじゃないけど、でも貴方のことを忘れていないわ・・・
偶然それを客席で聴いていたラウル「えっ!あれはクリスティーヌではないか?あんなに美しくなっているなんて!
彼女はもう忘れてるかもしれないが、俺は忘れていないよ」
2.Wishing you were somehow hear again 大好きだったお父さん。クリスティーヌはそのお墓に逢いにいきます。
「音楽の天使は確かにあの人(ファントム)なのかしら?教えてお父さん!
お父さんに、もう一度会いたい!あんなにあったかくて、優しかったお父さん!
でもここにあるのは冷たいモニュメントや石の彫像、こんなのはお父さんじゃない!そうよ、お父さんは帰ってこないのよ。
さよなら、と言わなければならないのよ」
3.The music of the night クリスティーヌは、ファントムの声に誘われるまま、地下の迷宮に入っていきます。
ファントムはクリスティーヌの耳元で囁きます。「ここには素晴らしい夜の世界があるのだよ。お前の知っている、
あのぎらぎらと明るい昼の光ではなく、この夜の世界こそが、お前の感性を高め、魂を飛翔させるのだよ。この陶酔に
身をまかせてごらん。夜の音楽に耳を傾けてごらん」ファントムの歌は3コーラス繰り返され、段々に、
その言葉は強さを増していきます。そして「お前は、俺が書く夜の音楽の力に屈服するのだ」と言い、また「お前だけが
俺の音楽を飛翔させることができるのだ。お前の助けが必要だ」と言います。
4.Angel of music ストーリーでは、この4番と次の5番は、3番よりも前でないとおかしいのですが、今回の組曲では
必ずしも、音楽上の必然性がドラマのストーリーとは一致していません。悪しからず・・・
この歌のモティーフは、ミュージカルの中では、ファントムを表すライトモティーフのように、何度も繰り返し登場します。
ここでのこの「音楽の天使」の歌は、クリスティーヌとその友人メグ・ジリーの対話になっています。即ち
「彼はこの部屋のどこかにいて、私を呼んでいる、彼は天才よ、でもその姿を見たことはないの」とクリスティーヌ
メグは「あんたは夢を見てるのよ!あんたの言ってることはまるで判じ物よ。あんたらしくもない、しっかりして」
しかしクリスティーヌは「音楽の天使が私を守り、導いてくれる」と姿の見えぬファントムに迷宮へと引き込まれます。
5.The Phantom of the opera クリスティーヌ「彼は夢の中に現れ、その声が私を呼ぶ。オペラ座の怪人は私の心の中にいるの」
ファントム「そうだ、又一緒に歌うのだ。ますます強く!ファントムはお前の心の中にいるのだ」
クリスティーヌ「彼の姿を見たものは恐ろしさにあとずさりをするのよ、私は、私の声は、その姿を隠すマスクなのね。
彼の魂と私の声がひとつになるのね。彼は人間以上のものなのよ。ああ、迷宮の中では、何も見えなくなってしまう。
でも怪人はここに、私の心の中にいる」
6.All I ask of you しかし、やはり最後は、若い貴族のラウルとクリスティーヌの愛のデュエットであります。
ラウル「闇の世界の話はもういい!あの恐ろしい姿を忘れるんだ!僕がここにいるから、君を守るから。
どんな時も僕を愛すると言ってくれ。僕たちは、ひとつの愛と人生を分かち合うんだ。そしてそれが真実だと言ってくれ。
それだけが、ぼくの望みだ」これに対しクリスティーヌもその思いに応えます。「貴方の行くところならどこにでも行くわ!
愛していると言って」と。
絵に描いたようなベタなラヴソングではありますが、その背景に、嫉妬に狂うファントムがおり、また一見ラウルと
クリスティーヌのハッピーエンドに見える「オペラ座の怪人」というストーリー全体に、
その物語の最後までファントムの影が覆いかぶさっている、というところに、この物語の深淵が見られるのであります。
06/11/10 (Fry) 指揮者からのメッセージ 〜(52)
続いては、そのファントムに見込まれたクリスティーヌ・ダーエという女性を紹介しなければなりません。
クリスティーヌ〜パリのオペラ座でコーラスを歌っている。父親も音楽家であったが、すでに亡くなっており、
この物語では、クリスティーヌの思い出の中だけに登場している。クリスティーヌはこの父を大変愛しており、
父の死から立ち直ることができず、その影をずっと心に引きずって生きている。父が生前言っていた言葉が
クリスティーヌの心に残っている。それは「音楽の天使が、私に代わってきっとお前を導いてくれるだろう」というものである。
それゆえクリスティーヌは、ファントムからの秘密のレッスンを「音楽の天使」の導きと受け取っている。
そんなある日、クリスティーヌに主役を張るチャンスが訪れる。ファントムのレッスンを受けていた彼女は、
見事な歌を披露し、そのチャンスをものにする。しかし、たまたまそのステージを客席で見ていたのは、幼馴染の青年
ラウルである。クリスティーヌには、ファントムに惹かれる心はあるのだが、久しぶりに再会したラウルの愛を受け入れる。
やがて嫉妬に狂うファントムによる、クリスティーヌ誘拐劇が起きる。
さて、そこでもう一人の登場人物、ラウルであります。
ラウル〜ストーリーでは子爵となっている。クリスティーヌ・ダーエとは幼馴染である。パリの舞台で歌うクリスティーヌの
美しく成長した姿を見て、恋の炎を燃やす。やがてファントムの存在を知ると、
クリスティーヌを目覚めさせようと懸命に語りかけ、愛を告白する。
ファントムとの対決を重ね、暗い地下の「闇と恐怖」の世界から、何とか救い出そうと、最後は決死の行動で、
地下の迷宮に乗り込んで行く。
以上人物紹介を終わります。ラウルは命がけの救出を行い、クリスティーヌはファントムの愛を拒み、ラウルと結ばれる。
ファントムは永遠に人々の前から姿を消す。原作の終末はそこまでである。
06/11/10 (Fry) 指揮者からのメッセージ 〜(51)
ところで、「オペラ座の怪人」のあらすじを書こうとしたのですが、「あら」筋とはいえ、
どこまで”粗く”したらよいかわからないし、掲示板その他でもかなり取り上げてもらっているので、ここではカットします。
かわりに主な登場人物のプロフィールを紹介してみようかと思います。ただ、わたし自身、ルルーの原作を日本語で読んだほかは、
ニューヨークで、ミュージカルを一度、だいぶ前に古いモノクロ映画をひとつ、あとは最近のジョエル・シューマッカー監督
による映画を見ただけです。やはり最近の映画がもっとも印象に残っていますが、その程度の「オペラ座」体験を元にした
限られた範囲の人物把握ということになりますが・・・まずはファントムの紹介から・・
ファントム〜その顔に大きな傷乃至変形をもっている。いつのころからか、パリのオペラ座の地下に、迷宮を造り、
隠れ住んでいる。音楽に秀でた、いわば異形の天才である。そのオペラ座のコーラス隊で歌っていた若いクリスティーヌに惚れ込み
自分が直接姿を見せることなく、秘密のレッスンを行い。クリスティーヌはプリマの座を争うまでに成長する。
自分の秘密を知った人物の殺害や、他の男と愛し合うようになったクリスティーヌの誘拐、その際、オペラ座のシャンデリアを
人々の上に落とす、など犯罪者でもある。
がまた「特異な姿や生い立ち」、クリスティーヌに向けられる「愛の一途さ」、「音楽の才能」などの属性を併せ持つ
複雑極まりない人物であり、かつその心底は限りなく深い悲しみなのであろう。
クリスティーヌ誘拐事件の後は、消息を絶ち、誰もその行方を知らない。
シューマッカー監督の映画のエンディングでは、後年クリスティーヌが亡くなったあとという設定の場面で、
その墓が写されるが、そこにファントムからのものと思われるバラの花が置かれている。
06/11/9 (Thu) 指揮者からのメッセージ 〜(50)
さて第3ステージに入ります。曲はミュージカル「オペラ座の怪人」から6個のナンバーを選んだ組曲です。
作曲はアンドリュー・ロイド・ウェッバー。華やかなMasquaradeや強烈なPoint of no returnが入っていないため、
地味目の選曲と見えるかもしれませんが、主な登場人物である、ファントム、クリスティーヌ、ラウルなどの内面を
表す曲ばかりで、そういったことに拘った選曲と言ってもよいでしょう。
「オペラ座の怪人」というと、’86年にロイド=ウェッバーの作曲した、ミュージカルとしてポピュラーになっていますが、
原作はガストン・ルルーという作家による小説であります。パリ・オペラ座の地下深くには、何か得体の知れぬ化け物が
住み着いているのではないかと噂される。小説には、その怪人=ファントムの前歴が語られたり、イラン人やラウルのお兄さんが
登場するなどもう少し複雑な設定があるのですが、タイトルロールである、ファントムの心性とクリスティーヌの心の揺れ
がこのストーリーのドラマの方向を大きく決定付けていることから、単純化した形での舞台化・映画化が十分可能になって
いるのでしょう。この作品そのものは何度も映画化されていますが、やはりウェッバーの音楽の力は大きく、今回のステージも
それだからこそ存在しているのですから。
06/11/9 (Thu) 指揮者からのメッセージ 〜(49)
負の感情を前面にだし、「ぼくの中を掠めるもの」は呻き声から、大きな叫び声になり、
叩きつけるような激白となるが、オスティナートのムーヴメントは、突然、打ち切られる・・・そして
道造の次のうた「唄」への前奏が始まる。病んだ心に希望をもたらす、ピアノによる,今度は、優しい光のムーヴメントだ。
病の小康を得た道造は、旅にでる。北へと旅にでるのだった。行き先は盛岡。秋の盛岡は陽光も柔らかく、
詩人は森の木々の中をそぞろ歩く。そこには1本の林檎の木があり、「その実が赤く熟れているのを、わたしは見た」
それは、病に苦しむ道造には「命の木」と見えただろう。なぜなら、林檎はあまりに瑞々しく熟れ、木漏れ日はこんなにも
優しく、空は高く、鳶が舞う。「命」といえるもののすべてが、詩人の身のまわりに輝いているのだから。
「よいときをえらんだ、わたしは生きられる!」そして「わたしは、一日中うたっていた」
「唄」というタイトルにふさわしい甘美な旋律が次々と展開し、再びピアノの優しい光のカデンツァで結ばれる。
しかし、その小康は束の間の希望でしかなかった。一旦東京へと戻ったあと、すぐに今度は南国・長崎へと旅だつが、
その旅先で、喀血し、また病の床に伏せてしまうのである。終曲「南国の空青けれど」への前奏は、詩にある語句や表現の
直接の転写ではなく、病に倒れた詩人の心の叫びであるように思われる。そして
「南国の空青けれど、涙あふれてやまず、道半ばにして道失いしとき、ふるさと遠くあらわれぬ」旅の途中である「道半ば」
また人生のわずか20数年での死の病ゆえの「道半ば」でもあろう。立原道造の生きた時代を象徴するの如く、逆付点の
日本のリズムが足を引きずるようにゆっくりと進んでゆく。テンポの変化や、日本のリズムと激烈な器楽的なピアノ伴奏の
組み合わせなど、着想が変化に富み、飽きることがない。そして・・・
「老いたる母の微笑のみ、わがすべての過失を償いぬ。花なれと、鳥なれと願いしや」という優しさ。しかし、常に優しさと
激烈さが入れ替わりに現れて、再び心の叫びを聴き、
そして終に「わが渇き海飲み干しぬ、かなたには帆前船たそがれて、星ひとつ空にかかる」と結ぶ。
晩秋の日の早い夕暮れなのであろう、その結びに詩人の見ている光景のなんと、胸締め付ける如くに、悲しいことだろう。
初め偶然に目に入った星が、4小節の後、詩人の心の救いとなったかのように、
音楽はその情感に実に豊かな膨らみと、陰影とを与え、
すべてを空とその星とに委ね、虚空で停止する。
06/11/8 (Wed) 指揮者からのメセージ 〜 (48)
シューレアリスムの絵画を見るような、(これは、現実離れした、自分のこころの中を覗く見る体験に似る)
幸せな第1曲、しかし「ギリシャ」という記号の持つ、多面性、複雑性をその奥底に秘めて、組曲は第2曲へと進みます。
「ぼくの中を掠めるものは、いつもとどまれ、おまえはうたえ、僕の歌よ、おまえは息をつまらせて明るい時の下で死ね」
この曲のタイトルロール「ぼくの中を掠めるもの」はいつも、自分の中にいて、うたう。そして息をつまらせ死ぬのだ。
心は痩せ、乾枯らびても、歌はいつも自分の中にいて、そして自分を噛みつくし、脳天の上でへどを吐け!
これらの激しい言葉で、絶望と、後悔と戦い、すべてをうたにし、うたい続けようという決意を吐き出している。
「後悔よはばたけ!」「僕を掠めて飛ぶものはいつもかがやけ!」「おまえはうたえ!」「明るい時の下で死ね!」と
ピアノの反復音によるオスティナートと声のグリッサンドを重ねた表現、擬音効果や語りに近い声の表現の多用は
原色を使った現代絵画を思わせ、この詩の生々しい言葉が、強い表現主義的インパクトを持った音楽になっています。
06/11/7 (Tue) 指揮者からのメッセージ 〜(47)
この組曲の第1曲目は、「もし鳥だったなら」組曲全体のタイトルにもなっています。
「もし鳥ならギリシャの柱のてっぺんで、朝日の詩を詠おう」音楽はまるで白昼夢の中にいるような、
シュールな感覚で始まります。鳥は「オリーブの木に囲まれた神殿の柱」の上にいる。すると
「青空に向かって落ちてゆき、鳥の形した雲になり、また新しい詩を詠う」ここで音楽は新たな展開を見せます。
そして「もう後悔や迷いはない、ギリシャの光のなか、朝日の詩を詠おう!」と鳥は空高く飛翔します。
道造はギリシャを訪れたわけではありませんが、この明るい詩が地中海世界の、わけてもギリシャを舞台にしている
ということが、そしてこの組曲のオープニングにこの詩が置かれていることが、道造の生涯を描いているような
この組曲の幕開けをなんと引き締まったものにしていることでしょう。
話は大きく迂回してしまいますが、ヨーロッパ人にとって、とりわけ、北ドイツなど暗く冷たい風土に生きる人々に
とって、昔からアルプスの南、暖かく、光に満ちた地中海世界は永遠の憧れでもありました。その中でもギリシャは
風景としての明るさと「民主主義」という価値観を2000年以上も前に揺籃したcountryという意味の2つの面を持って
います。ところが更に、「ギリシャ」は東ローマやトルコの時代を経た「オリエント」としての性格も併せ持っています。
これは、「近代」的価値観からいえば、遅れた、貧しい地域という記号にもなります。古代においては、西ヨーロッパより
遥かに豊かな地域だったのですが。その複雑さが独自の風土性を醸し出すのだという見方もできるのです。
この明るい第1曲は、明るいだけで終わらず、ギリシャの複雑な風土を触媒として、
次の刺激的な第2曲「僕の中を掠めるものは」へと進んでいくのだ・・・と私は夢想しています。
06/11/6 (Mon) 指揮者からのメッセージ 〜(46)
第2ステージは、立原道造作詩 信長貴富作曲による、「もし鳥だったなら」です。
詩人の立原道造ですが、建築家であり、絵描きで、詩も書いたというマルチ人間であります。
東京帝国大学(第2次大戦以前です)建築科を卒業し、設計事務所に就職します。新郎の紹介ではないので、
こんなことはどうでもよいのでしょうが、立原道造を語ろうとすると、どうもこの経歴を避けて通れないように思えます。
俗にいえば、これが詩人の本職であり、今でも道造の書いた設計図が残っています。そしてそのうちのひとつは
「ヒヤシンスハウス」と呼ばれる家で、設計図をを元に死後に建てられ、今も埼玉県内の公園に存在しています。
絵のほうですが、マルチといっても、設計に携わる人間は大概絵心を持っている人が多いですから、詩人にとって、
設計と絵とはどこかで連動していたのかもしれません。
ところが、もうひとつの才能である詩を読んでいると、こちらのほうも絵画的なイメージを内包しており、
彼自身の描いた絵がそこに、挿絵のように重なってくるのが感じられます。
今回演奏する組曲にテキストとして採られている詩も、絵画的なイマジネーションに満ち溢れています。
となるとやはりこの3つのことは、ひとつの同じ源泉から湧いてでてきたものなのかもしれないと想像してみたりするのです。
詩人について次に触れなければならないのは24歳という、その享年であり、そして享年とは直接関係がないように
思われるけれども、何故か同時に思い起こされる「旅」についてであります。
その不思議なシンクロナイジングには、一方でははっきりした理由があります。それは、喀血し病に倒れたあとの2度の旅。
北国盛岡へ、そして南国長崎へ。盛岡では、病が小康を保ち、生への自信を取り戻しています。そして東京に戻るとすぐに、
今度は長崎へ旅立ちますが、そこで、再び倒れてしまいます。そして、その3ヶ月後にこの世を去るのです。
24才という若さでの旅立ちでありました。このように、その人生最後の局面に旅が係わっているという事実があります。
また他方では、この音楽を演奏しようと、立原道造のことを考えていると、詩人の人生において、
「生」「旅」「死」という漠然としたトライアングルが詩人の持つ、軽い「放浪癖」とリンクしてくるからであります。
詩人の「いつも唐突に旅にでる自分を許してくれ」といった母への手紙が残っています。
06/11/2 (Thu) 指揮者からのメッセージ 〜 (45)
44では、イエスの受肉という奇跡があり、それへの「信仰」が存在する、その背後には、というか前提、あるいは理由として、
人間自身の矛盾がある、それゆえの苦悩、悲惨、罪や恥というありとあらゆるものがある、と書きました。
そして、このAve verum corpusでは、誕生に続いて「真の体」のその後が語られます。「真に、苦しみ、十字架上で
人類のため犠牲になる。槍で脇腹を刺し貫かれ、血を流し・・」といった具合です。
なぜこんなことを言わねばならないのか・・・・・・・
しかし苦しみは万人にも訪れます。
さらにこの歌は「私たちのさきがけとして、死の苦しみという試練を受けた」と結ばれます。
モーツアルトのウイーン時代後期の手紙の中には、「死を身近に感じます」といった表現が見られ、
事実、天才モーツアルトは晩年、現世での不遇に苦しみ、若くしてこの世を去ってしまいます。
そんな中モーツアルトの書いたこの音楽が、ありとあらゆるものを赦し、昇華しているのです。
そこにひとりの人間モーツアルトの人生を重ね合わせてみたとき、
その音楽のもつ静謐さに心打たれ、涙せずにいることができません。
06/11/1 (Wed) 指揮者からのメッセージ 〜 その44
第10回クールファミーユ定期演奏会演奏曲目の作品紹介をします。当日のプログラムにも作品紹介を載せますが、
ここでは、もっと自分の思いつくままに、書いていきますので、あとで読み返して、あれっ?と思えばどんどん
書き換えていきます。悪しからず。さて今回は第1ステージの曲、Ave verum corpus です。
今年はご存知のように、モーツアルトの生誕250年にあたりますので、モーツアルトが死を目前にして書いた、
この美しい小品を、オープニングとして演奏することにしました。モーツアルトは12月に亡くなっているので、
その意味でも、この曲で12月のコンサートの幕を開けたいと思いました。
このラテン語のタイトルですが、Aveとは褒め称えるというか、言祝ぐようなと時にいう「幸いなるかな」とでもいったような
言葉、verumが「真実の」corpusは「体」です。いうまでもなく、「真実の体」とはイエスの体をさしています。この歌では、
この後、「マリアから生まれるが、私たち人間のために十字架での受難を受け・・」と続きます。
ところで、この曲の中には、出てきませんが、例えばミサの中のクレドの中間のあたりに、イエスについて、「神の子であるが、
聖なる精霊により、処女マリアから受肉し、人となった」と書かれています。つまり精神というか、心が最初にあって、それが
選ばれた女性マリアから、肉体を得るということになっています。こうような「聖なる」出来事の記述は、宗教である以上信仰の
対象であるわけですが、こういう表現を生んだ人間の心の底には、自分自身の感情というか、内省的な体験というか、そういった
ものが存在するはずです。私たちは皆、体を持って生まれてきますが、「心」とか「自分」とかいうわけのわからないものを抱えて
いるわけです。今の自分たちみたいに、「近代人」だったり「市民」だったりという自意識がなくても、昔から「心」や「自分」
はあったはずです。「肉体」として生まれて、そこに「心」が宿るのか。だとすれば「肉体」が滅びれば、心も死ぬのか・・
いずれにしろ、人間は大変な矛盾と混乱の中に放り出されて、罪やら恥やらにまみれて「生きて」います。勿論いいこともあるし、
幸せな瞬間もありますが。最後は死で終わることだけは間違いのないことです。
そういう私たち人間にとって、まず「心」があって、あるいは「精神」があってそれが「体を獲得した」という順番であると
すると実はそれが一番「自分」の納得できる辻褄なのではないか。それこそが「真実の体」というものではないか。そんな思いが、
イエス誕生の表現の背後にあるのではないか、と推察するわけです。曲の紹介からはかけ離れてしまいましたが、何回となく、
Ave verum corpusやcredoと向かい合うと、そこには紛れもなく人種、宗教、文化の違いを超えた共通した心情があるのだと、
感じさせられるのです。