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My Diary

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ぷぷぷ

どの面下げて帰ってくるんだろう。
情けなさ過ぎ。
後半に点入れられて、ロスタイムにさらに点を入れられる。まったくこんなお得意芸を未だに続けているなんて、、、。
2006/06/14(Wed)


アメリカ人は英語絶対主義

 仕事で日本に来ていたあるアメリカ人が電話を渡しながら、なんと言っているのかと聞いてきた。ずいぶん前の話だが、電話の向こうでは不在で電話が通じないようなアナウンスが流されていた。英語で説明するのが面倒臭い気分だったので、英語が非常に得意な日本人に変わりに言わせてやった。するとこのアメリカ人、私に向かって「こんな簡単な英語も分からんのか」みたいなことを言ってきた。「こんな簡単な日本語も分からんのか」とそっくりそのまま言い返した、、、が、彼にとってはそれが当然という顔つきだった。

 日本語を母国語とする日本人にとっては英語を話すことはそれなりの修得が必要であるし、英語を母国語とするアメリカ人にとっては日本語を話すことはそれなりの修得が必要であるという、お互い同じ土俵に乗っているという感覚が、通常の日本人にはある。あんたらも母国語以外を話すのは大変でしょうと。しかし彼らにはそういう相対的な感覚というのは、ないのだ。英語を話すことは普通であり、その他の言語を話すことは特殊であって、英語を話せないものは自分たちより劣った人間であるといった感覚が、存在する。
 彼らがどこの国に行ってもその国の言葉を習得しようともせず、英語しか話さないのは、そういう心理が背景にある。一神教の絶対主義的な考え方がそれを支えているのかもしれない。

 また別な時、アメリカから日本に遣わされて来た女性が仕事のことで私に質問してきた。初対面だったが誰かに私に尋ねるように言われてきたようで、挨拶もそこそこに自分が聞きたいことを喋りだした。ちょっと待てと。君は日本語が喋れるのか。ここは日本だ。喋れないのか。幸い私はちょっと位は分かるから、私がわかるように丁寧に喋れ。そう言うと、それなりに喋りだした。
 迎合すると調子に乗ってくるので、最初にそれくらい言ってやった方が良い。
2006/03/15(Wed)


ヨーロピアン・アメリカン

 アメリカ人と言ってもいろいろいるが、性質の悪いのはやっぱり白い奴に多い。そして白くないアメリカ人のことを、アフロ・アメリカン(またはアフリカン・アメリカン)だとかネイティヴ・アメリカンだとかチャイニーズ・アメリカンなどと称しているが、そういう奴に「じゃ、お前は『ヨーロピアン・アメリカン』(またはユーロ・アメリカン)だな」と言ったことがある。そういう時、すごく嫌なことを言われた顔をする奴がいる(一瞬でも)。そういうアメリカ人こそ、性質が悪くて唾棄すべき対象だ。
 そういう奴らは自らをアメリカ人の主流派だと思っているらしく、カラードとかブラックとかレッドとか言えない代わりに、白人でないアメリカ人をわざわざ○○アメリカンと言っている。本質は60年代以前とあまり変わらない。因みに白の系統でもメキシコから来た奴にはメヒコなどと割りと露骨に言ってしまう。

 しかしそういう奴らに弱い日本人て多いなぁ。やっぱり戦争は負けたらいかんし、負けるけんかはしたらいかんと思ってしまう。

 キリスト教とそれがもたらしたヒューマニズム(人間中心主義。但しこの場合の人間とはキリスト教徒を指す)の信奉者達は、自らが絶対優位を形成する国家を作り上げて、一神教の持つ絶対主義的なの垂直的なヒエラルキーを内在したまま、今も生きているし、変えようともしない。変えようとするものは、殺されてしまうし、、、。厄介な国だ。
2006/03/14(Tue)


アメリカ人の恥と正義

 アメリカ人は負けることを恥とする。そして勝てばそれが正義である。今日もそれを世界中に広くアピールした日だった。ピッチャー清水への揺さぶり(恐喝)に挙句の果ては空いた口が塞がらないまでのタッチアップの判定。そこまでして勝ちたいか、恥を知れというのが、日本人の普通の言い分かもしれないが、そこまでして勝ってもそれが正義なのだ、奴らにとっては。
 王監督もとても謙虚な言い方だったが、内心煮えくり返っていることと思う。
 かつてのサッカーWCの韓国を思い出した。アメリカも落ちるとこまで落ちたもんだ。こうなったら後は勝ち進んで、今度はこんな姑息な手も使えないほどにアメリカに打ち勝って欲しい。

 それでもまだ、アメリカのマスコミの一部には「良心」というものが残っているのだろう。日本のマスコミよりもはっきりしている。「本当は日本が勝った試合だった」と。
 それにしても、イチローはえらい。自分のことしか考えていないMや、日本でストにまで参加しながらアメリカでプレーすることを選択したJなど、日の丸背負って戦うことを拒んだ奴なんか、アメリカでどんなプレーしても見てやらない。せいぜい媚売ってろ。
2006/03/13(Mon)


プロ野球のスト

 あれこれごたごたしているプロ野球に、サイレント・ファンとして書いておきたいこともあるが、選手会はストという決して最善とは言えない手段を選んだことに、違和感と要望を感じる。

 違和感とは、一個人事業主として球団と数千万、数億という年棒の契約を交わしているプロがストという手段に打って出たことだ。単なる球団に雇われた労働者であるならまだ話は分かるが、一個人事業主として球界の中にあって球団経営者と利益を分け合う立場にある選手が、自ら首を絞めるようなものである。しかも、ファンのため、プロ野球界のためと言う。ファンのために休日にストを行うのか? 労働者が食うに困って行うストを高額年棒を得ている者が行うのか?

 要望とは、プロ野球界のためにストを行うのであれば、今回ストに参加する選手達には今後自らの意思で海外のリーグへ移籍したり、それを天秤にかけて高額年棒を出させるような真似をしないで欲しいということだ。プロ野球界は最高レベルの技術を持つ選手がすぐに居なくなる状況になってしまった。これでは全体の技術も低下してしまうし、ファンも離れていってしまう。
 大リーグに言った選手は「ファンのため」なんてあまり言わなくなったようだが、ファンのためと言うのなら、同じ道を進んで欲しくないものだ。

 それにしても今更ストなんて、選手会にミョーな入れ知恵をするものが居るのだろうか。
2004/09/07(Tue)


よくぞ言ってくれました

 「ビッグコミック オリジナル」9/5号の水島新司「あぶさん」のなかで、うめ吉で有名な中島先生が「私に言わせるならイチローも両松井もみんな、日本プロ野球界の裏切り者ですよ」と言っている。
 よくぞ言ってくれました!

 スポーツマスコミの海外コンプレックスがそのまま入り込んでしまっているのだろうか。アメリカ企業、外資系企業へのこれまでの忸怩たる思いを晴らしてくれて喜んでいるという親父向けなのだろうか。
 彼らが日本に居た時によく言っていた「ファンの皆様のおかげです」という報道はあまり聞かないような気もするが、全ては己の力という本音で生きているというのは、穿った見方だろうか。

 石井とイチローや松井との対決を、気軽に見に行ける球場で見たい。イチローを打ち取ることで成長していく若手の投手も、気軽に見に行ける球場で見たい。そういうことは、イチローがどん詰まりの内野ゴロを打ってセーフになったことをはやし立てるスポーツニュースよりもよっぽど面白い。そういう思いを持つ人も多く居ると思う。
 なんとかならんのかね。

 今年が、経営者や選手たちにとって、プロ野球の将来を真剣に考える良い機械になればいいのだけど。
2004/09/06(Mon)


人名漢字

 暫く人名漢字について新聞などでとやかく書かれていたが、何でそんなものを決めたり、またそれに文句を言ったりするのだろう。
 人名漢字は云わば、名前を付けるのにこれらの漢字を使用して付けて良いよってことで、無制限にすると数万字の漢字の中から見たこともないような字やそれらに紛れて新しく作った字などで名前を付けて役所に届け出るなんてことが起こって、役所も対応できないなんてところだろう。戸籍や住民票もコンピュータ管理だから、制限したいというのは分からんでもない。
 先に発表された人名漢字追加候補に「糞」や「屍」なんて漢字が入っているからって文句を言うのもあまり理解できない。世の中には文句を言うのが趣味の人が居るようで、その類かと思うが、別にそういう字を使った名前を付けなさいなんて誰も言ってないのだ。

 当用漢字やら常用漢字やらJIS水準やらあるけれど、それらをまとめて日本で通常使用する漢字という数千字の枠組みだけあれば良いのではないかと思う。時々漢字の枠を変えないと辞書が売れないからなんていう阿呆は放置しておいて良い(実際、そういうところと国語審議会とかいう会との間にあれこれあるらしいことは聞いたことがある)。あれこれ規約を作ろうとするから、無駄な金やしょうもない文句が出るのだろう。
2004/08/08(Sun)


みうらじゅん『とんまつりJAPAN』

 なぜか最近みうらじゅんづいている。この本は単に日本のあちこちにある「とんま」なまつりを見て歩くという本の文庫(集英社文庫)だが、何しろ楽しい。飛鳥坐神社のおんだ祭は実見したことはないが評判だけは知っていた。愛知県の田縣神社の祭や他にいくつかも同様だが、「奇祭」と言われる祭を疑似体験できるのが嬉しい。しかも、民俗学的にどうだとか御託を並べず、見たまま感じたままのレポートになっている。
 明日香村には長いこと行っていないので、のんびりと行きたいのだが、おんだ祭は子供が大きくなってからだな。やっぱり。祭日じゃない飛鳥坐神社も、やっぱり子供が大きくなってからかなぁ。
2004/08/05(Thu)


司馬遼太郎『以下、無用のことながら』

 司馬さん(読者は勝手にそう呼ぶ)の新しい文章を読むことは、もう難しくなって何年か経つ。今度文春文庫で出た『以下、無用のことながら』を手にして、久し振りに司馬さんの名調子に触れた気がした。
 原稿を見ると何色かの色鉛筆で推敲の後が見える。司馬さんは、頭の中で練った文章を原稿用紙の上に落とし、それからもさらに練って読者に応えた。文学的に名文かどうかは別にして、読んでいて不快な思いがしたり、ツッコミを入れたくなるということもないというのは、さすがに司馬さんの文章だと思う。
 時々はそういう文章に触れようかとも思う。時間がふんだんにあれば、また一度じっくりと『街道をゆく』を読んでみたいと思う。
2004/08/01(Sun)


うなぎ

 奈良時代、大伴家持が「石麻呂に物申す。夏痩せに吉と云う物そうなぎ取り食せ」と『万葉集』に残している。その頃は今のような開いて焼いた食べ方ではなかったのだろうが、夏の暑さにうなぎはもってこいだったのだろう。蒲焼きというのはうなぎをそのまま串に刺して焼いたのが蒲の穂に似ているからということらしいが、室町から江戸時代に賭けて京都で今の食べ方が成立して行ったのだろう。

 私もうなぎは好きだ。しかし非常に残念なことに、東京ではうなぎが食べられない。物理的には食べることは出来るのだが、東京で一般に口にすることが出来るうなぎは「よー食べん」のである。背中で開いて、白蒸しにして、なんやワヤである。やはり上方の食べ方が正統だ。「江戸は武士の町だから腹開きは嫌がられる」などと言うが、これはまったくの詭弁で、それなら他の魚も全てさばけない。串打ち三年裂き八年だったかどうか。とにかくうなぎを巧く腹で裂けないがために背骨に当てて裂くというのが広がってしまったのだ。それと、早飯早糞芸の内なのか、じっくり焼くのが待てないからと白蒸しにしてしまっては何のための夏のうなぎか。そういうのに高い金を出して、後悔すること数度、今はすっかり夏にうなぎを食べなくなってしまった。
2004/07/30(Fri)


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